テーマ:近畿地方(滋賀・京都・大阪・兵庫・奈良・和歌山)の各府県の駅前路線情報 - ジャンル:地域情報
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![]() 恵比寿神社(えびすじんじゃ) 東京都渋谷区恵比寿西1-11 もと天津神社と称し、戦後の区画整理で駅前から遷座して現在の社名に改名された。 祭神:国常立神・豊雲野神・角杙神・意富斗能地神・伊邪那岐命・伊邪那美命・事代主命 |
![]() 上目黒天祖神社(かみめぐろてんそじんじゃ) 東京都目黒区上目黒2-32-15
![]() 拝殿 祭神:天照大神 ![]() 庚申塔
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![]() 祐天寺(ゆうてんじ) 東京都目黒区中目黒5-24-53 浄土宗 明顕山
![]() 仁王門 目黒区指定有形文化財 建造物(昭和55年2月12日指定)
![]() 本堂 ![]() 地蔵堂 ![]() 阿弥陀堂 目黒区指定有形文化財 建造物(平成5年6月29日指定) 本尊:阿弥陀如来 五社稲荷
![]() 鐘楼
![]() 累塚
![]() 『江戸名所図会』 明顕山祐天寺(みようけんざんゆうてんじ ) 同所西の方、五丁ばかりを隔つ。善久院と号す。享保年間2世祐海和尚、祐天大僧正の遺跡の地を奉じて当寺を草創し、すなはち祐天大僧正を開祖とす。常行念仏の道場にして、鉦鼓の声は山林に谽谺せり(この称名は、開山祐天大僧正臨終の期開闢ありしより、連綿として絶えずとなり)。 毎年7月16日より同25日に至るまでの間、阿弥陀経千部読誦修行、道俗群参す。 本堂 本尊阿弥陀如来(御長1尺5寸ばかり。恵心僧都の作にして、開山生涯持念の尊像なり)。 開山祐天大僧正の真像(本尊の龕前に安置す。等身仏にして82歳の影像、三輪利鑑の作なり)。 鯨鐘(堂前右の方、庫裡の前にあり。一位大夫人桂昌院殿御寄附)。 円光大師堂(同じ並びにあり。法然上人御在世のとき、河内国に天野四郎といふ強盗ありしが、つひに上人の化導に帰入し、出家して教阿弥陀仏と号く(御伝20巻にくはし)。つねに上人の御もとに随従して教化に預かりしが、後上人、相模国川村といふところへ下向の頃、生涯の御記念にとて、みづから彫造して送りたまはりし霊像なりとぞ。ゆゑありて、当寺にうつしまゐらするといふ)。 経蔵(堂前左の方にあり。額「経蔵」の二字は、祐海和尚の筆なり)。 阿弥陀堂(同じ左に並ぶ。開山伝授仏如来と称して、恵心僧都の手本仏と号くるものこれなり。すなはち僧都一代彫刻の如来は、この尊像を拝して彫りたまふがゆゑにこの号ありといふ。開山大僧正、つねに有信の輩に浄業伝法のときの伝授仏なりと縁起にあり。寺僧に問ふべし。額「阿弥陀堂」の四字は祐海和尚の筆なり)。 稲荷祠(同じ並びにあり。当寺の護法神とす)。 地蔵堂(同じ並び、二王門の外の左にあり。祐天大僧正の本地仏と称しまゐらす。恵心僧都の作にして、細長2尺5寸ばかりあり。もと信州松本の光明院に安置せしに、寛永14年4月4日、開山大僧正誕生の日より失せたまひ、享保3年戊戌7月15日、開山遷化の日に至り、この霊像再び光明院へ帰り顕れたまふ。松本の城主出羽守水野忠周侯の夢中、開山の本地は地蔵尊なるよし霊示あり、よつてみつからそのことを筆して、当寺第2世祐海上人へ申し送らせられたり。その書簡いま当寺に伝へて秘蔵す。しかるに、寛政9年丁巳の夏、松本の城下倉品七郎右衛門といふ人、従来の因縁あるをもって、後の城主丹波守松平光行侯へ乞ひ、同年12月23日当寺へうつし奉りぬ)。 二王門 表の左右には那羅延・密迹の2像、裏は持国・広目の2天を置く。額「明顕山」、祐海和尚の筆。 開山祐天大僧正の廟(経蔵と阿弥陀堂の間より裏門へ行く左の方、叢林のうちにあり。入口に石地蔵堂あり)。開山80歳影像(麻布一本松の禅室にして、了月和尚みづから写し画くといふ)。 同じく臨終の真影(開山82歳のとき、享保3年戊成6月中旬より不食して身体日々に哀へ、7月15日に至りて称念臨終したまふ。同16日遺骸を倚子に移して、諸人に拝せしむ。。この期に写せし影にして、了月和尚の画なり)。 開山遺骨の舎利(開山命終の後茶毘せしに、全身ことごとく舎利となる。多くは廟穴に埋蔵す。いまわづかに宝塔へ収むるもの、すなはち諸人に拝せしむ)。 同じく舌根(これも茶毘のうちに宛然として残れりといふ。縁起に云く、舌根はもと火にして茶毘のうちに壊せずといふことなし。しかるにかく止まるものは、累年称名の功徳と、その化導に妄語なきいはれなりといへり)。 開山大僧正書写六字名号(奇特もつとも多し。なかんづく、剣難七太刀身代はり名号・狼の牙落ちの名号・火中出現不焼の名号・痘瘡の守り名号等の現益は普く世にしるところなり。ゆゑに、しげきをいとひて、寺記にゆづりてここにのせず。なほ、その余の名号奇特もつとも多し)。 開山大僧正長悦の像(開山、小石川の伝通院在住の頃、元禄年中大将軍家御前において法問説法ありしを、瑞春院殿、御感賞のあまり御みづから刻ませたまひしを、上覧ましまし長悦と呼ぶべしと上意ありて、鶴姫君様へ進ぜられ、御雛祭りの首席につらねさせたまひしを、その後祐海上人へ賜りて、当寺に収む。このゆゑに、毎年3月当寺にて雛祭りの儀式執行のことあり)。 萄江の錦九条の袈裟(増上寺在住の頃、開山上人、女院御所へ御血脈御法号等を奉りしとき、御みづからこれを造りたまふとぞ)。 累済度の如法衣(25条なり。累は下総国岡田郡羽生村、与右衛門といひしものの妻なり。顔形類少なき悪女にて、心さへにかだましかりしかば、与右衛門これを悪み、情けなくも正保4年丁亥8月11日、絹川といへる川へ突き落とし殺して後、死骸をば同じ村なりし浄家法蔵寺といへるに葬りしが、そののち妻5人まで累が怨念によりて狂死し、なほ6人目の妻の娘、菊といへるをなやませしが、開山大僧正の化益により、寛文12年壬子3月10日の夜に至り、累が26年の怨執ことごとく散じて、生死解脱の本懐を達せしこと、普く世に知るところなり。なは、委しくは『解脱物語』(『死霊解脱物語聞書』残寿、1690〕といへる草紙に見えたり)。 開山明蓮社顕誉上人(愚心と号す)祐天大僧正は、奥州岩城郡新妻邑の産なり(西村善内といふ者の子にして、寛永19年壬午〔1642〕正月元日生まる。幼名三之助といふ)。檀通和尚に従ひ、縁山に修学す。世に知るところの、累が怨霊解脱の誉れはもつとも著し(このことは、師の歳36、その頃檀通師に従ひ、北総飯沼に在住したまへるときの現益なり。『怨霊解脱物語』といへる草紙に詳らかなり)。後ゆゑありて、武州牛島に潜居す。道俗化を蒙る者移し。元禄12年己卯、台命によつて下総生実の大巌寺に住持し(牛島の庵室よりすぐに、大巌寺に入院あり。世もつて希有とす)、同13年戊辰、飯沼の弘経寺に転じ紫抱を賜ふ。また辛巳江戸小石川の伝通院に移り、正徳元年増上寺に住せらる(大僧正に任ぜらる。縁山第36世なり)。後目黒の地へ隠棲せられ、つひに享保3年戊戌7月15日、化寂あり(当寺はすなはち祐天大僧終焉の地なり)。1世の行状、ならびに書写したまふところの名号の奇特は、世人普く知るところなり(開山臨終の頃まで、名号書写怠りなし。人ありてこれをとどむ。開山云く、「恵心僧都は一期の間如来を彫造し、そのうちにして往生を遂げられたり。われもまた弥陀の名号を書写して、そのうちに往生すべし」とて、命柊の日に至るまで、1日も怠ることなかりしとなり)。 |
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Author:bittercup
近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。