続・竹林の愚人 2008年07月
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久保神社


久保神社(くぼじんじゃ) 大阪市天王寺区勝山2-5-14
聖徳太子が四天王寺を造った際に、その守護として造営した四天王寺七宮の1つ。
四天王寺建立の願いが成就したことから、願成就宮ともいう。
明治40年に生野村大字国分字東の稲生神社、同字西の熊野大神宮を合祀した。


拝殿  昭和27年再建。


本殿  祭神:天照大御神・熊野大神・稲荷大神


願成就宮  聖徳太子の崇敬を篤く受けたと伝えられる。


正一位白玉稲荷大明神


大岩小岩大明神


白竜神社 方除神社


大阪力持


南鳥居


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  1. 2008/07/25(金) 06:38:01|
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住之江区の社寺

大阪護國神社(おおさかごこく) 大阪市住之江区南加賀屋1-1-77


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  1. 2008/07/25(金) 00:02:42|
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古寺巡礼 四天王寺

古寺巡礼 西国3
古寺巡礼 西国 3 (3)
(1981/01)
宮本 輝

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川口常順 四天王寺の歴史と信仰
『御手印縁起』によれば、「百済・高麗・任那・新羅、貪狼の情恒に以て強盛なり。彼等の州を摂伏して帰伏せしめんがために、護世四天王の像を造りて、西方に向え置く」とあり、近江朝廷の御代に一斉に西向きに安置された金堂の四天王像は、今は中央の弥勒菩薩像を囲んで、その四隅を守る形に安置されている。
創建以来、四天王寺を鎮護国家の寺とする四天王信仰は長く続いていた。
現在四天王寺に伝えられている『御手印縁起』に、この地を「釈迦如来転法輪所」と名づけ、「宝塔・金堂は極楽土の東門の中心に相い当る」としている。
ここから、西門信仰が起こり、西門付近が日想観の場所となり、念仏の道場となった。
藤原頼長の『台記』によれば、当時西門付近に念仏所が設けられ、出雲上人なるものが、念仏集団を組織して、百万遍念仏を高声に唱えて、共に往生を期していたらしい。
殊に春秋の彼岸は太陽が真東から出て真西に沈むから、夕陽が極楽の方処を指し示すと考えられていたから、四天王寺の彼岸会に参詣した人びとは、夕陽の沈むころ、西門を出て岸辺に立ち、口々に高声念仏しながら西方を拝んだ。いまに伝わる夕陽丘の地名はその名残りである。
中には西方浄土にあこがれるあまり、西の岸を下りて海に入り、静かに入水往生を遂げるものもあったという。
四箇院の施薬院は薬局。療病院は病院。悲田院はいまの老人ホームと養護施設と厚生施設を合わせたようなものであろう。散田院は仏道修行の道場、すなわち寺院だ。施薬院と療病院と悲田院とは、敬田院の基礎の上に展開した菩薩行の実践の場とみてよい。
三箇院の配置は寺域の北側に、東から悲田院・療病院・施薬院の順に並んでいた。
現在四天王寺が、社会福祉事業として悲田院・天王寺病院・たかわし寮・夕陽丘母子寮・松風荘等を経営しているのも、要はこれら三箇院の継承発展である。
関白九条兼実の『玉葉』に、文治3年(1187)8月、後白河法皇が四天王寺に参寵して灌頂を受けられた記事を載せている。上皇は四天王寺の鳥居の外で車を下り、西門北脇の念仏所に入っておられる。翌日は、西門から中門・金堂を経て灌頂堂に入り、そこで阿閣梨公顕について伝法灌頂を受け、それが終ると聖霊院にもうでて太子の御影に祈請し、つづいて絵堂で太子の絵伝を見、絵解を聞かれたという。灌頂堂は五智光院のことであり、治承元年(1177)上皇が建立されたものであった。
四天王寺の歴史は宿災と復興の歴史であった。昭和20年の戦災後18年間、一山を挙げて再建復興に全力を傾注した甲斐あって、昭和38八年10月、めでたく本伽藍の再建を成就し、再建された諸堂は、五重塔・金堂・講堂・廻廊・極楽門(西大門)・仁王門(中門)で、修復されたのは六時堂、元三大師堂と英霊堂であった。
一山の僧侶も市内を托鉢行脚すること36回におよび、市民各位の浄財の喜捨を得ることができた。
いまに伝わる太子信仰の結晶である。

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  1. 2008/07/24(木) 16:44:17|
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金剛組 

FI2621118_2E.jpg
金剛組 大阪市天王寺区四天王寺1-14-29
世界で現存する最古の企業であったが、2005年に破綻。40代金剛正和氏で金剛家の経営する金剛組は1429年の歴史を閉じた。現在は高松建設の子会社となっている。

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金剛組39代、金剛利隆氏は対談「四天王寺の建築と金剛組」(大阪春秋第43号、昭和60年5月)で大略以下のように述べている。
系図に「継神皇第32台欽明天皇之御宇皇太子伽藍御建立之節異国より堂塔作金剛・早水・永路3人大工を召寄せられ四天王寺御建立の時、金剛重光当山に残置せらるこれ当家の始祖なり」とあり、それは1320年くらい前に聖徳太子がこの3人は百済から呼ばれた。金剛はここにに残り、修繕や保全に当って四天王寺をお守りせよというご命令です。あとの2人は法隆寺などに行ったと思われる。
金剛組は代々長男が正大工で、分家が権大工になる習わしだ。そして「太子殿と納経堂はあったが、四天王寺総構えの中に絵堂はありません」と注目すべき発言をしている。

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  1. 2008/07/24(木) 09:36:54|
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四天王寺 四石

引導石01
引導石 西大門
古い記録によれば、葬送の時、暫く柩を鳥居の前に置き、太子の引導鐘を3打撞けば、太子自らこの引導石の上に影向され、安養の浄土にお導き下さる。とある。

熊野礼拝石
熊野権現礼拝石 南大門
熊野詣にはまずこの場所で熊野権現を礼拝して道中の安全を祈り、熊野古道を南へむかった。
阿蘇ピンク石で、石棺の蓋であろう。

伊勢拝石
伊勢神宮遙拝石 東大門
伊勢神宮の方向を指しており、ここから礼拝する。

転法輪石(金堂前)転法輪石 金堂前

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  1. 2008/07/24(木) 09:14:45|
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四天王寺 その3

東大門
東大門29

本坊 唐門
本坊 唐門30

本坊 西通用門
本坊西通用門31  本坊の西に北面する四脚門。
椎寺薬師の門を明治45年(1912)に移したもの。江戸初期、元和年間の造営。

弁天01
亀遊嶋辯才天堂32  本尊:弁才天

宝物殿02
宝物館33  昭和45年10月開館。500余点の国宝・重要文化財などの貴重な文化財を保存。

亀井堂05
亀井堂34  本尊:地蔵尊
昭和30年に再建。東西4間、西側を亀井の間、東側を影向の間と呼ばれ、左右に馬頭観音と地蔵菩薩があります。

亀井堂02
亀井堂の霊水は金堂の地下より湧く白石玉出の水といわれる。

回向
回向を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うとされる。

亀井不動03
亀井不動堂35  近畿36不動尊第1番の霊場。

亀井不動02
本尊:亀井不動尊

太鼓楼
太鼓楼36  本尊:救世菩薩
もと刻を知らせる太鼓を鳴らすお堂であったが、再建の際、新たに北鐘堂と同じ黄鐘調の鐘を設け、除夜の招福の鐘として知られる。

北鐘堂
北鐘堂37 (黄鐘楼) 本尊:阿弥陀如来
北の引導鐘(ひとつ鐘)・鐘つき堂とも呼ばれ、この鐘の音は遠く極楽までも響くといわれる。

楽舎と石舞台
楽舎38  石舞台の前、東の北鐘堂と西の太鼓楼を結ぶように2棟ある。

石舞台
石舞台39  亀の池の上に架かっている石橋に組まれた「日本三舞台」の1つ。元和9年(1623)造営。側面に彫られた「舞台講」は寄進した大阪の材木問屋の集まり。毎年4月22日の聖霊会の日に雅楽が終日披露される。

六時堂
六時堂40  本尊:薬師如来
境内中央に位置する雄大なお堂。享和元年(1801)に落雷で焼失したため、文化8年(1811)に椎寺の薬師堂を移建したもの。1623年建立。昼夜6回 にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名がある。

納経所
納経所41

英霊殿
英霊堂42  本尊:阿弥陀如来
明治39年建立の大釣鐘堂。大梵鐘が第二次大戦で供出され、戦後は戦歿英霊を奉祀。

大黒天
大黒堂43  本尊:三面大黒天   一体の像に大黒天、毘沙門天、弁才天の顔を持つ

元三大師堂01
元三大師堂44  本尊:元三大師
元和年間(1615~1624)徳川秀忠の再建。叡山中興の祖元三慈恵大師良源(第18代天台座主)を祀る。平成14年より弘法大師、文殊菩薩、普賢菩薩、如意輪観世音菩薩、不動明王も安置。

乾門
乾門45

中之門
中之門46

地蔵堂
地蔵堂47  本尊:立江地蔵尊
明治時代に近郷及び境内諸方より集めた有縁無縁の地蔵尊を、中之門を入った南側の小丘に合祀したのが始まり。

丸池
丸池48

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四天王寺MAP

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  1. 2008/07/24(木) 09:04:45|
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四天王寺 その2

中門
中門⑫  脇の間に伽藍の守護神である金剛力士 (仁王像)をまつっていることから俗に仁王門 と呼ばれている。
密迹金剛力士那羅延金剛力士
大仏師松久朋琳・宗琳両師の作。

五重塔 中門より
五重塔⑬  聖徳太子創建の時、六道利救の悲願を込めて、塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納めたので、この塔を「六道利救の塔」という。.3間3間、初重方7.5m、総高38.4m。藤島亥次郎設計。山下摩起画伯の四仏浄土の壁画がある。

金堂
金堂⑭  本尊:救世観音
平櫛田中の指導による救世観音と四天王が安置。内壁には中村岳陵画伯筆の仏伝図が描かれている。

講堂
講堂⑮  本尊:阿弥陀如来、十一面観音
東を冬堂、西を夏堂と呼ぶ。冬堂には現世の悩みや、苦しみを救う十一面観世音菩薩、夏堂には来世極楽に人々を導く丈六阿彌陀如来をお祀りする。松久朋琳・宗琳作。内壁には、郷倉千靭画伯による仏教東漸が描かれている。

龍の井戸01
龍の井戸⑯  
金堂本尊基壇下にある青龍池を水源とし、東に流れて亀井水に導かれる霊水。天井に描かれた龍が水面に映り、これに祈れば厄災を除くと信ぜられている。

西重門
西重門⑰  設計した藤島亥治郎氏は「昭和再建伽藍の構想」(大阪春秋第43号)で、前後7回の災忌を受けたために遺跡は複合しているが、創建の時の遺跡はほぼ突き止められた。この遺跡の上に、出来るだけ聖徳太子創建の姿に戻そうと決心したが、建築基準法は木造を許さない。それで鉄骨鉄筋コンクリート造で木造を模したが、これらも木造で造られたら、どれほどよかったか」

回廊
回廊⑱  「堂塔の均衡や様式などは、飛鳥様式の建築として唯一の法隆寺の塔、金堂を参考にして効果を得た。ただし四天王寺は6世紀末の創建だが、法隆寺は再建されていて、最古の金堂でも8世紀はじめごろ。そうなると、四天王寺は法隆寺より古拙なものだったろう。法隆寺の柱の膨らみ(エンタシス)を、より太く、荒々しい膨らみにしてた。」

東重門
東重門⑲

番匠堂
番匠堂(ばんしょうどう)⑳  日本における大工技術の始祖として聖徳太子を祀る。曲尺を携えていることから曲尺太子(かねじゃく)といわれる。伽藍建立の偉業を顕彰し、併せて建築にたずさわる人々の守護とす。

石神堂01
石神堂(いしがみどう)21  推古元年(593)創建。建築資材を運搬した牛が、伽藍が完成するや否や石となったと伝えられ、堂内床下には牛王尊の巨石が安置されている。

虎之門
虎之門22  聖徳太子をお祀りしているお堂「聖霊院]の門。名の通り、虎の彫り物がある。

太子殿02
太子殿23   戦災後いち早く復興された。藤原義一設計。本尊:十六歳像・太子二歳像 聖霊院の前殿。

太子奥殿
太子奥殿24  昭和54年に新築落慶したもので、法隆寺夢殿を模し、八角円堂としている。
本尊:太子四十九歳像(聖徳太子摂政像)松久朋琳・宗琳作。1月22日のみ公開の秘仏を祀る。
基壇内には太子観音像が安置されている。

聖霊院 絵堂
絵堂25  昭和58年、杉本健吉画伯による「聖徳太子御絵伝障壁画」が奉納。宝亀2年(771)に僧敬明が絵堂の壁画を集めた『四天王寺障子伝』を著し、また、『古今目録鈔』には「絵殿事」として法隆寺絵、太子滅後460許年図之。天王寺絵、聖武天皇後也。130年許歟。とあり、絵堂の壁に太子絵殿が描かれていたことが分かる。法隆寺の絵殿と壁画は四天王寺よりも300年おくれてできたことになる。

聖霊院 経堂
経堂26  本尊:如意輪観音
『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の三経、「三経義疏」をはじめ高麗大蔵経・昭和荘厳経等が納められている。

猫之門01
猫之門27

猫之門02

左甚五郎の眠り猫といえば、日光東照宮が有名ですが、京山幸枝若の浪曲に左甚五郎「四天王寺の眠り猫」があり、大阪日本橋3丁目の大工棟梁吉兵衛宅に寄宿した甚五郎が岡山の名人松吉と北門に飾り付ける眠り猫の出来を競うお話。「戦災前は天王寺なる北門に残りあったる眠り猫正月元旦来たりなば、ニャンと一声鳴いたという誰が付けたかニャン門という」

聖霊院
聖霊院(しょうりょういん)

守屋01
守屋祠28  祭神:守屋大連、弓削小連、中臣勝海連
そもそも四天王寺は聖徳太子が白膠木(ぬるでのき)をもって四天王の像を作り、「我、仏敵を滅ぼすことができれば、四天王のため寺を建てて祀らん」と誓願し、物部守屋が滅んで間もなく建てられた。
『日本書紀』には、物部氏の奴の半と宅とを分けてこの寺の奴と田荘としたとある。
その滅ぼした守屋の祠が太子堂の脇に祀られている。

守屋02
守屋祠の標札には平成14年7月3日 105世 尊教書とある。

『摂津名所絵図』(太子堂の後にあり。今参詣の者守屋の名を悪むにや、礫を投げて祠を破壊す。寺僧これを傷んで熊野権現と表をうつ。祭る所、守屋大連・弓削小連・中臣勝海連の三座なり)

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  1. 2008/07/23(水) 17:23:47|
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四天王寺  その1

石鳥居01
四天王寺 大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
石鳥居①  明神鳥居という一般的なもの。平安時代には既にあったことが知られ、永仁2年(1294)に石造となる。永正7年(1510)地震で倒れ、永正13年には復興。柱心々7.42m、中央の高さ15m、柱経1.12m。

石鳥居02
鳥居扁額   釈迦如来 転法輪所 当極楽土 東門中心  嘉歴元年(1326)の銘があり、小野道風の書と伝えられる。鋳銅製110cmW×165cmH、225kg。実物は宝物館に保管されている。

布袋堂
布袋堂②  俗に、乳のおんばさんのお堂と呼ばれる。一説には元来聖徳太子の乳母を祀ったのが始まりで、布袋の乳の豊かさが結びついたものといわれる。大阪七福神の札所。

見真堂
見真堂③  親鸞聖人を顕彰し、建立されたお堂。本尊を阿彌陀如来とし、 右に聖徳太子像、左に六字名号の掛け軸が祀ってある。

親鸞
親鸞聖人像
法然も親鸞も日蓮も聖徳太子を日本仏教の始祖として崇め、八宗兼学の道場たる四天王寺に参籠している。

西大門
西大門④  戦後再建されてからは極楽門と呼ばれるようになる。

ワニ車
転法輪(てんぽうりん)  門には「転法輪」という手で回すコマ様のものが4基ついている。お釈迦様の教えが他に転じて伝わることを輪にたとえた仏教の象徴で、合掌して、「自浄其意」(じじょうごい)と唱えて右に回す。

弘法
弘法大師像  伝教大師最澄は弘仁7年(816)、四天王寺に居住し、聖徳太子が日本最初に法華経を講じた聖人であり、太子の志を継ぎ法華経を広めたいとしている。また、空海も延暦6年(787)か16年(797)に仮住したと伝えられ、四天王寺西門で日想観を修行したという。

大師堂
大師堂⑤  真言宗の開祖 弘法大師をお祀りしているお堂。承和年間(834~848)の中頃には東寺の阿砂利円行が四天王寺の初代別当になっている。また、平安初期からは光定・円仁と、天台宗が中心となる。

阿弥陀堂
阿弥陀堂⑥  本尊:阿弥陀如来
現在の本堂は、昭和28年に三重県国束寺(四天王寺末寺)本堂を移築したもの。

納骨堂
納骨堂⑦  阿弥陀堂西側のお堂。納骨総祭塔に納骨されるお骨を仮安置する。

万灯院03
万灯院⑧  本尊:十一面観音坐像 脇壇:不動明王・普賢菩薩
紙衣の羅漢をお祀りしているため紙衣堂(かみこどう)ともいう。衣替え法要が10月10日に行われる。

南大門
南大門⑨

唐門
唐門⑩

南鐘堂
南鐘堂⑪  本尊:阿弥陀如来
正式名称は、鯨鐘楼。鐘は盤渉調の名鐘で、秋の幽寂の響きを伝える。

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  1. 2008/07/23(水) 15:34:13|
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四天王寺の遺跡

礎石
礎石  現在の五重塔は昭和34年に鉄筋コンクリートにて再建されたが、以前の塔心礎と思われる礎石が聖霊院の脇に保存されている。

宝林
相輪  同様に昭和20年の空襲で焼け落ちた五重塔のモノと思われる。本坊の南、東大門側に残されている。

石鳥居 笠石01
石鳥居 笠石  初め木造であった西鳥居が永仁2年(1294)、当時の別当忍性上人(にんしょう・1217~1303)の発願により石造に改められた。その時の笠石と思われる。

石棺蓋01
長持形石棺蓋  荒陵(あらはか・茶臼山)から出土したものとされる。亀井堂東の小溝に架けられ、巻物石、蛙石とも呼ばれていた。この橋を渡ると安産になるという四天王寺の七不思議の1つ。明治時代になって石棺の蓋と判明し、移転される。

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排水溝跡  昭和31年の伽藍遺跡の発掘調査で堂塔の位置に変化がないことが実証された。廃瓦を両側に積み上げ、その上部に奈良時代の平瓦を覆った極めて簡単な構造の排水溝で、金堂の雨落溝の排水目的と思われる。

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  1. 2008/07/23(水) 15:23:09|
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不滅の零戦 

不滅の零戦―生きつづける名戦闘機不滅の零戦―生きつづける名戦闘機
(2007/12)
「丸」編集部

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古峰文三 真説「零式艦上戦闘機」各型変遷史
昭和12年9月に12試艦上戦闘機計画要求審議会が開かれ、その場で20mm機銃を装備した次期艦上戦闘機の仕様が決定した。
零戦の特徴である20m機銃は敵攻撃機を一撃で撃破するための重兵装であり、機首に装備した7.7mm機銃は敵観測機を撃墜するためのものだった。
主力艦同士の水上砲戦の終了まで上空に留まるために滞空時間5時間を要求され、その結果、零戦は当時の戦闘機としては抜群の航続力を備えることとなった。
12試艦上戦闘機は三菱単独での試作となった。
昭和15年7月に「零式艦上戦闘機」として制式採用され、昭和15年9月13日の中国空軍戦闘機隊との空中戦を撃破して初陣を飾った。
艦載として航空母艦のエレベーターに対応した翼端折畳み機構の21型は中島飛行機でも昭続けられた。
三菱では新たな艦戦に対して機体の軽量化を究極まで推し進め、操縦系の剛性をあえて低く抑えて高速での舵の軽さと低速での舵の利きを両立させる「剛性低下方式」を採用。補助翼は高速で重く、低速で利きが悪いという重大な改善点を残したまま完成する。
2 号零戦(32型)は「栄」21型発動機に換装したことで性能の向上も見られたが、一方でその航続力が劣っていた。このために昭和17年8月、米軍のガダルカナル島上陸により開始された航空戦に、32型は航続力不足で参加できかった。これが「2号零戦問題」として知られる事件だった。
32型は全長が大きい「栄」21型を装備するために0番隔壁を除去し、その後方にある1番隔壁を防火壁としたために胴体燃料タンクの容量が減少した。
零戦32型の航続力減少は機内燃料搭載量の減少と「栄」21型の全力運転時での燃費増大によるものだ。
零戦は後期になるほど航続力が低下したように思われやすいが、22型で行なわれた改造によって21型と同等以上に回復し、終戦まで零戦の大航続力は健在だったのである。
零戦の兵装、航続力に対する改善は継続して実施されたものの、空中戦で敵の機銃弾に対して機体を火災から守り、操縦者を保護する燃料タンクの防弾、操縦者の防弾は最後まで充実しなかった。
このために零戦は、日本海軍の攻撃偏重主義と極端な人命軽視の産物とされる。
しかし、零戦以降、「月光」「雷電」「紫電」などの海軍戦闘機は防弾装備があり、日本陸軍戦闘機は一式戦闘機「隼」以降、全ての機種が防弾タンクと装甲を装備している。日本戦闘機の中で零戦のみが突出して無防備なのだ。
零戦の計画は「20mmカノン戦闘機」として開始され、海軍は大口径機銃を装備するために、防弾タンクは重量増加が著しく実用できないと判断したのだ。

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  1. 2008/07/23(水) 15:00:20|
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