続・竹林の愚人

初詣の社会史

4130262416初詣の社会史: 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム
平山 昇
東京大学出版会 2015-12-26



伝統的なものと思われている初詣は、実際には明治期の鉄道が郊外に広がっていく過程で成立・展開してきた近代的な産物であると筆者は指摘する。

とくに、東京では明治天皇に対する二重橋前平癒祈願の記憶が再生される場となった明治神宮が、従来は知識人において「迷信」とされてきた神社参詣が天皇を思う国民の「感情美」として好意的に解釈されたため、知識人を遠ざける心理的障壁にはならなくなった。
そして、「皇室=明治神宮=初詣」を三段論法的に飛躍させて、国民が宮中の四方拝に倣って古くから行ってきたものとして初詣を語る言説が生み出されることになった。
初詣は、知識人によってナショナリズムの文脈でとらえ返され、「国民」の行事となっていった。

江戸の正月元日の恵方詣は近世から行われており、大阪では節分の恵方詣は盛んであった。
東京は元日の恵方詣、大阪は節分の恵方詣という違いはあったものの、郊外へ延びる鉄道が誕生した結果として恵方詣の範囲が郊外の社寺へと拡大される。
明治30年代になると、鉄道網の拡大によって川崎大師のみならず堀の内祖師(堀之内妙法寺)、西新井大師、成田山新勝寺といった郊外の仏閣も参詣者が増大する。

近世の西宮神社は、丹波・丹後・但馬・播磨・淡路といった農漁村地帯の人々や大阪・兵庫の商人が参詣していた。
しかし、明治38年に阪神電車が開業して大阪からの参詣客誘致を行うようになると、にわかに大阪からの参詣客が増加するようになる。
明治40年の節分に際して、阪神電車は西宮神社が大阪から恵方に当たるとして宣伝を行い、参詣客が大幅に増加するという結果をもたらした。
大阪の場合、従来は節分参詣で使用されていた恵方が、鉄道会社によって年頭の参詣にも拡大適用されるようになった。

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  1. 2016/09/08(木) 06:59:55|
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仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか

山本 ケイイチ 『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』 (幻冬舎新書) (2008/5/30)
メタボが気になり、週一ですが筋トレを始めました。
筋力トレーニングには5つの原則がある。
第1の原則は「意識性」だ。
本人の意識がなければ、効果は表に出ない。
第2の原則は「全面性」だ。
トレーニングにおいては、包括的にバランスのとれた運動を組み合わせる必要がある、これが「全面性」だ。
第3の原則は「漸進性」だ。
「過負荷」の原則ともいう。「漸進」とは、「少しずつ進む」という意味である。
年齢が上がるにしたがって、成長ホルモンも出にくくなるから、トレーニングをしていても、筋肉の衰えに、回復・再生のスピードが追いつかなくなる。
常に負荷を大きくしていかないと、筋肉をつけるどころか、現状の筋肉を維持することも難しいのを実感している。
第4の原則は「個別性」だ。
体は一人ひとり違うから、同じトレーニングをしても効果が異なる。
効果を上げるには、個人の個性に合わせたトレーニングをするのが鉄則だ。
個別性の原則に関連して、「SAIDの原則」というものがある。
「Specific Adaptation to ImpoSed Demand(人体は与えられた負荷に見合った適応現象を起こす)」という意味だ。
要するに、やればやっただけ結果が出るし、やらなければ結果は出ない。
第5の原則は「継続性」だ。
たとえlカ所の筋肉を鍛えるだけでも、だいたい6週間ぐらいは同じ方法を続けてやらなければ結果は見えてこない。
この継続性こそ、トレーニングの目的そのものといってもいいぐらい重要だ。

話をまとめると、トレーニングとは、「肉体に何かしらの負荷を与えて、適応現象を引き出すこと」と定義できる。
ここでいう「負荷」とは、肉体に日常生活以上の強度を与えることである。
私の考えでは、適応現象は以下のような公式で表すことができる。
適応現象=「負荷の種類」×「大きさまたは強さ」×「期間」
「負荷の種類」とは、トレーニングでいえば、バーベルを上げるのかヨガをするのか、ランニングをするのかということである。
「大きさ」「強さ」とは 「何キロ上げる」「何回上げる」とか 「一つのポーズを何秒やるか」。
ジョギングであれば、「何分間走るのか」、「どのぐらいの速さで走るのか」ということだ。
「期間」とは、「1回のトレーニング時間は何分か」「何カ月続けたか」「何年続けたか」ということである。
負荷の種類、強度、それと期間。これがトレーニングにとって欠かせない要素だ。
この3つがしっかりと整わないと、適切な反応が起きない。たとえば負荷の種類が多く、強度が大きくても、期間が短ければたいして効果は出ない。

適応現象は、3つの要素に加えて、トレーニングする人の生体エネルギーそのものに大きく依存する。
トレーニングによる疲労によって筋力はいったん落ち、再生の過程で 「超回復」と呼ばれる現象が起こり、筋力は元のレベルよりアップする。筋力はこの繰り返しにより上がってくる。
ここで見落とされがちなのは、与える負荷は、常に前回のトレーニングのときより大きくしていかなければいけないということだ。
しかし50歳で無理をすると、筋肉が壊れてなかなか回復しない。
だから、むやみやたらに負荷を上げて、トレーニング効果を高めるというわけにもいかない。
思うように効果が上がらないのにトレーニングを続けるのは、精神的にはキッいものだ。
しかし、20歳のときと40歳のときでは、忍耐力は40歳のときのほうが確実に上がっているはずだし、目的意識もはっきりしているはずだ。
このような精神の成熟は、加齢による生理的機能の低下を補ってあまりある。
だからトレーニングを始めるのに、遅すぎるということはない。
時間をかけて何かをするという経験がどんどん減っている現代社会においては、自分の体の変化とじっくり向き合う、トレーニングという行為は、精神力を鍛える貴重なチャンスなのだ。
そう思って、積極的にトレーニングに励んでほしい。

山本さんのこの原則を励みに継続しようと思っています。

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  1. 2016/05/08(日) 07:32:03|
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琉球国の滅亡とハワイ移民


鳥越皓之琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)

「沖縄ケンケン豚カウカウ」(ケンは県、カウカウはハワイ語で食べる)
その当時は内地でもそうだったが、ハワイでも沖縄人に対する差別はかなり厳しかった。
沖縄はすでに日本のなかの一つの県となっていたが、言葉が相互に通じなかったことが大きな理由だと沖縄からの移民の人たちは言っていた。
また、沖縄では豚を飼う伝統があって、ハワイでも養豚業をしている沖縄人の割合が高かった。
養豚業は周辺の住民に悪臭を与えるので評判がよくなかった。
そのため、沖縄人は臭いというような言い方など、さまざまな形での差別もあった。

日本人(内地の人)によるいわゆる沖縄人への差別の理由として、通常は二つがあげられている。
ひとつが、沖縄県出身者は他の県の出身者よりも貧しかったからという「貧困」を理由とするものである。
もうひとつは、沖縄県よりも山口県や広島県など他の県の出身者が先にハワイに来ていて、ハワイで一定の地歩を築いていたが、沖縄県民は新参者であったからという、「後発」としての理由である。
これら二点の理由は否定できない事実だ。
けれども、根源の理由は、沖縄が日本によって滅ぼされた(併合)からだと私は解釈している。
この種の差別は、植民地化した朝鮮や台湾(また日清戦争後の中国)の人たちへの差別と同根である。

戦前では全国平均で100人に1人が移民として出て行ったのであるが、沖縄は10人に1人なのである。
その理由はなんであろうか。

それは琉球国の滅亡である。
国の滅亡が高い割合の移民をもたらしたと言える。
国の統治力としてのタガが外れたので流出したし、またタガが外れたことによって、制限が弱くなったからである。
タガがゆるんだという事実は、その当時の為政者にとってはおもしろくない。
したがって、奈良原知事が「時期尚早」論をうちだすのは、実に定石どおりの対応である。
そういうなかで民権運動という「定石破り」の運動が展開され、成果を得たのである。
民権運動は政治運動から移民活動という経済活動に移っていくことによって成功する。
ただ、移民に呼応した人たちは、当山久三の名前を知っている者はいたにはいたが、そのほとんどは、民権運動的な考え方にはまったく無関心で、経済的安定と、できるならば経済的に豊かになることのみを夢見て移民として海を渡ったのが現実であった。

浦崎政平(1908年生まれ)はいう。
学問のない人に限って、沖縄を軽蔑した。
わしら沖縄県人がこちらに来て、「鼻を高くしてよいな」と思うたのは、賀川豊彦先生の話から。
あの人がヒロ(ハワイ島)の大和座で話されたことがある。
人類のこと。歴史のこと。
日本の歴史はふたつある。「現代の歴史」(国が作為的につくった歴史)と「本当の歴史」。
もしずっと大昔の姿をみたいなら、沖縄へ行け、と言われた。
沖縄の言葉にはむかしの日本語があるんだと。
沖縄が大事ゾ、と言われた。
それからみんなが〔沖縄を〕見直した。

唐の世から、大和の世、大和の世から、アメリカ世、アメリカ世から、また大和の世。
沖縄世にはならんではありませんか。(川上喜子)

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  1. 2016/05/07(土) 18:36:51|
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神社の起源と古代朝鮮

神社の起源と古代朝鮮 岡谷 公二『神社の起源と古代朝鮮』 (平凡社新書) (2013/11/19)


白鬚神社は、全国に広く分布している同名の社の本社である。
社伝によると、垂仁天皇25年の創祀と伝え、琵琶湖周辺最古の神社という。しかも式内社ではない。
この事実は、いくつかの興味深い問題を提起する。
一つは、渡来人の祀る神社が、他の神社と同じくらい、或いはそれ以上に古い歴史を持っているのではないか、ということであり、また、たとえ古社であろうが、渡来人の祀る神社は、或る時期、或いは或る時期まで、官社とは認められなかったのではないか、ということである。
白鬚神社が新羅系渡来人の奉祀した神社だとは、ほぼ定説になっている。
その名の初見は応永2年(1395)だという(『日本の神々』)。
それ以前は比良神、比良明神と言われた由で、『三代実録』の貞観7年(865)に「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」とあるのは白鬚神社のこととされている。なおこの記録は、この神社の国史における初見である。
ヒラはシラ、シラは新羅の最初の国号である斯盧であり、新羅であり、白である。
比良明神が白鬚の老人の姿をして化現したという伝承がいくつかあり、その辺から白鬚神社という名かついたのかもしれない。
このあたりは、古代の豪族三尾氏の地盤であり、三尾氏は白鬚神社の奉祀者であった。
そして渡来系、とりわけ新羅系の氏族ではないかと考えられている。
近くにある水尾神社の祭神は、現在、白鬚神社と同様、猿田彦命である。

明神山と呼ばれる裏山に途中まで上ってみた。
古墳は複数あるらしく、白鬚神社古墳群と呼ばれているが、詳細はよく分からない。

『日本書紀』によると、継体天皇の父彦主人王は「近江国の高島郡の三尾の別業」にいた時、「顔容妹妙(きらぎら)しくて、甚だ媺(うるはしき)色有りといふ」噂を聞き、越前三国の高向から振媛という女性を迎え、妃とし、天皇をもうけたのだという。
彦主人王が「三尾の別業」にいたのは、三尾氏とのかかわりからであると考えられる。
三尾氏が新羅系渡来人の氏族ではないかと推測させる手がかりの一つに、水尾神社の近くにある鴨稲荷山古墳がある。
6世紀前半の築造で、周濠を有する前方後円墳であり、全長60m以上という規模の大きさといい、副葬品の豊富さと豪奪さといい、近江を代表する古墳の一つだ。
金銅製冠、金銅製環頭太刀、金製耳飾り、金銅製馬具類など、副葬品の多くは朝鮮半島系、とくに新羅系で、金銅製冠は 「かの慶尚南道慶州金冠塚の華麗なものと系統を同じくするもの」(『滋賀県史』)である。
被葬者は彦主人王と考えられたが、現在では三尾氏の首長であろう、というのが大方の意見である。
弥生時代、朝鮮半島から多くの人々が日本列島に渡ってきたわけだが、その多くは地理上最も近い半島南東部彼らがもともと鉄とかかわる人たちだったとするなら、「国、鉄を出す。韓、濊、倭皆従ってこれを取る、諸市に買うに皆鉄を用う。中国の銭を用うるが如し。又もって二郡(=楽浪・帯方)に供給す」と『魏志』の東夷伝弁辰の条に記された地域、のちに新羅に併合される金官伽郡に属する洛東江流域一帯を出自とする人たちだったかもしれない。
このように三尾氏が渡来系氏族だったとすれば、同じ三国の出身で、三尾氏と深いかかわりを持っていた継体天皇も、もしかすると渡来人だったのではあるまいか?

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  1. 2016/04/28(木) 05:26:03|
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ホノルルの街かどから

ホノルルの街かどから   加藤 秀俊   『ホノルルの街かどから』 (中公文庫 ) (1979/01)

初版が出たのが1974年ですから、今から40年程前のハワイ本です。
著者の加藤秀俊氏は70年代の大学紛争で京大を去り、ハワイ大学東西文化センターの研究員となり、一家そろって1年間ホノルルで暮らしました。
その時の出来事を綴った本書にはハワイの良さに溢れています。
その中から少しばかり紹介します。

ワイは「常夏の国」だから、いつでも花が咲き乱れている1というイメージは、けっしてまちがいではない。
一年じゅう、花は咲いている。
しかし、じつさいに生活をしてみると、やっぱりこんな熱帯にも季節があり、そして植物たちもそれぞれのサイクルをきっちりとつくっているのだ、ということがよくわかる。
なるほど、花は絶えることがないのだけれど、11月から4月ごろまでは、どちらかといえば、淋しいのである。プルメリアの、特定の品種は細々と咲きつづけているし、ブーゲンビリアやジャスミンの小さな花も色どりをそえるが、花は、冬のあいだ品不足になる。
そんなわけで、冬のあいだは、ときどき、うちにもフラダンスの踊り子たちが花をとりにきた。

ところが、5月になると、とたんに、島ぜんたいが、文字どおりぐんと花やいでくる。
「ライオンのツメ」という朱色の花がさき、モンキー・ポッドもあざやかな色の花をつける。
ハイビスカスも咲く。プルメリアにいたっては、もう、うんざりするほど咲く。
咲くそばから、ぽろぽろと散り落ち、あとからあとから咲きつづける。
ちょっと風でも吹こうものなら、木の下は花びらでいっぱいになる。
プルメリア
マンゴ 花だけではない。五月のなかはすぎからマンゴの実が熱して、食べごろになる。
このマソゴという果物、正しくはマンゴというよりは、メンゴという発音にちかいのだが、これが、まさしく鈴なりなのである。
実が青いうちは、葉の色とおなじだから、べつに目立たないのだけれども、だんだんとオレンジ色になり、さいごにはリンゴとおなじような赤い色になる。そうなると、壮観である。
なにしろ、住宅の庭にいっぱいこの木が植えられているのであるから、ホノルルの荷じゅうがマンゴの大洪水になってしまうのだ。
5月のハワイは花でいっぱい。こう改めて指摘されると、なるほどなと思います。 
図らずも、5月のゴールデンウィーク後に訪れることを常としています。 
理由は簡単、旅費が比較的安価で済むからですが、最高のシーズンでもあったのですね。
ホノルルの食べもの屋のなかでおもしろいのは「おかず屋」である。
日系の人の多い地区に目立つが、よくさがしてみると、ハワイじゅう、いたるところにこれがある。
看板はOKAZUYAとローマ字で書かれており、ハワイにながくいる人のあいだではすでに、オカズヤ、ということほぼ市民権を得ている。 おかず屋  「おかず屋」とはなにか。
ひとことでいえば、日本の大衆食堂をキャフヱテリア方式にした和洋折ちゅうの食堂である。
規模はそれほど大きなものでなく、しばしば、20人ほどで満員、といった小食堂だ。 P1090507.jpg  なかにはいると、ガラスのケースがならぴ、大きなステソレスの器のなかに、数種類の「おかず」がほいっている。
それは、たとえば、鶏と野菜の煮つけであったり、煮魚であったり、あるいは豆腐であったり、じつにさまざまだが、要するに、日本の標準的な家庭料理のメーニーである。
お客は、それらのメニューのなかで、好みのものを指さし、一枚のお皿に盛りつけてもらう。
店にもよるけれど、一般的な方法としては、好きなもの二品にご飯がついて1ドル35セント、といった均一料金。
味噌汁(ミソ・スープ、とローマ字で書いてある)などは別料金だが、なにをとってみても、きわめて大衆的な値段だ。
価格こそ時代を感じさせますが、今も変わりませんね。

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  1. 2016/04/26(火) 22:02:00|
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桓武天皇と百済王

平成13年12月18日のお誕生日に、日韓共同でのサッカーワールドカップ開催に際し、陛下の思いを語られたことは大変な驚きでした。

「日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」(宮内庁HPより

桓武天皇の生母は高野 新笠(たかの の にいがさ)で、その父和乙継(やまとの おとつぐ)が百済の第25代王・武寧王を祖と称した、百済系渡来氏族です。(『新撰姓氏録』)
桓武天皇といえば平安遷都で知られますが、都を定める前に百済王氏の本拠地河内国交野に狩りに度々出かけています。
その目的が藤原朝臣継縄(みつぐただ)の室である百済王明信(みょうしん)に会うためでした。

百済の義慈王は日本との同盟の為に、豊璋と善光の2人の王子を人質に出していました。
660年、唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼすと、中大兄皇子は豊璋に軍を与えて百済再興を支援しましたが、白村江の戦いで敗れ、豊璋は唐に連行されてしまい、残された弟の善光が百済王族の血統を伝えることとなりました。
持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜ります。
その子孫百済王敬福(きょうふく)が陸奥守となった折、当地で黄金を発見して献上。
東大寺大仏の鍍金が叶ったと、聖武天皇は狂喜したといいます。
後に河内守となり、交野郡内に居館を作りました。
その孫が明信です。
明信
向日市文化資料館
IMG_4497.jpg
宮中でこのような歌を詠むのですから、公然の仲であったようです。
明信は桓武天皇の寵愛を受け、春日局さながら、後宮で絶大な権力を握って、百済王家から多数の女性を宮中に送り出し、皇子・皇女を儲けました。

百済王の居館のあった地には、今は百済寺跡と百済王神社が残っています。
百済寺跡
百済寺跡(くだらじあと) 枚方市中宮西之町1
百済王神社
百済王神社(くだらおうじんじゃ) 枚方市中宮西之町1-68

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  1. 2015/07/12(日) 07:06:29|
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新羅神と日本古代


出羽弘明「新羅神と日本古代史」(2014)は著者による2冊目の新羅神を扱った書。
この書を手引きに関西の新羅神社を巡ってみる。
現在の日本にある新羅神社は半島から渡来した新羅系の人々が祀った神社である。
新羅神社は通常、新羅の神を祀る社であり、祭神は新羅明神(新羅神)と言われる。

「辰韓と弁韓は雑属していた」と『三国志』(東夷伝)にあることから、新羅は半島南部の倭(狗邪韓国)や北部九州の倭族と相通じるものがあったと思われる(馬韓は滅亡後、百済国となった)。
『三国志』にはまた「辰韓の男女は倭に近く、また文身す」とあり、新羅・伽耶系の韓族が倭族に似ていて扶餘系氏族とは異なることを記載している。
新羅の慶州と伽耶国の金海や釜山は地理的には同一文化圏である。神々も同様である。

『三国史記』(祭祀)に、新羅の宗廟制度は第2代の南解居西干王(南海次次雄)(在位4~24)がはじめて始祖・赫居西(かくきょせい)の廟を立てて四季にこれを祭り、南解工の実妹の阿老に司祭させたとあるが、現実には食物に係わる農耕や漁猟の生活神を祀ったようである。
同記には、第22代智詮干(在位500~514)が神宮を創建して始祖を祭ったとある。
『記・紀』では「神武紀」に「天神地祇を祀った」とあるが、祖神を祀る祭祀は崇神天皇の時(3世紀~4世紀)に「宗廟を保つことができた」とある。
また『三国史記』「新羅本紀」には、第1代赫属性居西王8年(前50)の条に「倭人が出兵した」とある。
その後4世紀後半、半島に三国が形成され、特に5世紀以降は半島における三国の勢力争いが日本国内にも持込まれて日本の中に新羅系、百済系などの王権が誕生する。
大和に統一王権が成立する過程では古い渡来の新羅系氏族と後に渡来の百済系氏族との間に争いがあったと言われる。

百済王神社
百済王神社(くだらおうじんじゃ) 枚方市中宮西之町1-68
比較的時代の新しい創祀の百済神社や高麗神社の由緒は皆祖神廟である。
百済王神社の創建は「天平9年(737)、王南典、病にかかり薨ず。勅して百済王祠廟を建立せしめ、百済各王の霊をここに安置」(『百済王霊廟由来記』)とある。
日本の新羅神社の創建はこれらの時代より古いので、必ずしも祖神廟ではなく、自然神が多かったと思われる。
新羅神社という名称は列島に住みついた新羅系の人々が祀った社であるから、新羅(慶州)に新羅神社があっても不思議はないが、新羅国は仏教を受容した後は仏国土を目指し、特に統一新羅では仏教一色になり、神社は残っていない。

園城寺
園城寺(おんじょうじ) 大津市園城寺町246
新羅善神堂
新羅善神堂(しんらぜんじんどう) 大津市園城寺町246
三井寺(園城寺)の創建については諸説あるが、686年、天武天皇から「園城」の勅額を賜り園城寺と称した。
天智、大武、持統の三帝が産湯に使った霊泉「阿加井屋」があることから「御井の寺」とも言われた。
その後、貞観年間(859~877)に智証大師円珍が天台別院として寺を再興し三井寺と称した。
この寺の守護神を新羅明神といい新羅善神堂に祀られている。
祭神は新羅太明神で、新羅大明神は素箋嶋尊と同体とされ、寺の本尊は弥勤菩薩を祀っているのでこの社寺には新羅文化が集積している。
現存する三井寺の「新羅神社」の社殿(国宝)は足利尊氏が再建(1347)。
源頼義の子の義光が新羅明神の神前で元服、「新羅三郎義光」と呼ばれ、新羅明神は源氏の守護神として広く崇拝され、北海道から広島に至るまで多く残っている。

新羅系神社のほとんどが素戔嗚尊を祀っているが、古代の律令政権、新しくは明治の国家神道の影響などで『記・紀』の神に変えたものが多い。
三井寺の『伝記』や『新羅太神記』などには「新羅明神は素戔嗚尊なり」とあり『記・紀』の神話には半島の新羅から日本へ渡来(天降)した最初の神と記されている。
これは天孫・瓊瓊杵尊の降臨より早い。
『紀』によれば素戔嗚尊は出雲の簸の川のほとり及び安芸の江の川のほとりに降臨し、出雲で奇稲田姫と夫婦になり、大己貴神(別名・大国主神、大物主神)をもうける。
出雲大社の背後の出雲御埼山の崖の中腹に韓窯神社(祭神・素戔嗚尊)があり、「神名帳」に記載の神社で、『出雲国風土記』には韓銍(からかま)社となっている。
神社の説明板には「社名のカラカマは朝鮮から渡来した「釜」を意味し、「鉄器文化」を開拓されたと伝えられている」とある。
素箋鴫尊が鉄神であれば、子神の大国主大神、大己黄神、大物主神などの神も鉄神である。
新羅神社という名称は列島に住みついた新羅系の人々が祀った社であるから、新羅(慶州)に新羅神社があっても不思議はないが、新羅国は仏教を受容した後は仏国土を目指し、特に統一新羅では仏教一色になり、神社は残っていない。

韓国神社
漢國神社(かんごうじんじゃ) 奈良市漢国町6
東大寺に近いJR奈良駅の近くに「韓国神社」がある。祭神は「園神と韓神」である。
「大神神社注進状」によれば、「大神氏家牒に曰く、養老年中、藤原史亦園韓神社を建て斎き奉る。神明帳に云く、宮内省に座す神三座、園神一座、韓神二座。旧記に云く、件の神等は素戔嗚尊の子孫にして、疫を守る神なり。伝え聞く、園神は、大己貴命の和魂大物主神なり。韓神は大己貴命、少彦名命なり。」とある。
藤原京で初めて祀られたのではなく、大神神社と同様に古くからあった神と思われる。
この辺りには、東大寺の周辺も含めて韓国、すなわち新羅系や物部系の氏族が住んでいたと思われる。

住吉大社
住吉大社(すみよしたいしゃ) 大阪市住吉区住吉2-9-89
長田神社
長田神社(ながたじんじゃ)  神戸市長田区長田3-1-1
生田神社
生田神社(いくたじんじゃ) 神戸市中央区下山手通1-2-1
廣田神社
廣田神社(ひろたじんじゃ) 西宮市大社町7-7
摂津地方は淀川の北部と難波の島々および上町台地からなっていた。
難波は、祭祀にもとづく大和の崇神王朝に代わって、武による統治を行う応神天皇に始まる河内王権の拠点として、中国や朝鮮半島と交流を行った地である。
難波の島々には古くから新羅系氏族が住んでいた。
「住吉」、「長田」、「生田」、「広田」の諸社や播磨地方の新羅系の神社は、何れも神功皇后の新羅征伐に関係した創祀伝承を持っている。
「墨江大神の社」は住吉の海人族(安曇の海人)の祭った神であり、航海安全の神として崇拝されていた。
北摂津は淀川の北側に難波小郡と言われた西成郡、南には難波大都と言われた東成郡がある。
西成郡の宅見郷(現在の福島区)には「応神紀」31年の条に記載のある新羅王が派遣した新羅の造船・木工技術者集囲「猪名部の工匠」が住み、地名の宅見は工匠の転北と言われる。
猪名部の工匠は猪名地(現在の尼崎市)に住んだ猪名部氏の祖と言われ、後の東大寺の造営(751)などに活躍した。
尼崎地方には新羅が白井に転訛した、白井神社が残っている。

白井神社
白井神社 (しらいじんじゃ) 尼崎市東園田町4-48

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  1. 2015/05/17(日) 09:08:50|
  2. Shrines
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小浜宿

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小濱宿
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南門跡 愛宕宮

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毫摂寺(ごうしょうじ) 宝塚市小浜5-5-12
毫摂寺は真宗本願寺派のお寺で、丹波の僧乗専が本願寺3世覚如に帰依し、丹波六人部の天台寺院を本願寺に寄進し、覚如の別号の毫摂を寺名としました。
この寺を京都に移し、覚如の末子・善入をこの寺の住職としました。
その末裔の善秀が明応年間(15世紀末)に小浜庄を開き、ここに毫摂寺を建立したのがはじまりです。
江戸期には八本松の名所として知られ、また豊臣秀次と寺の次女・亀姫との悲話も残されています。
現在は小浜御坊ともよばれ、別院真宗寺院の典型的建築である江戸後期の本堂が残っています。

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制札所跡 代官所跡
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小浜には大坂から伊丹を通り、湯山(有馬)に至る湯治の道としての有馬街道や、西宮から伊子志の渡しで武庫川を渡り、酒や米を運んだ西宮街道(馬街道)、京都・伏見から山崎を通り、瀬川半町や加茂を経て入ってくる京伏見海道などの道筋が入っていました。
このため小浜の地は、江戸幕府から交通の要衡として重視され、抜け荷の禁止や駄賃を定めた制札(幕府の御定書)なども残っています。
また、小浜は荷物の継ぎ荷のことで西宮市の生瀬宿と争いがあったことも浄橋寺文書(西宮市)などの記録に残っています。
小浜は嘉永4年(1851)の記録によると、戸数202戸で人口800人であり、馬借・問屋・茶屋・旅籠などがならぶ町場で、専業農家はほとんど無かったとされています。
また、酒造りの名所としても知られ、井原西鶴は『西鶴俗つれづれ」のなかで、名産の産地として小浜の名をあげています。
さらに小浜は大工の町としても知られ、享保8年(1723)ごろ大工の組として「小浜組」が成立しています。 

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山中家幅
小浜の山中家は、戦国時代の武将・山中鹿之助幸盛を先祖とする家系で、その子・幸元には八男二女があり、長男・新兵衛(清直)が慶長19年(1614)に小浜に分家して小浜山中家の祖となりました。
この家系は、江戸時代前期には酒造業も営んでいたようですが、中期頃からは医家として家系を継いだようで、当主は良和の名を代々継いでいました。
幕末には大坂の適塾にも学んだことがあったようです。
現在の屋敷は、寛政13年(1801)の祈祷札から18世紀末頃に建てられたものと考えられ、桟瓦葺で主屋入口はすり上げ戸になっていました。
この屋敷の位置は小浜の中心部にあり、町並み景観の重要な位置を占めています。
また裏庭に残る「玉の井」は名水が湧く井戸として著名で、秀吉が有馬へ湯治に出かけた際、毫摂寺に宿泊し、土地の銘菓・川面の水飴とともに、この玉の井の名水を汲み、茶を喫したといわれています。
また明治11年に起きた竹橋事件(西南事件の論功行賞に不満を持った兵士達が維新政府に対して起こした反乱事件)に参加し、処刑された山中繁蔵は当家の次男でした。
江戸初期に分家した伊丹鴻池の家系は大酒造家として財をなし、さらに鴻池善右衛門家も代々両替商として成功しています。

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小浜宿資料館    右手の土蔵は山中家が使用していたものを、そのまま収蔵庫として改造したもの。
小浜皇大神社 (おばまこうたいじんじゃ) 宝塚市小浜5-4-4
創建年月は不詳。
古伝に創建嘉吉元年(1441)と伝えられております。
伊勢神宮の御神体をお祀りしています。
また、身佐神社は、奈良県高市郡明日香村身狭(見佐)と小浜のほとり身佐の2社に天武天皇「生霊の神」としてまつられたと摂津国名所絵図にも記載されていますが、明治30年の武庫川氾濫により身佐村全体が流出してしまい、大正元年(1912)に小浜皇大神社に合祀されました。


首地蔵(くびじぞう)  宝塚市小浜5-1-4
摂陽群談(1500年頃)によると、今の小浜の首地蔵のことを「首から上の病気は治してもらえる地蔵さんとして全国から参詣者がある」と記されている。
この地蔵は、御影石像のお首だけで高さ1m30cm、耳だけでも60cmです。
お顔はよく調和のとれた素朴な美しさをたたえている。
この首地蔵石段の石組みの中に、南北朝時代の宝篋印塔の笠が3つ、そして石段の左右に鎌倉時代の石灯籠があり、この一角には鎌倉時代の遺物があります。

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西村則周(にしむらのりかね)墓
幕末期の大工で、戊辰戦争で壊れた京都御所蛤御門の再建の棟梁や、大阪難波別院御堂の脇棟梁をつとめた。
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徳本上人名号碑
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北門跡
小浜の町の出入口、東、南、北の三ヶ所に町門が設けられ、ここを北門と呼び小浜の町の防備を固めるものであった。
この内脇に火難を除く火伏せの小祠がこの北の愛宕さん(宮)である。
毎年8月の地蔵盆には町内総出で赤い提灯を境内一面に飾り、お供え物を持ち寄り、この町の人を厄災から守ることを祈願するという愛宕さんのおまつりがあり、北の口町の行事として今に引き継がれている。 

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  1. 2015/03/29(日) 07:33:19|
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四ノ宮めぐり

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京都市山科区の京阪四宮駅附近の散策コース。「弦楽器と福祉の神様人康親王史跡をめぐる」
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諸羽神社(もろはじんじゃ) 京都市山科区四ノ宮中在寺町17
人康親王(さねやす)が視力を失う前年、858年に即位した清和天皇が862年に創建。
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人康親王山荘跡碑(昭和47年建立)
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親王が座して琵琶を弾いたと伝わる琵琶石。
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徳林庵(とくりんあん)   京都市山科区四ノ宮泉水町16
南禅寺の雲英禅師がその祖といわれる仁明天皇の第四の宮人康親王の菩提を弔うために草創。
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地蔵尊は親王の化身といわれ、小野篁が一本から刻んだ六地蔵の一といわれる。
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四の宮明神と人康親王を祀る供養塔。
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十禅寺(じゅうぜんじ) 京都市山科区四ノ宮泉水町17
859年、仁明天皇の第四の宮、人康親王を開山として創建され、この辺りが「四の宮」と呼ばれる所以となった。
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仁明天皇皇子 人康親王御墓
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四宮大明神(しのみやだいみょうじん) 京都市山科区四ノ宮泉水町
江戸時代には琵琶法師たちに祖と崇められ、琵琶を奏でる法要が行われた。
※各寺社で配布されている「弦楽ふるさとマップ」を参照しました。

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  1. 2015/03/23(月) 06:07:18|
  2. TRAIL
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最明寺滝トレイル

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不動明王の標石を頼りに満願寺を出発。
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最明寺川もこの辺りは護岸ばかりか川底までコンクリートです。
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満願寺町を外れて、再び宝塚市に。
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左手に大聖不動明王の標石は井植歳男氏が昭和37年12月28日に建立したもの。
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左手を最明寺川に沿って下っていきます。
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お堂があり、
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不動明王が祀られています。
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道を戻って、不動橋を渡ります。
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一本の木を中心にしたロータリーに出ます。

井植歳男氏の井植山荘があります。
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磨崖仏
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防砂ダム
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不動明王の山門と手前に辰巳橋が。
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山門を潜らずに左手に道をとります。
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目指す滝はこの先に。
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  1. 2015/03/21(土) 12:36:36|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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