続・竹林の愚人 2010年02月

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大島神社


大島神社(おおしまじんじゃ) 尼崎市大庄北1-25-21
平安時代の荘園大島荘の総鎮守神であった。西向の社殿で、武庫川の氾濫を防ぐ「西向の鎮守さま」といって崇敬されてきたという。



   
狛犬


拝殿 昭和44年に明治維新百年記念事業として再建。


本殿  祭神:素盞鳴尊


稲荷神社



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  1. 2010/02/28(日) 08:20:43|
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興禅寺


興禅寺(こうぜんじ) 尼崎市浜田町1-7
臨済宗妙心寺派 護国山
臨済宗の開祖、栄西禅師が宋から帰国後、西国各地を伝道した折、建久元年(1190)開山。
元禄年間(1688~1704)盤珪中興。


本尊・釈迦牟尼佛

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  1. 2010/02/28(日) 08:15:20|
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浜田川水論牢死者墓碑


浜田川水論牢死者墓碑(はまだがわすいなんろうししゃばひ) 尼崎市浜田町2-63
宝暦・明和期(1751~1771)に浜田村(大島井組)と西難波村(水堂井組)との間で水争いがありました。
浜田は旧武庫郡、西難波は旧川辺郡と分かれ発展しましたので、村々の結合も異なり井組も異にしています。とはいえ、両村の農業用水は、松原神社の上手を流れる川であり、分水をめぐって再三起こりました。この川筋を浜田は浜田川、西難波は難波井筋と互いに譲らず、17年間も続く争いになりました。水堂井は水堂の田を流れた後、七松・西難波の田を流れていく水路であいたが、一部の水は浜田に流れ、混乱する原因となったのです。
明和元年(1764)に起きた騒動は、この年の旱魃で浜田西側の水田に水を引くため、夜半に淨専寺境内北辺に水路を造ったためで、これによって村の役職者など10名が入牢し全員死亡した。この碑を安永年間浄専寺境内に建て、戦後こらは現在地に移転しました。毎年4月15日に合同で法要を営んでいます。  尼崎市教育委員会



浜田川跡
農民にとって、水はかけがえのない大切なものである。現在の浜田川は、改修され川筋も変わり、黒く濁った川となったが、昔は水量も豊かな大きな川であった。江戸時代には、この川の水が浜田村、西難波村などの村々で農業用水として利用されていた。
ところが浜田村(大島)と西難波村(水堂樋ああああ9はともに井組の最下流にあるため、水利からみて上流の村々と比べ、いささか不利であった。したがって、両村にとって浜田川は非常に貴重な水路で、浜田村はこれを浜田村支配の川であると主張し、一方、西難波村は難波井筋として譲らず、たびたび”水争い”が起こった。
明和元年(1764)9月論所であった川縁田地に対して、七ッ松村を加えた三ヶ村に立合絵図を作成するよう命じられた。ところが10月になり、浜田村が宮ノ川と竹か鼻に新しい杭を打ち込んだことから両村の間で騒動が起き、双方に数多くの負傷者が出た。このため度々の吟味があり、ついには浜田村百姓8人が入牢させられ全員が死亡するという事態になった。
こののちも両村の訴訟が続いたが、明和8年(1771)8月になり、大庄屋瓦林村岡本市兵衛と富松村竹口善兵衛の仲介によって和議が成立し、以後、大きな水論は起こらなくなった。
なお、浜田村では、明和元年の水論で死亡した庄屋年寄、および牢死した百姓8人のために、淨専寺墓地に石碑を建てて供養し、現在も法要が続けられている。   尼崎市教育委員会

 

淨専寺(じょうせんじ) 尼崎市浜田町2-59 
浄土真宗本願寺派



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  1. 2010/02/28(日) 08:10:37|
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松原神社


松原神社(まつばらじんじゃ) 尼崎市浜田町1-6
崇徳天皇が讃岐国に移られる途中に、身を寄せられたことによって此の地に祀られる。文明年間に素盞嗚命を脇殿に合祀するも何時しか素盞嗚命を主祭神として祀り、崇徳天皇を相殿神となる。村民が、このしろ・はまぐり・かき・よめな・ごぼう・やき米などでもてなしたと伝えられ、崇徳天皇没後も御霊を慰めおまつりするに至ったと言われています。



 
狛犬


拝殿


本殿 祭神:素盞嗚命  相殿:崇徳天皇

 
       三輪明神                      琴浦明神社・八幡宮社
 稲荷神社

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  1. 2010/02/28(日) 08:05:12|
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八幡神社(尾浜)


尾浜八幡神社(おはまはちまんじんじゃ)尼崎市尾浜町1-4-27
当地尾浜の歴史とともに古く、天正年間に荒木村重滅亡のときの戦火に罹ったといわれ、旧時は神仏混淆で、境内に大日堂が建っていた。昭和20年8月5日戦火に依り炎上。


社殿 祭神:応神天皇  昭和46年12月14日新造。

 稲荷神社


尾浜宝篋印塔(おはまほうきょういんとう) 
この塔は、通称「名月姫の墓」と呼ばれています。石室は花崗岩であって、相輪がなくなっていますが、笠の部分の頂上までの高さは1.1mあります。基礎石には伏蓮華をほどこしています。塔身の梵字は磨滅していますが、四隅の突起は完存しており、総体には装飾的な彫刻はみられません。創建の時期はつくり方からみて鎌倉末頃と考えられています。
名月姫と塔との結びつきは「円福寺大日如来之由来」に、名月姫が久安2年(1146)の8月15日、満月の夜に誕生しましたので名付けられたと記されています。
姫が14歳の時、野(能)勢の藤兵衛実包に奪取されたという物語があり、彼女は今中将姫の化身とされています。この話と塔との年代差はかなり開いてきます。
また「摂津名所図会」に「尾浜村大日堂あり、この寺は名月姫の菩提所なり。また七松に名月姫の父三松国春の古弟あり」とみえますが、詳しい結び付きは不明です。    尼崎市教育委員会

『摂津名所図会』
名月姫塔(めいげつひめのとう) 尾浜村大日堂にあり。この寺は名月姫の菩提所なり。
また七ッ松村に名月姫の父三松国春(みつまつくにはる)の古第(こてい)あり。

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  1. 2010/02/28(日) 08:00:33|
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素盞鳴神社(潮江)


潮江素盞鳴神社(しおえすさのおじんじゃ) 尼崎市潮江2-38-5
当社は牛頭天皇および大宮天王祠の別称をもつ。創祀は不詳であるが、後奈良天皇の御世、享禄年間、三好三人衆の一人三好長慶が足利氏に叛き摂津の国を攻略せんとして池田に進軍する折、当社に戦勝を祈願したと伝えられている。
社殿はもと小字大宮にあったが、天正年間今の位置に遷され、更に明治2年、無格社糺社を合祀した。
社殿は昭和20年戦災を罹り焼失。戦後間もなく社殿を建立し現在に至る。


拝殿


本殿 祭神:素盞鳴尊・玉依姫命


記功碑 橘千代蔵君 浪華隻眼 小野利教撰並書  大正7~15年(1918~26)の小田村長・橘千代蔵の顕彰碑


表忠塔 陸軍大臣荒木貞夫題字  昭和8年4月建之

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  1. 2010/02/27(土) 08:20:34|
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伊邪那岐神社


伊邪那岐神社(いざなぎじんじゃ) 尼崎市次屋1-1-6
古くから次屋、浜両村によって奉斎されていたが、明治6年村社に列せられ、明治14年官有地を譲り受け境内を広げ、社殿を南面より西面にして改築された。明治41年に無格社素盞鳴神社を合祀。

南鳥居

 

 
昭和の狛犬を含め6体あります。


拝殿


祭神:伊邪那岐尊・速須佐之男命

厳島神社  市杵島姫命


顕彰碑

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  1. 2010/02/27(土) 08:15:01|
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八幡神社(西川)


西川八幡神社(にしかわはちまんじんじゃ) 尼崎市西川2-13-20
当社は明治6年村社に列せられ、大正4年12月12日神崎須佐男神社に合祀されたが、昭和23年10月10日、氏子の強い要請により、旧社殿に奉遷し、昭和33年10月吉日、社殿を改築し現在に至る。創立の年次は不詳であるが境内に天和4年正月23日(1684)善兵衛奉寄進の手水鉢(自然石)があり、また社殿内に宝暦2年正月吉日の御幣が奉納されており、それ以前の鎮座と思われる。


社殿 祭神:誉田別命・比売大神・神功皇后

尼崎藩領界碑(あまがさきはんりょうかいひ)
この領界碑は、注連柱の移建中(昭和60年8月2日)に発見され、地元の人の談話から判断すると、旧西川村にあった3基(旧字樋ノ口・新堤・山ノ下)のうちの樋ノ口にあったものと考えられます。
同村は旧中国街道筋にある尼崎藩領で、当方は神崎村(藩領)と連なり、西方は次屋・浜両村(旗本青山知行地)と接し、南方は常光寺村(大和国小泉藩領)に接していました。大阪を重視する政策により、市域内には藩領と他領が入り交る入組領が多くできました。
碑文は全長240cm、碑幅18.5~20cmの花崗岩立柱型で、三面刻の字体、寸法いずれもいままでに現認された11基(尼崎市域2基・伊丹市域・西宮市域・芦屋市域各3基)と全く同型です。ただ「他領」の刻字がこの碑では異字体の「佗領」と刻字されています。
宝永8年(1711)の松平氏入封間もなくの時期に、入組領の多い川辺・武庫郡西部および兎原郡内に建立され、明和6年(1769)上知後は整置されたものと思われます。  尼崎市教育委員会


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  1. 2010/02/27(土) 08:10:37|
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神崎金比羅さんの石灯籠


神崎金比羅(かんざきこんぴら)さんの石灯籠 尼崎市神崎町12の地先
金比羅大権現は、讃岐国(香川県)の金刀比羅宮に祀られた海上守護神で、早くから舟乗りらの信仰を集め、とくに室町時代から江戸時代にかけれ盛んとなりました。神崎の津は、都から西海へ行き来する船と人々でにぎわい、航海の安全を祈念しました。この石灯籠は、灯台の役割をもつものです。現存のものは、石造ですが以前は高灯籠ではなかったかと考えられています。願主岸田屋治兵衛を中心に神崎の津にあった問屋・仲間・宿屋などで働く人々から寄付が集められ、文化元年(1804)ごろ建て替えられたものです。この石灯籠は、その後も町の人々からは「金比羅さんの灯籠」として親しまれています。着船場に近い堤防上にありましたが、堤防工事の為現位置に移築され、保存されています。  尼崎市教育委員会



女郎塚もこの辺りにあったのでしょうか。


神崎川に架かる神崎橋

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  1. 2010/02/27(土) 08:05:10|
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神崎遊女塚


神崎遊女塚(かんざきゆうじょつか) 尼崎市神崎町34 梅ヶ枝公園内

 
別々の川であった神崎川と淀川が、平安時代の延暦4年(785)に結ばれ、瀬戸内海方面から京に至る船泊が神崎にできました。河口の港町ろして繁栄し、遊女らが多く集まって来ました。都の人びとからも「天下第一の楽地」と呼ばれ、遊女たちは今様など書芸を泊客に披露し、宴遊に興じる人びとでにぎわっていました。
こと塚は、鎌倉時代の建永2年(1207)法然上人が讃岐国(現在の香川県)に配流の途中、神崎の遊女5人が上人の法話を聞いて、身の罪業を恥じ神崎川に投身しました。上人は讃岐からの帰途この地の釈迦堂で5人の供養をしたという伝承にもとづいています。もとダイセル(株)神崎工場敷地内にあり、一時期溝にかかる小橋として使用されていました。 明治2年(1859)に村民が発見し修復しました。
碑石表面には「南無阿弥陀仏」の名号と、その両側には「阿弥陀仏という女の塚の極楽ハ発心報土のうちの貼るけき」と刻まれ、側面には元禄5年(1692)6月の年紀銘、裏面には遊女5人の名(吾妻・宮城・刈藻・小倉・大仁)が刻まれています。
            尼崎市教育員会
碑文は風化のため、正面以外は判読困難です。

『摂津名所図会』
遊女宮城墓(ゆうじょみやぎのはか) 神崎の北、一町ばかり、田園の中にあり。村民、傾城塚また女郎塚とも呼ぶ。
  『後拾迫』   津国のなにはのことか法ならぬあそびたはむれまでとこそきけ    遊女宮城
 神崎は、いにしへ水門にして、西海に通ふ船ども多くここに泊まりて、賑ひいはんかたなく、遊女の家もありけり。建永二年の春如月、法然上人、讃岐国へ左遷へたまふとき、山城の鳥羽より船にめされ、この湊に船がかりしたまひ、天王寺の別当慈鎮(じちん)和尚に御暇乞ありし折から、遊女宮城といふもの、小船に棹さして、上人の御船に纜を繋ぎ、上人に向ふて、うきふししげき河竹の流の身、罪業探きを懺悔し、未来をたすからん事を願ふ。上人、いとど哀れにおぼしめし、无智闇鈍五障三従(むちあんどんごしょうさんしょう)の女人までも、一たび弥陀の本願に帰入し、名号を怠らず修せば、仏の光明の中に摂取して、極重の罪障もたちまち消滅し、西方浄土に至らん事、何の疑ひかあるべしと、勧むる法の声高く、同音に念仏したまへば、宮城とともに五人の遊君、涙は袖の海となり、諸共に合掌し、導きたまへ上人と云ふもあへず、五人一度に河波探き水底へ飛び入り、空しくなる。人々驚き、櫓械をもつて捜せどもその甲斐もなく、やうやう骸を求めて、この川岸に一つ所に葬り、上人諸共、引導の念仏したまふ。ここにおいて、遊女塚と呼ぶものならし(後世、尼崎如来院より、ここに墓碑を建てて、表には六字の名号、黄には遊女五人の名を鐫る。むかし神崎川に淘上(ゆりあげ)橋といふあり。遊女この川へ身を沈めたる屍を、水中より淘上げしより、橋の名となりぬ。また、この因縁あるゆゑ、時の人由来橋(ゆらいばし)と呼ぶものなりとぞ。

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  1. 2010/02/27(土) 08:00:47|
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