続・竹林の愚人 2010年01月

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大阪史蹟辞典

大阪史蹟辞典
(1986/07)
三善 貞司

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長柄橋(ながらばし)
有名な長柄橋とはどこにあったのだろう。
『摂津名所図会大成』で暁鐘成は、「西成郡長柄の里から豊島郡垂水の里まで続いた長橋のことだとか、西成郡橋本村から東成郡橋輪にかけて四百間の長橋があってそれが長柄橋だという説もあるが、ともに信用できず、そんな凄い橋があるはずはない。また、この辺りには無数の島があり、中島の西の大間(島と島の間)からは多くの橋柱を掘り出している、淀の大水と大和川の横水と西海の潮が突き当って、海に等しい大沼になり、川といえるものであるはずがないとの説もある。
「長柄の浦」「長柄の浜」「長柄の沼」と歌われ、長柄の川というものはなかった。長柄橋の名も『古事記』『日本書紀』『万葉集』等には見えない。『続日本紀』には文武帝の時、道昭和尚が橋を架けたと出ている。嵯峨天皇の弘仁3年(812)6月、昔の長柄橋の跡に島橋を造ったとあるが、文徳帝仁寿3年9月に、長柄三国の両河橋梁断絶人馬通ぜずと『文徳実録』に出ているので、もう廃れていたらしい。水勢強く大雨の多い所だから橋はよく流れたであろう。あちこちより掘り出した橋柱は長柄橋とは特定できない」と述べている。
また『摂津名所図会』には「長柄橋跡は古くから判らない。いつの頃に架けて、何時代に朽ちたか、それさえ判らない。橋の杭だという古木はあちこちから掘られている。諺に長柄橋は一里もあったと伝えているから現在の北長柄から垂水圧まで全部橋跡である。
孝徳天皇が長柄豊碕宮を造った時に最初の橋ができたと思われるが、すぐに落損し、嵯峨天皇の弘仁3年(812)6月、再び長柄橋を造った。人柱はこの時のことだろうと思われる」と誌している。
両書に出てくる孝徳帝が長柄に豊碕宮を置いた場所は、現在の長柄であるはずがなく、またこんな水勢の激しい長柄江に橋を架け渡す技術は、孝徳時代には到底無理である。
嵯峨天皇の時代というのは『日本後紀』に、「嵯峨天皇弘仁三年六月壬辰遣使造摂津国長柄橋」とあるのに拠ったもので、『前太平記』にも「往古弘仁年中摂津州西生郡に長柄橋を渡し傍に橋姫宮を移す」などとあり、文献上の長柄橋としてはこの時が最初のようである。
しかし『摂津名所図会』がいう人柱はこの時であるとの説は、全くの誤りである。

長柄橋は何度架けてもすぐ流れてしまうので、人柱を用いた所、不朽の名橋ができ上ったという長柄人柱伝説は、広く日本中に知れ渡っている。この話の原型は今延文3年(1358)頃の『神道集』に出ている。『神道集』には長柄人柱の時代や人柱となった人物の名前などは出ていないが、人柱墓所と伝える大願寺(淀川区東三国1丁目)の寺伝に長柄人柱を推古帝の時代に付会しているが、最初に淀川治水事業に手をつけたのは、『日本書紀』に仁徳天皇が秦人を使って茨田堤(まんだつつみ)の決壊口を防ぐ工事をさせたとあり、旭区千林2丁目に「強頸絶間之跡碑」がある。この話は325年頃と推定されるが、仁徳帝から推古帝にかけて架橋は成功せず、そのたびに多くの人命が損なわれた。
長柄橋を詠んだ歌は数多くあるが、人柱について言及した歌は一首もなく、貴族たちは、長柄橋跡に衰微する自分たちの人生をみて哀惜し、没落する諸行無常の美しさとして詩心をゆさぶった。
長柄橋が有名な歌枕になったのは人柱のせいではなく長柄は発音が「永らへる」と通じ、「永久不変」の意となり、永らふ長柄橋さえ橋柱だけになった、あるいは橋の跡方もなく消え果てたと無常感を込めやすいために、歌枕になったと思われる。
ともあれ長柄橋は貴族階級には詩情を点し、庶民には人柱説として強く浸透した。水魔淀川と戦った先祖たちの生命を賭した苦闘史を形象化したからであろう。
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  1. 2010/01/31(日) 08:35:27|
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夏目漱石 錦華に学ぶ 碑


夏目漱石顕彰碑 東京都千代田区猿楽町1-1-1 千代田区立お茶の水小学校 西門脇
「吾輩は猫である 名前はまだ無い  明治十一年 夏目漱石 錦華に学ぶ」
先輩 夏目漱石 略歴
慶応3年1月6日 牛込に生る。金之助と命名。市ヶ谷小学校に入学後、錦華小学校に轉ず。動向卒業後一つ橋中学校に入り、業を卒へずして退き、二松學舎に入りて漢学を學ぶ。(大正6年「新小説」より)
明治23年、東京帝国大学に入学。正岡子規と交り俳句と漢詩を作る。
同28年、松山の中学に赴任。
同29年、熊本第五高等学校教授となる。
同33年、ロンドンに留学。
同36年、帰朝、東京帝大講師となり、英文学を講義。
同28年、処女作「吾輩は猫である」を発表。
同40年、講師を辞し、朝日新聞社に入社。
大正5年12月9日逝去。50才。
「主な作品」 坊ちゃん・草枕・虞美人草・三四郎・それから・門・心・道草・明暗
卒業記念  第104回卒業生一同

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  1. 2010/01/30(土) 08:25:22|
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太田姫稲荷神社


太田姫稲荷神社(おおたひめいなりじんじゃ) 東京都千代田区神田駿河台1-2
古社名一口(いもあらい)稲荷神社
神社に伝わる古絵巻と「駿河台文化史」(昭和10年神田史蹟研究会)によると当神社の縁起は9世紀の伝説に始まります。
百人一首の名歌で知られる参議小野篁(おののたかむら・802-852)は、その誌才は白楽天に比せられたほどで、平安時代第一の漢詩人といわれた実在の人物です。
彼は、遣唐副史にまで選ばれましたが、上司の横ぐるまに対立して讒言され隠岐にながされたことは有名な出来事です。
絵巻物の伝承によると、承知6年はじめ、篁が伯耆国(鳥取県)名和港を出港してまもなく、海上にわかに6,7丈の大波が荒狂い、雷鳴はげしく轟き、今にも海底に引込まれそうになりました。篁は衣冠を正して船のへさきに座り、普門品(観音経)を熱心に唱えていると白髪の老翁が波の上に現れて
「君は才職世にたぐいなき人であるから流罪になっても間もなく都へ呼返されるであろう。しかし疱瘡を患らべば一命があぶない。われは太田姫の命である。わが像を常にまつれば、この病にかかることはないであろう。」と告げおわると八重の汐路をかきわけてかき消すように姿を消して行かれたという。そのお告げのとおり、篁は翌年はやくも都へ呼返されました。
篁は自ら翁の像を刻み、常に護持していましたが、のちに、山城国(京都府)の南にある一口(いもあらい)の里に神社をつくって、祝い祭ったということです。
江戸の開祖としてしられる太田資長朝臣(後の道灌)には最愛の姫君がいたが重い疱瘡にかかり世ににも頼りなく見えたところ、ある人が一口稲荷神社の故事を話したので急使をつかわして此の神に祈願した。使いは幾日もなく かの社から祈祷の一枝と幣をささげて帰ってきたが 此の日からさしもに重かった病もぬぐうようにいえた。資長朝臣は崇敬の念篤く城内本丸に一社建立した。
その後道灌資長はこの社を敬拝し、またこの姫君は此の社を深く信心してつかえるようになったが、ある時この神が白狐を現して、われこの城の鬼門を守るべし、と託宣されたので、ついに鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。
今から約543年前第103代後花園天皇の長禄元年(1457)のことである。
慶長8年(1603)8月徳川家康公が江戸城へ入られた後、慶長11年(1606)江戸城大改築を行ない城内にあったこの社を西丸の鬼門にあたる神田駿河台東側の大坂に移された。ためにこの坂は一口坂(いもあらいざか、後に鈴木淡路守の屋敷ができたので淡路坂ともいう)と呼ばれた。その後、代々の将軍これを崇拝し、その修理造営は徳川家が行い、僧職が別当となりて神明奉仕した。この社は駿河台の鎮守として数々の霊験厚く神威いちじるしきこと筆にも絵にも書きつくすことはできない。と古絵巻は伝えています。

 狛犬が本殿と対座しておられます。


本殿 祭神:宇迦之御魂神   菅原道真公・徳川家康公
末社 金山神社 金山彦命
唱和3年(1928)再建。唱和6年(1931)お茶の水駅・両国駅間の総武線建設のため現在地に遷座。

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  1. 2010/01/30(土) 08:20:17|
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ニコライ堂


東京復活大聖堂(とうきょうふっかつだいせいどう) 東京都千代田区神田駿河台4-1-3
イイスス・ハリストスの復活を記憶する大聖堂で、日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭聖ニコライにちなんでニコライ堂と呼ばれています。1891年竣工。

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  1. 2010/01/30(土) 08:15:04|
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神田神社


神田明神(かんだみょうじん) 東京都千代田区外神田2-16-2
正式名称・神田神社。東京都心108町会の総氏神様で、神田・日本橋・秋葉原・大手丸の内、そして東京の職を支える市場の発祥地の氏神様として、青果市場・魚市場の人々からもあつく崇敬されております。
当社は、天平2年(730)のご創建で、江戸東京の中で最も歴史ある神社のひとつです。はじめは現在の千代田区大手町・将門塚周辺に鎮座していましたが、徳川家康公が江戸に幕府を開き江戸城が拡張された時、江戸城から表鬼門にあたる現在の地へ遷座いたしました。
それ以降、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として幕府から江戸庶民にいたるまで多くの人々の崇敬を受けました。さらに、明治に入り、准勅祭社・東京府社に列格し皇居・東京の守護神と仰がれ、明治天皇も親しくご参拝になられました。


隋神門  昭和51年建立。


社殿 一の宮 大己貴命  二の宮 少彦名命  三の宮 平将門命   昭和9年竣工。

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  1. 2010/01/30(土) 08:10:48|
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湯島聖堂


湯島聖堂(ゆしませいどう) 東京都文京区湯島1-4-25
元禄3年(1690)に5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟。
1798年(寛政9年)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築し、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平 ともいう)を開きました。学問所は、明治維新(1868年)に至るまで70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たしました。
明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治4年に文部省が置かれたほか、国立博物館、東京師範学校、東京女子師範学校などが置かれ、聖堂は近代教育発祥の地となったのです。
もとの聖堂は4回もの江戸大火にあって焼失、再建を繰り返し、さらに大正12年関東大震災でも焼失しました。今の建物は1935年(昭和10年)鉄骨、鉄筋コンクリート造りで再建したものです。ただし、入徳門は1704年(宝永元年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっています。


孔子銅像
丈高4.57m、重量1.5tの世界最大の孔子像。昭和50年(1975)建立。


大成殿(孔子廟)
明治5年3月10日、湯島聖堂大成殿を会場として文部省博物局による最初の博覧会が開かれた。

中央に名古屋城の金の鯱を据えた本邦初の博覧会に入場者総数15万人、1日平均約3,000人の観覧者が足を運んだこという。

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  1. 2010/01/30(土) 08:05:59|
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神田をブラタモリ

東京在住の有事により「本日、午後10時より、NHK「ブラタモリ」で、神田の特集あり。」とのメールがあり、
見ると以前に行った同じコースではありませんか。

番組は古本市で賑わう神保町古書店街の秦川堂書店で古地図を拝見して、明大通りを通って湯島聖堂・ニコライ堂へ。
ニコライ堂はテレビが入るのが初めてとのこと。まだまだNHKの御威光は衰えておりませんね。

という次第で、画像を倉庫から引っ張り出しました。


神田古本まつり (2007.10.28.)


聖橋 昌平橋 を望む


湯島聖堂(昌平坂学問所跡) 


ニコライ堂(東京復活大聖堂) 

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  1. 2010/01/30(土) 08:00:18|
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江戸の温泉学

江戸の温泉学 (新潮選書)江戸の温泉学 (新潮選書)
(2007/05)
松田 忠徳

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奈良時代に温泉寺を建立した高僧行基や、鎌倉時代に十二坊舎を造った仁西(にんさい)上人らが基礎を築いたといわれる古湯有馬は、柿本人麻呂、藤原道長、清少納言などといった豪華な名前に彩られ、京、大坂などの権力、経済力、文化力に裏打ちされた別格の名湯である。
実はこの名湯の今日に至る繁栄の土台を築いたのが、最初の天下人秀吉であった。秀吉は天正11年(1583)以来、記録に残されているだけでも戦の前後に9回、北政所や千利休を伴って湯治に訪れ、茶会を開いている。秀吉は湯浴みを楽しむだけでなく、源泉保護や六甲川の改修工事、浴場の改築などを積極的に行い、それが〝有馬千軒〃といわれる江戸時代の繁栄へとつながる。
江戸後期の「温泉番付」で、西の大関有馬に次ぐ関脇の城崎は、河合章尭(しょうぎょう)が享保18年(1733)に版行した『但馬湯嶋道之記』に新湯、中の湯、上湯、御所の湯、陣屋、曼荼羅湯の6つの外湯があると記されている。
名医として知られた香川修徳(1683~1755)は、享保19年(1734)にわが国最初の温泉医書『一本堂薬選』を著し、師の後藤艮山の医論「一気留滞論」(百病は一気の留滞より生ずる)を継承し、新湯(一の湯)に入湯し、その煖潤活暢(だんじゅんかつよう)の効あることを認め、温泉を病気の治療に応用すべきだと唱えた。
そして、「此邦諸州温泉極めて多し、而して但州城崎新湯を最第一とす」と、城崎を日本一の温泉と評価すると、山陰の辺郡な温泉であった城崎が有馬のライバルとして急浮上し、鉄錆色の強烈な個性を有する有馬の湯と澄明な城崎の湯。有馬の〝湯山″に対して、日本海に近い城崎は〝湯嶋〃と並び称されるようになった。
「温泉を選ぶのは、大体、極めて熱い湯で、瘡を発することを良いとし、ぬるい湯で、瘡を治そうとするのは悪いとする」と、高温の城崎を第一にし、それより低温の有馬や熱海を二位としたという。
当代一の名医後藤艮山とその一番弟子・香川修徳によって、温泉は効能を第一とするという温泉論が広まって以来、但馬の城崎は黄金期を迎える。
寛政年間(1789~1801)になると、有馬の湧出量が減り、湯の温度が低下して一の湯・二の湯が入浴に耐えられなくなり、有馬の湯治客は城崎の半分にも達しなくなる。
この深刻な危機を『温泉論』で香川修徳の有馬温泉批判に反論を試みた大坂の医学者、柘植龍洲が救ったのだ。
龍洲は、有馬温泉の湯量減少の原因を泉井周辺の漏水にあると指摘。早急に湯元である泉底を浚い、引湯管を補修するように提案する一方、年に4回定期的な検査と5年毎に泉底を浚い直すことを説いた。
有力坊の兵衛(北ノ坊)の兵衛元式が御所坊等とも相談し、波泉工事に着手した。工事は大掛りなもので、総勢100名近くが昼夜交代で突貫工事を行なうと、やはり泉底に大量の土砂を始め朽木、塵芥が沈んでいた。泉底の掃除に加えて、2本の源泉に対する水の流入防止工事を施したところ、温度が上昇し、湧出量も増加し、湯が湯槽の外に常時あふれる本来の温泉の姿に戻すことがかなったという。

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  1. 2010/01/29(金) 08:36:31|
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遊女と天皇

遊女と天皇遊女と天皇
(1993/07)
大和 岩雄

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保元・平治の乱以後、平家は全盛期に入り、後白河法皇は誠を尽くしてきた清盛を除こうとした鹿ヶ谷事件で、一時幽閉されるが、木曽義仲が蜂起するや義仲と手を結び、平家を都から追い、代わって都に入った義仲の横暴がつのると、頼朝に命じて義仲を討たせている。義仲戦死後は義経と結び、頼朝と義経を対立させる。このように平清盛・源頼朝を手玉にとり、頼朝は法皇を「日本一の大天狗」と称したと、九条兼実は『玉葉』に書きとめている。
その法皇が遊女に皇子を生ませ、天台座主にしている。安徳天皇の死後、高倉天皇の遺子と木曽義仲の推す以仁王(もちひと)との皇位継承をめぐって難行したときには、江口の遊女出身の丹波局の夢想を法皇は受けて、第四皇子尊成親王が即位して後鳥羽天皇になっている。
遊女や傀儡女がうたう今様歌に後白河法皇が執心して、今様歌を集大成した『梁塵秘抄』と、後世への伝承を意図した『梁塵秘抄口伝集』を遺した。
狭義の今様歌は、仏教歌謡の和讃や声明、雅楽の影響を受けた七五調の四句からなり、清少納言は『枕草子』で、「いまやううたは、長うてくせづいたり」といっているが、謡曲に近いものであったろう。
無伴奏で、また扇や鼓などで拍子をとって、法皇は今様をうたい、「声を破る事三箇度」、「喉腫れて」もうたいつづけたという。
今様を遊女がうたうのは「遊び」であった。しかし、「遊び」の歌が『梁塵秘抄』では、法文歌)・神歌のなかに入っているように、今でいう意味での「遊び」ではない。
『口伝集』で後白河院は、「わが身五十余年を過し、夢のごとし幻のごとし。既に半ばは過ぎにたり。今はよろづを抛げ棄てて、往生極楽を望まむと恩ふ。たとひまた、今様をうたふとも、などか蓮台の迎へに与からざらむ。その故は、遊女の類、舟に乗りて波の上に浮び、流れに棹をさし、着物を飾り、色を好みて、人の愛念を好み、歌をうたひても、よく聞かれんと恩ふにより、外に他念なくて、罪に沈みて、菩提の岸にいたらむことを知らず。それだに、一念の心おこしつれば往生しにけり、まして我らは、とこそおばゆれ。」と、今様をうたうことは、法皇にとって単なる遊びではなく、神仏と一体になる神遊びであった。
遊女らの「罪」に、「色を好みて」を後白河院はあげるが、巫女もまた、遊女と同じである。若宮のおはせん夜には貴御前(あておまえ)錦を延べて床と踏ません(500)という『梁塵秘抄』に載る今様は、石清水八幡宮の若宮の神妻としての巫女が、錦を延べた寝床で若宮を待っている歌である。『平家物語』で白拍子を「仏御前」と書くように、遊女・巫女が「貴御前」なのである。
遊女・巫女は、聖と賤を一身に体しているから、「阿鼻の炎」に包まれている心境であっても、「阿鼻の炎」と「極楽浄土の池水」は、「心澄みては隔てなし」だというのである。
後白河法皇は、青墓宿の傀儡女・乙前を今様の師として、御所の局に住まわせていた。乙前は84歳で亡くなり、一周忌を暁方までしているとき、里帰りしていた丹波局が夢を見た。法住寺の広間で法皇が今様をうたっているのを、乙前がよくうたえました。これで、この世に思い残すことなく往生できるといったというのである。
「女房(丹波局)参りて申す」のを法皇は聞き、「我と女房」は乙前を「あはれがり合ひ」、「そののち、その日(命日)には、必ず(今様を)うたひて後世を弔ふなり」と、『口伝集』は書いている。

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  1. 2010/01/28(木) 08:00:49|
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菅原天満宮


菅原天満宮(すがわらてんまんぐう) 大阪市東淀川区菅原2-3-27
寛永年間(1624~44)に、この地が開発されたときに勧請。天保(1830~44)の頃、代官築山蔵左門が「堤防崩壊禁止令」を出して、堤防の盛り土を命じて、境内が一段高い小丘陵になっています。
石段左下に「菅公ゆかりの地、牛まわし」と刻んだ碑があり、もとは天満宮の東南にあった飯田染工場東にあったものといい、延享元年(1744)正月の年号があります。
『大阪府全志』
 天満宮は中央字太出にあり、菅原遺眞を祀れり。本地開発の際に勧請せしものなるべし。明治五年村社に列す。もと字宮浦にありて、其の地は逆川址の東岸堤防上にして、しかも其の一段高く小丘をなせしは、前記の土特に依れるものならん。樹木鬱蒼たりしも、淀川改良工事の為め田川敷となりしを以て、明治三十五年五月二十五日今の所に移転し、大正元年十月神饌幣帛料供進社に指定せらる。境内は式百弐拾参坪にして、本殿・幣殿・拝殿・絵馬所・社務所を存す来所に稲荷神社あり。

 
狛犬


拝殿


本殿 祭神:菅原道真


八ツ原稲荷大明神


天照宮 遙拝石  大正4年(1915)建立。


日露戦役紀念標 明治39年(1906)建立。

 
北鳥居脇狛犬


北鳥居

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  1. 2010/01/27(水) 08:15:53|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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