続・竹林の愚人 Shrines

新羅神と日本古代


出羽弘明「新羅神と日本古代史」(2014)は著者による2冊目の新羅神を扱った書。
この書を手引きに関西の新羅神社を巡ってみる。
現在の日本にある新羅神社は半島から渡来した新羅系の人々が祀った神社である。
新羅神社は通常、新羅の神を祀る社であり、祭神は新羅明神(新羅神)と言われる。

「辰韓と弁韓は雑属していた」と『三国志』(東夷伝)にあることから、新羅は半島南部の倭(狗邪韓国)や北部九州の倭族と相通じるものがあったと思われる(馬韓は滅亡後、百済国となった)。
『三国志』にはまた「辰韓の男女は倭に近く、また文身す」とあり、新羅・伽耶系の韓族が倭族に似ていて扶餘系氏族とは異なることを記載している。
新羅の慶州と伽耶国の金海や釜山は地理的には同一文化圏である。神々も同様である。

『三国史記』(祭祀)に、新羅の宗廟制度は第2代の南解居西干王(南海次次雄)(在位4~24)がはじめて始祖・赫居西(かくきょせい)の廟を立てて四季にこれを祭り、南解工の実妹の阿老に司祭させたとあるが、現実には食物に係わる農耕や漁猟の生活神を祀ったようである。
同記には、第22代智詮干(在位500~514)が神宮を創建して始祖を祭ったとある。
『記・紀』では「神武紀」に「天神地祇を祀った」とあるが、祖神を祀る祭祀は崇神天皇の時(3世紀~4世紀)に「宗廟を保つことができた」とある。
また『三国史記』「新羅本紀」には、第1代赫属性居西王8年(前50)の条に「倭人が出兵した」とある。
その後4世紀後半、半島に三国が形成され、特に5世紀以降は半島における三国の勢力争いが日本国内にも持込まれて日本の中に新羅系、百済系などの王権が誕生する。
大和に統一王権が成立する過程では古い渡来の新羅系氏族と後に渡来の百済系氏族との間に争いがあったと言われる。

百済王神社
百済王神社(くだらおうじんじゃ) 枚方市中宮西之町1-68
比較的時代の新しい創祀の百済神社や高麗神社の由緒は皆祖神廟である。
百済王神社の創建は「天平9年(737)、王南典、病にかかり薨ず。勅して百済王祠廟を建立せしめ、百済各王の霊をここに安置」(『百済王霊廟由来記』)とある。
日本の新羅神社の創建はこれらの時代より古いので、必ずしも祖神廟ではなく、自然神が多かったと思われる。
新羅神社という名称は列島に住みついた新羅系の人々が祀った社であるから、新羅(慶州)に新羅神社があっても不思議はないが、新羅国は仏教を受容した後は仏国土を目指し、特に統一新羅では仏教一色になり、神社は残っていない。

園城寺
園城寺(おんじょうじ) 大津市園城寺町246
新羅善神堂
新羅善神堂(しんらぜんじんどう) 大津市園城寺町246
三井寺(園城寺)の創建については諸説あるが、686年、天武天皇から「園城」の勅額を賜り園城寺と称した。
天智、大武、持統の三帝が産湯に使った霊泉「阿加井屋」があることから「御井の寺」とも言われた。
その後、貞観年間(859~877)に智証大師円珍が天台別院として寺を再興し三井寺と称した。
この寺の守護神を新羅明神といい新羅善神堂に祀られている。
祭神は新羅太明神で、新羅大明神は素箋嶋尊と同体とされ、寺の本尊は弥勤菩薩を祀っているのでこの社寺には新羅文化が集積している。
現存する三井寺の「新羅神社」の社殿(国宝)は足利尊氏が再建(1347)。
源頼義の子の義光が新羅明神の神前で元服、「新羅三郎義光」と呼ばれ、新羅明神は源氏の守護神として広く崇拝され、北海道から広島に至るまで多く残っている。

新羅系神社のほとんどが素戔嗚尊を祀っているが、古代の律令政権、新しくは明治の国家神道の影響などで『記・紀』の神に変えたものが多い。
三井寺の『伝記』や『新羅太神記』などには「新羅明神は素戔嗚尊なり」とあり『記・紀』の神話には半島の新羅から日本へ渡来(天降)した最初の神と記されている。
これは天孫・瓊瓊杵尊の降臨より早い。
『紀』によれば素戔嗚尊は出雲の簸の川のほとり及び安芸の江の川のほとりに降臨し、出雲で奇稲田姫と夫婦になり、大己貴神(別名・大国主神、大物主神)をもうける。
出雲大社の背後の出雲御埼山の崖の中腹に韓窯神社(祭神・素戔嗚尊)があり、「神名帳」に記載の神社で、『出雲国風土記』には韓銍(からかま)社となっている。
神社の説明板には「社名のカラカマは朝鮮から渡来した「釜」を意味し、「鉄器文化」を開拓されたと伝えられている」とある。
素箋鴫尊が鉄神であれば、子神の大国主大神、大己黄神、大物主神などの神も鉄神である。
新羅神社という名称は列島に住みついた新羅系の人々が祀った社であるから、新羅(慶州)に新羅神社があっても不思議はないが、新羅国は仏教を受容した後は仏国土を目指し、特に統一新羅では仏教一色になり、神社は残っていない。

韓国神社
漢國神社(かんごうじんじゃ) 奈良市漢国町6
東大寺に近いJR奈良駅の近くに「韓国神社」がある。祭神は「園神と韓神」である。
「大神神社注進状」によれば、「大神氏家牒に曰く、養老年中、藤原史亦園韓神社を建て斎き奉る。神明帳に云く、宮内省に座す神三座、園神一座、韓神二座。旧記に云く、件の神等は素戔嗚尊の子孫にして、疫を守る神なり。伝え聞く、園神は、大己貴命の和魂大物主神なり。韓神は大己貴命、少彦名命なり。」とある。
藤原京で初めて祀られたのではなく、大神神社と同様に古くからあった神と思われる。
この辺りには、東大寺の周辺も含めて韓国、すなわち新羅系や物部系の氏族が住んでいたと思われる。

住吉大社
住吉大社(すみよしたいしゃ) 大阪市住吉区住吉2-9-89
長田神社
長田神社(ながたじんじゃ)  神戸市長田区長田3-1-1
生田神社
生田神社(いくたじんじゃ) 神戸市中央区下山手通1-2-1
廣田神社
廣田神社(ひろたじんじゃ) 西宮市大社町7-7
摂津地方は淀川の北部と難波の島々および上町台地からなっていた。
難波は、祭祀にもとづく大和の崇神王朝に代わって、武による統治を行う応神天皇に始まる河内王権の拠点として、中国や朝鮮半島と交流を行った地である。
難波の島々には古くから新羅系氏族が住んでいた。
「住吉」、「長田」、「生田」、「広田」の諸社や播磨地方の新羅系の神社は、何れも神功皇后の新羅征伐に関係した創祀伝承を持っている。
「墨江大神の社」は住吉の海人族(安曇の海人)の祭った神であり、航海安全の神として崇拝されていた。
北摂津は淀川の北側に難波小郡と言われた西成郡、南には難波大都と言われた東成郡がある。
西成郡の宅見郷(現在の福島区)には「応神紀」31年の条に記載のある新羅王が派遣した新羅の造船・木工技術者集囲「猪名部の工匠」が住み、地名の宅見は工匠の転北と言われる。
猪名部の工匠は猪名地(現在の尼崎市)に住んだ猪名部氏の祖と言われ、後の東大寺の造営(751)などに活躍した。
尼崎地方には新羅が白井に転訛した、白井神社が残っている。

白井神社
白井神社 (しらいじんじゃ) 尼崎市東園田町4-48

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  1. 2015/05/17(日) 09:08:50|
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長賢寺


長賢寺(ちょうけんじ) 高槻市萩谷404
浄土真宗大谷派

本堂 本尊:阿弥陀如来
蓮如上人御旧跡
文明3年(1471)、比叡山延暦寺などの迫害から京から逃れた蓮如は、越前吉崎に拠点を置く。
しかし、文明7年、戦乱で吉崎御坊は焼失して去ることとなった。
若狭から摂津に入った蓮如はこの地、萩谷に逗留。
その後、富田村に富田道場(教行寺)を開いたという。

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  1. 2015/03/15(日) 18:10:43|
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西法寺



西法寺(さいほうじ) 高槻市萩谷592
浄土真宗本願寺派  本照山
蓮如上人御旧跡  
本堂  本尊:阿弥陀如来

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  1. 2015/03/15(日) 18:09:38|
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諏訪神社


諏訪神社(すわじんじゃ) 高槻市萩谷774
割拝殿
拝殿前に土俵があり、12月には奉納相撲がおこなわれます。
貞観元年(859)の勧請と伝えられ、信州・諏訪一族の、近畿内における活動の本拠のひとつであったと言われています。
本殿 祭神:武御名方命
巖の前に鎮座。
『摂津名所図会』に「萩谷神祠(はいたにのやしろ) 荻谷村にあり。春日明神と称す。社内に大岩あり。岩神と崇めて祭祀す。 」とあります。

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  1. 2015/03/15(日) 18:08:39|
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権現寺

権現寺(ごんげんじ) 京都市下京区朱雀裏畑町10
浄土宗 清光山 成就院
寺伝などによれば、長保2年(1000)に藤原廠光(藤原道長の従兄弟で、1017年に左大臣)より宅地(五条通富小路辺り)の寄進を受けて寺となしたことから、須達長者の祇園精舎を造るが故に、祇陀林寺と号した。
その後、度重なる災害(水害や、治承3年、承久元年の火災など)に遭って諸堂が焼失し、地蔵を護持するため、三災不動の地である朱雀へ移って地蔵堂を建立した。
一方、建保2年(1214)に高倉天皇の妻で、後鳥羽天皇の母である七粂院(藤原殖子)が建立した歓喜壽院は、承久の乱(1221)の結果、く曾孫>仲添天皇が廃位、<子>後鳥羽上皇・<孫>土御門上皇・<孫>順徳上皇らが配流されてしまい七条院の勢威が衰えるとともに、後鳥羽上皇の息・仁和寺道助親王に譲られ、仁和寺御室の管領するところとなった。
その後、荘園の喪失や度重なる火災などにより荒廃し、室町時代には権現堂のみとなり、安土桃山時代に祇陀林寺に譲られた。
祇陀林寺も、戦国時代には動乱などにより衰退したが、「火印地蔵菩薩譚(津子王物語)jを弘めるとともに、地蔵講を行って法灯を守り続け、慶長元年(1596)に御土井の外側(規在の朱雀内畑町)で、浄土宗寺院として再興することができ、権現堂も移設した。
江戸前期には祈祷所【勝軍地蔵(防災、厄除け、必勝祈廟など)、火印地蔵(開運、出世、病気平癒など)】として、又、愛宕信仰(勝軍地蔵が本地彿)と相侯って都人で賑わっていた。
しかし、正徳元年(1711)に法然上人の500年遠忌を迎えるにあたり、祇陀林寺から権現寺へと改称し、祈願所から供養寺へと変わることとなる。
明治44年(1911)には京都駅操作場の拡張により現在地(朱雀裏畑町)へ移転し、現在に至る。

本堂  本尊:阿弥陀如来
地蔵堂

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  1. 2015/03/08(日) 09:38:04|
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水薬師寺


水薬師寺(みずやくしじ) 京都市下京区西七条石井町54
真言宗 単立 塩通山医王院 延喜2年(902)の建立。

本堂 本尊:薬師如来
境内には平清盛が熱病を癒した「岩井の清泉」があったという。

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  1. 2015/03/08(日) 09:09:53|
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若一神社


若一神社(にゃくいちじんじゃ) 京都市下京区七条御所ノ内本町98
社伝によると、宝亀3年(772)、唐から渡来し天王寺に居住した威光上人が、紀州熊野を詣でた際、迷い苦しむ人々を救済しようと、御分霊若一王子の御神体を背負って旅立ち、当地の古堂で一夜を明かしたところ御信託を授かり、堂中に安置した。
その後、当地は荒廃したが、平清盛公が六波羅に在住していた頃には、当地は浅水の森と称し、風光明媚な土地として名を馳せており、平清盛公は、当地に西八条御所よ称される別邸を造営した。
仁安元年(1166)、平清盛公が熊野詣でをされた際に、「土中に隠れたる御神体、世に出し奉斎せよ」との御信託を授かった。
帰京後、邸内を探したところ、東方の築山が夜光を放っており、清盛公自らが3尺ほど掘ったところで、土中から若一王子の御神体が現れ、当地に社殿を造営し鎭守した。
平清盛公が御神体に開運出世を祈ったところ、翌年仁安2年(1167)2月10日太政大臣に任ぜられたことから、開運出世の神様として尊崇されている。
社前の御神木は、平清盛公によって植樹されたものとされる。  京都市
祭神:若一王子
松尾大神
祖霊社  稲荷社
寿命社
弁財天社
平清盛像
清盛公植樹と言われる御神木
平清盛公西八条殿跡

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  1. 2015/03/08(日) 08:55:30|
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平等寺

 平等寺
平等寺(びょうどうじ) 京都市下京区不明門通松原上ル因幡堂町728
真言宗智山派 福聚山 因幡薬師
長徳3年(997)、因幡(現在の鳥取県)国司・橘行平が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が、行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)、行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。
この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、承安元年(1171)には高倉天皇により「平等寺」と命名された。
なお、この寺の起こりは、「因幡堂縁起」(東京国立博物館)に詳しく書かれている。
堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。
この薬師如来立像位は藤原時代の一本造りの優品で、重要文化財に指定されている。
嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の1つに数えられ、ことのほか信仰されている。 京都市

平等寺
本堂 本尊:薬師如来
平等寺

平等寺
観音堂 十一面観音 洛陽三十三観音第27番霊場
平等寺
地蔵堂
平等寺
歓喜天
平等寺
十九所権現(十九社明神)
当寺は後白河院の信仰篤く、度々御幸されたある時に当寺の鎮守はいかなる神かとたずねられました。
住職が因幡の国一宮、武内宿禰と答えると、生身の如来衛護の神には、武内朝臣のみでは力不足と仰せられ、十八所の神々を院宣にて勧請されました。
御白河院還幸の後、或る人の夢枕に西宮夷の御嫡子、一童御前が立たれ、我もここの擁護の神に入ると仰せられました。
住職が後白河院に奉聞したところ許可されたので、十九所となりましたが、最初の院宣により十八所とよばれていました。
十八所(十九所)とは次の通りです。
古くは三間の鎮守、五間の拝殿と記録されています。
1.天照大神 2.八幡 3.春日 4.賀茂 5.祇園 6.愛宕権現 7.松尾 8.熊野 9.北野 10.山王 11.住吉 12.摩利支天 13.妙音 14.辨天 15.白鬚 16.多賀 17.平野 18.御霊 19.蛭子(一童御前)
※一九は ”いく” に通ず(心願成就)

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  1. 2015/03/07(土) 21:10:05|
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花咲稲荷社


花咲稲荷社(はなさきいなりしゃ) 京都市下京区間之町通松原上る稲荷町
当神社は、豊臣秀吉の右筆を務め、その後、俳諧の祖と言われる松永貞徳の邸内に祀られていた鎮守社であります。
ご祭神は、宇賀御魂神、素戔嗚尊、太市比売命、大己貴神、猿田比古神の五柱であり、ご神像五体が祀られていました(現在、京都国立博物館にて保管保存)。
正徳5年(1715)霊元上皇皇女八十宮吉子内親王が七代将軍徳川家継に降嫁される時、また、文久元年(1861)孝明天皇皇妹和宮親子内親王が十四代将軍徳川家茂に降嫁される時のいずれも、玉體安寧の御祈祷が当神社に於いて斎行されました。
明治40年(1907)長谷川武右衛門が、大阪毎日新聞京都支局長・日出新聞(現京都新聞)の主筆であった大道雷淵(和一)より譲り受けて、武右衛門の妻於莬が社主として神明奉仕を勤めて以来長谷川家がお護りし神事を続けて現在に至ります。
                                    花咲稲荷神社 代表役員代務者 長谷川博一

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  1. 2015/03/07(土) 20:35:09|
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俊成社


俊成社(しゅんぜいしゃ) 京都市下京区烏丸松原下ル俊成町438
ここは、藤原俊成の邸跡といわれ後世の人が俊成の霊を祭ったものという。
俊成は平安末鎌倉初期を代表する歌人定家の父で、後白河法皇の命により『千載和歌集』を撰した。
謡曲俊成忠度は平忠度が歌道に執心のこと及びその最後の様を描いた修業物、即ち岡部六弥太忠澄は西海の合戦で忠度を討った時、その尻籠に収めてあった短冊を持って都に帰り、忠度の和歌の師であった俊成の邸を訪れ、その短冊を見せる。
その短冊に、旅宿の花という題「行き暮れて木の下落を宿とせば 花や今宵の主ならまし」と書いてあった。
俊成はその文武両道に優れたのを惜しみ厚く成仏を祈る。 京都市

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  1. 2015/03/07(土) 20:33:24|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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