続・竹林の愚人 2010年06月

奈良 秘宝・秘仏の旅


奈良 秘宝・秘仏の旅 (朝日新書)奈良 秘宝・秘仏の旅 (朝日新書)
(2010/02/12)
朝日新聞 奈良総局 編

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興福寺は藤原鎌足が発願した釈迦三尊像と四天王像を安置する山階寺が起源とされる。
壬申の乱(672)の後に飛鳥・厩坂に移され、さらに鎌足の子、藤原不比等の発願によって現在地に移ったのが、平城遷都の710年。その後も、東金堂、五重塔、西金堂などが聖武天皇や光明皇后らによって新築されていった。
巨大豪族・藤原氏の氏寺として、都が京都に移った後もその勢力を維持し、100棟以上の堂塔と4千人の僧侶を誇ったといわれる。
しかし、現在の興福寺に天平期から残るのは、阿修羅をはじめとする八部衆・十大弟子像のうち14体だけで、光明皇后が母・橘三千代の一周忌追善のため建立した西金堂に安置された27体の像の一部だ。
西金堂の仏像群は、国家鎮護の経典とされる「金光明最勝王経」の一節を再現しようとつくられた。
本来最高神のインドラ(帝釈天)と戦っては敗れる悪神だった阿修羅がすがすがしい表情に造形され、仏を守る八部衆像8体のうち、伝説の怪鳥ガルーダの顔をした迦楼羅(かるら)と頭髪を逆立てて目を剥く鳩槃茶(くばんだ)以外は、静的な面持ちを宿す。
その微妙な造形を可能にしたのは、脱活乾漆という制作技法だ。いわば張り子構造で、粘土と木尿漆が微妙な細部をつくり出すのに適していた。また軽量で持ち運びも可能だったことから、何度もの火災を生き延びてきた。しかし、脱活乾漆の技法は平安時代になると消えてしまった。
その後、興福寺は何かに魅入られたように火災を繰り返しては再興する。
しかし、1180(治承4)年12月の平重衡による南都焼き打ちでは、東大寺とともにほぼ全体が焼け落ちた。
この時の再興で、最もめざましい活躍を見せたのが鎌倉時代の慶派仏師だった。
運慶が北円堂の本尊、弥勤如来坐像や無著・世親両菩薩立像、父の康慶が南円堂の本尊の不空絹索観音坐像や法相六祖坐像、康慶の弟子の定慶が東金堂の維摩居士坐像をつくった。
鎌倉再興期の慶派の仏像は、いずれも生き生きした生命感が特徴だ。
再興のたびに重視されたのは「天平回帰」だった。
事実、寺の中心である中金堂の発掘調査では、固い地山を削りだして造成した基壇や、66個の礎石のうち64個が創建時のもので、創建時の規模で再建を繰り返してきたのだ。
江戸時代の釈迦如来坐像、鎌倉時代の薬王・薬上菩薩立像と四天王立像と、天平の八部衆・十大弟子像が一堂に会しても、何の違和感も不協和音もなく共存していた。
今、1717(享保2)年の火災以来再建が見送られてきた中金堂の復興を軸とする境内整備を進めている。
そのキャッチフレーズは「天平の文化空間の再構成」で、完成は2017年の予定だ。



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  1. 2010/06/30(水) 07:00:37|
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城山三郎と久野収の{平和論」


城山三郎と久野収の「平和論」城山三郎と久野収の「平和論」
(2009/05)
城山 三郎久野 収

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久野 収 「非武装的防衛力は幻想であるか」 (1970.04.)
非武装的防衛力などといえば、すぐさま、理想主義、幻想だ、という非難が現実主義を自称する連中からはねかえってくるが、この現実主義とは、実や先例がないというだけの話で、戦争への拘束から平和を救出する問題には、既成事実や先例は何の役にもたたない。
第一次大戦から原爆や大衆的レジスタンスの出現を、誰が予想できたであろうか。
それどころか、武装的防衛力がこれまで戦争を先へのばせても、戦争を防止し、平和を幾分でも永続的に保証した実例はない。
その意味では、武装的防衛力こそ〝大幻想″にすぎない。
防衛問題は、防衛目標と防衛力という2つの側面にわかれる。
防衛目標はいうまでもなく、自国民の国土、生命、財産の防衛であり、それも他国民の国土、生命、財産を傷つけない防衛でなければならない。
丸はだかでいる方が屈辱や強制や占領を度外視すれば、マイナスやロスが少ないが、それにもかかわらず、国民が丸はだかの方につかないのは、国民の生き方をめぐる原理の問題があるからであろう。
核兵器の出現は、抑止的側面と挑発的側面だけがはばをきかす結果を引きおこしたが、その抑止効果を発揮できるのは、自国がもち、相手側がもたない場合だけにかぎられる。
相手側がもってしまえば、もはや相互の抑止力ではなく、恐怖のバランスとよばれている現象が生じる。
戦術核兵器の出現は大変な犯罪行為で、ベトナム戦争のはじめ、アメリカはたしかに限定核兵器をつかう意志をひそませていた。
化学兵器や細菌兵器をつかって戦術核兵器使用への道をなだらかにしたのは、その証拠だ。
通常戦争を戦術核兵器の戦争にまでエスカレートさせない世界各国民の意志が、支配者の戦術核兵器使用の意志を上まわっているから、せとがわの断崖でからくも立ちどまっているのだ。
だから核の抑止力というのも、抑止力であるかどうかはうたがわしい。
核抑止の危険は、他国の核の傘ににげこんでいるから、軽いというようなものではない。
われわれの場合、核の傘のボタンは日本人が相談にあずかれそうもなく、そのうえ原水爆が日本の基地にかくされているかどうかをしらべる権利もない。
さらに厄介なことは、核弾頭もつけられるミサイルがわれわれの周囲にごろごろころがっている。
われわれはできるだけ早く、核の傘をはずさなければならない。日米安保条約をやめるという通告をアメリカにむかっておこなわなければならない。
武装によらない抑止力の第1は、各国との正式国交の回復、第2に、武装の放棄からでてくる経済的プラスを〝アジア救済国際組織″のような機関をつくるイニシアをとって、アジア各国の天災・人災の超国籍的、非党派的救助にのりだすこと。第3に、すべてのマスコミ機関を動員して、正真正銘の平和運動を核に対し、通常戦争に対し、各国間の紛争に対して展開しなければならない。
ついでにいえば、ヨーロッパの第2次大戦の歴史にあって、レジスタンスの勢力は職業軍隊の陸、海、空の3軍に対してフォース・フォーシーズ(第4軍)とよばれたが、この方向をさらに徹底させて、レジスタンスの第4軍を防衛力の主力におしだし、職業軍隊を解消させるのだ。
アジア第2の強力な武装兵力である自衛隊をレジスタンス的第4軍に編成しなおす方法、手順、プログラムの問題がわれわれを待ちかまえている。



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  1. 2010/06/29(火) 07:00:18|
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奈良・古代史 ミステリー紀行


奈良・古代史ミステリー紀行奈良・古代史ミステリー紀行
(2009/12/19)
関 裕二

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飛鳥を訪ねて、古代史最大の悪人、蘇我氏に対するこの土地の人々の接し方がやさしいのである。
もちろん、飛鳥が蘇我氏の土地であったことが、大きな意味を持っているのかもしれない。
入鹿神社の祭神は出雲神・素戔嗚尊と蘇我入鹿で、蘇我入鹿像が御神体となって丁重に祀られている。
入鹿神社の周辺には「入鹿公御旧跡」と記される。「公」も「御」も天皇家を蔑ろにした大悪人に対して使う文字ではない。
この「不遜」な石標は、戦時中お上の命令で取り払われ、戦後、ふたたび復活したという。
意外にも、奈良では藤原氏の祀る神は、あまり人気がない。
なぜ、大悪人蘇我氏が飛鳥の周辺で丁重に祀られるのだろう。
それは、蘇我氏が「そんなに悪い人達ではなかったから」ではないのか。
蘇我氏が大悪人と信じられてきたのは、『日本書紀』に「そう書かれていたから」だ。
だが『日本書紀』は、蘇我氏を滅ぼして政権を獲得した人々の手で書かれている。
蘇我入鹿の死の直後、大化改新が断行されたと『日本書紀』はいうが、その事業のひとつ、難波遷都はすでに蘇我入鹿存命中に計画されていたことが、ネズミが飛鳥から難波に移動していたと記録されている。
蘇我入鹿は改革事業を断行しようとしたから、反動勢力の手で葬り去られたのではあるまいか。
『日本書紀』によれば、神武天皇が九州からやってくる以前、すでに物部氏の祖の饒速日(ニギハヤヒ)命は、ヤマトの地に君臨していたという。
天皇家の正統性を証明するために書かれた『日本書紀』に「天皇家よりも先に、物部氏の祖がヤマトに舞い下りていた」ということは、物部氏がヤマトの王だったことを認めているようなものだ。
天皇家最大の祭り大嘗祭に物部氏は参加している。他の豪族にはありえないことだ。
『日本書紀』は、饒速日命が天磐船に乗ってやってきたという。
纏向遺跡を見ると、各地から土器が集まっているが、吉備の土器だけが宗教儀礼に使うものだ。
このため、ヤマト建国の中心に立っていたのは吉備ではないかとする考えがある。
大阪府の八尾市は物部守屋が滅亡したように物部氏最大の拠点で、この八尾市から3世紀の吉備系の土器が大量に出土していることから、物部氏は吉備出身だったのではあるまいか。
第10代崇神天皇と第11代垂仁天皇の時代、ヤマト朝廷は出雲いじめに走ったと『日本書紀』にあるが、このとき、尖兵となったのは物部氏の祖と、「吉備」の名を冠した者だったことも偶然ではあるまい。
『日本書紀』は、聖徳太子は改革者で、これに反発したのが蘇我氏で、聖徳太子の死後、蘇我氏は邪魔になった山背大兄王を追いつめたとなる。
だが、天皇に自家の女人を入れ、外戚の立場にあった蘇我氏が、天皇家を乗っ取ろうとは、考えられない。
だとすれば、『日本書紀』を記した政権は、蘇我氏を滅ぼし、「改革漬し」をした上で、蘇我氏の手柄を横取りしていた可能性が出てくる。
そこで、聖徳太子という朝廷の聖者を創作し、蘇我氏の業績をこちらに移し、その上で、蘇我氏が山背大兄王の一族を滅亡に追い込んだとでっち上げたのではないか。

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  1. 2010/06/28(月) 07:00:49|
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ウェブはバカと暇人のもの


ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)
(2009/04/17)
中川淳一郎

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メールや掲示板のクレームにはただ粗を突く行為で、「公開されることを恐れる企業側の心理」につけこむ「プレイ」と思われるものがある。
機嫌をさらに損ねたら「対応を逐一ネットで公開します。」と切り札を出され、企業のサイトはつまらなくなっていく。
人々はただ「いじめ」が大好きなのだ(ただし、自分は逆襲されないかたちでの)。
まともなこと、正しいことをしておけば、そう叩かれることはない。
ただ、ネットの恐ろしいところは、叩きや批判が必要以上に増幅してしまうことだ。
ネットで叩かれやすいのは、①上からものを言う、主張が見える②頑張っている人をおちょくる、特定個人をバカにする。③既存マスコミが過熱報道していることに便乗する。④書き手の「顔」が見える⑤反日的な発言をする⑥誰かの手間をかけることをやる⑦社会的コンセンサスなしに叩く⑧強い調子のことばを使う⑨誰かが好きなものを批判・酷評する⑩部外者が勝手に何かを言う、この10項目だ。
夜の9時~深夜1時くらいにブログを更新している人は、昼間にフルタイムで働く人と推測され、週末は更新が滞ることが多い。なにかと忙しいからだ。
だが、世の中には一日に何回もブログを更新し、朝の3時だろうが昼の3時だろうが、人気の高いスレッドにコメントを続々とつけていて、どう考えても彼らは暇人である。
人々がプログを書く理由を総務省の調査では、30.9%が自己表現、25.7%がコミュニティ、25.0%がアーカイブ型、10.1%が収益目的、8.4%が社会貢献となっている。
その一方、ブログを書かない理由は、忙しい・書くことがない・面倒くさい・書いてもなんにもならない・「トラブル発生の可能性を作りたくないといったところか。
日々ネットで構築されていく一般人による「パスタ食べました」や「大河ドラマ見ました」などの「日常の報告・雑感」の価値は「暇つぶし」にある。
その一方、リアルな世界で忙しい人たちのそれはあくまで情報収集のためである。
テレビを見て、その日のキーワードや話題に合わせて記事をアップすれば、間違いなくPVは高くなる。
その一方で参考にしないのは雑誌で、雑誌で何が流行ろうと、ネットに対して影響はない。
テレビのすさまじい点は、世帯普及率が100%に近い点と、放送作家がきちんと説得力がありそうな構成にしている点と、それを芸能人に言わせる点である。
このように見てくると、なぜここまでネットが過大評価され、テレビの時代が終焉したと多くの人が思っているのかが、ネット漬け生活をしている私にはよく理解できない。
ネットは暇つぶしの場であり、人々が自由に雑談をする場所で、放課後の教室や、居酒屋のような場所なのである。
「みんなの意見」は案外正しい(角川文庫)というアメリカのベストセラー本があるが、日本のネット界ではこれは必ずしも当てはまるわけではないようだ。
なんせ、暇人が悪ふざけできる材料を日々探していて、「みんなの意見」を真面目に聞こうとする人々を愚弄する行為を行うのだから、正しい意見など求めないほうが賢明だろう。



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  1. 2010/06/27(日) 07:00:02|
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コミュニティを問いなおす


コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)
(2009/08/08)
広井 良典

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戦後の日本社会は、「農村から都市への人口大移動」の歴史であった。
都市に移った日本人は都市的な関係性を築いていくかわりに、「カイシャ」そして「(核)家族」という、いわば”都市の中のムラ社会”ともいうべき、閉鎖性の強いコミュニティを作っていった。
経済成長の時代には、一定の好循環を作っていたが、現在では、かえって個人の孤立を招き、「生きづらい」社会や関係性を生み出している。
地域コミュニティの原型を考えると、神社あるいは鎮守の森という存在が核をなしていた。
明治初期には神社の数は約18万余と、これは自然村の数とほぼ同じで、神社合祀の結果、明治末には約11万余に、現在では約8万1000まで減少した。
一方、郡区町村編成法の時の自治体の数は約7万が、市制・町村制では約1万6000となる。
自治体の数が神社の数よりひとまわり少なく、神社を中心とする地域コミュニティが順次集約・統合されることとパラレルに進行したのが行政上の自治体の成立だった。
やがて、昭和の大合併で自治体の数は9,868から3,472に、平成の大合併で1760に減少するが、これらは農村から都市への人口大移動と平行して進み、都市圏では神社や「鎮守の森」と地域コミュニティの関連はほとんど消滅していった。
格差をめぐる問題が活発に議論されているが、実は所得・フォローより資産・ストックでの格差であって、格差の度合いを示すジニ係数が一般世帯の年間収入が0.308であるのに対し、貯蓄は0.556、住宅・宅地資産額は0.573と、所得より土地等の資産格差がずっと大きいことが示されている。
特に土地所有などの格差は、親から受け継ぐもので、本人には如何ともしがたい性格のものだ。
戦後、日本がラディカルに行ったのが、資産面での「機会の平等」の実現のための政策で、農地改革を通じた「土地の再分配」と新制中学の義務化を通じた教育の機会の平等だ。
これらの政策が個人の「共通のスタートライン」の実現に寄与し、その後の経済発展の大きな基盤になった。
こうした問題意識を展開していくと、社会保障・福祉政策のあり方にとどまらず、「公有地」のあり方を含む土地政策、住宅政策、ひいては「コミュニティ」をめぐる課題に連動する。
大規模な自治体では、高齢者や低所得者等の住宅確保が重要な課題で、小規模な自治体では、住宅をテコに若年層や子育て世帯・現役世代を呼び寄せようという動きがあり、公営住宅のもつ新たな意義・重要性が生じている。
公有地などを活用して「コミュニティの中心」としでの機能をもたせ、それを世代間交流、環境保全活動、福祉・医療、生涯学習等の活動場所として生かしていくことが、コミュニティや地域再生において重要な意味をもちうるだろう。
この場合、世代間のバランスや世代間交流、そして世代的継承性という点に注目することが重要で、文字通り「持続可能な」地域社会という視点が今後の地域再生やコミュニティ政策において求められている。



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  1. 2010/06/26(土) 07:00:27|
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左翼・右翼がわかる!


左翼・右翼がわかる!―天皇制 西郷隆盛 三島由紀夫 日蓮 宮沢賢治 大本 オウム真理教 軍隊左翼・右翼がわかる!
(2010/02/20)
鈴木邦男

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僕は前から、「左翼は死滅した、右翼は乗り越えられた」と言っている。
右翼以上のものが出てきたということです。
たとえば、歴史教科書問題で「自虐史観」を批判する団体、北朝鮮の日本人拉致問題を扱う団体、外国人の排斥を主張する保守系グループや市民団体……。
こういう運動をしている人たちは、これまでの右翼以上に相当に過激なことを言っている。
「北朝鮮を攻めろ」「日本は核武装しろ」「外国人は出ていけ」「在日の参政権を認めたら日本は亡ぶ」とか。
でも、あの人たちはどんな過激なことを言っても、右翼の範疇に入らないから警察に目をつけられることもなく、安全圏で好き放題に言ったり書いたりできる。
一人ひとりに覚悟があるかといったら、ない。
ネット右翼に近いですよ。
排外主義で、「日本が朝鮮に乗っ取られる」とか言うでしよ?
僕は在日の人たちに、国政も地方も、選挙権は全部与えたらいいと思う。
フィリピン人の両親が強制国外退去させられたから、娘も追い出せとか、ひどいですよね。
頭山満だって、日本政府が「ボースを追い出せ、孫文を追い出せ」というのをかばってかくまった。
それが本当の右翼です。気の毒な人を「日本から追い出せ」なんていうのは右翼じゃない。
左翼も自由民権運動をやった人の中にも、中江兆民も西郷を尊敬していました。
自由民権運動は、西郷のあとを継いで起こり、その流れの中に、頭山満もいるわけです。
つまり、右も左も根っこは西郷にある。
右翼が好きなのは西南戦争で反乱を起こす前の西郷ですが、西南戦争を起こしたところも評価される。永遠の維新者です。
「玉砕」って言葉は、西郷が日本で初めて使ったんですが、6世紀の中国に原型があり、玉のように砕けよう。でもこれはあくまで個人の決意の意味。
大東亜戦争では「玉砕しろ、みんな死ね」となってしまった。
朝鮮に開国を迫った征韓論は侵略戦争の原型のように思われていますが、西郷は一人で韓国に行って対話する決意だったし、それが実現すれば侵略などはなかったはず。
田原坂の慰霊碑では、官軍と薩摩軍を同等に扱い、祀っている。
この点は靖国神社より立派です。
本来の日本の思想とは、敵であっても祀るということですよ。
天皇のために死んだ人を祀る。
白虎隊も、彰義隊も、新撰組も同じですよ。
靖国神社については、西郷を祀っていないという問題以上に、天皇が参拝しないという大問題がありますよ。
これは、A級戦犯の合祀が、昭和天皇のお考えに沿わないからではないでしょうか?
靖国神社が抱えるこの根本的な矛盾は、右側の人たちは絶対にふれたくない点です。





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  1. 2010/06/25(金) 07:00:05|
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ゼロからわかる核密約


ゼロからわかる核密約ゼロからわかる核密約
(2010/03)
石井 修

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吉田茂は多くの全権を引き連れてアメリカへ飛び、平和条約に調印しました。
ところがそのあと、彼は単独で軍事施設へ移り、日米安全保障条約に調印したのです。
この旧安保(52年安保)は、占領時代と同じように、アメリカ軍が日本領土内に駐留することを認めました。ところが、もっとも肝心なアメリカが日本を守るとは明記されていません。
ちなみに沖縄は、サンフランシスコ平和条約第3条で本土から切りはなされ、日本独立後もアメリカの直接統治下に置かれ続けることとなりました。
基地があれば当然、地域住民との間のトラブルが予想されます。そこで別途、日米行政協定が結ばれましたが、これも対等とは言えないものでした。
新安保でやっとアメリカが日本を守ることが明記されました。
日米安保は軍事面だけでなく経済面など幅広い「協力」をも含むと明示され、有効期限を10年とし、それ以後は1年前に相手国に通告することで条約を失効できることになりました。
佐藤栄作は首相在任中、幾人もの密使を利用しています。外務省や通産省とは別ルートの「裏チャンネル」で、そのひとりに、若泉敬という国際政治専門の学者がいました。
若泉は、繊維と核兵器に関する2枚の紙切れを渡され、日米首脳会談の2ヵ月前の1969年(昭和44)9月に、ニクソンの大統領補佐官キッシンジャーとの打ち合わせにワシントンへ飛びました。
若泉は1994年(平成6)、600頁をこえる回顧録を発表し、自分は佐藤の密使であり沖縄の核密約をキッシンジャーとともに作成した、と名乗り出ます。
彼は「沖縄の人たちを裏切ったのではないか」という罪悪感に苛まれ、本の刊行から間もない1997年に毒をあおいで「自裁」しました。
2009年(平成21)12月23日、佐藤のサインした文書を次男・佐藤信二氏が自宅の机の引き出しから発見しました。
佐藤首相が密約文書を自宅に保存し、後継者に引き継いだ様子がないので、佐藤内閣かぎりでこの密約は失効したと、外務省の有識者会議が判断したことが報じられましたが、果たしてそう言い切れるのでしょうか。
佐藤首相にはもうひとつ隠しごとがあります。繊維です。
1969年(昭和44)と翌年の首脳会談で、佐藤は繊維について握手まで交わして約束したのですが、この約束を所管の通産大臣や日本の繊維業界にまで隠し続けました。
国内ではもっぱら「イト(繊維)でナワ(沖縄)を買った」と噂され、佐藤はこれを打ち消したかったのでしょう。『そんなものはない』といった具合でした。
1971年(昭和46)夏に日本を揺るがした2度の「ニクソン・ショック」は、佐藤の繊維での度重なる約束不履行と無関係とは言えないでしょう。
日本政府は国民の不満や怒りにおされる形で、1953年4月に日米行政協定の刑事裁判権条項を改定したいと申し入れました。
アメリカ側の立場は「アメリカ軍人、軍属、家族に対しては、とくに重大な場合を除いて、日本政府は第一次裁判の行使をしない」というものでした。
ただし、これが表に出た場合の日本国民の怒りを恐れ、交渉の議事録のうえではNATO協定と類似のものとし、肝心な個所は「密約」としたのです。
この密約は今日も生きており、日本側はいまでも、裁判権の行使を「最小化」する措置をとらざるをえないのです。



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  1. 2010/06/24(木) 07:00:02|
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ノーマ・フィールドは語る


ノーマ・フィールドは語る――戦後・文学・希望 (岩波ブックレット 781)ノーマ・フィールドは語る――戦後・文学・希望 (岩波ブックレット 781)
(2010/04/08)
ノーマ・フィールド成田 龍一

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幼稚園から小学校まで基地の学校に通っていて、基地としてのアメリカに対して深いコンプレックスを抱いていました。
毎日、門番が立つゲートを通り抜けるのがいやだった覚えがあります。
子どもながらに日本とアメリカの境目を超えることだと感じたんでしょう。
でももっと嫌だったのは、自分の振る舞いです。
つまり、アメリカ人として通用したくて、神経をすり減らしてばかりいました。
家のなかや近所では日本人として振る舞い、周りにもそう認めてほしい。
そのかわり、学校のアメリカ社会では、完全にアメリカ人、つまり白人、と認められるのに懸命でした。
実際、どっちに行っても外人祝されてしまったのですが。
ですから沖縄に行くということは、そういう自分と向き合う決心を要したわけです。
大磯に沢田美喜さんが設立したエリザベス・サンダースホームという施設がありました。
「進駐軍」男性と日本人女性の間に生まれて孤児となった子を収容するものでした。
「混血児」か「あいのこ」が一般的に使われていました。
沖縄を避けていたもう一つの理由は、そういう子にたくさん出会わなければならないと潜在的に思っていたのでしょう。
私の中に、日本社会の窮屈さ、抑圧性に対する反発といった反日感情があり、他方では読谷村のトリー・ステーションのゲートを見て、見事に反米感情も掻き立てられました。
鳥居の形をしたゲートですが、トリイの上部、水平の柱の間に富士山が描かれた「額束」までありました。
鳥居と富士山とは日本・ヤマトの文化、支配体制の象徴であって、それを沖縄に持ってくるとはなんたる浅はかさと、うんざり。
戦後の子ども期にはコンプレックスを交えた反米感情があった。
同時に、日本人社会が向ける差別の目と、大きくなるにつれて増してくる窮屈さからくる反日感情が、沖縄と出会うことによって、個人的なレベルを超えて社会化、歴史化された、ということかもしれません。
アメリカ対日本の枠組みでは反米になり、日本対沖縄の枠組みでは反日、となるわけです。
でも、当然ですが、こうした図式で、ある土地やそこに暮らす人々を捉えきることは到底できません。
基地が生み出した地主の富など、とても気になる問題もありますが、日常的なレベルでは、ランチョンミートやスパムといった安価な肉製品が沖縄の食生活に入っていたり、実際地元の人と米軍人と、音楽を適して、酒場などで好い交流があったりすることも知りました。





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  1. 2010/06/23(水) 07:00:12|
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本気で稼ぐための「アフィリエイト」の真実とノウハウ


本気で稼ぐための「アフィリエイト」の真実とノウハウ本気で稼ぐための「アフィリエイト」の真実とノウハウ
(2010/05)
あびる やすみつ

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広告主側から見てアフィリエイトは、どの広告システムよりも成果が明確です。
テレビや新聞、ラジオなは、広告費が妥当かどうかは出してみないと分かりませんが、アフィリエイトは成果が上がらなければ広告料が発生しません。
では、広告を載せてお金をもらう側(アフィリエイター)から見るとどうでしょうか?
アフィリエイトは、「簡単に始められる、手軽なお小遣い稼ぎ」として紹介されますが、楽天アフィリエイトで500円以上稼いでいる人は、全体の0.5%もいません。
アフィリエイト成功者の武勇伝で、月の売り上げ7桁なんて数字を見かけますが、この数字には出て行くお金までは解説されていません。
実は、多くのアフィリエイターはYahoo!やGoogleに掲載するリスティング(キーワード)広告にお金を使います。
自力で集客できるほどの人気サイトは制作できないので、リスティング広告に頼ることになり、Yahoo!やGoogleが儲かるわけですね。
要は身銭を削っているので、売上額ほど儲かっていないのです。
「アフィリエイトは確実に儲かりますよ」と声をかけてくるサイト制作会社がありますが、確実に儲かるなら、サイト制作のプロであるその人たちが、自社運営サイトをどんどん作ればいいと思います。
主に個人がインターネットで直接販売する文章や書籍を情報商材といいますが、そんなに儲かるなら、そのノウハウで儲ければいいと思いますが、彼らはその情報の販売で儲けているのです。
入会に何十万か払えば「確実に儲かるノウハウ」を教えてくれるアフィリエイトセミナーなどをよく見かけると思います。
確実に儲かるという時点でおかしいということに気が付かない人はアフィリエイトの才能がありません。彼らは確信的に才能がない人からお金を巻き上げていますので、ご注意ください。
広告主の中にも、不届き者は潜んでいます。
特にサイドビジネス、在宅バイト系広告主は要注意で、報酬目当てに犯罪の片棒を担いでしまったり、申し込んだことで営業の電話やメールがすさまじく増えてしまいます。
アフィリエイターは成果にならないと報酬がもらえませんが、成果になったかどうかは企業を信頼するしかなく、ここは紳士協定。
それをいいことに成果を承認しない広告主がいるから驚きです。それも名が知れた有名な企業だったりしますから二度驚きます。
とあるアフィリエイトセミナー主催者によると、セミナーでブログを教えても、半年以上更新を続けられるブログはほとんどないそうです。
彼らは儲けたいからセミナーを受講しているのですから、ちっとも儲からないのなら半年以上続くわけがありません。
アフィリエイトで本気で稼ぐには田中良知さんのGREEのようなプログラムを使ったサービスを提供することです。



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  1. 2010/06/22(火) 08:19:37|
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韓国歴史散歩


韓国歴史散歩韓国歴史散歩
(2009/10/15)
中山義幸 平井敏晴

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『三国史記』は、百済の建国について、次のように伝えている。
河の女神が天の神と結ばれて卵を産み、そこから1人の男子が生まれた。朱豪である。
権力争いに巻き込まれ、長男の類利と妻を残して亡命の身となると、夫余の国王は朱豪の頬稀な能力を見抜き、3人娘のうち2番目を嫁がせ、沸流と温祚の2人の男子をもうけた。その後、朱蒙が王位について高句麗を建国。その城跡は五女山の断崖上に今も残る。
長男の類利がやってきたため、朱蒙は太子とした。そこで、沸流と温祚は共に南方に逃れて漢江を渡り、沸流は海辺に別れ、温祚は現在のソウル東南部で百済を建国した。
なお、13世紀末に編纂された『三国遺事』では、朱蒙は橿君の子とされている。

忠清道が表舞台となったのは、475年に、都であった漢城が高句麗の南下によって脅かされ、水運の良い町である現在の公州に遷都してからだ。
かつて公州は熊津と呼ばれ、現在でも錦江(白馬江)の川岸にある小高い山の上に、百済の王宮が置かれた公山城の城跡がある。
公州に都が置かれたのはわずか63年間であるが、政治的に安定し、文化が花開いた。
538年、百済は泗沘への遷都を果たす。
562年に加耶が新羅に吸収され、三国が緊張関係の中で覇権を競った。
新羅が勢力を蓄えていくと、7世紀前半に王位にあった武王は、新羅の善花公主を妃とすることで新羅との関係を安定化させた。
この武王と善花公主の物語は、『三国遺事』により知られ、今でも薯童謡伝説として人々の心を引き付けて止まない。

660年に新羅と唐の連合軍によって百済が滅亡すると、遺臣たちは、朝鮮半島で王家復興の烽火を上げるため、飛鳥の地に身を置く王子の豊璋の国王擁立を大和朝廷に伝えてきた。唐に対してただならぬ脅威を抱いていた大和朝廷。後に天智天皇となる中大兄皇子は、申し出を承諾した。
663年。百済遺臣軍は新羅の軍勢を旧百済領南部から駆逐し、豊璋を連れた倭軍が上陸した。
戦いは白馬江(白村江)の河口付近。
陸が新羅によって塞がれた百済側連合軍は船で攻めるも、新羅側連合軍がこれを水陸から迎え撃ち、撃破した。
豊璋は高句麗に逃れるが、後に高句麗が滅亡すると、唐に幽閉されたという。
この敗戦によって新羅による半島統一が加速し、668年には高句麗が滅亡。
こうして、唐と新羅は大和朝廷にとって大変な脅威となり、朝廷は九州に大宰府開発や防人の配備を進めた。
一方、天智天皇やそのあとの天武天皇は、唐と新羅との関係修復に努力した。


2010世界大百済典 BC18~AD660年まで古代国家を形成していた百済を記念した祭典が、9月18日~10月17日、忠清南道 扶余群と公州市で行われます。


テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

  1. 2010/06/21(月) 07:00:22|
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