続・竹林の愚人 2009年12月

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幣久良神社 考2

吉井良隆氏の『式内社調査報告』によると、幣久良神社は
【所在地】当社は、明治41年2月24日付をもつて安威の式内社阿為神社に合祀されたので、現在の所在地は阿為神社である。
明治年間の明細帳によれば、嶋下郡耳原村字百舌鳥野に鎮座していた。後に三島郡三島村大字耳原に変った。
【祭神】当社の祭神は倉稲魂命であったが後に宇賀御魂神に変更されている。何れにしても、かつてはその土地の農業神を奉斎していたものである。
【社殿】合祀前の社殿を明治明最帳によると、本殿桁行三尺八寸、梁行三尺八寸、拝殿桁行二間、梁行一間半、表門桁行五尺四寸、梁行三尺三寸、腕木路次門桁行四尺二寸、梁行三尺、同桁行三尺、梁行二尺一寸ときされている。


幣久良神社現今境内之図(部分)
また、阿為神社は
【祭神】本社の祭神は、現在、天兒屋根命を主神に応神天皇、宇賀魂神、菅原道真公の四柱を祀る。
境内神社は底筒男命社(底筒男命)、猿田彦神社(猿田彦大神)、保食神社(保食神)、金山彦神社(金山彦命)、市杵島姫神社(市杵島媛命)、火明神社(火明命)、出雲神社(速素盞鳴尊)、大年神社(大歳大神)、天満菅原神社(菅原道真公)、鹿嶋神社(武甕槌大神)の十社がある。
祭神のうち、応神天皇は同村奉幣神社の祭神であったのを明治40年4月5日に合祀、宇賀御魂神は式内社幣久良神社の合祀による(明治40年2月)、菅原道真公は無各社菅原神社を明治45年6月に合祀したのによる。

明治の合祀で、各々の氏子が今まで大切にお守りしていた神様を同じだからと簡単に切り捨てられてはたまりません。
ですから、道真公は本殿と境内社との両方にお祀りしています。
 菅原神社


問題は阿為神社境内でひときわ高い位置になる稲荷神社です。
祭神が宇賀御魂神ですから、幣久良神社がこちらに鎮座されているように思われがちです。


阿武山大鳥居  バス停西塚原から武士自然歩道が始まりますが、100m程登るところに聳え、この大鳥居の正面は安威地区です。


石灯籠も上部は失われ、左手に「稲月大神旧蹟」との石碑があります。


阿為神社境内にある稲荷社と阿武山の稲荷を線で結ぶとその線上に大鳥居があることが分かります。
つまり、阿為神社の境内社は阿武山稲荷社を移したものだったのです。

では、幣久良神社の宇賀御魂神はどちらに鎮座されているのでしょうか?
やはり『式内社調査報告』にあるように阿為神社本殿です。

阿為神社 本殿
主神:天兒屋根命
応神天皇・・・・奉幣神社    (明治40年4月5日合祀)
宇賀御魂神・・式内社幣久良神社(明治40年2月24日合祀)
菅原道真・・・・無各社菅原神社 (明治45年6月合祀)
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  1. 2009/12/31(木) 08:00:45|
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幣久良神社 考

私の摂津探訪でガイドブックとしている『摂津名所図会』に「幣久良神社」が記載されています。



巻之五 島下郡
幣久良神社(みてぐらのじんじゃ) 耳原村にあり。鍬靱。『延喜式』に出づ。生土神とす。今稲荷大明神と称す
幣杜(みてぐらのもり) 社頭の神籬をいふ
 『八雲御抄』
 月夜にもてくらの杜もくらからずましてしらのの浜いかならん 読人しらず


幣久良神社は『延喜式』神名帳に出てくる式内社で、
明治41年(1908)2月24日に同じく式内社である阿為神社(あいじんじゃ)に合祀されました。
では、今はない幣久良神社の旧地はどこでしょうか?

合祀された神社跡が御旅所として存続することがあります。


耳原に阿為神社御旅所がありますが、茨木市教育委員会が建てた案内板には幣久良神社の名が認められず、ここではないようです。

戸原吉昭さんの社寺巡拝記「摂津の式内社/阿為神社」がよく調べられていますので紹介します。



【幣久良神社】
 祭神--倉稲魂命(宇賀御魂命ともいうが、異名同神)

 延喜式神名帳に『摂津国嶋下郡 幣久良神社』とある式内社だが、明治末期の神社統合で式内社・阿為神社に合祀されている(明治41年1908)。幣久良とはミテクラ(orヘクラorテクラ)と読み、御幣の略語ともいう。

 由緒・旧鎮座地など当社に関する資料が少なく、詳細不明だが、諸資料とも、旧鎮座地が嶋下郡大字耳原(現耳原町)にあったことでは共通し、
 ・耳原村にある。古く西成郡御幣村(現大阪市西淀川区御幣島か)にあった宮を、故あって此所に遷した(稿本・名葦探杖1776)。
 ・三島郡大字耳原の北方、幣久良神社の境内に老松の大樹があり、之を幣久良社とす(大阪府誌1903)。
 ・幣久良神社の址は西方・毛受野(毛須野、モズノ)にあり。明治41年安威村大字安威の阿為神社に合併されて今はないが、
  その社頭は幣久良の社と呼び、老松が天に聳えている(大阪府全志1922)。
 ・往古より幣久良の森にあったが、元禄11年(1698)百舌鳥野(毛受野)小松原の中瑠璃光院の西に移した(式内社調査報告1977)。
などの資料があるが、旧字名など不明のため場所の比定は難しい。

 当社には
 「昔、この辺りは“手くらの杜(モリ)”と呼ばれ、諸木が繁茂していた。ある時、当社の神輿を子細があって附近の池(御手洗池)に埋めた。池の際に一本の木があり、元禄の頃、社殿修復のためこの木を動かそうとしたが数間動いただけで、動かなくなったので、村人は神木に違いないとして、そこに植えた。その後、ある村人が畑を作るためにこの木を伐ったところ、忽ち病となって死んでしまった。その後、寛保2年(1742)ある村人が池を掘り、その後2年を経た延享元年(1744)神木のもとに小社を建てて祀った」
との伝承があったという(式内社調査報告1977・大意)。
 この伝承からみて、当社本来の祭神は水に関係のある農業神で、それは今の祭神・ウカノミタマ(稲荷神=稲の神)に引き継がれているといえる。
 耳原町の西約800mほどに耳原公園がある。北東側に池・南西に小山があり、池の廻りが公園に、山中に遊歩道が巡っている。今、山の頂には明治天皇・大正天皇が此所にお立ちになったことを記念する石碑が立っている。

 この小山を“幣久良山”と称し、池があることからみると、神社の旧地はこの辺りだったのかもしれない。



幣久良山(てくらやま) 茨木市耳原3 
古墳を思わすこの丘陵に神社があってもおかしくはありません。
現在は耳原公園の中にあり、南斜面は地域の墓地となっています。

阿為神社の森川宮司も「幣久良山にあったと聞いています」とのこと。これで決まりと思っていました。

ところが、福井の新屋神社の神田宮司さんから貴重な資料を見せて頂きました。
新屋神社は正式には新屋坐天照御魂神社(にいやにいますあまてるみたまじんじゃ)といい、式内社の名神大社です。
維新政府の神仏分離令で新屋神社も慶応4年4月5日に氏子総会をもちますが紛糾し、ようやく高槻藩より「新屋神社の祭祀は向後神官を以て致すべし」との達しにより5月3日に福井の国学者神田正武(こうだまさたけ)氏が選出され、以後神田家が神官を務め、神宮寺・正法寺は廃止され、明治2年1月仏像は真龍寺へ移されました。
その社格の高さから島下郡にある神社の纏め役を務め、神田正武氏が明治7年8月に大阪府権知事 渡邊昇宛に提出した控えがあるというのです。
『摂津国島下郡第一区 村々神社明細書上控』です。吉井良隆氏の『式内社調査報告』で「明治明細書によると」とありますが、この書のことと思われます。
その幣久良神社の絵図がこれです。


絵図下に東西を横断する西国街道が左右宇に描かれ、左手には白井河原で知られる茨木川があり、その右に幣久良山が見えます。幣久良池を挟んで画面中央の小さな丘に反正天皇陵とあり、これはまさしく

鼻摺古墳(はなずりこふん)です。

そして右手にははっきり石室とわかる丘に松が植わって、
但し書きに  北邉渾テ百舌鳥野ト云  古老傳曰 履中天皇陵  とあります。

耳原古墳(みのはらこふん)です。

GoogleMapに当てはめてみると



現地に行くと、参道と思われるところはテイジンの敷地西側のフェンスに囲まれた所で入れず、その先の道がこのあたり。


安威南一号公園 この付近が幣久良神社の旧蹟であると思われます。

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  1. 2009/12/30(水) 11:35:00|
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「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!

「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296)「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!
(宝島社新書)

(2009/09/10)
安本 美典

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奈良盆地の三輪山の麓、奈良県桜井市箸中に大前方後円墳、箸墓(はしはか)古墳がある。『日本書紀』には、箸墓古墳は第十代崇神天皇の時代に築造されたと記され、崇神天皇のおばの倭迹迹日百襲姫(やまととびももそひめ)を葬ったものであるという。
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(平川南館長)の研究グループが、「炭素14年代測定法」という「科学的な方法」を用いて、奈良県桜井市にある箸墓古墳が、ほぼ邪馬台国の女王卑弥呼が死んだとされる西暦240~260年ごろに築造されたことが推定できた、と発表。マスメディアでの華やかな大宣伝のすぐあと、2009年5月31日、早稲田大学で歴博の研究グループ(春成秀爾氏)は、「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」説を強い確信の言葉とともに述べた。
歴博は平成16年から5年間にわたり、総額4億2000万円の『学術創成研究費』を得て、『弥生農耕の起源と東アジアー炭素年代測定による高精度編年体系の構築』の研究を推進しており、その中心が炭素14年分析関係である。
炭素14年代測定法による年代は、注意深く用いれば、大略客観的年代を与えるが、測定誤差や試料による年代差がきわめて大きい。
土器の編年については「庄内式土器」の時代の後に「布留式土器」の時代がきて、それに続いて「須恵器」の時代がくることが考古学界の共通見解となっており、1970年ごろまでは、庄内式土器も布留式土器も、4世紀のものとみるのが多数意見であった。それが、2001年に『ホケノ山古墳 調査概報』が出ておかしくなる。
この『ホケノ山古墳 調査概報』では、「古木効果(大きい木の中心部だと年代が古く出る。再利用でも、風倒樹の利用でも年代が古く出る)」をもつ可能性のある木材を、炭素14年代測定法による測定で、かなり古い年代としたので、庄内式土器中葉とみられるホケノ山古墳の年代を繰り上げる人たちが出てきた。
それが、2008年の報告書『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所編)で、「古木効果」がないとみられる試料で、炭素14年代を測定すると、4世紀後半を示し、時代が何百年も大きく下ることになった。
考古学と炭素14年代測定法とがお互い支えあって、古い年代が証明されているようにみえて、実は誤った方向に進んでいたのだ。
倭迹迹日百襲姫は、崇神天皇の時代に亡くなって箸墓に葬られたと『日本書紀』に記されているから、箸墓古墳の築造時期はおよそ西暦350~370年ごろとなる。
炭素14年代測定法による年代、土器から推定される年代と、文献から推定される年代の3つがほぼ完全に一致して、箸墓古墳の築造は西暦350~370年ごろを指し示している。これは歴博の研究グループの「歴博仮説」が示す年代よりも、およそ百年新しい。
歴博の研究グループの今回の発表は、要するに「箸墓を卑弥呼の墓にしたい」という意志に合うように炭素14年代測定法のデータのつぎはぎをしているだけで、ほとんど信用するに足らず、第二の「旧石器捏造事件」と呼んでもよいほどだ。

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  1. 2009/12/29(火) 08:00:12|
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日本は原子爆弾をつくれるのか

日本は原子爆弾をつくれるのか (PHP新書)日本は原子爆弾をつくれるのか (PHP新書)
(2009/01/16)
山田 克哉

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イデオロギーや政治的問題は抜きにして、日本がいますぐに核武装をすることは可能だろうか?
日本の高速増殖炉「もんじゅ」は1995年12月8日のナトリウム漏洩事故による運転停止まで1年半運転をしていたので、プルトニウム239の濃縮度96%以上の良質の兵器級プルトニウムが60kg以上溜まっているはずで、これは長崎型原爆ファットマン10発分だ。
原子力発電所から取り出した使用済み核燃料を再処理して得られるプルトニウムを原子炉級プルトニウムというが、これは44tもある。
だから、ある政治家が「原爆をつくろうと思えば5000発ぐらいはできる」と豪語した。
原子炉級プルトニウムで原爆がつくれるのなら日本は潜在的な核保有国である。
だが、原子炉級プルトニウムには原爆に必要なプルトニウム239が60%ぐらいしか含まれておらず、さらに未熟爆発の原因となるプルトニウム240が含まれている。
アメリカ・エネルギー省は1962年、原子炉級プルトニウムを使った原爆の実験をし、その規模は20キロトンで長崎に投下されたファットマンと同規模であると発表している。
ということは、原子炉級のプルトニウムを使っても原爆はつくれるが、プルトニウム240の自発核分裂によって生ずる未熟爆発のためにその威力は1キロトン前後に留まる。それでもTNT100万t前後の威力がある。
青森県六ヶ所村にあるウラン濃縮装置では、原爆に必要な濃縮度(90%以上)にまで濃縮される状態にはなっていない。これは、わざとそのようにしているものと思われる。
だから、いますぐ濃縮ウランを使って原爆をつくれと言ってもできる状態ではない。
いずれにしても日本が核武装するとなれば、まず「核拡散防止条約NPT」から脱退し、IAEAの査察を避けなければならない。そして、日本各地から人材を集め、核兵器製造の中心的な役割をする「核兵器開発中央研究所」を秘密裏に建設し、研究グループを結成せねばならない。
しかし、現在の日本はいますぐ原爆を開発できるような状態にはなっていない。まず何よりも「予算獲得」と「設備投資」で、外国からの技術援助一切なしにすべて日本独自の核開発をするとすれば、3000億~4000億円は必要とされる。
まず「もんじゅ」を再運転させ、あるいは「高速増殖炉」「黒鉛炉」「重水炉」を建設して兵器級プルトニウムの生産を急がねばならない。
爆縮レンズは世界でもっとも精巧でもっとも軽い爆縮レンズを製作できるだろう。レーザー法濃縮は理化学研究所に任せればよい。現在のコンピュータ・シミュレーション技術を駆使すれば、原爆の炸裂状態を知ることもできるだろう。
核弾頭ミサイルの開発では宇宙航空研究開発機構(JAXA)が2007年9月、ロケット「かぐや」の成功実績をもつので、やり遂げるだろう。
このように現状を考えると、日本が外国から一切の技術援助も材料も受けることなしに一から核兵器を開発するとなると、数ヵ月や1年での開発は無理だが、原爆1個だけの製造なら3年もあれば十分ではないかと思っている。

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  1. 2009/12/28(月) 08:00:27|
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「悪所」の民族誌

「悪所」の民俗誌―色町・芝居町のトポロジー (文春新書)「悪所」の民俗誌 (文春新書)
(2006/03)
沖浦 和光

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江戸時代から「悪所」と呼ばれていた地域は色里・遊里と芝居町である。この両所はすぐ近くに併存していて、そこが近代に入って「盛り場」になったケースが多い。また、そのすぐ近くに、そこを旦那場(縄張り)とする被差別民の集落があった。
遊里を経営する者は「傾城屋」と呼ばれ、芝居で活躍する役者は「河原者」と呼ばれて、いずれも近世の身分制では周縁の民とされていた。釜ケ崎・飛田・天王寺、そして西浜の周辺が典型的な「場」だった。
明治初期の「盛り場」は道頓堀・難波新地で、北の新地・天満・天王寺、それに千日前と新世界ができていた。
千日前はもと火葬場と刑場のあった大きい墓地で、香具師と葬儀屋の親方によって維新後に、安物の寄席や見世物小屋が建てられた。だが、1912(明治45)年に難波新地の遊廓から出火した「ミナミの大火」で、焼き尺くされ、全面的な再建計画が実施され、立派な映画館が多く、道頓堀よりも一段とモダンな、時代の最先端をいく「盛り場」になった。
「西浜」は近世では「渡辺村」の名でよく知られ、太鼓の生産は質量ともに日本一で、大名に金を貸したという大尽もいた。生活のための生業とは別に、警固・追捕・刑更などの役務が役務として課せられたゆえに「役人村」とも呼ばれた。
そして、歌舞伎・人形浄瑠璃・説経芝居・見世物など、道頓堀界隈の興行権とも関わり、市中の露天行商を取り締まる旦那場権や、火消し役も担わされ、小便担桶(たごおけ)の集荷権を持つ代表的な都市部落だった。
大坂の「非人」集団は、大坂市中三郷の周辺に配置され、天王寺・鳶田(飛田)・道頓堀・天満の四ヵ所で「四ヵ所の垣外(かいと)」と呼ばれた。
遊里と表裏一体の関係にあった「芝居町」は、遊女歌舞伎→若衆歌舞伎→野郎歌舞伎という階梯をたどって発展していった。
近世前期を代表する「歌舞伎」「人形浄瑠璃」「説経芝居」は、すべて中世後期に胚胎した餞民文化の系譜を引くもので、「河原者」「河原乞食」とさげすまれながらも、新しい舞台構造と演技様式を創造していった。
大坂の新町は、寛永7(1630)年ごろから市中に散在していた遊里を一ヵ所に集めて造られた。道頓堀瓢箪町、阿波座堀、天満葭原町など七ヵ所の遊里を、沼地を埋め立てた新開地に集めて、新町(現・大阪市西区新町)と総称した。周りに壕を掘り竹垣をめぐらして一般町域との境とした。
この新町は、船場に近く、各種の商談や得意接待の場として利用された。元禄15(1702)年には揚屋28軒、茶屋49軒、遊女823人を数えた。商都大坂の社交・文化センターとして活況を呈し、西鶴の『好色一代女』や近松門左衛門の『冥土の飛脚』など多くの文芸作品の舞台となった。

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  1. 2009/12/27(日) 11:32:16|
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小野八幡神社


小野八幡神社(おのはちまんじんじゃ) 神戸市中央区八幡通4-1-37
光孝天皇の仁和3年(887)に創建。寛平年間(889~)、神前の七草を宮中に献上。
源平合戦後、源頼朝は河原太郎・次郎兄弟の功を賞し、報恩寺を建て当神社立を寺の鎮守とした。
現在地に遷ったのは戦後のこと。



 
青銅狛犬 昭和25年建立


拝殿


本殿 祭神:応神天皇


金比羅神社


巳神社


白玉国高稲荷神社


    慰霊

   電信電話公社 総裁 米澤 滋 書

   昭和20年3月17日未明の空襲により
   この地において職に殉じた神戸中央
   電話局葺合局職員の霊をまつる


犠牲になった女子7名の電話交換手は「通信を確保せよ」という軍令を受け、周囲が火の海と化していたにも関わらず、必死に電話を繋ぎ続けたという。





宮司の次女、涼恵(すずえ)さんは
世界にたった1人の神職の歌手です。

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  1. 2009/12/26(土) 08:10:55|
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茶工場遺構


居留地97・98番地遺跡 神戸市中央区江戸町 
神戸市役所の建替え工事に伴う解体工事で、煉瓦建物の基礎が発見されました。旧居留地での発掘調査は今回が初めて。
明治時代に日本茶を加工した作業場とみられ、文献などで明治期の「ヘリヤ商会」が所有していたとされる場所です。


炭や灰で汚れた土間を挟んで床に煉瓦を敷き詰めています。


現地で神戸市教育委員会の職員の方から説明を伺いました。遺構は3期にわたり、1期は明治時代のヘリア商会の輸出用茶の加工を行った作業場であったと考えられます。


輸出用の茶は産地から荒茶として、神戸のお茶場と呼ばれる再製工場に運ばれ、品質を維持するために鉄釜で火入れ乾燥して梱包されます。


レンガは刻印から関西煉瓦・堺煉瓦・貝塚煉瓦など大阪南部で生産されたモノで、Ⅱ期Ⅲ期でもⅠ期で床面に敷かれた煉瓦を使い回しています。




当時の輸出用茶箱のラベル

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  1. 2009/12/26(土) 08:05:06|
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こうべ花時計


こうべ花時計 神戸市中央区加納町 神戸市役所北側
日本ではじめて作られた花時計です。2色のハボタンで来年の干支であるとらを表しています。
1957年設置。

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  1. 2009/12/26(土) 08:00:51|
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軽石

軽石―海底火山からのメッセージ軽石―海底火山からのメッセージ
(2009/04)
加藤 祐三

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軽石は穴だらけのガラスで、たくさんの穴を含んだ多孔質だから水に浮く。
マグマが上昇して外圧が減少し、何らかの原因で地表に通じる穴が開くと、この穴を通ってマグマが地表に向かって上昇して噴火する。マグマが上昇するにつれて圧力がどんどん下がって、中にとけ込んでいた水蒸気が泡になって分離し、発泡が進むと同時に温度が下がるので、マグマは粘っこくなり、やがて固まる。これが細かく砕かれて、穴だらけの岩片になって火口から吹き飛ばされたものが軽石で、細かくなったものは火山灰となる。
関東大震災の翌年の1924(大正13)、沖縄県八重山諸島の西表島北で、海底火山が突然噴火した。
偶然にも近くを大阪商船株式会社の貨客船宮古丸が航行し、船長の加納直市が記録している。これが噴火を記録した唯一の資料で、その報告書に「北東の強風」とあり、噴出した膨大な軽石がこの風で西表島に吹き寄せられたと思われ、八重山諸島の海は軽石で埋め尽くされ、各港では船の出入りに困難を感じたという。
西表海底火山の噴火によって大量の軽石が漂流し始めたことを知った神戸海洋気象台の関和男は、全国に軽石漂着の有無を問い合わせると、全国から大量の報告と軽石サンプルの送付があった。これをまとめた関は、1926年に論文を発表した。
最も早く軽石が到着したのは3週間後、沖縄本島で、沖縄本島を過ぎた後も、軽石は北東に漂流を続け、沖縄本島の西岸を通過するあたりから二手に分かれた。一つは黒潮に乗って東に分かれ、九州・四国・東海・関東の沖を流れて銚子沖から東の太平洋に向かい、一部は北上して宮城県沖に流れた。一方、西に分かれた軽石は対馬海峡を抜けて日本海に入り、最も北では北海道の礼文島で確認されている。途中、一部は津軽海峡を東に抜け、三陸の宮古で確認されている。
こうして、それまではっきりしていなかった日本付近の海流の様子が明らかになった。
1986年1月18日から福徳岡ノ場で海底火山噴火があり、2日後の20日、新しい島ができた。位置は北緯24度17.1分、東経141度28.9分で、東京の南、八重山諸島の東に当たる小笠原諸島である。
海上保安庁の調査船「拓洋」が、同月20日の朝8時28分、福徳岡ノ場南南西約10kmの洋上で漂流中の軽石を採集していた。
これを琉球列島に漂着した軽石と同じ観察・分析に取りかかると、実験の結果はすべての項目で見事に一致し、琉球列島に漂着した軽石が福徳岡ノ場起源であることが明らかになった。
野外での地質調査では露頭ではない岩石は採集しないという地質学の常識があり、漂着軽石はどこから来たのかわからないから、化学分析をしても意味がないと思われたが、今回はそれを覆す結果となったのだ。

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  1. 2009/12/25(金) 08:00:18|
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日本の植民地建築

日本の植民地建築―帝国に築かれたネットワーク (河出ブックス)日本の植民地建築
(河出ブックス)

(2009/10/09)
西澤 泰彦

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台湾や朝鮮半島では、台湾神社や朝鮮神宮、武徳殿、また日本人の住宅に日本の伝統的建築様式・意匠は取り入れられたが、台湾総督府や朝鮮総督府、関東都督府や満鉄が建てた建物では、日本建築を規範とする建物を避けていた。
これは、当時の日本の支配が、欧米諸国との東アジア支配の枠組みの中でおこなわれたことから、欧米諸国と比肩しうる洋風建築を整えていくことが有効であった。
しかし、溝洲事変によって、日本は他国に支配能力を認めさせる必然性がなくなると、洋風建築を建てる必然性を失い、相対的に東アジアの伝統的建築の様式・意匠が重要視されることとなった。
1933年竣工の満洲国政府第二庁舎では塔に中国建築の形態と意匠を持った方形屋根が架けられた。台湾の澎湖庁庁舎(1934年竣工)や高雄市役所庁舎(1940年竣工)でも塔屋に宝珠の載る宝形屋根が架けられ、高雄駅(1941年竣工)では中国建築に見られる瑠璃瓦を用いた方形屋根と日本の城郭建築に見られる千鳥破風が使われた。満鉄による吉林鉄路局(1939年竣工)や満洲国国有鉄道の駅舎では中国建築の屋根が架けられた。
台湾、朝鮮半島、中国東北地方において、災害や厳しい自然条件に備えることと、材料供給の容易さや材料の価格の問題、在来の建築技術の有無、が複雑に絡み合って、日本国内とは異なった変遷を見せた。
台湾では、地震や火災、大風にも強く、シロアリ対策にも有効な建築構造として、1908年竣工の台北電話交換局を皮切りに台湾総督府が建設する建物に鉄筋コンクリート造が採用されていった。
中国東北地方では、都市全体の不燃化をめざすため、関東都督府と満鉄が徹底的な煉瓦造建築の普及を図った結果、洋風建築が軒を連ねる街並みが出現するにいたった。
日本の支配の象徴とみなされた植民地建築は日本の敗戦とともに壊される運命にあった。しかし、実際に取り壊されたものは各地に建てられた神社や忠霊塔のみであった。
当時の社会状況では既存の建物を使わざるをえず、この状況は、韓国では197年代まで、台湾や中国東北地方では1980年代まで続いた。
国共内戦に敗れた中国国民党政権は、台湾に移って、旧台湾総督府庁舎を中華民国総統府庁舎として使い、今日に至っている。一方、国共内戦に勝利した中国共産党は、旧関東軍司令部を吉林省委員会の庁舎として使った。
これらは植民地建築を新たな政権が使うことで、権力の移行を示したのである。 
したがって、旧台湾総督府庁舎や旧関東軍司令部は、決して取り壊されることのない建物であった。
敗戦後60年以上経ち、支配下にあった時間よりもその後の時間の方が長くなってきた中で、植民地建築を地域の遺産として活用する動きがある。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

  1. 2009/12/24(木) 08:00:31|
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