続・竹林の愚人 2009年09月

G8サミットのスリリングな内幕

G8サミットの本当はスリリングな内幕 (家族で読める family book series 005) (家族で読めるfamily book series)G8サミットの本当はスリリングな内幕 (家族で読めるfamily book series)
(2009/07/04)
玉置 和宏

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いま、国際機関で最も大きいのは国連で、大戦末期の1944年8月から9月に、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の代表がワシントンで会議を開き、国連憲章の原案を作ったことに始まります。
それに先立つ1944年7月にアメリカ・ニューハンプシャー州のブレトンウッズで45ヵ国が参加した連合国通貨金融会議が開かれました。アメリカ主導でブレトンウッズ協定が結ばれ、IMF(国際通貨基金)、IBRD(国際復興開発銀行)の設立が決まり、その後の世界経済秩序をブレトンウッズ体制と呼びます。
1975年、「先進国だけで首脳会談をやろう」とフランスのジスカール・デスタン大統領が言い出しました。この年、ベトナム戦争に敗れ、戦費のためにドルを垂れ流したアメリカは金本位制を維持できなくなり、為替は固定相場制から変動相場制へと移行。そしてオイル・ショックに見舞われ、ブレトンウッズ体制と呼ばれたそれまでの世界経済秩序にヒビが入ったのです。
こうした状況で、発展途上国と先進国との対立が激しくなり、ジスカール・デスタンは先進国首脳会議を開こうと呼びかけたのです。「もう官僚には任せてはおけない、首脳同士で腹を割って定期的に話し合おうではないか」というわけです。
ジスカール・デスタンは、一応、米国大統領のフォードに相談する形を作りましたが、実質的には西ドイツのシュミットと語らってサミットを立ち上げました。相談を受けたシュミットは「日本を入れよう」と進言しました。
今、世界の安全保障のカギは国連安保理の5つの常任理事国が握り、経済安全保障はG8サミットが握っています。サミットは非公式なフォーラムですが、事実上、OECD(経済協力開発機構)やWTO(世界貿易機関)、IMF、IBRDなどの上部機関のように振る舞う。ときには国連に対しても行動を要請します。これがグローバル・ガバナンスの実態です。
安全保障に関するフォーマルな国際機関として国連が、経済の安全保障についてはインフォーマルだけれどもサミットが担っています。
2001年9月11日、同時多発テロが起き、アメリカはアフガニスタンに進攻します。そして2002年、ブッシュは「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と先制攻撃が必要」とし、2003年春にはイラクへの空爆を開始します。アメリカは国連軍を組織しょうとしますが、フランスの反対にあって、有志軍での出兵となりました。世界で2番目の埋蔵量を持つイラクの良質な石油の争奪戦です。
ブッシュの「勝利宣言」後の6月、フランスのエビアンで開かれたサミットでは、イラク戦争に対し、G8は賛成派と反対派に分かれました。賛成派はブッシュ、ブレア、小泉、べルルスコーニ。反対派はシラク、シュレーダー、プーチン、クレティエン。首脳会談は険悪な雰囲気になり、ブッシュは中途退席し一人で帰ってしまいました。
サミット最終日、シラクは名言を残しています。「私はイラク戦争に反対し、『戦争は一国で起こせても、一国で終わらせることはできない。これは歴史における戦争の現実である』と直接ブッシュに言いました」
かつてロシアのエリツィン大統領は、この大国クラブに参入するためあらゆる策を講じ、いま中国がそうした意図を持って行動しています。
G8の存在感はますます膨れ上がっていますが、残念ながら、日本のプレゼンスが年々小さくなっており、サミットで活躍できる、国際的なスケールの日本の政治家が現れることは、もうないかもしれません。

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  1. 2009/09/29(火) 08:00:34|
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天神祭

天神祭―火と水の都市祭礼天神祭―火と水の都市祭礼
(2001/12)
大阪天満宮文化研究所

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武田佐知子  天神祭の起源をさぐる
天神祭が7月25日に定まったのはそう古いことではない。江戸時代には、菅原道真の生誕の旧暦の6月25日に行われていたが、室町時代の『康富卿記』には祭礼は7月7日であったと伝えており、七夕の祭り、星辰信仰との関係が指摘される。
天満宮の付近には、かつて七夕の行事にかかわる「天満三池」があり、今は星合池だけが残っているが、文字通り、織り姫星と彦星が出合う七夕信仰にちなんだ名である。
このように、星辰信仰と深くかかわった地であるが、それは大阪天満宮の創祀以前にこの地にあった、大将軍社の祭りとして営まれていたものだ。
大阪天満宮の創祀は、社伝により、村上天皇の天暦年中と説かれることが多い。
11世紀後半には、摂州の渡し口の社、天満天神祠はすでに成立していたと見られる。
境内にある大将軍社は天満宮の地主神と位置づけられているが、天満宮はもともと大将軍社の境内に若宮として祭られたものであった。
寺伝では、道真が太宰府に流される際、道明寺にいた伯母の覚寿尼に会って別れを告げた後、難波の大将軍社に立ち寄って航海の無事を祈ったことが、大将軍社の境内に天満宮が創祀されるきっかけになったとする。
大阪天満宮の地はかつて、難波津に通じる難波の堀江の河口で、奈良時代には律令国家の表玄関となっていたが、都が長岡、さらには平安遷都が行われると、難波津の重要性は薄れていった。
だとすればなにゆえに、平安時代の末には、すでにさびれ果てていただろうこの地に、天満宮が創祀されなければならなかったのだろうか。
古代の難波にあった「棄済」(かしわのわたし)は、「難波済」(なにわのわたし)の別名だが、それは仁徳后磐之媛(いわのひめ)が、「御綱葉」(みつなかわし)を投げ捨てたことに由来する。難波の水陸の重要な結節点であったから、その渡河を危うくする悪神を祓うために、柏の葉で作った比羅伝に食物を盛って祀う必要があったと考えられよう。
そして、この地こそ大江山の酒呑童子を退治した源頼光の四天王のひとり、渡辺綱を祖とする渡辺党の本拠地、渡辺津のあったところで、「渡辺」とは、「国衛の大渡の辺り」の謂であるという。
渡辺党はこの地の水陸の交通をつかさどる氏として成長した。
正暦5年の痘瘡(天然痘)の流行と関連して、この疫病の蔓延が道真の祟りと畏れた貴族層が、木工寮修理職に命じて神輿を造らしめ、身辺警衛の任に当たっていた渡辺氏に命じて、難波の海への放還を管掌させたとみられ、これを契機に、難波宮の西北から侵入する悪鬼を祓う、陰陽道の祭りの場を継承し、疫病の平癒・退散を祈願する神でもあった大将軍社に、菅原道真が祀られることになったものと思われる。
渡辺の地に疫病除けの神として祀られていた大将軍社の社地に、同じ庖瘡の疫神としての性格を持つ天満天神を勧請し、疫病の退散を願ったのだ。
それが京都から遠い浪速の地でなければならなかったのは、疫神なるがゆえに、都からできるだけ遠くに流すことを願った京都の朝廷・堂上貴族の意向が大きく反映したものと考えられる。
神輿が難波の海に送られたのは、疱瘡が、新羅から伝わった疫病であるとする風評も相保って、難波が外国に通じる地点と意識されたからであった。

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  1. 2009/09/28(月) 08:00:09|
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中国経済がダメになる理由

中国経済がダメになる理由中国経済がダメになる理由
(2009/04/16)
三橋 貴明 石 平

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朝日新聞社の08年9月中間期決算は赤字で、各紙の半期決算もことごとく最終損益で赤字になっている。
日本のマスメディア業界を一様に苦しめている正体は、単なる景況感の悪化に伴う売上の減少や収益の赤字化ではない。情報を独占的なチャネルを用いて提供し、購読者数を増やし、視聴率を高めることでマス広告収入を稼ぐという、マスメディアのビジネスモデルの崩壊だ。
新聞が危機的状況にある最大の理由は、新聞を「紙」で読む人がどんどん減少してきていることにある。
では、いったいどこで活字を読んでいるのだろうか。インターネットである。
残念なことに、いまだ新聞社の収益性を高めるモデルは見つかっていないが、インターネットにニュースを配信することで、各社の記事は以前よりも多くの日本人に読まれている。
いまや、インターネットにより誰でも各紙の報道を比較し、海外のメディアの記事まで簡単に読むことができる時代だ。情報の独占性は崩れ、マスメディアの産業としての付加価値も、大きく損なわれているのが現実なのだ。

中国インターネット情報センターの発表によると、2008年末現在、中国全土のネット個人ユーザー数は2億9800万人に達し、ネットの普及率は世界の平均水準を超えているという。
中国の個人のブログ数は1億6200万件と、日本の総人口を超えた人たちが情報や意見を発信しているのである。
それは、中国の権力構造を根本からひっくり返す力を潜めた重大な意味をもつ。
共産党は政治理念を「党是」として「中国共産党は民衆に奉仕する政党」と唱って、独裁政治を行なっている中国共産党は、建前上は「民衆の声・民意」に従う立場にある。
ネット誕生以前では、「民衆の声」が上がってくる手段も、「民意」を示す装置もなかったから、共産党は自分たちのつくり出した「世論」が「民意」であると言い切ることができた。しかし、いまは本当の民意がインターネットを通じて知るところとなり、共産党流の誤摩化しは通用せず、ネット上の世論を「民意」だと認めて、ある程度従わざるをえない。
ネット上で汚職幹部を糾弾する声が広がると、共産党政権もそれに従うしかない。
世論と民意がネットを通じて、政治を実際に動かす力をもちはじめ、中国共産党による権力の独占を根本から脅かす社会変化が起こっている。
もちろん、いまの段階では、ネットの力は依然として誕生直後のひ弱なものだが。
2009年からの中国においては、経済のいっそうの冷え込みが失業者数をさらに増やし、社会的不安をいっそう拡大させることが予想される。そして、「繁栄と安定」の時代に取って代わって、衰退と混乱の時代が再びやってくるのである。
そうすると、変化と改革を求める声は再び時代のパラダイムとなって、天安門事件以来封印されてきた民主化への欲求と情熱が再燃してくるはずである。

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  1. 2009/09/27(日) 08:10:05|
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観音堂

観音堂01
観音堂(かんのんどう) 箕面市外院3-6
往古は「明王寺」境内に所在していたが、その後久しく廃絶されていた。
昭和25年再建。

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  1. 2009/09/27(日) 08:05:09|
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本成寺

本成寺 寺号
本成寺(ほんじょうじ) 箕面市粟生間谷東5-21-1
日蓮本宗 古城山
天満連興寺の日堯上人が豊臣秀頼よりこの地を賜り隠棲したのが初め。

本成寺 山門
昨年伺った時は金剛組により再建中でした。

本成寺 本堂
本堂 

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  1. 2009/09/27(日) 08:00:06|
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中尾塚古墳

中尾塚古墳01
中尾塚古墳(なかおつかこふん) 箕面市桜ケ丘3-1-10
昭和45年、住宅地として開発されることから、事前調査で発見された。
南北の丘陵突起部に長さ2.5m、幅2.0mの天井石の一部が遺っていた。
調査の結果、両袖式の横穴式石室を主体部とする後期古墳であることが判明。
6世紀後半に築造され、7世紀代まで、幾度か追葬されたものと考えられる。
個人の住宅の庭に現存する石室です。

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  1. 2009/09/26(土) 08:50:34|
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箕面から大阪への道しるべ

箕面資料館01
箕面市立歴史資料館 箕面市
先にご案内しました道標展を見に行きました。

箕面資料館02
前回、西国街道沿いの東西の道標でしたので、今回は南北の道標を拓本に採って展示しています。
これで拓本展示はひとまず終了し、来年以降は箕面の旧四村をテーマに地域ごとの観光・名物を展示予定とか。また、楽しみが増えました。

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  1. 2009/09/26(土) 08:30:12|
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箕面の庚申塔

01青面金剛
青面金剛(新稲) 箕面市新稲6-1
寛文七丁未歳摂州豊嶋郡新稲村
(梵字イ)青面金剛
閏二月吉日建立施主藤原政則敬白









02青面金剛01
青面金剛(箕面) 箕面市箕面5-4
庚 元禄十三年
(梵字キリーク・サク・サ)青[月が日]面金剛薩{土垂}
辰 十二月二日









青面金剛(薬師堂境内) 箕面市下々呂美329
元禄十六年癸巳天
(梵字イ)青面金剛
正月十四日 敬白


青面金剛(菅野) 箕面市萱野2-10
宝永二年乙酉天 坊嶋
(梵字?)青面金剛
正月十四日 住人





05青面金剛01  05青面金剛02
青面金剛(白島) 箕面市白島 水神社参道
宝永七年庚寅
(梵字イ)青面金剛
八月廿七日

07 青面金剛

青面金剛(今宮) 箕面市今宮2-4
正徳三癸巳歳 今宮村
(梵字イー)青[月が日]面金剛
九月吉祥日 講中








08 青面金剛



青面金剛(願生寺前) 箕面市外院2-14
享保元丙申年
(梵字イ)青面金剛
七月吉祥日
 





09 青面金剛


青面金剛(善福寺東斜面) 箕面市粟生間谷西5-4
享保二年丁酉天
(梵字イ)青面金剛  講中
三月吉日







0


青面金剛(春日神社参道) 箕面市粟生新家2-1
享保二丁酉年 新家村
(梵字イー)青面金剛
五月五日 施主講中




11青面金剛01 11青面金剛02
青面金剛(巡礼道沿) 箕面市粟生間谷東5-4
享保八卯年辻ケ■          享保八卯年
(梵字イ)青面金剛          (梵字イ)青面金剛
四月十一日 講中          六月十三日

13青面金剛

大青面金剛(帝釈寺境内) 箕面市外院2-14
宝暦五年 乙亥
(梵字イ)大面金剛
冬初庚申日建






14青面金剛01


青面金剛(巡礼道沿) 箕面市如意谷2-6
(梵字ウーン)青面金剛
明治二十年亥二月建立








15青面金剛01


青面金剛(西国街道沿) 箕面市西宿2-8
(梵字キリーク)青面金剛
昭和二年三月建之










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茨木では1つしかない庚申塔が隣の箕面では何と15個もあります。
しかも、全て青面金剛の文字塔です。
この辺の疑問を箕面市立郷土資料館の福田館長にぶつけてみました。

「箕面で一番古い庚申塔は寛文7年(1677)の新稲村であること。
但し、名前の通りこの地は新しく開墾された地域である。
ところが、元禄13年(1700)に新稲村の隣の古くからある村が庚申塔を建立すると、たちまち近隣に拡がっている。青の下の月が誤って日になっているのをそのまま写しているところを見てもそれが分かる。
池田も隣村の畑で元禄13年から始まっている。
仏像を刻まずに文字となっているのは、掘りやすい砂岩ではなく、堅い花崗岩を村人自身が掘っているから。
文字を掘るのが精一杯だっただろう。字体を見ても拙いものが多い。」

では、何故、茨木が1つしかないのに箕面に多いのか?

「真宗・日蓮宗の勢力の大きい地域は現世利益を願う庚申待が許されなかったのではないか。
現に箕面も真宗のある地域ではなく、真言あるいは寺がない地域にのみ認められる」

そういえば、茨木の青面金剛も旧豊川村で箕面のすぐ隣であった。
(平成19年の「庚申塔展」を参照し、建立順に並べました。)

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  1. 2009/09/26(土) 08:00:18|
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庚申塔


庚申塔(こうしんとう) 茨木市清水1 朝日橋 南西


青面金剛童子(しょうめんこんごうどうじ)  茨木市内では唯一の青面金剛童子の文字塔。
旧清水村と近隣村との酒井にって、風邪・せきなどの治病神・作神・福神ともになされ、また、村への悪魔の侵入を防ぐ。庚申が猿田彦神に付合されて道祖神(塞の神)の信仰とも結びついたものと思われます。 
茨木市教育委員会『わがまち茨木 石造物編』(1999.02.15.)より

庚申塔(こうしんとう)・庚申塚(こうしんづか) (Wikipedia
中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い。塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔の建立に際して供養を伴ったことから庚申供養塔とも呼ばれる。
庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀って宴会などをする風習である。
庚申塔の石形や彫られる神像、文字などはさまざまであるが、申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。 同様の理由で庚申の祭神が神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、猿田彦神は道祖神とも信仰されるため、庚申信仰が道祖神信仰とも結びつくこととなった。さらに仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。

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  1. 2009/09/25(金) 08:05:20|
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石の宗教

石の宗教 (講談社学術文庫)石の宗教 (講談社学術文庫)
(2007/03/09)
五来 重

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庚申塔と青面金剛
庚申塔は「庚申」という文字を彫った石塔と、「青面金剛」という忿怒形の密教的金剛童子を彫ったものがある。
庚申は中国の習俗として、庚(かのえ)申(かのえさる)に当る年を60年ごとの庚申年とし、これに当る日を庚申の日としたが、日本では60日ごとに当番の宿に講中があっまって夜明しをするのが庚申待(こうしんまち)である。
庚申の晩には宿になった家は、庚申の掛軸(青面金剛)を本尊として南向きに祭壇をかざり、御馳走をこしらえ、集まるとまず御馳走を頂戴してから、水や鰭の葉で体をきよめ、講宿主人の先達で般若心経を読んでから庚申真言「オン・コウシン・コウシンメイ・マイタリ・マイタリヤ・ソワカ」または「南無青面金剛童子」を少なくとも108回となえる。このあと申上げと称して、「南無阿弥陀仏」の念仏を21回3度となえる。念仏によって供養された祖霊はやがて神の位となり、「弔い切り塔婆」である神道式のヒモロギにまつられる。
このヒモロギが常磐木の梢と皮のついたままの枝で、これを仏教または修験道式に塔婆とよんだので、庚申塔婆となった。このようなヒモロギが変化して、やがて「板碑」になったとき、これに半肉彫で青面金剛が浮彫された石塔が庚申石塔なのである。
庶民信仰のヒモロギが石造化した場合は自然石文字碑になり、仏教化した塔婆が石造化した場合は青面金剛を書いた板碑形庚申塔になったものと理解している。
庚申信仰にももちろん外来宗教の影響をうけた。三戸虫(さんしちゆう)説がそれで、平安時代に「守庚申」として貴族のあいだに、中国道教の庚申信仰が入ってきた。
遊び好きの貴族のあいだにたちまち広まり、夜更かしの飲食と交際の口実に利用した。
庚申では「三戸虫(彰侯子、彰常子、命児子)よ、真暗なところへ向かって、我が身を離れ去れ」というのであるから、三戸虫を追い出そうとする祭であった。
この唱え言の三戸虫を離れ去らしむという思想が庚申塔の三猿になっている。猿を三匹とするのは三戸虫を「去る」ことを寓したものだろう。
ところが庶民の側の庚申には礼拝対象がり、庚申講には庚申の本尊というものがあって、神式ならば「庚申」または「猿田彦大神」という文字の掛軸であり、仏教式ならば「青面金剛」という仏像の掛軸である。
猿田彦神は「大田神」ともよばれ、豊作祈願になった。
庚申信仰の仏教化には、天台系修験の影響があり、関西の庚申信仰の本寺が、天台宗の大阪四天王寺庚申堂だったことにも関係がある。
このような仏教化も猿田彦神の神道化も職業的僧侶や神官の考えたことではあるが、いずれの場合でも民衆は、庚申は豊作の神と信じていた。
その豊作も庚申講で供養する先祖のおかげとしていたもので、庚申講には念仏がつきものであった。

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  1. 2009/09/25(金) 08:00:15|
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