続・竹林の愚人 2008年08月

釜谷の甘泉

釜谷の甘泉1
釜谷湧所池(かまやゆうしょいけ) 茨木市上野町7-15
『五日市村誌』(明治12年11月)に「東西4間5分、南北6間6分。周囲22間にして耕地用水に供す」とある。『大阪府史跡名勝天然記念物』には「耕地にある清泉なり。長さ3間巾2間深さ5尺にして、その清冽なること氷の如し。明治20年(1887)2月16日当地行幸にさいし特に選んで御料に供したるものなり」とある。

釜谷03
釜谷甘泉碑  明治20年春2月駕次攝北時需供御之水多試而不得良者邨人奉以釜谷之泉味甘冽清冷乃以為内膳之用大〔快〕聖意泉噴出於田圃之間涓々一派終流榮干葛世養老之泉不啻也邨老相謀紀以勒碑  山田 建 篆拝書
太田御野立所や幣久良山御野立所と同じ時期のもの。

釜谷01
高架タンク  今もポンプで高所に揚げて、落下圧で貯水池に送っていると思われる。

釜谷04
釜谷溝 茨木市五日市町2-13
名神高速度道路を越えて、直線距離にして150mの所に同じ五日市実行組合の管理する貯水池があります。

釜谷05
水天宮

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  1. 2008/08/31(日) 07:08:49|
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岩作大明神

岩作01
岩作大明神(いわさく) 茨木市安威1-28
一名だるまさん。古くから、吹出物、ひふ病の神様として地元はもとより遠く各地の信者にしたしまれている。

DSCN6239.jpg
ムクノキ  樹齢400年を越える巨木です。茨木市の指定保存樹木になています。

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  1. 2008/08/31(日) 06:39:28|
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大織冠神社

大織冠01
大織冠神社(だいしょくかん) 茨木市西安威2-1
平安中期の頃から、藤原鎌足(土原鎌足)公の墓所は、初め「攝津の安威にあったが、後に大和多武峰(とうのみね)に改葬された」との説がある。江戸時代になって、この塚に鳥居を建て、石碑を造り、お祀りをされた。

大織冠02
鳥居

大織冠04
正殿  祭神:藤原鎌足   将軍塚古墳石室内に祠を祀っています。

大織冠03

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『摂津名所図会』大織冠鎌足公荒墳(安威村の西にあり。方三町ばかり一堆の丘山なり。これを安威山といふ。嶺に石窟あり。墳前に華表あり。土人将軍塚といふ。これより和州多武峰に改葬す。諺に曰く、時の人悲しみ惜しみて棺を奪はんと挑み争ふ。つひに遺骨を捌けて闘争を慎む。ゆゑに一名胴墓といふ。また改葬の時この塚鳴動す。これによつて動の塚ともいふぞ。塚上に名松あり、笠松といふ。墳の上を覆い雨露をふせぐゆゑ名に呼ぶ)

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  1. 2008/08/31(日) 06:38:18|
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和田惟政供養塔

和田001
和田惟政供養塔(わだこれまさ) 茨木市五日市町2-5
和田惟政は清和源氏の流れをくみ、天文元年(1532)近江国甲賀郡和田村に生まれた。永禄11年(1568)10月、信長が摂津を平定すると、惟政は芥川白を守っていたが、天正元年8月28日の白井河原合戦で、茨木・伊丹氏を助ける惟政は池田方の中川清秀によって討たれた。

和田002
御輪さん(五輪塔石)  毎年4月15日に法要があるようです。

和田004
地蔵

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  1. 2008/08/31(日) 06:30:29|
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恵比寿神社


恵比寿神社(えびすじんじゃ) 東京都渋谷区恵比寿西1-11
もと天津神社と称し、戦後の区画整理で駅前から遷座して現在の社名に改名された。
祭神:国常立神・豊雲野神・角杙神・意富斗能地神・伊邪那岐命・伊邪那美命・事代主命

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  1. 2008/08/30(土) 07:10:35|
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上目黒天祖神社


上目黒天祖神社(かみめぐろてんそじんじゃ) 東京都目黒区上目黒2-32-15
古くから伊勢森と言うこの地に鎮座している神社で、天照大神を祭神として祀り、地元人の深い崇敬を受けています。創建の年代は不明ですが、境内には樹齢数百年と推定される老樹が多く、その年代から考えてもかなり古い時代の創建と思われます。
現在の社殿は昭和8年5月に新築されたものです。毎年9月の第1土日に例大祭が行われ、現伊勢脇町会、現祐天寺町会員が氏子として祭事を行っています。なお、本殿右奥には神輿蔵があり、一年中宮神輿が見学できます。
境内には、宝永5(1708)年と、道標をかねている享保元(1716)年の2基の庚申塔が建立されています。
平成17年9月    目黒区教育委員会


拝殿 祭神:天照大神


庚申塔
この2基の庚申塔は駒形で、合掌六臂の青面金剛、日月、二鶏、三猿が浮き彫りにされています。江戸時代、農村では60日に1度巡ってくる庚申の日に人々が集まって青面金剛などをまつり、飲食をしながら夜を明かす庚申待という民間信仰が盛んに行われてきました。庚申待を18回終えた後に建てたのが庚申塔です。
右側の庚申塔は享保元年(1716)の建立で、彫像碑には珍しく道標を兼ねていて、区内の道標碑としては最古のものです。右側面の道標銘には、「是より末町さき四辻、大道九品仏道、右せたかい道、左へふとう道」と刻まれており、それぞれが、九品仏浄真寺、世田谷、目黒不動龍泉寺へ続く道だったことがわかります。
左側の庚申塔は宝永5年(1708)の建立で、「奉待庚申青面金剛」の銘と、講中9人の名が彫られています。

平成元年3月     東京都目黒区教育委員会

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  1. 2008/08/30(土) 07:05:28|
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祐天寺


祐天寺(ゆうてんじ) 東京都目黒区中目黒5-24-53
浄土宗 明顕山
祐天寺は、享保3年(1718)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院です。当時新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難でしたが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が許されました。以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきました。
本堂には、「木造祐天上人坐像」が安置されています。この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年大仏師法橋石見の名作です(都指定文化財)。また、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」(区指定文化財)等が安置されています。
本寺所蔵の「般若心経」1巻、「紺紙金字法華経巻第三」1巻(ともに都指定文化財)の2点は類例の少ない逸品です。
なお、境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」(区指定文化財)および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家家宣夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがあります。
墓地には、「祐天上人の墓」や柳原愛子(大正天皇生母)の墓等の名墓及び「白子組並びに灘目の海難供養碑」などがあります。
平成3年3月  目黒区教育委員会


仁王門 目黒区指定有形文化財 建造物(昭和55年2月12日指定)
この仁王門は仁王像とともに、享保20年(1735)の建立で、五代将軍綱吉の息女竹姫が寄進されたものです。
桁行8.5m(28尺)梁間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造木瓦葺銅板葺(昭和6年茅葺よりふきかえ)円柱は欅材です。
正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられています。また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配しています。なお、頭貫上の蟇股には十二支が彫られ、方位を示しています。
各虹梁、木鼻、肘木、蟇股に施された渦紋、若葉紋の彫りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。
長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。 平成5年3月  目黒区教育委員会


本堂


地蔵堂


阿弥陀堂 目黒区指定有形文化財 建造物(平成5年6月29日指定) 本尊:阿弥陀如来             五社稲荷
阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。
各棟札の記載事項は、建築様式および沿革から判断して各々建立時や修復時のものであり信頼度の高いものです。また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行われたにもかかわらず、回禄祿や倒壊などによる根本的な再造営は、行われなかったものと考えられます。
祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして仁王門とともに重要なものです。特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。
平成7年3月    目黒区教育委員会


鐘楼
この梵鐘は、享保13年(1728)に6代将軍徳川家宣(文昭院)の17回忌追善のため、正室天英院一位大夫人(熙子)が鐘楼とともに寄進されたものです。
本体の高さ192cm、口径102cm,目方1,200kgある目黒随一の巨鐘で、裕天寺内で鋳造されました。
翌年の4月14日から16日までの3日間にわたり、祐海上人を導師として鐘楼には葵の御紋付き紫縮緬の幕が張られ多数の貴賓が参列し、盛大な鐘供養がおこなわれました。
鐘には、祐海上人が撰文した「明顕山祐天鐘銘并記」をはじめ、五字名号や偈および願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用懸。工匠の名などが刻まれています。
江戸の昔から昼12時に覚醒の法音として撞かれてきました。今でも正午に時の鐘として撞かれています。
平成5年3月 目黒区教育委員会


累塚
祐天上人は増上寺第36代の大僧正で徳川家5代~8代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。
寛文8年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累(かさね)一族の怨霊を化益された事蹟あり。
文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。
大正15年、6世尾上梅幸、15世市村羽左衛門、5世清元延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、上人の威徳に浴することになった。
爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累一族を供養して興業の無事と、上演の盛会を祈願することが慣習ならわしとなっている。



『江戸名所図会』 明顕山祐天寺(みようけんざんゆうてんじ ) 
同所西の方、五丁ばかりを隔つ。善久院と号す。享保年間2世祐海和尚、祐天大僧正の遺跡の地を奉じて当寺を草創し、すなはち祐天大僧正を開祖とす。常行念仏の道場にして、鉦鼓の声は山林に谽谺せり(この称名は、開山祐天大僧正臨終の期開闢ありしより、連綿として絶えずとなり)。
毎年7月16日より同25日に至るまでの間、阿弥陀経千部読誦修行、道俗群参す。
本堂 本尊阿弥陀如来(御長1尺5寸ばかり。恵心僧都の作にして、開山生涯持念の尊像なり)。
開山祐天大僧正の真像(本尊の龕前に安置す。等身仏にして82歳の影像、三輪利鑑の作なり)。
鯨鐘(堂前右の方、庫裡の前にあり。一位大夫人桂昌院殿御寄附)。
円光大師堂(同じ並びにあり。法然上人御在世のとき、河内国に天野四郎といふ強盗ありしが、つひに上人の化導に帰入し、出家して教阿弥陀仏と号く(御伝20巻にくはし)。つねに上人の御もとに随従して教化に預かりしが、後上人、相模国川村といふところへ下向の頃、生涯の御記念にとて、みづから彫造して送りたまはりし霊像なりとぞ。ゆゑありて、当寺にうつしまゐらするといふ)。
経蔵(堂前左の方にあり。額「経蔵」の二字は、祐海和尚の筆なり)。
阿弥陀堂(同じ左に並ぶ。開山伝授仏如来と称して、恵心僧都の手本仏と号くるものこれなり。すなはち僧都一代彫刻の如来は、この尊像を拝して彫りたまふがゆゑにこの号ありといふ。開山大僧正、つねに有信の輩に浄業伝法のときの伝授仏なりと縁起にあり。寺僧に問ふべし。額「阿弥陀堂」の四字は祐海和尚の筆なり)。
稲荷祠(同じ並びにあり。当寺の護法神とす)。
地蔵堂(同じ並び、二王門の外の左にあり。祐天大僧正の本地仏と称しまゐらす。恵心僧都の作にして、細長2尺5寸ばかりあり。もと信州松本の光明院に安置せしに、寛永14年4月4日、開山大僧正誕生の日より失せたまひ、享保3年戊戌7月15日、開山遷化の日に至り、この霊像再び光明院へ帰り顕れたまふ。松本の城主出羽守水野忠周侯の夢中、開山の本地は地蔵尊なるよし霊示あり、よつてみつからそのことを筆して、当寺第2世祐海上人へ申し送らせられたり。その書簡いま当寺に伝へて秘蔵す。しかるに、寛政9年丁巳の夏、松本の城下倉品七郎右衛門といふ人、従来の因縁あるをもって、後の城主丹波守松平光行侯へ乞ひ、同年12月23日当寺へうつし奉りぬ)。
二王門 表の左右には那羅延・密迹の2像、裏は持国・広目の2天を置く。額「明顕山」、祐海和尚の筆。
開山祐天大僧正の廟(経蔵と阿弥陀堂の間より裏門へ行く左の方、叢林のうちにあり。入口に石地蔵堂あり)。開山80歳影像(麻布一本松の禅室にして、了月和尚みづから写し画くといふ)。
同じく臨終の真影(開山82歳のとき、享保3年戊成6月中旬より不食して身体日々に哀へ、7月15日に至りて称念臨終したまふ。同16日遺骸を倚子に移して、諸人に拝せしむ。。この期に写せし影にして、了月和尚の画なり)。
開山遺骨の舎利(開山命終の後茶毘せしに、全身ことごとく舎利となる。多くは廟穴に埋蔵す。いまわづかに宝塔へ収むるもの、すなはち諸人に拝せしむ)。
同じく舌根(これも茶毘のうちに宛然として残れりといふ。縁起に云く、舌根はもと火にして茶毘のうちに壊せずといふことなし。しかるにかく止まるものは、累年称名の功徳と、その化導に妄語なきいはれなりといへり)。
開山大僧正書写六字名号(奇特もつとも多し。なかんづく、剣難七太刀身代はり名号・狼の牙落ちの名号・火中出現不焼の名号・痘瘡の守り名号等の現益は普く世にしるところなり。ゆゑに、しげきをいとひて、寺記にゆづりてここにのせず。なほ、その余の名号奇特もつとも多し)。
開山大僧正長悦の像(開山、小石川の伝通院在住の頃、元禄年中大将軍家御前において法問説法ありしを、瑞春院殿、御感賞のあまり御みづから刻ませたまひしを、上覧ましまし長悦と呼ぶべしと上意ありて、鶴姫君様へ進ぜられ、御雛祭りの首席につらねさせたまひしを、その後祐海上人へ賜りて、当寺に収む。このゆゑに、毎年3月当寺にて雛祭りの儀式執行のことあり)。
萄江の錦九条の袈裟(増上寺在住の頃、開山上人、女院御所へ御血脈御法号等を奉りしとき、御みづからこれを造りたまふとぞ)。
累済度の如法衣(25条なり。累は下総国岡田郡羽生村、与右衛門といひしものの妻なり。顔形類少なき悪女にて、心さへにかだましかりしかば、与右衛門これを悪み、情けなくも正保4年丁亥8月11日、絹川といへる川へ突き落とし殺して後、死骸をば同じ村なりし浄家法蔵寺といへるに葬りしが、そののち妻5人まで累が怨念によりて狂死し、なほ6人目の妻の娘、菊といへるをなやませしが、開山大僧正の化益により、寛文12年壬子3月10日の夜に至り、累が26年の怨執ことごとく散じて、生死解脱の本懐を達せしこと、普く世に知るところなり。なは、委しくは『解脱物語』(『死霊解脱物語聞書』残寿、1690〕といへる草紙に見えたり)。
開山明蓮社顕誉上人(愚心と号す)祐天大僧正は、奥州岩城郡新妻邑の産なり(西村善内といふ者の子にして、寛永19年壬午〔1642〕正月元日生まる。幼名三之助といふ)。檀通和尚に従ひ、縁山に修学す。世に知るところの、累が怨霊解脱の誉れはもつとも著し(このことは、師の歳36、その頃檀通師に従ひ、北総飯沼に在住したまへるときの現益なり。『怨霊解脱物語』といへる草紙に詳らかなり)。後ゆゑありて、武州牛島に潜居す。道俗化を蒙る者移し。元禄12年己卯、台命によつて下総生実の大巌寺に住持し(牛島の庵室よりすぐに、大巌寺に入院あり。世もつて希有とす)、同13年戊辰、飯沼の弘経寺に転じ紫抱を賜ふ。また辛巳江戸小石川の伝通院に移り、正徳元年増上寺に住せらる(大僧正に任ぜらる。縁山第36世なり)。後目黒の地へ隠棲せられ、つひに享保3年戊戌7月15日、化寂あり(当寺はすなはち祐天大僧終焉の地なり)。1世の行状、ならびに書写したまふところの名号の奇特は、世人普く知るところなり(開山臨終の頃まで、名号書写怠りなし。人ありてこれをとどむ。開山云く、「恵心僧都は一期の間如来を彫造し、そのうちにして往生を遂げられたり。われもまた弥陀の名号を書写して、そのうちに往生すべし」とて、命柊の日に至るまで、1日も怠ることなかりしとなり)。

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  1. 2008/08/30(土) 07:00:41|
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西国街道 郡山

104
西国街道(さいごくかいどう) 
古代から京都と西国を結ぶ重要路で、江戸時代には幕府が直接管理する五街道(東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)に接続する脇街道だが、本街道である大坂廻りより距離が短いので、西国諸国の大名の参勤交代路として多く利用された。 幕府の名称では「山崎道}と呼ばれ、東海道から京都に入ることを避けて、直接に伏見宿に至り、山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽を経て西宮に至る、全行程約50kmの街道。

八阪神社(やさかじんじゃ) 茨木市東太田2-18-4
女九神社(めくじんじゃ) 茨木市東太田3-5-32
太田神社(おおたじんじゃ) 茨木市太田3-15-1
継体天皇陵(けいたいてんのうりょう)
太田御野立所石碑(おおたおのだてしょせきひ) 茨木市太田3
雲見坂(くもみざか)
太田不動尊(おおたふどうそん) 茨木市太田2-3-9
太田廃寺址(おおたはいじあと) 茨木市東太田2丁目、太田東芝町付近
太田城跡(おおたしろあと) 茨木市太田1~2

101

阿為神社御旅所(あいじんじゃおたびしょ) 茨木市耳原3-1
善永寺(ぜんえいじ) 茨木市十日市町4-6
法華寺(ほっけじ) 茨木市耳原3-5
安養寺(あんようじ) 茨木市耳原3-6-9
十日市一里塚(とうかいちいちりづか) 茨木市十日市町1
耳原公園(みのはらこうえん) 茨木市耳原3
幣久良山(てくらやま) 耳原公園内
耳原古墳(みのはらこふん) 茨木市耳原3-4
鼻摺古墳(はなずりこふん) 茨木市耳原3-10
将軍塚(しょうぐんづか) 茨木市西安威2

102

慧光院(えこういん) 茨木市室山1-7-8
玄通寺(げんつうじ) 茨木市宿川原8-6
中河原の道標(なかがわらのどうひょう) 茨木市中河原10-1
「かつをうじ」の道標 茨木市宿川原10
椿の本陣(つばきのほんじん) 茨木市宿川原3-10
郡山城跡(こうりやましろあと) 茨木市郡山1
海北塚古墳(かいほうづかこふん) 茨木市西福井1
紫金山古墳(しんきざんこふん) 茨木市室山1
茶臼塚(ちゃうすづか) 茨木市郡山2
馬塚(うまづか) 茨木市郡5-12

103

春日神社(かすがじんじゃ) 茨木市豊川1-26
道祖神社(さいじんじゃ) 茨木市豊川1-29-5
八阪神社(やさかじんじゃ) 茨木市宿久庄1-9
須久久神社(すくくじんじゃ) 茨木市宿久庄4-22-33
新屋坐天照御魂神社(にいやにいますあまてるみたまじんじゃ) 茨木市宿久庄5-17
正覚寺(しょうがくじ) 茨木市豊川1-33-2
西宗寺(さいしゅうじ) 茨木市豊川4
朝日寺(ちょうにちじ) 茨木市清水1-6-20
ぼろ塚(ぼろつか) 茨木市南清水町1

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  1. 2008/08/29(金) 20:44:00|
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十日市一里塚

FI2621293_2E.jpg
十日市一里塚
一里塚の所在地が特定できず、昨今は太田あたりという説に傾いているが、『山崎通分間延絵図』に十日市のが記入されており、幕府管理の絵図が誤っているとは考えにくい。

十日市道標
道標 茨木市十日市町1-7
明治42年のもの。ちょうど高槻の芥川から1里程。

延命大菩薩
延命大菩薩 茨木市十日市3-14
四国88ヵ所 第19番立江寺は、聖武天皇の勅願寺で、天平年間 (729‐48)行基菩薩が光明皇后の 安産を祈念して、地蔵菩薩の小像 を刻み、堂宇に安置したのが始ま り。
子安の地蔵として霊験あらたかなことで知られている。

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  1. 2008/08/29(金) 17:39:30|
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善永寺

善永寺01
善永寺(ぜんえい)  茨木市十日市町4-6
真光山(しんこうざん) 浄土真宗本願寺派 文明7年(1475)3月教忍(佐藤安良)の創建。山門は天和3年(1683)4月の建立。

善永寺04
本堂  元文4年(1739)4月再建。立派な松です。

善永寺02
鐘楼  安永8年(1779)4月建立。

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  1. 2008/08/29(金) 17:33:00|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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