続・竹林の愚人 Blog

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サムズ・クラブでお買い物


Walmart の2階の会員制スーパーマーケット「サムズ・クラブ」でワンデイパスを作ってもらってお買い物です。
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  1. 2017/06/11(日) 18:52:28|
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PRINCE WAIKIKI SUNDAY BRUNCH


プリンスワイキキのサンデーブランチに行ってきました。
2016年11月21日、「プリンスコート」からリニューアルして「100 SAILS RESTAURANT& BAR」と名付けられています。

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  1. 2017/06/11(日) 18:51:31|
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今城塚古代歴史館



今城塚古墳が平成16年(2004)から史跡公園として整備され、古代体験ミュージアムとして平成23年(2011)4月に開館されました。
  1. 2017/03/03(金) 22:15:14|
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桓武天皇と百済王

平成13年12月18日のお誕生日に、日韓共同でのサッカーワールドカップ開催に際し、陛下の思いを語られたことは大変な驚きでした。

「日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。」(宮内庁HPより

桓武天皇の生母は高野 新笠(たかの の にいがさ)で、その父和乙継(やまとの おとつぐ)が百済の第25代王・武寧王を祖と称した、百済系渡来氏族です。(『新撰姓氏録』)
桓武天皇といえば平安遷都で知られますが、都を定める前に百済王氏の本拠地河内国交野に狩りに度々出かけています。
その目的が藤原朝臣継縄(みつぐただ)の室である百済王明信(みょうしん)に会うためでした。

百済の義慈王は日本との同盟の為に、豊璋と善光の2人の王子を人質に出していました。
660年、唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼすと、中大兄皇子は豊璋に軍を与えて百済再興を支援しましたが、白村江の戦いで敗れ、豊璋は唐に連行されてしまい、残された弟の善光が百済王族の血統を伝えることとなりました。
持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜ります。
その子孫百済王敬福(きょうふく)が陸奥守となった折、当地で黄金を発見して献上。
東大寺大仏の鍍金が叶ったと、聖武天皇は狂喜したといいます。
後に河内守となり、交野郡内に居館を作りました。
その孫が明信です。
明信
向日市文化資料館
IMG_4497.jpg
宮中でこのような歌を詠むのですから、公然の仲であったようです。
明信は桓武天皇の寵愛を受け、春日局さながら、後宮で絶大な権力を握って、百済王家から多数の女性を宮中に送り出し、皇子・皇女を儲けました。

百済王の居館のあった地には、今は百済寺跡と百済王神社が残っています。
百済寺跡
百済寺跡(くだらじあと) 枚方市中宮西之町1
百済王神社
百済王神社(くだらおうじんじゃ) 枚方市中宮西之町1-68

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  1. 2015/07/12(日) 07:06:29|
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中臣氏

中臣氏と茨木の関係を『新修茨木市史』と神社で見てみよう。
中臣とは、神と人の中をとりもつ祭祀を掌る職掌からきたウジ名とする説が有力である。
中臣の姓を賜ったのは、『中臣氏系図』に引く「延喜本系」の記述によれば欽明天皇の時とする。
それ以前は卜部であったとする説があるが、確かなことは不明である。
その本拠地についても諸説があるが、河内とするのが妥当で、継体天皇の後背氏族の一つとして地位を上昇させたと考えられる。
まず、河内国河内郡の式内社として、中臣氏の祖神であるアメノコヤネなどをまつる枚岡神社がある。
また、『新撰姓氏録』から中臣氏の同族氏族の分布をみれば、摂津・河内・和泉に多く、とくに河内には、「中臣」そのものを姓とする氏がみえることが重要である。
中臣氏の同族である中臣藍連・中臣大田連は、いずれも現在茨木市内にある安威・太田の地名にちなむウジ名であり、後者については三嶋竹村ミヤケと関係があった可能性がある。
河内国河内郡の部曲が三嶋竹村ミヤケの労働力となったように、淀川を間に挟んではいるが、両地域は密接な交流があった。
中臣氏が河内のみでなく摂津三島地域にも進出していたことは、このような両地域の密接な関係を基礎にしているのであろう。
鎌足が三島に別業を有していたのも、彼の時に始まったのではなく、祖先からの地盤があったことによると考えられる。
なお、中臣氏が三島と関係が深かったことは、少し後のことであるが、『神宮雑例集』巻一「改宮地事」に記す天平12(740)年条の記載にも表れている。
それによれば、春日社を寿久山の御社に遷し奉ったが、これは右大臣の大中臣清万呂が摂津国嶋下郡寿久郷に籠居した時に、住家の近くに祭ったことによるとする。
この伝えは、『伊呂波字類抄』(10巻本)巻3・諸社の「春日社」の項にもみえている。
大は中臣意美麻呂の子で、神護景雲2(769)年に大中臣の姓を賜った。
なお、意美麻呂は藤原姓を称していたが、文武天皇2(698)年に神事に供するために中臣の旧姓に復していた(したがって、藤原姓は不比等の系統のみが継ぐことになった)。
寿久山の御社とは、式内社の須久久神社のことである。
『延喜式』神名式に2座あるのは、現在の須久久神社と清水にある春日神社とをさすと考えられる。
古くは両地とも宿久庄村の属邑であったが、明暦元(1655)年に分かれたという。
また、奈良の春日大社の創始は神護景雲2(768)年とされ、その前身はやや遡る可能性があるが、まだ社殿は建立されていなかったようである。
櫛木謙周 『新修茨木市史』第1巻第5章(2012)

枚岡神社
枚岡神社(ひらおかじんじゃ) 東大阪市出雲井町7-16
社伝によれば、神武天皇御東征の砌、紀元前3年国土平定祈願のため、天種子命勅命を奉じて現社地の東方山上の霊地神津嶽に、天児屋根大神、比売神の2柱の神霊を奉祀せられた。

阿井神社
阿為神社(あいじんじゃ)  茨木市安威3-17-17
苗森神社とも云わる。 中臣藍連氏がその祖神を祀ったもの。

太田神社
太田神社(おおたじんじゃ)  茨木市太田3-15-1
太田茶臼山古墳の西方にあり、元は太田に居住した中臣の太田連を祖神としていたと考えられる。

須久久神社
須久久神社(すくくじんじゃ)  茨木市宿久庄4-22-33
聖武天皇の天平(740)12年4月5日、右大臣中臣清麻呂が当地寿久郷に籠居の間、祖神を春日山と、須久久山に祀ったという。

春日神社
春日神社(かすがじんじゃ)  茨木市清水12-2-10
式内社 須久久神社2座の1つ。中世以降春日神社と称するようになった。

春日大社
春日大社(かすがたいしゃ) 奈良市春日野町160
中臣氏の氏神を祀るために768年に創設された。

茨木市内に60社ある神社の内、天児屋根命を祭神とする春日社をはじめとした藤原・中臣系の神社は18社現存する。

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  1. 2014/12/20(土) 08:48:31|
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安威(あい)

「あい」の呼称は古代から変わっていない。
阿為(延喜式神名帳)、安井(玉葉)、藍(皆川文書)、阿威(元亨釈書)、阿井(摂陽群談)の宛字がそれである。
しかし和名抄で書かれていた安威郷という書き方が定着した。
和名抄は読み方は「阿井」つまり「あい」と念押しをしている。
『安威郷土史』(1998)

安威郷

大宝律令(701)が制定され、祭祀をつかさどる神祇官と行政をつかさどる太政官が並置された。
摂津職は難波津と同時に津の国を管轄したが、管内には12の郡があった(平安時代には13郡)。
島下郡は島上郡と共にもとは三島郡と称したらしい(『日本書紀』雄略7年)。
両郡の境界は阿武山の南麓からほぼ南北にひいた線である。
平安初期に著わされた『和名類衆抄』には島下郡には新野・宿久・安威・穂積の4郷があった。
安威郷は太田・耳原・福井・安威・桑原・大門寺・生保・大岩・安元・車作・忍頂寺などの地域、
『茨木市史』(1969)

ここで問題となるのは、継体天皇陵だ。
『日本書紀』に「葬于藍野陵」(藍野陵に葬りぬ)と記され、『古事記』には、「御陵者三嶋之藍陵也」(御陵は三嶋の藍陵だ)と記されている。
そこで、江戸時代、松下見林が『前王廟陵記』(1696)で太田茶臼山古墳を継体天皇陵とし、現在も宮内庁によりそのまま引き継がれている。

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太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん)  茨木市太田3
三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ) 

茨木中学校の天坊幸彦氏が条里の研究から、早くも昭和元年(1938)に継体天皇陵は今城塚古墳であると主張した。
『延喜式』に「磐余玉穂宮御字継体天皇在摂津国嶋上郡、兆域東西三町南北三町守戸五烟」と、継体陵は島上郡にあるとはっきり書かれている。
本居宣長は安威は上下両郡の境なので、藍野陵は昔は上郡だったが今は下郡になったと言っているが、島下郡との境界線は北方塚原村の山麓に沿って南下して、三島村の東辺を限とするもので、この境堺線は古来より変動していない。
このことは条里の遺制からも証明できるとする。

今城古跡

今城塚古墳はその名のとおり、16世紀に三好長慶が出城を築き、その後の伏見地震(1596)により墳丘の盛土が滑落したため、高槻藩が藍野陵を探索した頃にはただの城跡と見なされた。

今城塚

今城塚古墳(いましろつかこふん)  高槻市郡家新町   
現在では、太田茶臼山古墳の築造時期が5世紀前半または中頃、今城塚古墳は5世紀前半とされ、今城塚古墳が真の継体陵と目されている。

そうすると、安威の地は6世紀においては芥川西岸にまで及ぶことになるのだろうか?

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  1. 2014/12/19(金) 23:46:32|
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鎌足と安威郷

中臣鎌足と茨木について。

鎌足の概略については吉川真司氏が簡潔に述べられています。
天智朝の政治を支えたブレーンが、中臣(藤原)鎌足である。
鎌足は推古22(614)年、飛鳥北方の藤原第で生まれた。
藤原第はのちに不比等が相続し、藤原宮東隣に位置することになった邸宅のことらしく、藤原氏の名はここに由来する。
中臣氏の祖業である神祇祭祀に携わることを鎌足は良しとせず、ひとたび三島別業に隠棲したが、やがて宮廷クーデターを策謀する集団に加わり、乙巳の変で政権を勝ちとった。
『日本書紀』『藤氏家伝』は鎌足こそが政変の黒幕だったと述べ、中大兄皇子との連繋を特筆大書している。
鎌足が改新政府で内臣となったこと、中大兄から厚く信頼されたことは事実と見てよく、クーデターを成功に導いた功績はやはり大きかったのであろう。
『藤氏家伝』には「軍事・国政の重要事項は鎌足の判断に任せた」とあり、また養老5(721)年、鎌足の故事をふまえて内臣となった藤原房前には、「宮廷・朝廷の要務を取り計らい、詔勅を確実に施行して、天皇政治を補佐し、永く国家を安寧ならしめよ」との勅命が下っている。
中大兄が全権を握った孝徳朝末年から斉明朝になると、内臣の役割はいよいよ重みを増した。
中大兄はつねに鎌足に諮って国家意志を定めたといい、そのような政治は天智朝にも受け継がれた。
文献上知られる事績としては、「礼儀」と近江令の編纂がある。
彼は仏教信者でもあった。
飛鳥寺に資財を施して僧侶の修学を助けたり、近江京に程近い山階陶原家で維摩経を講説させるなど、仏教興隆に力をつくし、国家護持を祈った。
長子の定恵を僧侶とし、入唐させたのもその表われであろう。
山階での講経はのちに興福寺に移されて維摩会と呼ばれ、鎌足の忌日法会として重んじられた。
儒教と仏教は大化改新の思想的基盤でもあったから、双方に通暁した鎌足が、新国家体制のイデオロギー整備に関わったと見るのは自然であろう。
天智8(669)年冬、鎌足は近江京で死の床についた。
天智天皇は見舞いに訪れ、大織冠の位、内大臣の官、藤原の姓を与えた。
ほどなく鎌足は死去し、1年にわたる殯のあと、山階精舎(山階寺。陶原家の持仏堂か)で葬礼が行なわれた。
百済人沙宅紹明が碑文を作り、遺徳を讃えたが、天智朝の文革を伝え、大織冠の墓所を知る手がかりにもなろうその碑文は、残念ながら今に伝わらない。
吉川真司「飛鳥の都〈シリーズ 日本古代史 3〉 (岩波新書)(2011/4/20)

ここで注目されるのは「三島別業に隠棲」とあります。
日本書記第24巻に、「三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連拜神祗伯、再三固辭不就、稱疾退居三嶋。」
(皇極天皇の3年(644)1月に鎌足は神祇伯という高貴の職に任せられたが、病と称して固辞し、三島の地に退隠した)と記されています。

「日本書紀」は、皇極天皇3年の條に突然鎌足について書きだして、そこに過去のことまで鎌足について書きつらねる。
これは、普通のことではない。中大兄皇子と接近した逸話までつらねている。
法輿寺(飛鳥寺)で蹴毯の会があったとき、中大兄皇子の皮靴がぬけたのを鎌足がひろってささげたことが緑となったという、戦前の修身教科書にとりあげられていた逸話である。これは、中国の故事から得た創作である。
とにかく中大兄皇子に接近したかったので、チャンスを待って、逸話のようなことを契機にして親しくなったとしている。
「藤原氏家伝」では、「軽皇太子は器量がともに大事を謀るに足らず、王宗を歴見して、ただ中大兄皇子は雄略英徹にして、ともに乱を撥すべく 云々」とある。
三島にいたからこそ、謀議が秘密ですすめられたということも、かんがえられる。
三島のどこだったか。現在の安威地内か。桑原か。
桑原では、そこで鎌足が策をめぐらし、阿武山の光り石でことの成功の如何を占ったと伝えている。
とにかく安威川をみつめ、淀川を眺め、この二つの川筋にいる勢力とのつながりを掘りおこしながら、可能な道をさぐつたのである。
『安威郷土史』(1998)


安威郷は、奈良時代から平安時代にかけて見える郷名です。
安威郷の領域は、茨木市の太田、耳原、福井、安威、桑原、大門寺、生保、大岩、安元、革作、忍頂寺などの一帯だったと推定されています。
その安威郷には鎌足に関わる寺院古跡があります。
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大念寺(だいねんじ)  茨木市安威3-17
現在は浄土宗知恩院派の寺院ですが、寺に伝わる『摂州嶋下郡阿威山大織冠堂縁起並序』(宝暦11年・1761)によれば、鎌足の長男定慧が斎明天皇2年(656)に大念寺を創建し開祖となったとあります。
定慧は遣唐使として、唐の都長安に留学20余年。
天武7年(678)9月、帰朝して大念寺に入ると、安威に葬られていた鎌足遺骸を多武峯に改葬したという。
境内には「黄金竹」が今も繁茂し、不思議と頭だけが枯れて「黄金の冠」をかぶっているように見えるのは、鎌足の首だけ多武峯に改葬したからだとか。

阿為神社
阿為神社(あいじんじゃ)  茨木市安威3-17-17
延喜式神名帳に載る式内社で、『新撰姓氏録』摂津国神別に「中臣藍連 天児屋根命12世孫大江臣之後也」と、中臣藍連が始めてこの地に来て祖先の天児屋根命を氏神として祀ったとされます。
翌4年6月12日に蘇我入鹿が誅され、年号を大化と定め、12月には難波長柄豊崎宮に遷都され、翌年正月1日に大化改新の詔書が下されている。
この一連の歴史を考えると、先の鎌足公の三嶋隠退は、単なる隠居ではなく、ここで蘇我氏誅滅から大化改新までの歴史的大変革の秘策が練られたのである。
その舞台となった所が、当社を中心とする周辺ではなかったろうか。
吉井良隆『式内社調査報告』(1977)


大織冠神社
大織冠神社(だいしょくかんじんじゃ) 茨木市西安威2-1
「大織冠鎌足公古廟」の石碑がある将軍塚古墳。
平安中期の頃から、藤原鎌足公の墓所は、初め「摂津の安威にあったが、後に大和多武峰に改葬された」との説があり、それが江戸時代になってこの塚をあてるようになった。
そのため鳥居を建て、石碑を造り、石室内に祠をつくって崇拝し、毎俊10月16日には、京都の九条家から使者が来て、反物2000匹を持参し、お祭りをされていた。
考古学上からは、山頂を利用して造られた円墳で、南向きの横穴式石室を有するものである。
造られた時期は、古墳時代後期(6世紀後半)の頃であるが、早くから開口されたので副葬品については何もわかっていません。
茨木市教育委員会


地福寺
地福寺(ちふくじ) 茨木市桑原33-15
安威川ダム建設工事のため平成16年、西方高台の現在地に移転する。
今は浄土宗で大念寺の末寺となっていますが、『桑原山地福寺縁起』によれば7世紀中臣鎌足によって創建され、鎌足の長子定慧の師慧隠の開基と伝える。
この寺もまた、「入鹿誅殺」計画を鎌足が練った所とされ、鎌足自筆の「鎌足の御影」が伝わる。
多武峯曼荼羅
大織冠像(室町時代)
鎌足を中央に大きく、手前に長男の僧定慧と次男の不比等は配す。

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  1. 2014/12/13(土) 21:10:19|
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