続・竹林の愚人 Historic sites
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梅本橋


梅本橋・顕彰碑(うめもとばしけんしょうひ) 大阪市西区本田1 松島公園
 尻無川の梅本橋は明治3年 従来の戎島渡の廃止に伴い架けられた。
 当時 川口には居留地が設けられており 梅本町はそれに接続する地域であった。 居留地や梅本町には外国人が来住し 大阪における文明開化の発祥地ともなっていた。 松嶋には人形浄瑠璃や芝居の小屋等も作られた。 居留地と松島地域を結んだのが梅本橋であった。
 初代 梅本橋の規模は橋長22.7m 幅員 4.5mの木橋であり、橋名は西詰の梅本町からつけられたが、その由来は同町の竹林寺境内にある「浪速の香の梅」という名樹に因むと伝えられている。
 同寺内には松島文楽座で活躍した竹本磯太夫の墓がある。
 大正 4年 市電第3期線で整備された松島安治川線の敷設に伴い、橋は架け替えられ 橋長 24.6m 有効幅員 18.2mとなり、中央の市電軌道敷には 鋼桁 歩道部には木桁が用いられた。
 その後 昭和25年のジェーン台風直後から同27年頃に尻無川の木津川~岩崎運河部分の埋立工事が行なわれ、これにより 本橋を含む5橋が撤去された。
 現在では 本橋が架けられていた場所は松島公園の一部となり、市民の憩いの場として利用されている。
   平成13年7月20日  大阪市


 
1948年と2007年の空中写真

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  1. 2010/01/23(土) 08:05:43|
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松島橋



松島橋
木津川と尻無川(埋立)が分岐していた当地は かつて樹齢300年といわれる名松があったことより、松島の地名がつけられたものである。
明治に入って 川口地区に外国人居留地か設けられたのを機会に 木津川の渡しを廃止し 松島橋が架けられたのが明治2年であった。
 橋長が69.4mで 幅員が6mの木橋で 高い帆柱を重的た船を通すために 反りの人きい橋であったことが長谷川貞信の「浪華百景」の中で描かれている。
 しかしこの橋は 明治18年の淀川大洪水のとき流出したことより 橋脚を鉄抗にした大桁橋が架けられた。
 現在の橋は 昭和5年に都市計画事薬により架けられたものである。
平成11年4月  大阪市


長谷川貞信 「浪華百景之内 松島大橋 神戸市立博物館蔵」


明治初期の松島大橋 


松島橋(まつしまばし)

橋長69.4m、幅員11m、3径間のゲルバー式の鋼桁橋。昭和5年竣工。


松ケ鼻の老松


『摂津名所図会』
蛭子松(えびすのまつ) 木津川町北端にあり。
この辺の名松にして、蒼々たる枝葉(しよう)川の面にうつるけしき、また夏はこの松の下に船を寄せて涼風に花火を灯す風景斜ならず。この松、すべて二百余年を経るとぞ

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  1. 2010/01/23(土) 08:00:59|
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松島遊郭


松島公園(まつしまこうえん) 大阪市西区千代崎1
「大阪の吉原」といわれた松島遊廓がこの地にありました。
明治維新当時、木津川と尻無川にはさまれた細長い三角形の寺島町は、通称〝松ヶ鼻″と呼ばれ、スイカとナシ畑が広がる未開の湿地でしたが、明治元年7月、大阪が開港、近くの川口地区に外国人居留地が設けられ、天保山に外国船が出入りして以来、付近の小料理屋などに〝にわか売春婦″があふれ出しました。



風紀取り締まりの必要に迫られた府は、明治元年12月、市内20数か所に散在する遊所を整理してここに集め、松ヶ鼻の「松」と寺島町の「島」をとって松島遊廓が生まれました。
新遊廓は大中小の遊女屋と大茶屋・小茶屋等の別を作り、廓の中心を成す仲之町には桜樹を植え、家屋の構造総てを東京新吉原に模し、約350の妓楼が競いました。
なかでも大名の御座船を座敷建てに改築した花園楼、北新地より移転した友鶴楼、屋上に金色の獅子を飾った洋館造りの松鶴楼が大阪の新名所と評判になりました。
松島は戦前まで隆盛を極めましたが、昭和 20 年 3月13日深夜の大阪大空襲で全焼。270人もの遊女が焼死し、無縁仏として竹林寺に弔われました。
戦後、遊廓は西側の九条1、本田2地区に移り、33年の売春防止法施行で姿を消しました。

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  1. 2010/01/22(金) 08:20:19|
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川口居留地跡


川口居留地跡(かわぐちきょりゅうちあと) 大阪市西区川口1-5



慶応4年7月29日(1868.9.15)居留地26区画が外国人に競売され、大阪川口居留地の歴史が始まつた。
居留地に接する本田・富島・古川・梅本町も外国人雑居地となつた。明治19年(1886)には10区画の増設があり、明治32年(1899)7月に居留地が撤廃されるまで、この付近は洋館や教会・学校などが並び、各国人が散策するなど、大阪の文明開化を象徴する場所として、異国情緒豊かな雰囲気を漂わせていた。
上図は居留地の建物の推定復元であるが、必ずしも同時代ではない。碑の位置は雑居地の場所にある。

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  1. 2010/01/22(金) 08:05:34|
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大坂船手会所跡


大坂船手会所跡 大阪市西区川口1-3

 大坂船手は、大阪湾から木津川・淀川への船舶の出入りを管理・掌握することと、大阪湾に停泊している船舶を掌握することを職務とする江戸幕府の役職で、元和六年(一六二〇)に設立された。その中心施設がこの地におかれた船手会所である。配下の施設として、船の出入りの管理を実際に行う船番所が、会所の北側と春日出、三軒家の三箇所に置かれた。また、船蔵が会所の脇と四貫島にあった。
 十八世紀代には船手頭か小豆島などの代官を兼ねることもあり、大坂における幕府の重要な役職のひとつであった。
 元冶元年(1864)に廃された。          大阪市教育委員会

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  1. 2010/01/22(金) 08:00:29|
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野田城跡伝承地


野田城跡 大阪市福島区玉川4-11-15
野田城跡
戦国時代、畿内一円に勢威をふるった三好一党がこの地に築いたが、後に改築され、石山本願寺ついで織田信長方の重要拠点となった。字「城之内」と呼ばれたこの辺りがその中心である
平成二年三月  大阪市建立



野田城趾 大阪市福島区玉川4-3-7 極楽寺門前
野田城跡
大阪城がまだ本願寺であった室町時代に野田城(玉川四丁目交差点(旧名城の内)より東は恵比寿神社の東側(旧名弓の町)迄が城域で、その中心地が当地(旧名奥の町))を訪れた本願寺第十世証如上人が六角定頼に包囲されたときに、蓮如上人の教化を受けていた野田福島の念仏者が証如上人を守護せんとして、二十一人が殉教された(天文二年八月九日)これらの討死衆の菩提寺として建立されたのが当寺極楽寺で、その後、本願寺南御堂の掛所となり、野田御坊と名付けられ、今日に至っている。
               平成十三年(二〇〇一年)建之 野田御坊極楽寺

 野田城は享禄4年(1531年)頃に築かれ、後に畿内一円に勢威をふるった三好一党が改築したのではないかと推測されています。
元亀元年(1570年)織田信長は、石山本願寺に攻め入り、この後10年にもおよぶ「石山の合戦」が始まり、天正4年(1576)、石山本願寺と同盟を結ぶ三好一党は野田城に立てこもり、織田軍と戦いますが落城。
天正6年(1578)には毛利水軍と戦う織田軍の重要な拠点になりますが、その後は歴史から忘れ去られ、現在ではその痕跡すら見つかりません。
「弓場」「城之内」などという地名が玉川付近に残されていたことからも、このあたりに野田城があったのではないかと推測されています。
 

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  1. 2010/01/21(木) 08:20:38|
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證如上人旧蹟


證如上人旧蹟銘入石灯籠 大阪市福島区玉川4-1 円満寺門前

野田村二十ー人討死御由緒
本願寺第十世・證如上人御旧跡  
        居原山・圓満寺について   
 圓満寺は、天文3年(1534)12月に『野田村惣道場』として創建されている。 この時代は、戦国時代の真っ最中であり、第八世蓮如上人によって一挙に教線を拡大した本願寺も各地の守護大名らと勢力拡大を目指して戦っていた。     天文2年(1533)8月9日.京郁山科の本願寺を敵勢に焼き討ちされた證如上人は石山本願寺(現在の大阪城の池)に移られ、野田村におみえになった。
  この時、紬川晴元の伏兵が待ち伏せし不意に饅いかかり戦闘となった。  
  一向宗(浄土真宗)に帰依していた野田村の門徒らは庄屋の藤氏を中心として戦い二十一人が生涯橋(現在の下福島中学校裏付近)で討死した。證如上人は小舟で泉州へと落ち延びられ、この悲報に接し野田村の門徒らへ一通の感状をしたためられた。 これが有名な『野田御書】である なお、二の合戦て野田村のほとんどの家屋敷は焼失し、往古以来著名な野田藤も焼失したといわれている。  翌天文3年(1534)12月、合戦に参加した久左衛門と申す者が證如上人より教圓という名を授けられ、證如上人の懇請により二十一人の菩提を弔うために一宇の坊舎を建立した。
 これが居原山・圓満寺のはじまりであり、当時は『摂津国下仲鴫野田村惣道場』と称していた。 この時、證如上人より阿弥陀仏画像を拝受し御本尊として安置し、現在まで『野田御書』とともに寺宝として大切に保存している。 その後、江戸時代中期の宝暦4年(1754)に圓満寺という寺号を拝受し、阿弥陀仏木像(現在の御本尊)も拝受している。
 なお、山門は寛政7年(1795)に上棟され当寺の建造物では最古のものである。 本堂は万延元年(1860)に再建されて現在に至っている。欄間の微細な彫刻や樺材や檜材をふんだんに使用した江戸時代後期の建築様式を今に伝える希少な建造物である。 梵鐘には、当寺創建の由縁となった『野田御書』の御丈をそのまま彫り込んでいる。また、当寺に現存する五千点余の古文書は、江戸時代の地域史や寺院史を研究する上での貴重な史料として注目されている。
  平成15年に『野田御書』や阿弥陀仏画像をはじめ計4点が大阪市有形指定丈化吋に認定された。 『野田御書』は日本全国に11通の写本が存在するほど著名なものであり【大阪市史】にも掲載されている。
  毎年5月8日には、野田御書(野田村二十一人討死御消息)披露法要を開催し往時を偲び討死した二十一人門徒の功績を顕彰している。

野田御書
 
『摂津名所図会』
證如上人旧蹟(しょうにょしょうにんおきゅうせき) 野田村円満寺なり。
伝へ云ふ、天文元年八月二十四日、本願寺第十代證如上人住職したまふ山科の御堂を、江州佐々木六角弾正定頼と日蓮宗の僧俗と一味して、四方より囲み放火して攻め落とし、大坂までも追ひ来りて、上人を責め討たんと戦ふ。この地および近郷の門徒馳せ集まり身命を惜しまず防ぎけり。また天文二年八月、不意に敵攻め来りて、上人の御身も危ふかりしに、野田・福島の門徒、命を惜しまず敵を迫ひ払ひける程に、敵味方、討死・手負多かりける。證如上人、討死の門下を憐み御真筆の御文章を下されける。今当村極楽寺にあり
  その文に云ふ、
  今日のかつせんに二十一人うちじにのよし、いたはしきぜひにおよはず。しかれども、しやう人の御方を申され、たのもしくありがたく候。うちじにのかたがたは、ごくらくのあうじゃうとげ候はんずる事、うたがひなく候。いよいよもそうたのみ入り候。このうちじにのあとへもつたへられ候べし。あなかしこ。
   八月九日               證如判
                             野田惣中へ  
今、円満寺境内に、「天文二年巳八月九日、当村二十一人討死由緒地」といふ石碑を建つる。 ゆゑに毎年七月二十八日本願寺において、この地のお頭講中、御門主の御盃御相伴に預かる。 これ旧例となりぬ。

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  1. 2010/01/21(木) 08:05:10|
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逆櫓松


逆櫓の松   大阪市福島区福島2-2-4

逆櫓(さかろ)の松跡
 『平家物語』の逆櫓の段によれば、1185年2月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。
 義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。
 結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとした。折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは二百数艘のうちわずか5艘であったが、義経は勝利をおさめた。   
 その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれている。この地には、江戸時代の地誌『摂津名所図会』によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたという。この松を逆櫓の松と呼んだ。
 逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたらしい。
                                              大阪市教育委員会

大正15年4月福島史談会が「逆櫓の松跡趾」の碑を建て、昭和20年3 月13日の大阪大空襲で行方不明になっていました。
昭和33年に見つかり、地元有志によって昭和49年5月に現在地に移設されました。


『摂津名所図会』 
逆櫓松(さかろのまつ) 上福島橋爪町杉本氏別荘にあり。
元暦の頃、廷尉義経、梶原景時、逆櫓の論ありし所にや。大樹にして株の形驚蛇に似て千載を歴ぬらん名松と見えたり。またこの松の北の方、島田氏の家に近曾大木の丹楓(もみじ)あり。高十三間、南北の按二十間ばかりあり。惜しいかな、明和九年に枯れて今なし
 『平家物語』
 去る程に、元暦二年二月三日の日、九郎大夫判官義経、都を立って摂津国渡辺・福島両所にて船揃し、八島へすでに寄せんとす。兄の参河守範頼(のりより)も、同日に都を立つて、これも摂津国神崎にて兵船汰へて、山陽道へ趣かんとす。同十日、伊勢・石清水へ官幣使を立てらる。主上ならびに三種の神器、事ゆゑなう都へ返し入れ奉るペきよし、神祇官の官人・諸の社司、本宮・本社にて祈誓中すべき旨仰せ下され、同十六日、渡辺・福島両所にて汰へたりける船どもの纜(ともづな)、すでに解かんとす。折節、北風木を折って烈しう吹きたりければ、船どもみな打ち損ぜられて出だすに及ばず、修理の為にその比は留りぬ。去る程に、渡辺には東国の大名小名寄り合ひて、そもそもわれ等船軍の様はいまだ調練せず、如何がせんと評定す。梶原進み出でて、今度の船には逆櫓を立て候はばやと申す。判官、逆櫓とは何ぞ。梶原、馬は駆けんと思へば駆け、引かんとおもへは引き、弓手へも、馬手へも廻し易う候が、船は左様の時、急度押し廻すが大事にて候へば、艫・舶に櫓を立てて違へ、アイ楫を入れて、どなたへも廻しやすい様にし候はぼやと申しければ、判官、まづ、門出の悪しさよ、軍には一引きも引かじと思ふだに、合悪しければ引くは常の習ひなり。まして左様に逃げ設けせんに、なじかは能かるべき。殿原の船には、逆櫓をも返様櫓をも百丁千丁も立てたまへ。義経は、ただもとの櫓で候はんと宜へは、梶原重ねて、好き大将軍と申すは、騒くべき所をも駆け、引くべき所をも引き、身を全うして敵を亡すをもつて好き大将とはしたるなり。左様に片趣なるをば、猪武者とて、好きにはせずと申す。判官、猪・鹿は知らず、軍は、ただ平責めに攻めて勝ちたるぞ心地はよきと宜へは、東国の大名小名、梶原に恐れて高くは笑はねども、目引き、鼻引き、をめきあへり。その日、判官殿と梶原、すでに同士軍せんとす。されども軍は無かりけり。



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  1. 2010/01/21(木) 08:00:53|
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桑原遺跡


安威川ダム残土処分地 茨木市大字桑原地区  生保地区の代替農地として造成中。


桑原遺跡  阿武山の麓、安威川左岸 
平成16年4月に安威川ダム建設に伴い、大阪府教育委員会による事前調査で約24基もの古墳が密集して発見されました。
阿武山には貴人の墓と言われた阿武山古墳に、桑原古墳群と命名された群集墳が発見されています。
また、安威川右岸には7世紀の初田古墳群があります。


6世紀終わり頃から7世紀にかけての古墳が、互いに周溝を共有し合うほど近接して造られていました。


古墳の墳丘と石室の上部は一部破壊されていいましたが、中でも注目を浴びたのは、八角形の墳丘をもつC3号墳です。
他の石室には複数の人物が葬られていましたが、この石室だけは一人の人物しか葬られておらず、群集墳のなかに1墓あることも珍しいものです。
大化2年(646)の薄葬令によって、死者のために立派な古墳を造ることが禁じられていたにもかかわらず、石室の規模や構造、副葬品など他と比べて立派なもので、地元の有力者一族が葬られた墓地と思われるとのこと。
なお、遺構は再び埋没されました。

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  1. 2010/01/19(火) 08:00:06|
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国見山

『摂津名所図会』に国見山があります。
国見山(くにみやま) 福井村にあり。山頭に升って邁かに臨めば一州の風景瞭然として眺望あり



国見峠緑地 茨木市山手台6



明治9年3月9日の福井村の「古城古戦場古墳古跡書上控」に  
国見山  福井村ノ内北山是ナリ 方今峠山ト称ス  一ヶ所
北山ヲ国見山卜称スル事ハ 山頭ニ登リテ遥ニ四方ヲ一覧セバ 当国ハ勿論其余ニ 山城・大和・河内・和泉・紀伊・淡路ノ国々 山々瞭然トシテ眺望ス 依テ国見山ノ名起レリ 此山内ニハ丹波国へ通行ノ街道アリ 是ヲ国見峠ト云 摂津志ニ大岩村二在ト記セシハ誤ナリ
とあり、国見山の帰属については大岩村との間で確執がありました。
文禄4年(1595)に「大岩村民ノ住メル土地、国見ト称スル所アリ。此地ニ因ミ国見山ト称スルモノナレバ、大岩村ノ所有ナリ」との訴訟に、福井村では古免状(国見山年貢支払証文)で対抗し、同年9月12日の石田三成外2名の奉行により前々から年貢を納めている藤井村の草刈場であると認定。
承応2年(1653)には大岩村住民が国見山に松樹を植えたため、福井村が訴訟を起こし、8月28日に勝訴。
享保2年(1717)には大岩村の住民が国見山に入り、新田畑の開墾、植林、墓所・鎮守社の建立を図り、また福井村から訴えられました。柴田林佐衛門以下3名による実地検分の結果、7月に「大岩村言語道断之仕形」と裁定。


国見山峠には近松門左衛門の「大経師昔暦」(だいきょうじむかしごよみ)の元となったおさん茂平の物語があります。


大阪府道114号忍頂寺福井線 緑地公園バス停前


おさん茂平恋道中(おさんもへいこいどうちゅう)碑  茨木市山手台4 中央公園
宅地造成時に「サニータウン」内の公園に移設されました。

 この地は昔、能勢妙見山参詣の善男善女で賑わった摂津より丹波に通ずる一筋の街道で国見峠から国見念仏橋を渡り千提寺を過ぎ、多留見峠を経て、妙見山に至る妙見街道であった。
 この街道に「おさん茂平」を思い出させる国見峠がある。大阪小町とうたわれた美人で京都の商家に嫁いだ「おさん」は、丹波から奉公人としてきた美男子の「茂平」にすっかり身も心もうばわれた。当時、貫通すれば引き廻し罪という重罪に問われた。これを逃れるために、この地まで逃げてきたが所詮かなわぬ恋であると二人は相いだき心中したという伝説の地である。             茨木市

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  1. 2010/01/18(月) 08:00:52|
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