続・竹林の愚人 Historic sites

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大成洞古墳博物館



金海(キメ)市の地域は古代、伽耶・任那とされます。
1990年からの発掘調査で、3世紀後半~5世紀前半の金官伽倻の支配者層の木棺墓を主体とした184基の古墳群と判明しました。
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  1. 2017/03/09(木) 20:39:32|
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小浜宿

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小濱宿
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南門跡 愛宕宮

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毫摂寺(ごうしょうじ) 宝塚市小浜5-5-12
毫摂寺は真宗本願寺派のお寺で、丹波の僧乗専が本願寺3世覚如に帰依し、丹波六人部の天台寺院を本願寺に寄進し、覚如の別号の毫摂を寺名としました。
この寺を京都に移し、覚如の末子・善入をこの寺の住職としました。
その末裔の善秀が明応年間(15世紀末)に小浜庄を開き、ここに毫摂寺を建立したのがはじまりです。
江戸期には八本松の名所として知られ、また豊臣秀次と寺の次女・亀姫との悲話も残されています。
現在は小浜御坊ともよばれ、別院真宗寺院の典型的建築である江戸後期の本堂が残っています。

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制札所跡 代官所跡
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小浜には大坂から伊丹を通り、湯山(有馬)に至る湯治の道としての有馬街道や、西宮から伊子志の渡しで武庫川を渡り、酒や米を運んだ西宮街道(馬街道)、京都・伏見から山崎を通り、瀬川半町や加茂を経て入ってくる京伏見海道などの道筋が入っていました。
このため小浜の地は、江戸幕府から交通の要衡として重視され、抜け荷の禁止や駄賃を定めた制札(幕府の御定書)なども残っています。
また、小浜は荷物の継ぎ荷のことで西宮市の生瀬宿と争いがあったことも浄橋寺文書(西宮市)などの記録に残っています。
小浜は嘉永4年(1851)の記録によると、戸数202戸で人口800人であり、馬借・問屋・茶屋・旅籠などがならぶ町場で、専業農家はほとんど無かったとされています。
また、酒造りの名所としても知られ、井原西鶴は『西鶴俗つれづれ」のなかで、名産の産地として小浜の名をあげています。
さらに小浜は大工の町としても知られ、享保8年(1723)ごろ大工の組として「小浜組」が成立しています。 

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山中家幅
小浜の山中家は、戦国時代の武将・山中鹿之助幸盛を先祖とする家系で、その子・幸元には八男二女があり、長男・新兵衛(清直)が慶長19年(1614)に小浜に分家して小浜山中家の祖となりました。
この家系は、江戸時代前期には酒造業も営んでいたようですが、中期頃からは医家として家系を継いだようで、当主は良和の名を代々継いでいました。
幕末には大坂の適塾にも学んだことがあったようです。
現在の屋敷は、寛政13年(1801)の祈祷札から18世紀末頃に建てられたものと考えられ、桟瓦葺で主屋入口はすり上げ戸になっていました。
この屋敷の位置は小浜の中心部にあり、町並み景観の重要な位置を占めています。
また裏庭に残る「玉の井」は名水が湧く井戸として著名で、秀吉が有馬へ湯治に出かけた際、毫摂寺に宿泊し、土地の銘菓・川面の水飴とともに、この玉の井の名水を汲み、茶を喫したといわれています。
また明治11年に起きた竹橋事件(西南事件の論功行賞に不満を持った兵士達が維新政府に対して起こした反乱事件)に参加し、処刑された山中繁蔵は当家の次男でした。
江戸初期に分家した伊丹鴻池の家系は大酒造家として財をなし、さらに鴻池善右衛門家も代々両替商として成功しています。

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小浜宿資料館    右手の土蔵は山中家が使用していたものを、そのまま収蔵庫として改造したもの。
小浜皇大神社 (おばまこうたいじんじゃ) 宝塚市小浜5-4-4
創建年月は不詳。
古伝に創建嘉吉元年(1441)と伝えられております。
伊勢神宮の御神体をお祀りしています。
また、身佐神社は、奈良県高市郡明日香村身狭(見佐)と小浜のほとり身佐の2社に天武天皇「生霊の神」としてまつられたと摂津国名所絵図にも記載されていますが、明治30年の武庫川氾濫により身佐村全体が流出してしまい、大正元年(1912)に小浜皇大神社に合祀されました。


首地蔵(くびじぞう)  宝塚市小浜5-1-4
摂陽群談(1500年頃)によると、今の小浜の首地蔵のことを「首から上の病気は治してもらえる地蔵さんとして全国から参詣者がある」と記されている。
この地蔵は、御影石像のお首だけで高さ1m30cm、耳だけでも60cmです。
お顔はよく調和のとれた素朴な美しさをたたえている。
この首地蔵石段の石組みの中に、南北朝時代の宝篋印塔の笠が3つ、そして石段の左右に鎌倉時代の石灯籠があり、この一角には鎌倉時代の遺物があります。

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西村則周(にしむらのりかね)墓
幕末期の大工で、戊辰戦争で壊れた京都御所蛤御門の再建の棟梁や、大阪難波別院御堂の脇棟梁をつとめた。
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徳本上人名号碑
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北門跡
小浜の町の出入口、東、南、北の三ヶ所に町門が設けられ、ここを北門と呼び小浜の町の防備を固めるものであった。
この内脇に火難を除く火伏せの小祠がこの北の愛宕さん(宮)である。
毎年8月の地蔵盆には町内総出で赤い提灯を境内一面に飾り、お供え物を持ち寄り、この町の人を厄災から守ることを祈願するという愛宕さんのおまつりがあり、北の口町の行事として今に引き継がれている。 

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  1. 2015/03/29(日) 07:33:19|
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六條判官源為義公塚


六條判官源為義公塚(ろくじょうはんがんみなもとのためよしこうつか)
源為義(1095~1156)は平安末期の武将である。
父義親は西国で乱行を起こしたため、1108年に平正盛により誅される。
祖父義家が1106年に死去し、家督を継いだ叔父義忠が1109年に暗殺された後、為義は河内源氏の棟梁と称する。
通称は六条判官、陸奥四郎。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。
その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の為朝の乱行により開官となる。
保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の義明の手で処刑された。
保元物語では、義朝の部下である鎌田正清と波多野義通によって七条朱雀で切られ、圓覚寺に埋葬されたとある。

顕彰碑 供養塔
この供養塔は、寺伝によれば、『当山(祇陀林寺)中興(1596)のはるか昔より、丹波街道(七条通)を挟んだ北側には、源為義公の墓があった。
現在の五輪塔は、貞享3年(1686)の為義の年忌法要に際し、再整備したものである。』とのことである。
また、明治45年(1912)京都操作場の拡張工事に伴って、現在の中央卸売市場(京都市下京区朱雀堂ノ口町)から現在地へ移設した。
その際に、五輪塔の下から水輪などの石塔の一部が見つかり、水輪を積み重ねると現在のような姿にしたとのことである。

テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

  1. 2015/03/08(日) 10:11:32|
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恵解山古墳

恵解山古墳
恵解山古墳(いげのやまこふん) 長岡京市勝竜寺・久貝
恵解山古墳は、古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)に築造された全長約128mの乙訓郡地域最大の前方後円墳です。
桂川右岸の標高約16mの台地の縁に造られています。
周囲には、幅約30mの周濠があり、周濠を含めた古墳の全長は約180mに達します。
古墳は3段に築かれ、斜面には砂岩やチャートの河原石がふかれ、各段と頂部平坦面には埴輪が並べられていました。
後円部には、死者を埋葬した竪穴式石室があったとみられます。
前方部の中央には刀剣などの鉄製武器が約700点納めてあり、京よふでは他に例がなく、全国的にも珍しいものです。
恵解山古墳は、その規模や構造から5世紀前半頃に桂川右岸の乙訓地域全域を治めた支配者の墓と考えられます。
恵解山古墳

恵解山古墳 
後円部

後円部は、直径約78.6m、高さは約10.4mと推定しています。

頂部は、早くに大きく削られて、江戸時代から墓地として利用されてきました。

墳頂部の中央には、周辺から出土した板状の石材から、死者を葬るための竪穴式石室があったと考えられます。

ここでは、後円部裾の葺石が検出されました。

斜面に他より一回り大きい基礎石が前方部裾にあり、後円部にないことが注目されます。

西くびれ部最上段斜面の葺石の様子は、最下段斜面に復元的に再現しています。

恵解山古墳 
武器埋納施設

ここには、多量の鉄製武器類が木の箱状の入れ物に納められていました。

その大きさは、長さ6.5m以上、幅約80cmです。

箱の底には刀が、その上に剣と槍が、さらにその上に短刀と大量の矢が束ねられて整然と置かれていました。

約700点もの鉄製品は、葬られた人の権力の高さを物語っています。

このほか、前方部斜面の崩れた土の中から、鉄製品が多く出土しています。

刀や剣、鏃などの武器も含まれていますが、鉄製の斧、鎌、鋤先などの農工具類が多く、斧をかたどった石製品もあります。

武器対埋納施設とは別の、農工具類を中心とした埋納施設があったと思われます。

恵解山古墳 
前方部の葺石

ここでは、実際に使われていた石材を使って葺石を復元しました。

裾部に人頭大の石を置き、縦や横方向にも大きめの石で区画しながら、その間を拳大の石を差し込むように積みあげています。

葺石は、古墳の南西側にある小泉川から採取した河原石で、砂岩とチャートがほとんどです。

葺石に覆われた古墳は、白く輝く石の山として、強烈な印象を与えたことでしょう。

恵解山古墳 
埴輪列(西くびれ部)

ここは東くびれ部で、第1平坦面に並べられた埴輪が、長さ約12mにわたって見つかったところです。

後円部を巡る埴輪列が、前方部へと、緩やかな曲線を描いて続いていました。

これらは円筒埴輪と呼ばれる土管状の埴輪です。

その多くは、土中に埋めていた底部が残っているだけでした。

並べられた埴輪が、心々で約40cm間隔に立てられている状況から、恵解山古墳全体で約1800本以上の埴輪が使われたと推定できます。

恵解山古墳
西造り出し

ここは、前方部西側に取りつく、東西約8.5m、南北約12mの四角い施設で、特別な葬儀が行われた場所とみられます。

造り出し上面は、埴輪で囲われていました。

その東辺の埴輪列は、北よりで食い違って、そこから中へ入る仕組みになっていました。

造り出しの取り付き部分には、そこを島に見立てた入江上状の表現があり、当時の死生観を知るうえで興味深いものです。

恵解山古墳 
東造り出し

東造り出しは、東西約14.5m、南北約17.5mの広さがあります。

西造り出しとは異なり、大きく不整形な姿をし、周りの緩やかな斜面には、小石を敷いて州浜のようになっています。

その上端には、人頭大の石が並べてあります。

また、南西隅には南に延びる張り出しがあり、東斜面から水鳥形埴輪が出土しました。

水辺に佇む水鳥を表現したのでしょう。

ここでは、小石で覆われていた範囲を芝で覆い、石列は、飛び石で表現しています。

恵解山古墳 

テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

  1. 2015/02/21(土) 22:00:33|
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台所間歩

台所間歩
台所間歩(だいふどころまぶ)
瓢箪間歩と同様、豊臣秀吉が開坑したという銀山の最も代表的な間歩。
豊臣時代に良質な銀・銅が出鉱し、当時大坂城の台所をまかなう、すなわち、豊臣政権の経済を支えるほどの豊富な量であったことから、台所間歩と呼ばれています。

台所間歩

台所間歩
最後の銀山役人であった秋山良之助が描画した徳川時代の「柵内銀山町御用地略絵図」

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  1. 2015/02/13(金) 09:50:55|
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瓢箪間歩

瓢箪間歩
瓢箪間歩(ひょうたんまぶ)
足利時代に一度盛山であった旧間歩。
豊臣時代(天正期)におびただしい銀・銅を産出し大繁栄した代表的な間歩。
山先(鉱山技師)の原丹波、原淡路親子がこの鉱脈を発見し、ほうびとして豊臣秀吉の馬印である千成瓢箪を与えられ入り口に掲げたことから瓢箪間歩といわれています。
検分に来た豊臣秀吉が馬上のまま坑内に入ったといういい伝えがあります。

瓢箪間歩

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  1. 2015/02/13(金) 09:50:34|
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青木間歩

青木間歩
青木間歩(あおきまぶ)
薬用植物として利用されるアオキが繁茂していたことからその名が付いたとの説もある。
鉱床の発見は明らかではないが、手掘りのみによる旧坑と日本鉱業により機械を使用した新坑とがあり、比較するとおもしろい。

青木間歩

青木間歩

青木間歩

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  1. 2015/02/13(金) 09:34:46|
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多田銀銅山代官所跡

代官所跡
多田銀銅山代官所跡(ただぎんぢうざんだいかんしょあと)
多田銀銅山代官所は、多田銀銅山で新たな大鉱脈が掘り当てられたことを契機に、寛文2年(1662)現在の「悠久の館」対岸に設置されました。
銀山町(現在の銀山地区)は、代官所を中心に栄え、最盛期には「銀山三千軒」といわれるほどのにぎわいをみせました。
銀や銅の産出高の減少と共に、代官所(役所)は規模を縮小しますが、明治2年(1869)に廃止されるまでの約200年間、多田銀銅山の中心として機能しました。
発掘調査の結果、代官所(役所)の建物跡や階段跡、畑跡等が確認されました。
これらの遺構の配置は、「元鉱山役所払下げ願」「明治6年(1873)」に描かれた絵図とほぼ一致し、代官所(役所)最後の敷地利用の様子をうかがい知ることができます。

代官所跡
「大金」の刻字がある石垣
代官所跡

代官所跡

銀山代官所の門
この門は銀山代官屋敷の中門であったのをこの場所(広芝家)へ移しかえて保存しているものです。
実際の中門は馬上のまま出入り出来るよう高い門でしたが、足もとだけ切り取り現在の高さにしたものです。
代官所は1662年に設置され、その屋敷跡は500m程川下に残っています。
平成4年2月建之 猪名川町観光協会

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  1. 2015/02/13(金) 09:01:14|
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堀家精錬所跡

堀家精錬所跡
堀家精錬所跡(ほりけせいれんしょあと) 川辺郡猪名川町銀山長家前4-1 悠久広場
農商務省鉱山局の記録によれば、明治40年(1907)、多田鉱山には機械選鉱場の建屋と選鉱機械の一部が設置されたと記されています。
しかしながら、翌年の明治41年(1908)に休業となり、機械選鉱場は稼働することはありませんでした。
今回の発掘調査でレンガ構造物の前面に、選鉱機械の基礎となるレンガ敷遺構が出土し、機械選鉱場の位置が確認できました。
まあ、これまで煙道とその吸込口の存在から製錬に関わる溶鉱炉の位置は推定されていましたが、どの程度の操業が行われていたのか不明でした。
発掘調査では、溶鉱炉に使用された耐火レンガや赤レンガが多数出土し、製錬場があったことが改めて確認できました。
なお、溶鉱炉に向かって右手の谷筋に取り鍋で運んで捨てた多量の「鍋形カラミ」がみつかりました。
これにより、この洗練場での操業は試験的なものではなく、本格的な操業が行われていたことが明らかになりました。

堀家精錬所跡
赤レンガと鍋形カラミ
堀家精錬所で出土した赤レンガには、「×」の刻印が付いています。
刻印から「岸和田煉瓦株式会社」製造の煉瓦であることがわかります。
カラミは製錬の過程で排出される非金属の「かず」です。
堀家精錬所の調査では、鍋形から見とともに多数のカラミレンガが出土しました。
この廃物を有効利用しようと、カラミを箱形の鋳型に流し込んで作ったのがカラミレンガです。
明治時代後期、各地の精錬所でカラミレンガが製造され、建物の基礎や石塀に使われました。

堀家精錬所跡

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  1. 2015/02/13(金) 08:42:12|
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孝元天皇陵

孝元天皇陵

孝元天皇陵(こうげんてんのうりょう) 橿原市石川町
中山塚1号墳 前方後円墳

孝元天皇陵

劒池嶋上陵(つるぎのいけのしまのえのみささぎ)

孝元天皇陵

剣池

孝元天皇陵

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  1. 2015/01/20(火) 21:50:41|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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