続・竹林の愚人 2009年11月

生きるためにいちばん大切な「食」の話

生きるためにいちばん大切な「食」の話 (現代プレミアブック)生きるためにいちばん大切な「食」の話 (現代プレミアブック)
(2009/09/29)
柴田 明夫

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世界的な食料危機が迫りくるなか、日本は国産の農作物を増産して、41%という最低水準の食料自給率を少しでも上昇させなくてはならない。
1960年代以降の約50年間で、日本の農業・農村はひどく衰退してしまった。1960年、607万haだった耕地面積は、2008年には462haと24%減少し、水田は「減反政策」でピークだった1969年の344万haから2008年には251万haと、27%減少している。また、「耕作放棄地」は1975年の13万haから2005年の39万haへと、30年間で3倍になっている。農家戸数は1960年に606万戸だったのが、2008年は252万戸と58%減少。農業就業人口は、同期間で1454万人から299万人と80%減少している。農家の高齢化も進んで、65歳以上の人が約60%を占め、特にコメ農家では70歳以上の高齢者がなんと半分近くを占めている。
日本のコメ農家の大多数は、終戦直後の1947~1950年に実施された「農地解放」によって自作農になった元小作農だ。そして、1952年には「農地法」という法律を制定して、農地解放の結果を確固たるものにした。この農地解放と農地法によって、農家の生産意欲が高また一方で零細なコメ農家が大量に生まれることにもなった。
農村と都市の所得格差を解消するために行われた米価維持政策が、高度経済成長が進むにつれて、コメ農家が兼業化して、コメ農家の「零細構造」が固定化されることになった。1995年には「食管赤字」に財政が耐えきれず、食管法は廃止され、米価の自由化でいっそう下落し、2006年のコメ農家の平均農業所得は年間39万円と、時間と労力に見合った農業所得を得ることは無理だ。
高度経済成長以降、農地が社会インフラ、工場、団地やマンション、商業施設などに次々と姿を変えていき、田園地帯が「虫食い状態」になって、水田を集約化させることが困難になってしまった。農協も「農林中央金庫」の利益が農業の振興によって得られる利益よりもはるかに多かったから、本来の使命をないがしろにしてきた。
世界で食料を奪い合う時代が到来しているなか、日本のコメ作りは土壇場に来ている。
日本の「食」と「農」の土台であるコメ作りを守るためには、減反政策を段階的に廃止して、年間800万t台に抑えられているコメの生産量を、潜在能力最大の年間1250万tまでアップさせるべきだ。余剰分は備蓄に回せばよい。
減反を廃止しコメを増産すれば、米価は現在よりも下がるのは間違いなく、生嵐者の生計に影響が出る。このジレンマを解消するためには、アメリカやEUがしているような農家に対する「所得補助」が必要だ。その額は60kgのコメあたり、6500円程度が妥当で、減反の奨励金として使われている約3000億円の税金などをあてればよい。
重要なのは、税金のばらまきにならずに日本のコメ作りが持続・発展できるよう、補助の対象を、農業メインで生計を立てている大規模コメ農家に絞ることだ。
水田の集約化を進めるためには、農地転用の規制や耕作放棄地への課税強化などを進めることも必要だ。そして大規模な水田でコメを栽培する新しい担い手を育てる育成の場として農業大学校や職業訓練校を充実させるべきだ。また、一般企業の参入も促進するのだ。

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  1. 2009/11/30(月) 08:00:29|
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癒し散策 茨木の寺院

癒し散策 茨木の寺院癒し散策 茨木の寺院
(2009/09)
加藤 秀治

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茨木市内には、飛鳥時代から奈良時代に至って創建された、太田寺・穂積寺・三宅寺が存在していたが、今、現存する寺院の多くは、13世紀、室町時代中期以降の創建である。
その茨木で、真言宗の寺院は、真龍寺忍頂寺無量寺蓮花寺、大門寺の6ケ寺あり、大門寺が真言宗御室派で、ほかは全て高野山真言宗である。
宝亀2年(771年)、開成皇子が聖地を求めて当地に入り草堂を結んだのが神峯山大門寺金剛院の創建で、もとは青龍寺と号した。
開成皇子は桓武天皇の実兄で、大門寺、神峯山寺本山寺安岡寺霊山寺の開祖であると伝わる。皇子は霊地を求めて此の地に至ったとき、多聞の化身に遭い香木を得て丈一尺の如意輪観音の像を刻んで安置した。この仏像が大門寺の本尊として伝承されている。
その後、弘法大師空海がこの地に来て9年間逗留して、金剛・蔵王の2像を刻み、大門寺の守護神とした。
寺伝によると、貞観年中(859~877)には、本堂、無量寿堂、三重塔、御影堂、鎮守十二社権現拝殿、白山権現、護摩堂、鐘楼堂、中門、弁財天、経蔵、千手堂、楼門、奥院、薬王寺などの諸堂を境内に備え、隆盛を極めていた。
平安時代末期から鎌倉時代中期(1160~1260)頃の約百年間に、経尊と長賢が願主となり、大門寺一切経書写の一大事業が行われた。この経書写は北摂を中心とした近隣諸国の善男善女によるもので、総数数千巻の経典が書写された。
文治6年(1190)に発生した建久の地震で山岳が崩れ大きな被害を受け、元弘年中(1331~1334)には兵火のため荒廃に帰した。
江戸時代の初期、寛永19年(1642)、中興開山快我上人空寿(くうじゅ)により諸堂が再建されて現在に至る。
境内南西の高塚の頂上に常陸大明神と書かれた木村常陸介重奴の墓がある。木村常陸介は桃山時代の武将で、天正11年(1583)、賤ケ岳の戦いに参戦し、近江堂木砦の守将を務め、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いにも参加し武功を挙げた。それらの功績により天正13年(1585)、秀吉より越前府中(福井県武生)で12万石が与えられ城主となった。常陸介の人柄・力量は秀吉の認めるところとなり、関白豊臣秀次の執権職に就き、その勢威は石田三成にも匹敵するほどの重職の一人となっていた。しかし、文禄4年(1595)、秀次が秀吉の勘気にふれ高野山で切腹を命じられ、高野山を望む当寺へ登り、秀次の跡を迫って切腹した。その事柄は太閤記に詳しく述べられてある。常陸介の切腹した血染めの経惟子と所持していた刀・槍が大門寺に今も残されている。
また、江戸中期の頃、新西行法師として活躍した歌人似雲(じうん)法師は当山第8世住職守詮と親交があり、当寺へしばしば逗留して歌を詠むと共に、如意輪講式などいくつかの講式を書写している。

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  1. 2009/11/29(日) 08:00:08|
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空海の塔のコスモロジー

空海 塔のコスモロジー空海 塔のコスモロジー
(2009/03/30)
武澤 秀一

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インドで仏教の塔の古形をのこすものとして「世界遺産」サーンチーの仏教遺跡がある。紀元前3世紀、アショーカ王によって煉瓦造の塔が創建され、約百年の後、倍の大きさに増広された。円筒形基壇の上に大きな半球体が載り、土饅頭にたとえられるその中心に四角い箱状のハルミカーが載るなんとも奇妙な建造物だ。
大きな半球体はアンダ(卵)と呼ばれ、頂部に立つ柱は半球体をつらぬき、足元には聖者の遺骨が納められている。
中国の塔には木造、煉瓦造、石造の3種があり、現存するものとしては煉瓦塔が多いが、木造塔の形をルーツとしている。インドから塔が伝わった時、すでに木造楼閣建築の形式が確立していて、各階に床が張られ、楼閣が多層化され、より垂直的な外観をもつようになった。もはや、インドの塔の面影はない。

日本初の塔は飛鳥寺で、続く四天王寺、創健法隆寺も五重塔であった。飛鳥寺では塔を中心に3つの金堂が配置され、塔が伽藍の中心に君臨していた。
6世紀末に飛鳥寺に本格的な五重塔が出現するまで、日本において塔とは掘立て柱のことだった。五重塔が実現されて、縄文以来の掘立て柱は塔の中心に、心柱として荘厳された。
8世紀のなかば、聖武天皇は釈尊ブッダを本尊とし、東大寺を全国の総元締めとして七重塔をもつ国分寺を建てるよう全国各地に発令した。東大寺では七重塔が東西に2つ並び立つが、塔は伽藍中枢の聖域から外に出されてしまう。現存しないが、各地の国分寺も列柱回廊に囲まれた伽藍中枢の外、東か西かに高さ60mほどの七重塔を実現したものが多い。
桓武天皇は794年、都を平安京に遷し、南北につらぬく朱雀大路を中心軸とし、羅城門をはさんで左右対称に東寺、西寺という2つの官寺が造営された。伽藍配置は南大門-中門-金堂-講堂-食堂が南北に一直線につらなり、五重塔が東南の隅に1基ぽつんと離れて建つ。東寺を時の天皇から空海に与えられたとき、すでに金堂の建物は完成し、伽藍配置を変えることはできなかった。この制約を受け容れたうえで、塔に金剛界四仏を東西南北に配して、心柱を密教の最高仏である大日如来として、日本古来の柱信仰とインド・中国伝来の大日如来を見事に融合させた。
飛鳥寺五重塔の建立から200年以上経った平安前期、中国で遠ざけられていたインドの「卵」を日本で復活させた。空海による高野山の創建大塔である。
空海はインドの塔に二層にわたって和風の屋根をかぶせた。このような形の塔は、インドはもちろん、中国にも朝鮮半島にも見いだせない。「卵」の部分は亀腹(かめばら)と呼ばれ、木材で下地を造り、表面は白い漆喰で仕上げられる。伝統的な五重塔では、インドの塔の生命感、宇宙観が見えなくなってしまう。そこで編み出されたのが、伝統的な屋根を塔全体にかぶせ、さらには巨大な「卵」に直接取り付けて「卵」は一部だけ見せるという、大胆な折衷的デザインであった。
空海が構想した伽藍配置は、同形同大の2つの塔を東西に並べ、南北に通る伽藍の中軸線上にのせて手前に講堂を配するというものであった。東の塔が胎蔵マンダラ、西の塔が金剛界マンダラを体現し、両部マンダラの世界を出現させようというのである。
そこには金堂がなく、本尊をまつる金堂の機能は、2つの塔に移された。結局、大塔は1つで終わり、残念なことに創建大塔は994年、落雷により焼失した。現在、大塔は和歌山県にある根来寺の大塔1基のみで、法隆寺五重塔を上回る37mの高さをもつ。

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  1. 2009/11/28(土) 08:00:54|
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同聚院



同聚院(どうしゅういん) 京都市東山区本町15-799
臨済宗大本山東福寺の塔頭
文安元年(1444)に文渓元作禅師(東福第160世)が、その師琴江令薫禅師(東福第129世)を開山に勧請して創立した寺。

 不動堂
 [十万]不動明王 
寛弘3年(1006)に御堂関白藤原道長公が、40の賀にあたって、丈六の五大明王を安置する雄大壮麗な五大堂を法性寺境内に建立した。この五大堂に安置せられた丈六の五大明王の中尊で、仏師康尚の作。
じゅうまん不動と尊称される由来は「土力」または「十万」を一字にしたものといわれ、「土力」即ち土の力とは産土のことで、土地を守る仏という意味。

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  1. 2009/11/27(金) 08:05:27|
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東福寺

 北門
東福寺(とうふくじ) 京都市東山区本町15-778
臨済宗東福寺派大本山 慧日山 (えにちさん)
開基(創立者)は、九条道家、開山(初代住職)は聖一国師円爾(しょういちこくしえんに)


仁王門(重文) 慶長2年(1597)に三聖寺の仁王門として建立。
三聖寺廃寺後は万寿寺仁王門となり、今は東福寺仁王門となる。三間一戸の八脚門。


通天橋 仏殿から開山堂に至る渓谷に架けられた橋廊。昭和36年再建。
天授6年(1380)に春屋妙葩(しゅんおくみょうは)が谷を渡る労苦から僧を救うため架けたと伝えられる。

 勅使門


三門(国宝) 応永年間(1394-1428)、足利義持の再建で、昭和52年(1977)大修理。
現存する禅寺の三門としては日本最古のもの。大仏様の二階二重門。


東司(重文) 室町時代唯一、日本最大最古の禅宗式の東司(便所)の遺構。


浴室(重文) 京都最古の浴室建築の遺構。

 
五社明神(成就宮) 鎮守社    もと法性寺の鎮守と伝える。

 
石清水・賀茂・稲荷・春日・日吉の五社神を祀る。              荒熊大明神

 大鐘楼 寛文11年(1672)建立。

十三重石塔(重文) 
台石に康永2年(1343)の刻銘がある
高さ450cmの花崗岩製。


法堂(仏殿) 本尊:釈迦三尊像  明治14年(1881)焼失、昭和9年(1934)再建。

日蓮柱之碑
本堂巽(南東)の柱は,日蓮が迫害を受けたとき、聖一国師が庇護したという縁で、日蓮宗が寄進した。
これに習い、昭和の本堂にも日蓮宗門徒が台湾阿里山檜を寄進した。


禅堂(重文) 貞和3年(1347)再建。僧堂、選佛場ともいう座禅専修の道場。

 鐘楼と経蔵
銅鐘(重文)は平安初期のものとされ、もと西寺にあったものを九条道家が寄進したという。


庫裏 明治14年(1881)焼失し、明示42年(1909)竣工した昭憲皇太后の恩賜建築物。


恩賜門  昭憲皇太后の寄進とつたえる向唐破風の方丈表門。

 
方丈 1890(明治23)年再建。

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  1. 2009/11/27(金) 08:00:59|
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最勝金剛院


最勝金剛院(さいしようこんごういん) 京都市伏見区深草車阪町5
摂政忠通の室宗子の発願により、久安3年(1147)着工し、、同6年法性寺の域内東方の地に建立された。
丈六の阿弥陀像を安置した法性寺中、最大の寺院であったが、のちに東福寺の建立によってその末寺となり、室町時代の頃には全く衰退してしまった。


九条家の墳墓の管理と名刺の復活を兼ね、昭和46年(1971)秋、その旧地に近いところに再興された。
臨済宗東福寺派の 特別由緒寺院。

  八角堂   
九条兼実公御陵並びに九条家歴代墓を奉る。

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  1. 2009/11/27(金) 07:55:11|
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ハワイで第二次大戦中の日本のスーパー潜水艦が見つかる


World War 2 Japanese Super-Submarine Found In Hawaii Jesus Diaz

60年間海の底に埋もれていた日本のサムライサブマリン「イ-201」が発見されました。
この第二次世界で最速の潜水艦は、終戦後米軍に接収されて調査され、
ソ連の目に触れさせない為、1946年ハワイ沖で撃沈されました。


HUNT FOR THE SAMURAI SUBS (NATIONAL GEOGRAOHIC)


イ-201型 潜水艦

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  1. 2009/11/26(木) 19:58:23|
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東福寺

新版 古寺巡礼京都〈3〉東福寺新版 古寺巡礼京都〈3〉東福寺
(2006/10)
福島慶道 檀 ふみ

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永井慶洲(東福寺寺務長) 慧日山東福寺の歴史
現在、東福寺の境内地は元々法性寺という藤原氏の氏寺であった。延長牢間(923~31)に左大臣藤原忠平(貞信公)によって創建され、特に忠平の曾孫にあたる藤原道長は寛弘3年(1006)に丈六の五大明王像を奉安した五大堂を新造。現在塔頭同衆院の[十万]不動明王像はこの五大堂の中尊といわれている。その後、摂政藤原忠通は久安4年(1148)にその室宗子のために最勝金剛院を建て、丈六の阿弥陀像を安置。忠通の三男関白九条兼実も丈六の阿弥陀像を造立し、月輪殿を構えた。法性寺は忠平以来鎌倉中期に至る300有余年間、藤原氏歴世の崇敬する寺院として栄えた。
兼実の孫、摂政関白九条道家も境内に一字の釈迦堂を建立しようとし、法性寺は合併吸収され廃滅した。
摂政関白九条道家によって創建された慧日山東福寺は嘉禎2年(1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成した。旧仏教側との摩擦を避けるため、天台・真言・禅の三宗兼学の道場とし、道家の発願文にあるように「洪基を東大に亜ぎ、盛業を輿福に取る」と、南都東大寺と興福寺の二大寺の各一字を採って寺名にした。
寛元元年(1243)に円爾弁円(聖一国師)を招いて開山に仰ぎ、同4年(1246)山内に普門寺(現普門院)を建て、円爾の常在所とし、建長7年6月に至ってようやく大仏の落慶をみた。仏殿本尊の釈迦仏像は15mで新大仏寺と呼ばれていた。日蓮上人も円爾の恩に報いるべく、一材を寄せてこれを賀したといわれる。
道家は完成を見ずに建長4年(1252)、光明峯寺で没したが、その遺志は嗣子頼経(四男)や一条実経(三男)、二条良実(二男)に引き継がれ、寺運は隆盛におもむいた。
鎌倉末期の元応元年(1319)、建武元年(1334)、同3年(1336)の相次ぐ火災で大部分を消失するも、被災4ケ月後には復興に着手し、貞和3年(1347)に前関白一条経過による仏殿の再建が行われ、室町幕府も諸堂の修復に協力を惜しまなかった。
しかし、応仁の乱が勃発すると山名軍が乱入し、塔頭の大半を兵火によって消亡。ついで享禄3年(1530)の天下大乱には細川晴元の軍陣となり、更に天文3年(1534)9月には京極高次の大兵が陣営して被害を蒙り、昔日の面影を失ってしまった。
天正13年(1585)、豊臣秀吉から寺領の寄進と、惟杏永哲(いあんえいてつ)や安国寺恵瓊(あんこくじえけい)による伽藍の修補が行われた。通天橋も慶長2年(1597)、秀吉によって掛け替えられた。その後、徳川家康・家光らによって保護修理が加えられ、永く京都最大の禅院としての面目を保つことが出来た。
明治維新による寺領の上知によって莫大な寺域を失い、塔頭70余ケ寺は合廃寺の制令により半減し、更に明治14年(1881)12月16日夜、方丈より出火、仏殿・法堂・庫裡・西茶堂を消失し、本尊は隻手を残しただけで烏有に帰した。その後、明治23年(1980)に方丈、同43三年(1910)に庫裡を再建し、仏殿兼法堂は昭和9年(1934)4月に落成した。鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して、現代木造建築の精粋を遺憾なく発揮しているといわれている。

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  1. 2009/11/26(木) 08:00:58|
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新熊野神社


新熊野神社(いまくまのじんじゃ)  京都市東山区今熊野椥ノ森町42
永暦元年(1160年)、後白河上皇によって法住寺殿の鎮守社として創建。
応仁の乱以降の戦火で廃絶同様の状態を、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院が再建。

  狛犬


 拝殿

 本殿  
祭神:熊野牟須美大神(くまのむすび・イザナミ)
寛文13年(1663)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)造営。

 上社 
熊野家津美御子大神(けつみこ・スサノオ)・速玉之男大神(はやたまのを・イザナキ)

 中四社
忍穂耳命(おしほみみ)・瓊々杵命(ににぎ)・彦穂々出見命(ひこほほでみ)・鵜茅草葺不合命(うかやふきあえず)

 若宮 
皇祖天照大神(あまてらす)

 下四社
軻遇突智命(かぐつち)・埴山姫命(はにやまひめ)・彌都波能売命(みづはめ)・稚産霊命(わくむすび)

 樟社 影向(ようごう)の大樟
紀州熊野より移植した後白河上皇お手植の樟で、樹齢は900年と推定されています。

 能楽の碑
日本能楽史上紀元元年といわれる応安7年(1374)観阿弥・世阿弥父子が足利三代将軍義満の面前で「猿楽」を演能した地を記念した建碑。

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  1. 2009/11/25(水) 08:20:20|
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善能寺



善能寺(ぜんのうじ) 京都市東山区泉涌寺山内町34
真言宗泉涌寺派 泉涌寺塔頭
元西八条猪熊二階堂町に在り、平城天皇の勅願寺で二階観音堂といったが、弘仁14年(823)弘法大師が稲荷大明神を祀る寺として善能寺と号した。その後、 天文20年(1551)、後奈良天皇の綸旨により泉涌寺の護持院として今熊野観音寺の西北に移される。明治に荒廃し、明治20年(1887)現地に移る。



祥空殿 本尊:聖観音菩薩
昭和46年()1971のばんだい号墜落事故の遺族の寄進により、すべての航空殉難者の慰霊と事故の絶無を祈願して建立された。


枳尼(だきに)尊天を祀る最初の寺で、国稲荷神の本地仏としての信仰がある。

 
稲荷社

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  1. 2009/11/25(水) 08:15:40|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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