続・竹林の愚人 BOOK

初詣の社会史

4130262416初詣の社会史: 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム
平山 昇
東京大学出版会 2015-12-26



伝統的なものと思われている初詣は、実際には明治期の鉄道が郊外に広がっていく過程で成立・展開してきた近代的な産物であると筆者は指摘する。

とくに、東京では明治天皇に対する二重橋前平癒祈願の記憶が再生される場となった明治神宮が、従来は知識人において「迷信」とされてきた神社参詣が天皇を思う国民の「感情美」として好意的に解釈されたため、知識人を遠ざける心理的障壁にはならなくなった。
そして、「皇室=明治神宮=初詣」を三段論法的に飛躍させて、国民が宮中の四方拝に倣って古くから行ってきたものとして初詣を語る言説が生み出されることになった。
初詣は、知識人によってナショナリズムの文脈でとらえ返され、「国民」の行事となっていった。

江戸の正月元日の恵方詣は近世から行われており、大阪では節分の恵方詣は盛んであった。
東京は元日の恵方詣、大阪は節分の恵方詣という違いはあったものの、郊外へ延びる鉄道が誕生した結果として恵方詣の範囲が郊外の社寺へと拡大される。
明治30年代になると、鉄道網の拡大によって川崎大師のみならず堀の内祖師(堀之内妙法寺)、西新井大師、成田山新勝寺といった郊外の仏閣も参詣者が増大する。

近世の西宮神社は、丹波・丹後・但馬・播磨・淡路といった農漁村地帯の人々や大阪・兵庫の商人が参詣していた。
しかし、明治38年に阪神電車が開業して大阪からの参詣客誘致を行うようになると、にわかに大阪からの参詣客が増加するようになる。
明治40年の節分に際して、阪神電車は西宮神社が大阪から恵方に当たるとして宣伝を行い、参詣客が大幅に増加するという結果をもたらした。
大阪の場合、従来は節分参詣で使用されていた恵方が、鉄道会社によって年頭の参詣にも拡大適用されるようになった。

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  1. 2016/09/08(木) 06:59:55|
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仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか

山本 ケイイチ 『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』 (幻冬舎新書) (2008/5/30)
メタボが気になり、週一ですが筋トレを始めました。
筋力トレーニングには5つの原則がある。
第1の原則は「意識性」だ。
本人の意識がなければ、効果は表に出ない。
第2の原則は「全面性」だ。
トレーニングにおいては、包括的にバランスのとれた運動を組み合わせる必要がある、これが「全面性」だ。
第3の原則は「漸進性」だ。
「過負荷」の原則ともいう。「漸進」とは、「少しずつ進む」という意味である。
年齢が上がるにしたがって、成長ホルモンも出にくくなるから、トレーニングをしていても、筋肉の衰えに、回復・再生のスピードが追いつかなくなる。
常に負荷を大きくしていかないと、筋肉をつけるどころか、現状の筋肉を維持することも難しいのを実感している。
第4の原則は「個別性」だ。
体は一人ひとり違うから、同じトレーニングをしても効果が異なる。
効果を上げるには、個人の個性に合わせたトレーニングをするのが鉄則だ。
個別性の原則に関連して、「SAIDの原則」というものがある。
「Specific Adaptation to ImpoSed Demand(人体は与えられた負荷に見合った適応現象を起こす)」という意味だ。
要するに、やればやっただけ結果が出るし、やらなければ結果は出ない。
第5の原則は「継続性」だ。
たとえlカ所の筋肉を鍛えるだけでも、だいたい6週間ぐらいは同じ方法を続けてやらなければ結果は見えてこない。
この継続性こそ、トレーニングの目的そのものといってもいいぐらい重要だ。

話をまとめると、トレーニングとは、「肉体に何かしらの負荷を与えて、適応現象を引き出すこと」と定義できる。
ここでいう「負荷」とは、肉体に日常生活以上の強度を与えることである。
私の考えでは、適応現象は以下のような公式で表すことができる。
適応現象=「負荷の種類」×「大きさまたは強さ」×「期間」
「負荷の種類」とは、トレーニングでいえば、バーベルを上げるのかヨガをするのか、ランニングをするのかということである。
「大きさ」「強さ」とは 「何キロ上げる」「何回上げる」とか 「一つのポーズを何秒やるか」。
ジョギングであれば、「何分間走るのか」、「どのぐらいの速さで走るのか」ということだ。
「期間」とは、「1回のトレーニング時間は何分か」「何カ月続けたか」「何年続けたか」ということである。
負荷の種類、強度、それと期間。これがトレーニングにとって欠かせない要素だ。
この3つがしっかりと整わないと、適切な反応が起きない。たとえば負荷の種類が多く、強度が大きくても、期間が短ければたいして効果は出ない。

適応現象は、3つの要素に加えて、トレーニングする人の生体エネルギーそのものに大きく依存する。
トレーニングによる疲労によって筋力はいったん落ち、再生の過程で 「超回復」と呼ばれる現象が起こり、筋力は元のレベルよりアップする。筋力はこの繰り返しにより上がってくる。
ここで見落とされがちなのは、与える負荷は、常に前回のトレーニングのときより大きくしていかなければいけないということだ。
しかし50歳で無理をすると、筋肉が壊れてなかなか回復しない。
だから、むやみやたらに負荷を上げて、トレーニング効果を高めるというわけにもいかない。
思うように効果が上がらないのにトレーニングを続けるのは、精神的にはキッいものだ。
しかし、20歳のときと40歳のときでは、忍耐力は40歳のときのほうが確実に上がっているはずだし、目的意識もはっきりしているはずだ。
このような精神の成熟は、加齢による生理的機能の低下を補ってあまりある。
だからトレーニングを始めるのに、遅すぎるということはない。
時間をかけて何かをするという経験がどんどん減っている現代社会においては、自分の体の変化とじっくり向き合う、トレーニングという行為は、精神力を鍛える貴重なチャンスなのだ。
そう思って、積極的にトレーニングに励んでほしい。

山本さんのこの原則を励みに継続しようと思っています。

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  1. 2016/05/08(日) 07:32:03|
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琉球国の滅亡とハワイ移民


鳥越皓之琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)

「沖縄ケンケン豚カウカウ」(ケンは県、カウカウはハワイ語で食べる)
その当時は内地でもそうだったが、ハワイでも沖縄人に対する差別はかなり厳しかった。
沖縄はすでに日本のなかの一つの県となっていたが、言葉が相互に通じなかったことが大きな理由だと沖縄からの移民の人たちは言っていた。
また、沖縄では豚を飼う伝統があって、ハワイでも養豚業をしている沖縄人の割合が高かった。
養豚業は周辺の住民に悪臭を与えるので評判がよくなかった。
そのため、沖縄人は臭いというような言い方など、さまざまな形での差別もあった。

日本人(内地の人)によるいわゆる沖縄人への差別の理由として、通常は二つがあげられている。
ひとつが、沖縄県出身者は他の県の出身者よりも貧しかったからという「貧困」を理由とするものである。
もうひとつは、沖縄県よりも山口県や広島県など他の県の出身者が先にハワイに来ていて、ハワイで一定の地歩を築いていたが、沖縄県民は新参者であったからという、「後発」としての理由である。
これら二点の理由は否定できない事実だ。
けれども、根源の理由は、沖縄が日本によって滅ぼされた(併合)からだと私は解釈している。
この種の差別は、植民地化した朝鮮や台湾(また日清戦争後の中国)の人たちへの差別と同根である。

戦前では全国平均で100人に1人が移民として出て行ったのであるが、沖縄は10人に1人なのである。
その理由はなんであろうか。

それは琉球国の滅亡である。
国の滅亡が高い割合の移民をもたらしたと言える。
国の統治力としてのタガが外れたので流出したし、またタガが外れたことによって、制限が弱くなったからである。
タガがゆるんだという事実は、その当時の為政者にとってはおもしろくない。
したがって、奈良原知事が「時期尚早」論をうちだすのは、実に定石どおりの対応である。
そういうなかで民権運動という「定石破り」の運動が展開され、成果を得たのである。
民権運動は政治運動から移民活動という経済活動に移っていくことによって成功する。
ただ、移民に呼応した人たちは、当山久三の名前を知っている者はいたにはいたが、そのほとんどは、民権運動的な考え方にはまったく無関心で、経済的安定と、できるならば経済的に豊かになることのみを夢見て移民として海を渡ったのが現実であった。

浦崎政平(1908年生まれ)はいう。
学問のない人に限って、沖縄を軽蔑した。
わしら沖縄県人がこちらに来て、「鼻を高くしてよいな」と思うたのは、賀川豊彦先生の話から。
あの人がヒロ(ハワイ島)の大和座で話されたことがある。
人類のこと。歴史のこと。
日本の歴史はふたつある。「現代の歴史」(国が作為的につくった歴史)と「本当の歴史」。
もしずっと大昔の姿をみたいなら、沖縄へ行け、と言われた。
沖縄の言葉にはむかしの日本語があるんだと。
沖縄が大事ゾ、と言われた。
それからみんなが〔沖縄を〕見直した。

唐の世から、大和の世、大和の世から、アメリカ世、アメリカ世から、また大和の世。
沖縄世にはならんではありませんか。(川上喜子)

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  1. 2016/05/07(土) 18:36:51|
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神社の起源と古代朝鮮

神社の起源と古代朝鮮 岡谷 公二『神社の起源と古代朝鮮』 (平凡社新書) (2013/11/19)


白鬚神社は、全国に広く分布している同名の社の本社である。
社伝によると、垂仁天皇25年の創祀と伝え、琵琶湖周辺最古の神社という。しかも式内社ではない。
この事実は、いくつかの興味深い問題を提起する。
一つは、渡来人の祀る神社が、他の神社と同じくらい、或いはそれ以上に古い歴史を持っているのではないか、ということであり、また、たとえ古社であろうが、渡来人の祀る神社は、或る時期、或いは或る時期まで、官社とは認められなかったのではないか、ということである。
白鬚神社が新羅系渡来人の奉祀した神社だとは、ほぼ定説になっている。
その名の初見は応永2年(1395)だという(『日本の神々』)。
それ以前は比良神、比良明神と言われた由で、『三代実録』の貞観7年(865)に「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」とあるのは白鬚神社のこととされている。なおこの記録は、この神社の国史における初見である。
ヒラはシラ、シラは新羅の最初の国号である斯盧であり、新羅であり、白である。
比良明神が白鬚の老人の姿をして化現したという伝承がいくつかあり、その辺から白鬚神社という名かついたのかもしれない。
このあたりは、古代の豪族三尾氏の地盤であり、三尾氏は白鬚神社の奉祀者であった。
そして渡来系、とりわけ新羅系の氏族ではないかと考えられている。
近くにある水尾神社の祭神は、現在、白鬚神社と同様、猿田彦命である。

明神山と呼ばれる裏山に途中まで上ってみた。
古墳は複数あるらしく、白鬚神社古墳群と呼ばれているが、詳細はよく分からない。

『日本書紀』によると、継体天皇の父彦主人王は「近江国の高島郡の三尾の別業」にいた時、「顔容妹妙(きらぎら)しくて、甚だ媺(うるはしき)色有りといふ」噂を聞き、越前三国の高向から振媛という女性を迎え、妃とし、天皇をもうけたのだという。
彦主人王が「三尾の別業」にいたのは、三尾氏とのかかわりからであると考えられる。
三尾氏が新羅系渡来人の氏族ではないかと推測させる手がかりの一つに、水尾神社の近くにある鴨稲荷山古墳がある。
6世紀前半の築造で、周濠を有する前方後円墳であり、全長60m以上という規模の大きさといい、副葬品の豊富さと豪奪さといい、近江を代表する古墳の一つだ。
金銅製冠、金銅製環頭太刀、金製耳飾り、金銅製馬具類など、副葬品の多くは朝鮮半島系、とくに新羅系で、金銅製冠は 「かの慶尚南道慶州金冠塚の華麗なものと系統を同じくするもの」(『滋賀県史』)である。
被葬者は彦主人王と考えられたが、現在では三尾氏の首長であろう、というのが大方の意見である。
弥生時代、朝鮮半島から多くの人々が日本列島に渡ってきたわけだが、その多くは地理上最も近い半島南東部彼らがもともと鉄とかかわる人たちだったとするなら、「国、鉄を出す。韓、濊、倭皆従ってこれを取る、諸市に買うに皆鉄を用う。中国の銭を用うるが如し。又もって二郡(=楽浪・帯方)に供給す」と『魏志』の東夷伝弁辰の条に記された地域、のちに新羅に併合される金官伽郡に属する洛東江流域一帯を出自とする人たちだったかもしれない。
このように三尾氏が渡来系氏族だったとすれば、同じ三国の出身で、三尾氏と深いかかわりを持っていた継体天皇も、もしかすると渡来人だったのではあるまいか?

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  1. 2016/04/28(木) 05:26:03|
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ホノルルの街かどから

ホノルルの街かどから   加藤 秀俊   『ホノルルの街かどから』 (中公文庫 ) (1979/01)

初版が出たのが1974年ですから、今から40年程前のハワイ本です。
著者の加藤秀俊氏は70年代の大学紛争で京大を去り、ハワイ大学東西文化センターの研究員となり、一家そろって1年間ホノルルで暮らしました。
その時の出来事を綴った本書にはハワイの良さに溢れています。
その中から少しばかり紹介します。

ワイは「常夏の国」だから、いつでも花が咲き乱れている1というイメージは、けっしてまちがいではない。
一年じゅう、花は咲いている。
しかし、じつさいに生活をしてみると、やっぱりこんな熱帯にも季節があり、そして植物たちもそれぞれのサイクルをきっちりとつくっているのだ、ということがよくわかる。
なるほど、花は絶えることがないのだけれど、11月から4月ごろまでは、どちらかといえば、淋しいのである。プルメリアの、特定の品種は細々と咲きつづけているし、ブーゲンビリアやジャスミンの小さな花も色どりをそえるが、花は、冬のあいだ品不足になる。
そんなわけで、冬のあいだは、ときどき、うちにもフラダンスの踊り子たちが花をとりにきた。

ところが、5月になると、とたんに、島ぜんたいが、文字どおりぐんと花やいでくる。
「ライオンのツメ」という朱色の花がさき、モンキー・ポッドもあざやかな色の花をつける。
ハイビスカスも咲く。プルメリアにいたっては、もう、うんざりするほど咲く。
咲くそばから、ぽろぽろと散り落ち、あとからあとから咲きつづける。
ちょっと風でも吹こうものなら、木の下は花びらでいっぱいになる。
プルメリア
マンゴ 花だけではない。五月のなかはすぎからマンゴの実が熱して、食べごろになる。
このマソゴという果物、正しくはマンゴというよりは、メンゴという発音にちかいのだが、これが、まさしく鈴なりなのである。
実が青いうちは、葉の色とおなじだから、べつに目立たないのだけれども、だんだんとオレンジ色になり、さいごにはリンゴとおなじような赤い色になる。そうなると、壮観である。
なにしろ、住宅の庭にいっぱいこの木が植えられているのであるから、ホノルルの荷じゅうがマンゴの大洪水になってしまうのだ。
5月のハワイは花でいっぱい。こう改めて指摘されると、なるほどなと思います。 
図らずも、5月のゴールデンウィーク後に訪れることを常としています。 
理由は簡単、旅費が比較的安価で済むからですが、最高のシーズンでもあったのですね。
ホノルルの食べもの屋のなかでおもしろいのは「おかず屋」である。
日系の人の多い地区に目立つが、よくさがしてみると、ハワイじゅう、いたるところにこれがある。
看板はOKAZUYAとローマ字で書かれており、ハワイにながくいる人のあいだではすでに、オカズヤ、ということほぼ市民権を得ている。 おかず屋  「おかず屋」とはなにか。
ひとことでいえば、日本の大衆食堂をキャフヱテリア方式にした和洋折ちゅうの食堂である。
規模はそれほど大きなものでなく、しばしば、20人ほどで満員、といった小食堂だ。 P1090507.jpg  なかにはいると、ガラスのケースがならぴ、大きなステソレスの器のなかに、数種類の「おかず」がほいっている。
それは、たとえば、鶏と野菜の煮つけであったり、煮魚であったり、あるいは豆腐であったり、じつにさまざまだが、要するに、日本の標準的な家庭料理のメーニーである。
お客は、それらのメニューのなかで、好みのものを指さし、一枚のお皿に盛りつけてもらう。
店にもよるけれど、一般的な方法としては、好きなもの二品にご飯がついて1ドル35セント、といった均一料金。
味噌汁(ミソ・スープ、とローマ字で書いてある)などは別料金だが、なにをとってみても、きわめて大衆的な値段だ。
価格こそ時代を感じさせますが、今も変わりませんね。

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  1. 2016/04/26(火) 22:02:00|
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A Totem Pole History

A-Totem-Pole-History.jpg

A Totem Pole History: The Work of Lummi Carver Joe Hillaire
The Work of Lummi Carver Joe Hillaire
(2013/12)
Pauline Hillaire edited by Gregory P.Fields

今日、Prof. Greg Fieldsから一冊の本を送って頂きました。
以前にブログで神戸にあるトーテムポールを載せたところ、シアトルのキューレターから展示に使いたいと云われて画像を送ったことがあります。
引き続いて本に載せるからと、今度は南イリノイ大学の教授から許諾の書類が送られ、サインして送り返したことがあります。
それから2年後の今日、約束通り本が送られてきたのです。
掲載された画像にはちゃんとクレジットして頂きました。


トーテム・ポールの物語
太平洋をはるかにへだてて、一つは東 一つは西に
二つの美しい町が栄えていました
同じ海の水が その岸べを洗っているのに
町の人々は たがいに よく知りませんでした
山を背に 海をひかえた 二つのよく似た町
室は青く(神戸) 森は録(シアトル)
ふりそそぐ 日の光は波にきらめき
遠い山やまの雪を 照りかがやかせました

あるとき 太陽をおおう黒雲のように
国ぐにをおそった戦いは
二つの町を 暗い悲しみの中にとじこめました

やがて 恐ろしい戦いは静まり
悲しみのもやにつつまれた 二つの町も
ふたたび 光が さしそめました
頭を起こして 互いに顔を見合わせた人びとは
町をへだてる海が 狭くなっているのに驚きました
二つの町の 心ある人たちは ともどもに
わだかまる暗さをはらいのけようと話し合いました
日ざしも やわらかな 秋の一日かれらは手をとりあい
太平洋に 友情の橋をかけたのです

この海が もっと小さくなるように
人びとを照らす太陽がくもりなく
とこしえに 光り輝くように 祈りながら

A TOTEM POLE TALE
Divided by the Pacific Occan,two Obeautiful towns were flourishing,
 one on the cast,and the other on the west.
Although the same sea water flows from one coast to the other,the
 townspeople didn't know much about each other.
Two very slmilar towns,each with an ocan and a mountain in the
 back.The sky was blue(Kobe),the forest was green(Seattle).
The radiant sun glistened on the ocean waves and shone upon the
 snow-capped mountains.
One day,as if black clouds covered the sun,a war erupted.
The two towns were entombed in bleak sorrow.
Soon the dreadful war ended.Oncc enwrapped in the gloom of
lament,the two towns were now flooded with light.
Raising their heads and looking at one another,the townspeople
 marveled at how the dividing occan began to feel like a narrow
 body of water
Thoughtful peopICfrombothtownsbegan∽nversationsinhopes
 ofbanishingthele smoldering darkness
On a serene autumn day,hand in hand,they built a Friendship
 Bridge over the Pacific,
wishing that the distance between two towns grows even smaller
and that the sun forever shines upon people without casting a single
 cloud.

 Translated from the Japasense by Mai Ketcherside

Kobe-Seattle Sister Cities Friendship Pole P.157

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  1. 2013/11/23(土) 15:55:24|
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古墳時代


列島の考古学 古墳時代列島の考古学 古墳時代
(2011/08/11)
右島 和夫、千賀 久 他

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千賀 久 「最初の大王墓」

「大和」は一般的には奈良県全域、律令期の大和国をさすが、ヤマトの語源はヤマ+トである。
そのヤマ(山)は三輪山を意味していたと和田拳さんは指摘し、ヤマトの範囲は「初瀬川や寺川の流域で、三輪山を間近に仰ぎ見る一帯」で、「天香具山・三輪山・石上神宮・島の山古墳ぐらいを結んだ地域に初瀬谷を加えた範囲」とする。
この地域では、三輪山の神への祭祀が重要な位置を占めていたと考えられる。
さらに、最初の大型前方後円墳である箸墓古墳は、三輪山を背にする位置を選んで築かれた。
その墳丘長276mという大きさは、隣接する古墳とくらべて格段の差があり、古墳築造の背景に有力な王の存在が想定できる。
『日本書紀』に伝える、三輪山の神オオモノヌシに仕えた巫女ヤマトトトヒモモソヒメの墓「箸墓」が、実際にこの箸墓古墳のことをさす可能性は十分ある。

纏向遺跡は、三輪山の北西に広がる古墳時代初頭の集落遺跡である。
ここは箸墓古墳に始まるヤマトの大型古墳群に葬られた王たちによる、初期ヤマト王権の都と位置づける説が有力だ。
その中枢部と考えられる区域の調査で、中心となる3世紀前葉~中葉の大型建物は、東西12.4m、南北19.2mの規模で、径30cm前後の太い柱が使われていた。
さらに、計4棟が方位を合わせて東西に並び、計画的に配置された建物群であることがわかった。
この遺跡の出土土器に、河内をはじめ東海・瀬戸内・山陰・北陸・近江などの土器を多く含み、また、彩色や線刻で飾られたマツリの壷が目立った。
このほかに、導水施設をともなう水のマツリの場も見つかっていている。

箸墓古墳では、後円部の頂に、弥生時代後期の吉備地方でつくり始められた特殊器台・特殊壷と、それから発展した埴輪が立てられている。
墳丘裾に散乱する板石からは、竪穴式石室が想定でき、その構造は吉備地方などに系譜が求められる。
その石材は、河内の芝山から大和川を上って運ばれたものである。
また、先行するホケノ山古墳でも東海系の朱塗り壷が墳丘上に並べられ、その埋葬施設は朝鮮半島南部につながる石囲い木槨で、棺内に副葬された画文帯神獣鏡は中国後漠から魂代の優品である。
近畿以西の地域と東海の勢力による政治連合=連立政権をつくつたことの証を記念碑としてのこしたのが最初の大王墓の箸墓古墳だといえるだろう。

遺跡の東半部の巻野内尾崎花地区・家ツラ地区と、西半部の勝山地区で鍛冶関連の遺物がまとまって見つかった。
また、そこから北西に離れた勝山古墳の周辺部では鉄器も出土した。
このように鍛冶工房が古墳前期から操業していたと想定でき、北部九州を経由して渡来人の技術者がやってきたと考えられる。
また、当時の鉄素材は朝鮮半島南部地域との交易によるもので、それも北部九州の勢力が介したのだろう。
箸墓古墳に先行するか同じ時期の古墳として、ホケノ山古墳と纏向遺跡内の各古墳が注目される。
調査でそれぞれの古墳の構成要素が一様ではないことがわかってきた。
これらの古墳は、いずれも墳丘長100m前後の大きさで、纏向遺跡内の大溝の想定流路が箸墓古墳につながることからも、そこに葬られた人物を纏向に居を構えた王と考えられる。

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  1. 2013/10/27(日) 07:00:29|
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昭和の洋食 平成のカフェ飯


昭和の洋食 平成のカフェ飯: 家庭料理の80年昭和の洋食 平成のカフェ飯: 家庭料理の80年
(2013/02/07)
阿古 真理

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主婦という言葉を広めたのは、大正6年(1917)に創刊された『主婦之友』である。
夫の給料で暮らす女性たちが一家を切り盛りする主婦の自覚を持ち、料理のレパートリーをふやして、家族の健康を守ろうとする時代が始まる。
ライスカレーやオムレツ、シチューは創刊の年に出てくるが、紹介される料理のほとんどは和食である。
戦後70年弱の間に、日本の食卓は大きく変わった。
食卓の戦後復興は、アメリカへの憧れから始まっている。
メディアで紹介したい珍しいもの、新しいものといえば、何といってもアメリカに代表される西洋の料理だった。

洋風料理は戦前、上流階級から始まり、中間階級あたりまでは伝わっていた。
庶民まで広まったものとしては、コロッケやライスカレー、とんかつなどが知られている。
しかし、実際に日常食にしたのは、一部の恵まれた階層だけだった。
大正時代に始まった生活改善運動で、都市部に西洋式の立ち流し式のシステムキッチンらしきものが普及したころに、戦争が激しくなっていった。
だから、戦後の経済成長で、西洋化は一気にやってきた。
見たことも聞いたこともないような料理が、次々とテレビや雑誌で紹介されるようになったのである。
昭和半ばに急速に浸透していった料理が、サラダである。
昭和30年代にサラダが急速に普及していくのは、テレビや雑誌でサラダがどういう料理なのか伝えられ、そして、野菜をナマで食べられる衛生環境が整ったからである。

料理教室は江戸時代末期からあって、良家の子女などが通っていたが、全国に知られるようになったきっかけは、テレビである。
明治の産業革命で生まれた中間階級の主婦たちは、受け継ぐべき伝統がない分、自由だった。
女学校で外国の料理を習い、主婦雑誌を読んで、日々の献立を考えた。
その中には、コロッケやライスカレーもあった。
自ら台所に立つが、家事は大変だから女中を雇う。
そういう階級の、主婦や嫁入り前の娘たちが通うのが、料理教室だった。
彼女たちは、外からの料理情報を採り入れながら、日々の食卓を調えた。
戦後になって、家庭料理の民主化が、テレビを通じて行われた。
テレビさえ見られれば、誰でも一流の先生から料理を学ぶことができる。
料理番組創成期のテレビに駆り出された料理研究家たちは、プロから学んだ経験を持つ、世界各国の料理に精通しているセレプリティだった。
小津安二郎の映画を観ると、主役の家族は豊かな暮らしをしていることが多い。
『お茶漬の味』は、昭和27年(1952)に公開された映画で、西洋化が進む都会と旧来の文化を残す田舎の文化のギャップを描き出した。
やがて、この外国食文化の受け入れ度合いによるすれ違いは、夫婦間だけでなく世代間にも広がっていくのである。

新しい料理を身につけるために、昭和前半に生まれ育った新世代の主婦たちが教科書にしたのは、テレビや雑誌、本などの料理メディアだった。
少し前までなら、親から教わったり、地域の人たちと情報交換をして覚えたような類の知識である。
実はこのころ、上の世代から下の世代に生活の知恵が伝わらなくなってきていた。
年中行事には決まった料理を毎年用意し、食べることが喜びとされた時代は過去になっている。
高度経済成長は、社会全体を豊かにし、この時代以降、主婦たちを悩ませることになる日替わり献立の習慣が、庶民にまで行き渡る。
昭和30年代に、セレブの料理研究家たちが伝えようとした西洋料理の世界は、すでに遠のき始めている。
和・洋・中・エスニックと何でも組み合わせる日本の食卓のバリエーションは、このあたりから拡大しはじめたのかもしれない。

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  1. 2013/10/25(金) 07:00:15|
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本づくりの本


本づくりの本―武田式・自費出版入門本づくりの本―武田式・自費出版入門
(1999/03)
村上 光太郎

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最近では、メディアとして映像、音響など多くの手段があるにもかかわらず、自費出版が年々増えつつあるということは、活字であることに何らかの魅力があるに違いありません。
同じ印刷物でもリアルタイムに情報を伝える「新聞」「雑誌」などのメディアに比べ、自費出版は、じつくりとその人の考え方や思想・哲学を伝えること、あるいは一つの事実・事象を掘り下げて伝えることに適したものであるといえましょう。
そして、自分が書いた本が自分が死んだ後も延々と生き続けるなんて、考えようによっては壮大なロマンですよね。

営業出版と自費出版の違いはハッキリしています。
出版物を作成する費用を出版者と著者のどちらが負担するかによるのです。
営業出版物の場合は、どこまでも編集者のフィルターを通して、「売れる」ことを狙って本づくりをしていくのです。
著者の内なる心から噴き出した思いを文字に託した自費出版と、事業としての「売り上げ」の数字を目標においている営業出版とでは、本づくりのスタートが違うのです。
著者にとって、ひとりでも多くの人に読んでほしいと思うのは当然ですが、たった一人の読者にでも強い影響を与えることができればこんなに素晴らしいことはないのではないでしょうか。

案外大ざっぱになりがちなのが発行部数です。
私家本として、親戚・友人の範囲に配る場合は、通常100部から300部ぐらいが適当でしょう。
また書店で販売する場合には、流通本では最低1000部は欲しいところです。
自費出版された本の大半は、出版記念パーティを開催したときに配ったり、郵送で贈呈したり、それ以降も時間をかけて名刺代わりに渡したりということで捌かれています。
書店で自著が販売ルートに乗るということは、自費出版する人にとって魅力的なものであることにちがいありません。
しかし、市販価値があるものかどうかという点で判断されます。
また、正常ルートに乗ったからといって、本が売れるわけではありません。
書店には1日平均200点近くの新刊が入ってくるため、売れないものは次々に返本されてしまいます
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国立国会図書館に納本することで、あなたの本は半永久的に保存されることになり、納本された本は広報誌『日本全国書誌』に掲載されます。
図書館が寄贈本は何でも受け付けるというわけではありませんが、一応最寄りの公共図書館へ相談してみる価値はありそうです。
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  1. 2013/10/24(木) 07:00:27|
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秀吉伝説序説と『天正軍記』


秀吉伝説序説と『天正軍記』(影印・翻字) (上方文庫)秀吉伝説序説と『天正軍記』(影印・翻字) (上方文庫)
(2012/03)
追手門学院大学アジア学科

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奥田 尚 「秀吉の伝記類にみえる大坂城」

秀吉に関係するまとまった「伝記」を載せる史料として、大村由己『天正記』・太田牛一『大かうさまくんきのうち』・『川角太閤記』・小瀬甫庵『太閤記』がある。
よく知られているように、豊臣期の大坂城は、現在見える徳川期の大坂城に完全に覆われて、その地下に石垣遺構として存在する。
すべてに豪華かつ派手好みだった秀吉だから、秀吉の大坂城はさぞ贅を尽くしたに違いなく、フロイスの『日本史』にもそれを示す記録が残されている。
だが、その築城の様子や豪華さを、上記の4種の秀吉の伝記類からうかがおうとすると、事は容易ではなくなる。
『大かうさまくんきのうち』の大沼春睴の「翻字編」の項立てに「柴田修理亮勝家の事」があり、桑田忠親の項立てに「柴田勝家の最期」がある。
年月日順から、この部分に「大坂城築城」に関係する記事が含まれて当然だが、『太閤さま軍記のうち』には、大坂城に関する記述が一切ない。
太田牛一の著作としては、信長の一代記の『信長公記』が有名であるが、そこに大坂城の前身をなす石山本願寺についての記述がある。
午一の『信長公記』巻九には信長の居城の安土城の築城記事もあり、決して牛一が築城などの「普請」の記事を記さなかったわけではない。
いずれにしろ、太田牛一は十分に大坂城を認識していたことは間違いない。

次に『川角太閤記』であるが、「普請」という用語は散見するが、あまり詳しい内容はない。
大坂城や伏見城の築城についても、なんらの記述がない。
これはおそらく、そうした築城にあまり興味を持っていなかったためであろう。

甫庵の『太閤記』では、名護屋城は仮の城にすぎないのに、豪華に過ぎると批判し、伏見城や大坂城の作事・築城などは、「聊かは許す所も有り」というのである。
甫庵は「国病にしては、日本之賊鬼也。検地をし侍りて、万人を悩し、兆民をせたげ、しぼり取て、其身の栄耀を尽せり」と秀吉を厳しく糾弾し、巻七の「金賦之事」の評の部分では「或は大伽藍等を多く営み、或は高麗をおびやかし上下を苦しめ、あまたの金銀を便ひ捨て給はんよりは」とする。

4人の中で時代が古いのは『天正記』の大村由己で、その死去年は秀吉の没年慶長3年(1598)よりも前なので、秀吉の全盛期を描くのに何らの気兼ねも必要なかった。
この作品にのみ「大坂城」築城が描かれるのは、このためである。
『太閤さま軍記のうち』の太田牛一は、慶長5年(1600)9月の関ケ原合戦で西軍が大敗し、慶長8年(1603)2月に徳川家康が征夷代将軍に任命されたことを知っている。
おそらく慶長19年(1614)10月の冬の陣、翌年4月の夏の陣と5月の大坂落城、豊臣秀頼と淀君の自殺は知らないであろう。
それでも徳川の時代がやってきたことを知っており、秀吉の居城の大坂城については、触れることが憚られたに違いない。

『太閤さま軍記のうち』は「後陽成天皇の御聖徳」の項を冒頭に、次項に「日本の黄金時代」として、本文に「太閤秀吉公の御慈悲」をあげつつ「君の善悪は知られたり。御威光ありがたき御世なり」と後陽成の御威光ありがたき御世と締めくくる。
この記述方法にも、秀吉を素直に賛美できない時代に生きた、牛一の工夫がうかがえる。
さらに次の項が「豊臣秀次の出世」で、文禄4(1595)年に秀吉が秀次を処分した悲劇を詳述する。
つまり秀吉は身内の秀次を殺害する程の「悪」であることを冒頭に据え、徳川の政権奪取を正当化する含みを持たせた。
その上で、「条々、天道おそろしき次第」として、三好実休養賢、松永久秀、斎藤道三、斎藤義龍、義龍の妻子の物語を記し、次いで織田信長の最期を描き、秀吉の毛利との和談、明智光秀の滅亡、柴田勝家の最期と秀吉の時代への記述につなげてゆく。
ここにも徳川の支配への気兼ねがうかがえる。
なお、秀吉の死去の前後に触れないのは『(甫庵)太閤記』と同様で、それを描けば徳川の政権奪取に、人々の思いが導かれることを遠慮したのであろう。
牛一に徳川政権への遠慮があったこと、それが牛一が大坂築城を描かなかった理由である。

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  1. 2013/10/23(水) 07:00:13|
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