続・竹林の愚人 2009年06月

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京都の歴史を足元からさぐる

京都の歴史を足元からさぐる―北野・紫野・洛中の巻京都の歴史を足元からさぐる―北野・紫野・洛中の巻
(2008/10)
森 浩一

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平安京と平安宮
平安京は桓武天皇が、延暦13年(794)に長岡京から遷した新京である。
延暦13年の11月8日に、新京についての詔がだされた。
此国山河襟帯、自然作城、因斯形勝、可刷新号、宜改山背国、為山城国、又子来之民、謳歌之輩、異口固辞、号日平安京(この国は山と川が襟や帯のように取りまいていて自然の城になっている。この形勝によって新しい地名をつけよう。山背国を改めて山城国とする。民や徳を慕って集る者が声をそろえて平安京という)
長岡京がどうして平安楽土の地ではなくなったのだろう。
桓武は平城京で、異母弟の他戸(おさべ)親王をその母の井上内親王とともに死に追いやり、即位がかなった。長岡京でも、実弟の早良(さわら)親王を造宮司の藤原種継の暗殺事件にからんで死に追いやった。桓武が死の床についていた延暦25年(806)の最後の勅で、種継暗殺事件で失脚していた人たちを本位に復させたのは、早良親王を死に至らしめてからの桓武に1日の平安もなかったことを物語っており、忌まわしい想い出の長岡京を廃都とした理由であろう。
桓武が長岡京にいた延暦12年(793)に、大納言の藤原小黒麻呂(おぐろまろ)や左大弁の紀古佐箕(きのこさみ)らを遣わし、山背国葛野郡宇大村の地を相させている。
月読神社は今は松尾大社の摂社となっているが、『文徳実録』斉衡3年(856)に「山城国葛野郡月読神社を移し松尾の南山に置く河浜に近く、水のために齧られるので移した」とある。葛野の日神は『延喜式』神名帳の葛野郡にある木島坐天照御魂神社(このしま)とされ、もと月神は桂川の右岸、日神は桂川の左岸の地にあっただろう。
延暦12年(793)に、遷都に先だって、天地生成の霊力のある月読の神を祭る葛野の聖地にでかけ、新京の創造の成功を祈願したとみる。
恭仁京造営ですでに葛野の秦氏は財力をだして協力していた。秦忌寸(はたのいみき)島麻呂の娘の夫である藤原小黒麻呂が宇大村の神に新都造営の祈願をし、さらに小黒麻呂の子の葛野麻呂が唐に派遣され、もち帰った新知識や文物が、平安京をさらに充実させるのに役立っただろう。
平安京の大内裏はもと秦川勝の宅跡とされ、川勝(河勝)は聖徳太子に仕え、秦氏の祖とみられる人物だ。さらに、秦氏の葛野での古い根拠地が紙屋川ぞいの北野天満宮や平野神社の近くにあったことからも、秦氏がそれらの土地を新都の造営にさいして提出したとみている。平安京と秦氏の関係は、いいかえると都と渡来系氏族との関係である。
平安京の初代の藤原小黒麻呂のあと造官僚長官になった和気清麻呂が造宮工事中の延暦18年2月に死んだあと、宮の造営に勢いがなくなり、延暦24年に平安京の造営が終った。
平安京の基幹となるのは中央の朱雀大路で、幅は28丈(約85m)の堂々とした直線道路。その南の入口に二層の羅城門が聳えて、羅城門より南の京外にも直線道路がつづき、鳥羽の作り路とよばれた。
運河である堀川(東)は大内裏の東方約450mに流路があり、西堀川は紙屋川のこととみられ、大内裏の西方約450mにと、大内裏をはさんで東西でほぼ対称的に配されていていた。
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  1. 2009/06/30(火) 08:12:25|
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耳塚

耳塚01
耳塚(鼻塚) 京都市東山区東山区正面通大和大路西入南側
史蹟方広寺石塁および石塔 昭和44年4月12日指定
この塚は、天下統一を果たした豊臣秀吉がさらに大陸にも支配の手をのばそうとして、朝鮮半島に侵攻したいわゆる文禄・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱・1592~98)にかかる遺跡である。
秀吉輩下の武将は、首級のかわりに朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ、塩漬にして日本に持ち帰った。それらは秀吉の命によりこの地に埋められ、供養の儀がもたれたという。
塚の上に建つ五輪の石塔は、その形状がすでに寛永2年(1643)の古絵図にみとめられ、塚の築成から程ないころの創建と思われる。

 耳塚修営供養碑

塚のまわりを囲む石柵は、伏見の小畑勇山という侠客が発起人となり、歌舞伎・新派の俳優らが寄進したもの。


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  1. 2009/06/30(火) 08:05:30|
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耳塚

耳塚
耳塚―秀吉の鼻斬り・耳斬りをめぐって
(1994/08)
琴 秉洞

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秀吉没後、30年前後に書かれた堀正意の『朝鮮征伐記』に、毛利征伐を命ぜられた秀吉が信長の前で「某はそれより九州を切従え、早速に平治すべし。然らば1年の所務を下さるべし。ここにて勢をそろへ、兵糧を蓄へ、大船を作り、朝鮮に入るべし。某が功を賞せられんと思召さば、朝鮮を下され侯御教書を一通下されべし。朝鮮を攻め随へ、大明国へ働べし」といっている。
秀吉はこの侵略に、1番隊から16番隊、それに番外2隊に船手衆、旗本隊など合計28万1,840人を動員した。侵略軍編成の九州、四国、中国地方の偏在に、幕末、明治期の「征韓論」がこれらの諸藩出身者から輩出したことに歴史的因縁をみる。
清正軍の武将木村又蔵の『木村又蔵覚書』には、日本人兵士1人につき、朝鮮人の鼻を3つずつ斬りとることを割当てたと記し、『清正朝鮮記』にも「この時は日本人1人役に朝鮮人の鼻3つ宛をかき、大塩と仕 日本へ御渡し」云々とある。
「宮古(都)より1日路ロまで働男女 生子迄も不残 撫切に致し。鼻をそぎ。其日々に塩に致し。」(『本山豊前守安政父子戦功覚書』)と、女幼児まで鼻をそいでいった。
斬り取られた鼻・耳は、朝鮮からは名護屋にいったん送られ、名護屋から海路、大阪に運び込まれた。大阪から京都までは大樽、大桶につめ込んだ鼻・耳を車に載せ、凱旋将軍さながらに諸人に見せて行った。
秀吉の「耳塚」築造の意図は、軍功を後世に示すための京観(けいかん)だった。
1624(軍水元)年、朝鮮通信使として来日した姜弘重は、『東槎録』で「寺の前に一大高丘ありて墳の形をなし、石塔をその上に立てり、倭人云う、秀吉、我国人の耳鼻を此に埋む。秀吉の死後、秀頼環封して碑を立つと。或は云う、晋州陥落の後、その首級を此に埋めしと。聞き来りて痛心に勝えず。」この時期、幕府側が大仏殿での接待を恒例化した。
1898年に、豊公三百年祭が侯爵黒田長成を会長とする豊国会が主宰して行われ、「耳塚」を修復して石碑を建てた。石碑文によれば、秀吉の「功臣、愛将の裔、同志の者」が謀って三百年祭を企画した時、妙法院の門跡村田寂順が斡旋して「官準を得、京都市給金若干圓」の補助を受けただけでなく、「広く資用を募」って塚を修復したとある。
松本清張は「京都の旅」で述べている。「方広寺のまえにつくられた、いわゆる耳塚は、いまでも堂々たる花崗岩の五輪塔がその上にのっているが、これは秀吉の嗜虐性を示す記念塔だ。
文禄元年(1592)、朝鮮の役のとき、加藤清正、小西行長など朝鮮につかわされた武将たちは、その4月に京城をおとしいれ、翌年正月には、小早川隆景が碧蹄館に明軍をやぶって、5月には講和している。この文禄の役で、日本軍は敵の将士や土民の鼻をそぐこと約5万これを樽に塩づけにして、九州は肥前、名護屋の本陣にいた秀吉へ送った。これを葬ったのがこの鼻塚(いま誤ってもっぱら耳塚という)だといわれる。
もともと、方広寺まえに葬って敵の供養にしたのであろうが、また同時に、不条理な朝鮮の役の勝利を誇示するデモンストレーションでもある。」

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  1. 2009/06/30(火) 08:00:52|
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人と動物の日本史(1) 

人と動物の日本史 1 (1) 動物の考古学人と動物の日本史 (1) 動物の考古学
(2008/11)
西本 豊弘

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鵜澤和宏 肉食の変遷
日本における肉食の歴史は、ブタ飼育に代表される畜産が途中で欠落していく点に大きな特徴がある。
弥生時代の肉食として注目されるのは、ブタの飼育が本格化することだ。大分県下郡桑首遺跡からイノシシとは異なる家畜化された動物の形態特徴をもつ骨が見つかった。東アジア系家畜ブタに近縁な遺伝子が西日本で検出され、稲作とともに肉の生産が本格化した時代だ。
弥生時代には、ブタのほか、ウシ、ウマ、ニワトリなども渡来し、ウシには農耕に伴う労役、ウマにはそれにくわえて軍事的な用途が想定され、死後は食用にされたと考えられるが、ニワトリについては食べられていた明確な証拠がない。
長崎県の原の辻遺跡、大阪府の亀井遺跡で、環濠や溝に投げ込まれたイヌの骨に解体痕があい、食用にされていた。
『古事記』に猪飼や猪養、『本草和名』、『倭名類緊抄』に猪と豕(いのこ)を区別して六畜として牛馬羊犬鶏豕があげられていることから、平安時代には家畜ブタが飼育されていた。
一方で、漁撈への従事と、ウシ、ウマ、イヌ、サル、ニワトリの肉食を禁じる天武の殺生禁断令(675)がある。半年の禁止期間は4月から9月までの農繁期で、農閑期は制限なしだから農業生産への集中を意図したものだ。
天武の詔勅後、12世紀初頭までに11件の殺生令が出されている。殺生禁止の対象からサルを除く野生動物がこぼれ落ちていることから、肉食そのものを禁じる意図はなく、たびたび出されたことは殺生、肉食が繰り返されていたことをうかがわせる。
仏教思想の伝来に始まった肉食を罪とする意識に加え、中世に肉食を「穢れ」と見なす観念が生じる。肉食をタブー視する思想は、動物の屠・解体処理や加工を蔑視し、これに従事する人々が被差別民化していく原因ともなった。
中世の肉食の証拠として知られる広島県草戸千軒町遺跡では、出土した哺乳動物骨の7割以上をイヌが占めている。武家政権が幕府をおいた鎌倉でも、近年調査された由比ヶ浜南遺跡でウシ、ウマ、イヌ、シカ、イルカ類など、多種多様な動物の残滓が含まれている。
近世では東京都の汐留遺跡の発掘調査で、伊達家、脇坂家のゴミ捨て場で動物骨が回収され、イヌを食べた痕跡がみつかっている。
人の残飯を漁る野良犬は、飼育コストがかからず、捕獲も容易だ。栄養不足を補う日和見的な狩猟の一形態として捉えることができる。
縄文時代から古墳時代まで、日本列島の人類集団の身長は伸び続けた。しかし日本人の身長は古代以降に低下をはじめ、近世にもっとも小さくなる。身長低下は生活環境、栄養状態の悪化など、環境要因によるものと推定され、中世人、近世人の身体形質は、とりわけ中・近世に顕在化する都市での劣悪な生活を示すものだろう。

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  1. 2009/06/29(月) 08:00:24|
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GMの言い分

GMの言い分GMの言い分
(2009/05/28)
ウィリアム・J・ホルスタイン

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GMはいろいろな意味でグローバル化の影響を受ける立場にある。貿易の自由化のおかげで、日本企業は米国内で自動車を販売できるが、米国自動車業界のビッグスリーは日本市場から招かざる客となっている。1950年代にアメリカ国務省はアメリカの自動車メーカーに日本から撤退するよう要請した。日本経済が強くなって政治体制が安定するようにと望んだからで、日本市場は実質上アメリカの自動車メーカーには閉ざされたまま、2007年でも最も業績の高いダイムラーAGですら市場の1.4%を占めるに過ぎない。
1980年代半ば、日本との貿易赤字が問題となり、アメリカの州知事たちは日本の自動車メーカーに何億ドルもの税制優遇措置を取って工場の誘致を始めた。貿易の不均衡を緩和し、地元に仕事を生み出す方法に思えたのだ。アメリカ自動車産業界は、日本企業がアメリカに工場を開くと、コスト構造が同じになり、自分たちと同様組合労働者との問題を抱えるだろうと考え、しぶしぶ同意した。
ホンダや日産、トヨタがアメリカのビッグスリーよりも安いコスト構造で操業することはないと高を括っていたら、日系メーカーは工場をケンタッキー州やテネシー州、サウスカロライナ州、ミシシッピ州、テキサス州といった労働組合のない南部の州に設置し、諸手当を要求しない若い労働者を雇い、移民を利用してアメリカの自動車業界にプレッシャーをかけていった。競争は明らかに日本に有利だった。
GMは徹底した再編成でグローバル化を進めていった。生産方式のノウハウの習得では、トヨタのシステムに学び、リーン生産方式を発展させたGMS方式を展開していった。
大型トラックやキャデラック、コルベットを例外として、GMが販売するすべてのクルマがグローバル化による影響を受けている。
トヨタは国際的なビジネスの中で注目すべきサクセスストーリーの1つだ。豊田市はかつて挙母市と呼ばれ、徳川家康の生まれた城下町で、地域の労働者は三河武士の末裔だ。そしてトヨタは厳しい規則と気前のいい保護の両方を駆使して、社員を懸命に働かせ、供給業者にも一番良い値段を求めて、将軍が彼の民について言ったように、「生かしてはならぬ。だが、死なせてもならぬ」を実践していた。
1957年にトヨペットを携えてアメリカへ初めて乗り込んだ時は、その奇妙なデザイン、小さなボディ、品質の低さで笑いものになってショールームから追い出された。しかし、製品改良して1959年に再びアメリカの地を踏んでから、何十年にもわたって一度も失敗なしでやってきた。
GMの構造変革の取り組みは長くかかりすぎた。だが適切なコスト構造を取り入れて、クルマ1台につき5,000ドルの削減を実現し、トヨタ製品との品質のギャップもなくなった。「GMはアメリカ人が乗りたいと思うクルマを作っていない」というのも過去の話だ。GMがトヨタよりもデザイン性に優れているのは確実で、トヨタは新しいCTSやカマロの外観にも性能にも太刀打ちできない。
オハマがどのような措置を取ろうと、ビジネスを立て直し、北アメリカでの収益性を取り戻すという長期的な仕事にGMが直面していることに変わりはない。2010年までに、いやそれ以降にGMがその目標を達成できるのかどうかは誰にも分からない。
8つあったブランドを4つに絞ると決意したことは、GMが規模を縮小し、世界一大きな自動車メーカーを目指すのをあきらめたと思われ、会社はいつか妥当な規模になり、バランスの取れた状態に落ち着くだろう。
新しいGMは最大75%までの売り上げをアメリカ国外で上げる、もっとグローバルな企業になるだろう。GMの求人がミシガン州やオハイオ州で再び増える可能性は低いが、新しいGMは、トラックが主流だった頃よりも高い比率で乗用車や低燃費のクルマを生産するだろ。

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  1. 2009/06/28(日) 08:00:41|
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伊勢神宮

伊勢神宮 魅惑の日本建築伊勢神宮 魅惑の日本建築
(2009/05/15)
井上 章一

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神宮は仏教が日本にやってくる前の建築形式をとどめている。仏教とともに大陸からは寺院建築のわざがはいってきた。瓦ぶき、土壁、丹塗りといった技法である。だが、神宮はそれらをうけつけない。より古いかたちをあえてえらんできたと言われたりもする。
しかし、今たっている出雲大社や住吉大社は江戸時代の建築で、伊勢神宮などは20世紀のおわりごろにたてかえられた現代建築のひとつにほかならない。
伊東忠太は明治期の1900年に神社建築史のあらましを建築学会で「神社建築は神代の太古から今日に至るまで」つづいていると弁じていた。「太古の簡単なるもの」は、しだいに「今日の複雑なるもの」へ姿をかえていった。そういう変化をもたらしたのは「中世仏教の影響」である。いちばん最初の神社に社殿はない。山や森、岩などが神のよりしろにみたてられていた。建築がたてられるのはもうすこし時代が下ってからだと、説いている。
このことは、江戸時代の新井白石が『東雅』(1719)で、国学者橘守部も『鐘のひびき』(1829)で論じている。伊東当人も「ヤシロ」は「屋代」だという白石の説をまるごとうけいれている。
伊東は「社殿に元来特有なのは」まず、「屋根の形が切妻であること」、「屋根を瓦にて葺かざる事」、「下地壁を用ゐざる事」、「装飾の質素なる事」と云い、「日本国有のやり方を保存する精神」があったときめつけた。
神宮の社殿は棟持柱をともなう高床建築になっており、有史以前の日本列島にこうした建物が数多くたっていたことは、考古学者たちによってたしかめられている。
しかし、神宮の建築にも大陸からの感化はおよんでおり、棟持柱のある高床建物もインドネシアあたりではごくありふれた民族建築の一形式になっている。
だから、神宮の形式が日本的だという話はけっこううたがわしい。
神宮で式年遷宮のきまりができたのは7世紀の後半で、そのころの社殿がどのような形になっていたのかは当時の建築形式をつたえる文献がないのでわからない。たしかめようもないことなのに、建築史の学界では7世紀後半の神宮も同じ形をしていたとみなしてきた。
朝廷の儀式が唐礼をとりいれる傾向がいちばん高まったのは、平安時代初期の桓武天皇(在位781~806)から文徳天皇(在位850~858)のころで、神宮を天皇家の宗廟、中国的な廟にあらためたのも、桓武の時にほかならない。
棟持柱・高床という原始的な形をたもってはいるが、神宮の正殿には回廊や勾欄がめぐらされ、正面平入りの桁三間、梁二間というかまえでたてられている。
妻かざりには法隆寺と同じ細工がほどこされ、社殿の配置は対称的で薬師寺を思わせ、中華の建築はかくじつに神宮へもとどいていた。神宮も天皇家の宗廟めいた施設にしてしまう。そんな桓武以後の平安王朝こそが神宮の中国化をはかったのだと考える。
初期神宮には、平安期のそれから中華風の加工をはぶいた姿がふさわしく思えてくる。
入口は平側でなく妻側にあったろうか。回廊だってとりつけられてはいなかったかもしれない。

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  1. 2009/06/27(土) 08:00:25|
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F22の対日輸出可能性を検討

F-22-3-50d75.jpg
F22Aラプター

6月5日に民主党の重鎮ダニエル・イノウエ上院歳出委委員長がゲーツ国防長官と藤崎一郎駐米大使に書簡を送り、米空軍の最新鋭戦闘機F22Aラプターの輸出解禁に期待感を表明したとあり、大変驚きました。
F22Aラプターは防衛省が次期主力機として切望していましたが、米議会によって海外への輸出を禁止され、次期戦闘機は同じロッキード・マーティン社のF35へ見直しかと云われていました。
その議会が日本への輸出の可能性を検討する修正条項を盛り込みました。 (asahi)

Hummer-Humvee_Military.jpg
Humvee

先にGMがHummerを中国企業「四川騰中重工機械」に売却しました。
Hummerは第二次大戦で活躍したJeepの更新車両として、1985年から米軍に配備されたHumveeの民生機種で、その技術は中国軍の近代化に貢献するものですから、議会が何も言わなかったことを不思議に思っていましたが、今回のはそれを大いに上回っています。
米国の財政建て直しには売れる物はなんでもありという状況にきているということでしょうか?

F22のコストが1機当たり約1億3,750万ドル。F35が8,300万ドル(約86億6500万円)。
今回、F22が仮に日本に提供される場合、売却価格は輸出仕様にするための設計・改造費などを含め約1億ドルを上乗せして、1機約2億5,000万ドル(約247億円)程度になるといいます。
現行のF-15J の調達価格が約120億円ですから、その倍です。8飛行隊の差し替えで200機ばかり必要なようです。


テーマ:国家防衛 - ジャンル:政治・経済

  1. 2009/06/26(金) 14:28:47|
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菅大臣神社

菅大臣神社04
菅大臣神社(かんだいじん) 京都市下京区仏光寺通新町西入菅大臣町
白梅殿と称された菅原道真公の邸宅跡で、菅家廊下(かんけろうか)といわれた学問所の跡地。
道真公誕生の地と伝えられ、境内には産湯の井戸が保存されている。

菅大臣神社01
拝殿前鳥居
現本殿は天保6年(1835)造立の三間社流造という下鴨神社の宮殿を明治2年(1869)に移築したもの。
祭神:菅原道真公、尼神(あまがみ)、大己貴命(おおなむち)

菅大臣神社02
二の鳥居(南)

都名所図会
都名所図会

菅原 101
北菅大臣神社(きたかんだいじん) 京都市下京区仏光寺通西洞院東入ル北側菅大臣町
道真の父是善(これよし)を祀る。
この辺りに私塾「菅家廊下」や道真の書斎があり、後に紅梅殿と呼ばれる。

境内map

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  1. 2009/06/26(金) 12:41:15|
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菅原院天満宮

菅原院天満宮01
菅原院天満宮(すがわらいんてんまんぐうじんじゃ) 京都市上京区烏丸通下立売下ル堀松町406
菅原氏の邸宅「菅原院」があったところで、菅原道真の誕生地とされ、道真の没後、ここに一宇を建立して「歓喜光寺」と号し、菅原父子を祀った小祠を建てた。
寺は、長保年間(999~1004)に鴨川六条河原の源融邸跡に移し、神社のみが残った。

菅原院天満宮02
祭神:菅原道真、菅原是善、菅原清公

菅原院天満宮04
菅公初湯井(かんこううぶゆのい)

菅原院天満宮05
梅丸社

菅原院天満宮06
天満宮御遺愛の石燈籠


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  1. 2009/06/26(金) 11:50:42|
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秘仏

秘仏
秘仏
(1991/12)
毎日新聞社

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藤澤隆子 「秘仏」誕生の背景を探る
西国33所寺院の本尊は秘仏が多い。宗派別でみると、真言宗が15ヵ寺、天台宗が13ヵ寺、法相宗が2ヵ寺、本山修験が1ヵ寺、単立寺院が2ヵ寺で、これも天台あるいは真言系である。このように秘仏というあり方は天台や真言といった密教系に多い。また秘仏となっている尊像の種類も観音菩薩や薬師如来が多い。
秘仏として安置方法を明示する経、唐時代の不空(705~774)訳『七倶胝佛母所説准提陀羅尼経』、唐時代開元5年(717)善無畏訳『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』が、養老2年(718)に遺慈によって伝えられた。前者には「像を將って精室に於いて秘密に供養し、帛を以て像を覆ひ、念誦の時覆帛を去りて膽礼供養し、念誦畢らば却て帛を以て覆ひ、憤みて人に見せしむること勿れ」とあり、後者には「像を畫作し了らば、浄室塔廟等の中に安置し、浄物を以て被覆すべし」という。
奈良時代8世紀には平地の伽藍寺院だけでなく山寺の存在が既に知られ、9世紀前半に空海や円仁・円珍によって密教の基礎が確立した後、9世紀後半は仏教界全般が密教化する。
承和3年(836)には官寺である東大寺の真言院に潅頂道場が建てられ、鎮護国家のための修法を行うことが恒例となり、承和年間から嘉祥年間には加賀国高雄山寺や、播磨国大道寺、清妙寺、観音寺、伊予国定額寺、上野国聖隆寺といった地方の寺院がぞくぞくと真言化、天台化している。摂津国の神岑山寺も御願のため真言宗となり忍項寺という名を賜ったという。密教が官寺の代表である東大寺をはじめとして地方寺院、山寺にまで浸透し、大多数の寺院が密教化したのである。
33所巡礼は平安後期からはじまり、ご本尊も平安時代制作が多いが、意外なことに7世紀後半から9世紀に、しかも氏寺として創建された寺院が多い。
霊験寺院化は9世紀に行われ、10世紀を通じて参詣を得ていたが、11世紀に至ってさらなる発展を示した。それを担ったのが修行僧と呼ばれる聖たち、参拝に訪れた修行僧である。修行僧の験力は霊験所を巡る行によって得られると考えられていた。
摂関期には現世利益、院政期には現世利益と同時に極楽往生が祈願され、平安後期の貴族をはじめとした聖に対する要請が霊験寺院を発展させ、霊験寺院も霊験を宣揚して、荘園の獲得維持や参詣の誘引につとめて寺院の維持発展をはかった。
中世では一般に、寺院やご本尊の最高責任者は別当という学僧だが、穀屋と呼ばれる聖集団が本尊の護持や堂合の修造にあたっていた。開帳は彼らの勧進活動で、一旦秘仏となったご本尊は重要な財源ともなった。
江戸時代になると開帳には幕府の許可が必要になり、享保年間には堂合が焼失した時以外は、33年に一度しか開帳を認められなくなった。目的は堂舎の修復助成である。
美術史では日本の仏像の様式は平安時代後半11世紀に活躍した康尚によって和様化が行われ、康尚の子息であり弟子である定朝によって和様化が完成したとされる。
一方、秘仏(霊験あらたかな霊仏)および秘仏化過程(霊験寺院化)で生じた思想=仏像観は、神仏が習合した民俗的な仏像観の形成と考えることができよう。
それは奈良時代以来の山岳斗薮の伝統のなかから生まれ、9世紀後半の山寺の密教化・霊験寺院化によって成立し、10世紀、11世紀を通じして多くの修行者たちによってはぐくまれて完成されたと言える。その過程はまた古代律令制国家の解体と、軌を一にしていた。

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  1. 2009/06/26(金) 08:00:10|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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