続・竹林の愚人 2010年07月

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ある日韓歴史の旅


ある日韓歴史の旅―鎮海の桜 (朝日選書)ある日韓歴史の旅―鎮海の桜 (朝日選書)
(1999/03)
竹国 友康

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鎮海は釜山の西方にある、韓国海軍基地がおかれている街である。
鎮海の桜について、軍港祭パンフレットには、日本海軍が「この地に軍港を建設するようになって都市の美化のために桜を植えたことがそのはじまりである」と書かれている。
海軍は、建設当初に植樹されていた2万本の桜に加え、「軍国の花」として、桜の植樹をさらに大々的におこなったのであろう。
1910~16年に、合計10万本の桜の苗木が植樹されたことが記録されている。
1926年末に完工した鎮海線開通後、花見の季節には鋲海行きの臨時列車が運行され、京城・大邱・釜山方面からも団体観光客が訪れるようになったという。
当時、鎮海には「桜祭り」と呼ぶような特別の行事があったわけではないが、4月初旬の桜の開花期には朝鮮各地からの花見の客で街中にぎわった。
鎮海だけでなく、日本の植民者たちは、各地に桜の名所をつくった。
ところが、春先に賑わいを見せた朝鮮各地の桜の名所は、8.15以後、その様子を一変する。
「桜=日本を象徴する花」という見方から、桜並木の多くは伐採されてしまったのである。
日本人の多くが、神社をはじめ官庁・兵営・学校・公園などに桜をつぎつぎと植樹し、またその桜に過剰なナショナリズムを託し、喧伝していたことに対するしっぺ返しであった。
また、解放後の経済的な混乱のなか、燃料不足も深刻化し、桜は格好の生活用燃料ともなった。
「桜の鎮海」でも、かなり多くの桜が切り倒された。
サクラは四川省や雲南省にも自生し、インド・ビルマの山岳地帯にはヒマラヤザクラやヒマラヤヒザクラが美しい花を咲かせている。
しかし、サクラは日本にしかないという考えは、明和・安永・天明ごろに国学者らによって増幅された。
本居宣長が「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」と歌いあげた桜はヤマザクラであったが、ソメイヨシノの「桜吹雪」に見られる大量の落花の光景と重ねられて、戦争期には「華と散る」ように潔く死ぬ戦死を美化するイデオロギーとなった。
日本軍最初の特攻・海軍神風特別攻撃隊の24機は、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と名付けられている。
しかし、1962年に、朴万奎(パクマンギユ)、ブ・チョンギュなどの植物学者によって、鎮海に最も多くあるワンポッナム(日本名、ソメイヨシノ)の原産地は、日本ではなく、済州島であることが明らかにされ、その認識が改められた。
韓国の学界では済州島のワンポッナムは、漢拏山中に自生するヤマザクラやミヤマザクラの自然交配によってできた雑種であると確定しているようである。
1966~81年に、在日韓国人の協力で、じつに59,300本もの桜の苗木が植樹され、現在の鎮海市街の桜の過半は、在日韓国人たちの贈った桜であるということになる。



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  1. 2010/07/31(土) 07:00:26|
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年金夫婦の海外移住


年金夫婦の海外移住年金夫婦の海外移住
(2008/06/13)
出井 康博

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80年代のバブル期、日本政府が「シルバーコロンビア計画」という、スペインに大勢の年金生活者を移住させようとした。
計画の中核には、マンション群やゴルフ場などからなるリゾート開発で、ハコモノをつくるとなれば、商社やゼネコン、リゾート関連企業なども潤うことができる。
この壮大な試みはバブル崩壊によって、あっけなく頓挫してしまう。
そして今、政府の施策とは無縁なところで、年金生活者の海外移住がブームになりつつある。
ただし、行き先はヨーロッパではなく東南アジア諸国。
その中心には、かつて海外生活の代名詞だった富裕層ではなく、一般庶民もしくは日本では生活にも事欠くような高齢者たちがいる。
日本は今、人類の歴史上、恐らく最も著しい超高齢化社会への道を進んでいる。
国民の老後を保障すべき年金制度の綻びがあちこちで露呈し、介護や医療、看護の現場においては、人手不足や質の低下が叫ばれる。
そこで、物価の安い東南アジアに住み、日本では味わえない暮らしを実現しょうとしているのだ。
しかし、「たとえ物価の安い海外で暮らしても、夢の生活は簡単には手に入らない」
それが今、東南アジア各国で日本人年金生活者への取材を終えた感想である。
観光客としてならば、名所旧跡を訪ね、現地でうまいものを食べていれば楽しく終えることもできよう。
しかし、生活者となるのであれば、話は違う。
言葉や食事、文化、習慣に至るまで、すべて日本とは異なる地に赴くのだから、考えてみれば当たり前のことだ。
しかも、還暦を過ぎてのチャレンジとなると簡単なことではない。
よい家族や友人に閉まれ、近所付き合いもうまくいけば、それだけで人生は悪くない。
海外で新しい生活を始める際にも同じことが言える。
よい出会いがあり、気の置けない人間関係が築ければ、海外暮らしは成功だが、これがなかなか難しい。
年金生活者が海外で暮らす場合、大多数の人にとって日本人同士の付き合いが必要になる。
人間関係がうまくいっているうちはよいが、ひとたび関係が壊れると日本での生活にも増して苦労が大きい。
たとえ海外の大都市でも日本人社会は狭く、逃げ場がなくなってしまうからだ。
海外移住を楽しんでいる年金生活者は共通して、日本人社会と適度な距離感を保っていた。
何よりも「自立心」を持って生活すること。
それは言葉の能力などにも増して、海外での年金生活の成否を振る鍵だと思う。
また、どうすれば現地で待ち受ける「不良」日本人に騙されずにすむのか。
海外で出会う日本人には、むしろ現地人以上に注意すべきである。
そして同時に、自分たち自身が、現地で迷惑な存在にならないよう気をつけたいものだ。

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  1. 2010/07/30(金) 07:00:16|
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不動堂明王院


不動堂明王院(ふどんどうみょうおういん) 京都市下京区油小路塩小路下ル南不動堂町
本寺の開基は今から凡そ1千余年前の弘仁14年(823)に弘法大師空海が嵯峨天皇の篤い帰依をうけて京都洛南に東寺を賜ったとき、東寺の鬼門(東北)にあるこの地を択んで、法城守護のため一体の不動尊を祀ったのに由来します。
この不動尊像はたまたま大師がこの地に発見した一基の妙霊なる石にみずから彫り刻んだものでした。
大師はこの霊験あらたかなる霊石不動が穢れた凡夫の目に触れるのを憚って、石棺に納め、更にこれを地中の井戸ふかくに安置したのです。
寛平11年(899)宇多天皇の御代に、ふかく仏道に帰依されていた天皇が法皇となられたとき、この地をふくめて京都西洞院に東西に2町(約220m)南北に4町という宏大壮麗なる東七条御所(または亭子院)をいとなまれました。
その亭子院の造営にあたって宇多法皇はここに霊石不動の安置された井戸のあることえお知り、人に命じて取りださせようとしたところ、霊力のためか井戸の石をみるもの悉く眼を病み恐れをなして終に果せなかったといいます。
そこで法皇は勅して井戸を封じ以後何人もうかがうことを許さず、大いなる堂宇をいとなみ、これに霊石不動明王の号を賜って、日夜御念持仏としていたく尊崇されたのです。
下って室町時代、応仁の兵火に亭子院はじめこの堂宇も焼失したが、井底に安置されたままの霊石不動は多くの信仰をあつめ、篤志家たちの手になって再び堂宇の造建をみました。
その後、江戸時代に入って明和元年(1764)11月本堂の改築修理に及び、今に至っています。
建立当所、本寺は宇多法皇が任和寺と縁浅からぬ関係上、同寺の直属道場をして天明2年(1782)までその下にありましたが、以来西山浄土宗に属して現在に至っております。


役行者・前立の不動尊・弘法大師像

『都名所図会』
不動堂(ふどうどう)稲荷社の南にあり。不動尊を本尊とす。不動堂この所の名とす。

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  1. 2010/07/29(木) 07:10:34|
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道祖神社


道祖神社 (どうそじんじゃ) 京都市下京区油小路通塩小路下る南不動堂町
昌泰2年(899)、宇多上皇が法皇となられ、東七条御所「亭子院」(ていじのいん)を離宮とされ、その鎮守社として創建された。


拝殿


本殿 祭神:猿田彦大神・天鈿女命


幸神社・稲荷社・書聖天満宮

『都名所図会』
道祖神(だうそじん)不動堂の南にあり。祭る所猿田彦命なり。古は五条新町の西にあり。首途神(かどでのかみ)と称す。
書聖天満宮(しょせいてんまんぐう)道祖神の社内にあり。烏石葛辰碑の銘を建つる。篆字は岡白駒の筆なり。

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  1. 2010/07/29(木) 07:05:49|
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養源院


養源院(ようげんいん) 京都市東山区三十三間堂廻り町656
豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政の追善の為、長政の21回忌に秀吉に原って養源院を建立し長政の従弟で叡山の僧であった成伯(せいはく)法印を開山とし、長政の院号を以って寺号としたのは文禄3年5月(1594)である。
其後程なく火災にあい焼失。元和7年(1621)徳川秀忠が夫人崇源院殿の願により伏見城の遺構を用いて再建したのが今の本堂である。以来徳川家の菩提所となり、歴代将軍の位牌を祀っている。


白衣弁財天


毘沙門天


中門


本堂


慶長5年(1600)に、前哨戦となった伏見城の攻防戦で、豊臣軍の大軍に攻められ伏見城中で自刃した徳川軍の鳥居元忠(とりいもとただ)ら約800人を供養するために自刃した血痕が残る大広間の床板を天井にして祀られている。
俵屋宗達が描いた着色杉戸絵8面はその霊を慰めるためのもの。
鶯張廊下は左甚五郎が造ったものといわれる。


鐘楼


白鷹龍神・赤桃明神・白玉明神         
ヤマモモ 伏見桃山城内に豊臣秀吉が手植えしたものを、後年、この地に植え替えた。


表門


『都名所図会』
養源院は宗旨天台なり。本尊阿弥陀仏、恵心の作。
当院は備前守長政の早創にして、開山は盛伯法印なり。

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  1. 2010/07/29(木) 07:00:31|
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豊国廟


豊国廟(ほうこくびょう) 京都市東山区今熊野北日吉町


太閤担(たいこうだいら) もと豊国社があったところ。


拝所
明治30年(1897)秀吉の300年忌に、阿弥陀ケ峰山頂付近に高さ10mの五輪石塔が建てられた。
『都名所図会』
阿弥陀が峰は豊国の後の山なり。慶長3年、豊臣秀吉公をこの峰に葬り奉る。


馬塚(うまつか) 元和元年8月18日在銘の五輪石塔  (豊国神社境内)
『都名所図会』
大仏殿方広寺
太閤秀吉の石塔婆は仏殿の南にあり。豊国崩れて後これを営みしといふ。塔前の石灯籠には慶長10年9月とあり。

豊国神社 参拝のしおり
豊国神社境内奥、東南の隅に、高さ2.5m程度の五輪塔がある。阿弥陀ヶ峰の旧豊国社が徳川氏により取り壊され、その参道を塞がれた後、秀吉公を慕う人々が代拝所として同峰から移霊したものだが、ときの徳川氏の権勢を恐れて、近辺の地名「馬町(うままち)-馬の市があった為)にちなんで「馬塚」と呼ばれたようになったとする説が多い。

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  1. 2010/07/28(水) 07:10:14|
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新日吉神宮


新日吉神宮(いまひえじんぐう) 京都市東山区妙法院前側町451-1 
後白河上皇が今比叡の地に造営されました当時は、神殿は西面し、内陣に七つの神座が一間ずつ御扉を備え、神殿の前方に拝殿、後門に東門が建てられ、廻廊がめぐらされて壮麗を極めていました。
また、伝教大師が唐の国から伝えて、根本中堂や日吉山王社に植えられた呉竹・漢竹を移植して竹台を置き、別に小社三所と鳥居一基なども建てられました。
その後、修理や造営が度々行なわれましたが、室町時代の中頃の応仁・文明の役(15世紀後半)などの度重なる戦火に見舞われ、更に戦国の世の乱れに伴って、諸国数十ヶ所に及んでいた社領地も次第におかされ、社殿その他の建造物も破損して、室町時代の未にはようやく神社も衰えを見せました。
桃山時代になると、豊臣秀吉は法住寺内に方広寺大仏殿を造営し、後白河上皇以来の蓮華王院本堂三十三間堂(鎌倉時代再建)も大仏境内に含め、新日吉の社の南北両社地の中間には祥雲寺などを創立しましたので、法住寺は後白河天皇御陵を中心とする小寺城となりました。そして、慶長3年(1598)に秀吉が死没しますと、豊臣氏は、新日吉の杜の北社地に豊国社を造営、更にその東の油ガ峰に秀吉の墓所を営みました。
元和元年(1615)に、徳川氏が豊国廟社を廃止し、いよいよこれらを取りこほつことになりますと、後水尾天皇は、妙法院宮尭然(ギョウネン)法親王に新日吉の社を北社地に造営遷廃することを勅命せられ、ここに、神社は豊国廟を背後に、日吉馬場を正面参道として、往時をしのぶ盛観を仰ぐようになったのであります。
この時、豊国社の神体が新日吉社の神殿に、ひそかに遷しまつられましたが、これは、日吉の神と妃神樹下(コノモト)の神(玉依姫命)との神名を、木下姓の日吉九に通わせられた尭然法親王のご配慮によるものであります。
かくて、明暦元年(1655)には、神社の造営も全く成り、妙法院門跡も日吉馬場の北(現在地)の照高院址に移り、祥雲寺などの址は智積院 (新義真言宗)に改められ、法住寺を始め、方広寺なども延暦寺派と変り、三十三間堂も妙法院によって守護されることとなりました。
ところが、明治30年(1897)に、豊臣氏にゆかりの旧大名家が、豊国廟の復興をはかり、秀吉の墓所をもとの位置より東の阿弥陀が峯頂上に移し、旧大名の威勢をもって新日吉神社をやや南西方の現地に移転させ、更に日吉馬場の一部をも豊国廟参道にあて、大いに社地をおかしたのであります。
現在の本殿は京都でも特に大きな流れ造りで、天保6年(1835)に改造されたものです。

 
左大神     矢大神


楼門




 
神猿


拝殿


本殿 
祭神:後白河天皇・大山咋命・妃神賀茂玉依姫命・大己貴命・田心比売命・菊理比売命・大山咋命荒御魂・賀茂玉依姫命荒御魂
相殿:素戔嗚尊・大年神

 
樹下社(豊国社)                     愛宕社・秋葉社


天満宮


『摂津名所図会』
新日吉社(にひひよしのやしろ)は後白河院の御勧請なり。
旧地はこれより南にして日吉坂(今のすべり石越なり)といふ所なり。
応仁の乱れに破壊す。その後、妙法院尭然(げうねん)親王再建し給ふ。
例祭は毎年4月29日(近年5月9日に改してまた前の通になる)行はる。妙法院宮御領なり。




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  1. 2010/07/28(水) 07:05:09|
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豊国祭礼図屏風


豊国神社の宝物館には狩野内膳の「豊国祭礼図屏風」(重要文化財)のレプリカが展示されています。
狩野内膳(かのうないぜん・1570~1616) 
荒木村重の家臣池永重元の子として生まれる。
天正6(1578)年ごろ、根来密厳院に入ったが,のち還俗して狩野松栄に絵を学んだ。15年には狩野氏を称することを許され、またそのころ、天下人秀吉の支持を得て、以後、豊臣家の絵事を勤めた。

「豊国祭礼図屏風」は慶長9(1604)年の豊臣秀吉の没後7回忌に8日間かけて行われた、豊国大明神 臨時祭礼の模様が描かれ、慶長11年(1606)秀頼によって奉納されました。


狩野内膳 「豊国祭礼図屏風」(右隻)
右隻には1604年8月14日の祭りの3日目の模様で、豊国社を上に、下側には東大路を進む神官たちの跨る馬の行列やそれを見物する武士や僧侶などの姿が描かれています。


「豊国祭礼図屏風」(左隻)   
4日目の模様を描いたのが左隻で、方広寺大仏殿を中央に、下半分に風流踊りで大乱舞する町衆たちの熱狂した様子が描かれています。


(左隻部分)
大仏殿の門前で、風流踊りを眺めている尼姿は北政所でしょうか?

この屏風には大仏殿が描かれています。
東大寺より大きい高さ18mの大仏を収めた大仏殿は文禄4年(1595)に完成しましたが、慶長元年(1596)に地震により倒壊。豊臣秀頼がしましたが、慶長7年(1602年)11月に大仏殿は炎上。
再び再建されるのは慶長17年(1612年)のことです。
つまり、慶長9年(1604)の祭礼時には大仏殿はなかったのです。
慶長19年(1614)4月には、世に言う「方広寺鐘銘事件」という徳川家康による豊臣イジメで、落慶法要は中止。
豊臣家が滅亡するのはもう少し先の話。

風流踊りで大乱舞する町衆たちは秀吉に親近感を持ったのでしょうか?
石山本願寺攻めで門徒には嫌われても、信長以来の楽市・楽座で市場経済を発展させ、京の町衆には歓迎されたのでしょう。
その証拠に、徳川幕府となってから、秀吉の記憶を忘れさせるように、その痕跡を隠蔽していきます。
広大な境内地を誇る方広寺は分割され、豊国社も廃絶し、秀吉の墓所である豊国廟も破壊され、跡地に秀吉に焼かれた紀州根来山大伝法院の塔頭であった智積院を置き、豊国廟の登口に廃絶していた新日吉神社を再建して塞いでしまうのです。

テーマ:絵画・美術 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2010/07/28(水) 07:00:53|
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錦天満宮


鳥居 昭和10年(1935)建立。 笠木が両脇のビルの中にめり込んでいます。


錦天満宮(にしきてんまんぐう) 京都市中京区新京極通四条上ル中之町537
平安時代の長保5年(1003)、菅原道真の父親である菅原是善の旧邸「菅原院」を嵯峨天皇の皇子である源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して「歓喜寺」が創建され、その鎮守社として天満天神を祀って創建されたのに始まる。
天正15年(1587)、豊臣秀吉の都市計画のため、寺とともに錦小路東端の現在地に移転し、その所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。
明治の神仏分離により歓喜寺は東山五条に移り、神社だけが残された。


拝殿


本殿 祭神:菅原道真公


塩竈神社 源融を祀る。


日の出稲荷神社


白太夫神社


七社  八幡神社・床浦神社・市杵島神社・熊野神社・事比良神社・竈神社・恵美須神社


『都名所図会』
錦天神社(にしきのてんじんのやしろ) は京極錦小路東行当にあり。祭る所天満天神なり。
鳥居の額は天満宮と書して、青蓮院尊英法親王の筆なり。拝殿の額は宝鏡寺宮理秀(りしゅう)尼公の筆とぞ。
宗旨は時宗にして、紫苔山歓喜光寺河原院六条道場と号す。開基は一遍上人の坊、聖戒(しょうかい)上人なり。
元亨3年2月15日寂す。
当寺の旧地は東六条本願寺の境内、枳殻(きこく)馬場なり。
左大臣融(とほる)公の住み給ひし河原院を改めて寺となし、六条道場とす。
千鳥池 当寺庫裡の後にあり。河原院にありしをこゝにうつす。
塩竃社(しほがまのやしろ)千鳥池の中島にあり。祭る所河原左大臣なり。
そもそも当社は寺内の鎮守にして、古は左大臣融公を祭れり。中頃より天満宮を勧請しけるなり。

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  1. 2010/07/28(水) 06:55:10|
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誓願寺


誓願寺(せいがんじ) 京都市中京区新京極通三条下る桜之町453
浄土宗西山深草派総本山
寺伝では天智天皇の勅願により奈良に創建され、平安遷都で京都深草に移転、中世に上京の元誓願寺通に移った。醍醐天皇が浄土三部経を納め、源信は50余日参籠、不断念仏を修した。清少納言、和泉式部も訪れたという。
再三火災に遭い、現在地には天正19年(1591)に豊臣秀吉の命により移転、秀吾の側室・松の九殿の援助で広壮な伽藍が複興された。
55世法主の安楽庵策伝は.落語の元祖といわれ、笑語集『醒睡笑』(せいしゅいしょう)は現在も落語のマクラに使われる。
明治2年(869)には6000坪のうち4割が上知され、新京極の開発でさらに打撃を受けた。
本堂は昭和39年の再建。
飛び地の墓地には安楽庵策伝や日本で初めて刑死者の人体解剖を行った山脇東洋、歌舞伎『桂川連理柵」のモデルのお半・長石衛門の墓がある。


「迷子道しるベ」  「月下氷人石」といわれ 捜し物や落とし物・尋ね人の仲介役。


本尊:阿弥陀如来


鐘楼


扇塚
世阿弥の作と伝えられる謡曲『誓願寺』は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語り、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、能楽をはじめ舞踊など芸能の世界で尊崇された。


北向地蔵尊


『都名所図会』
誓願寺 は京極三条にあり。浄土宗にして、探草流義の一本寺なり。
本願は天智天皇、開基は恵隠僧都といふ。
初めは和州平城にあり。桓武天皇遷都の後、上京元誓願寺通小川の西にうつす。専貞(せんてい)法師、源信(けんしん)僧都も暫くこゝに住し、十余世の後、蔵俊僧正、法然上人の法徳に帰入し浄土宗となる。
本尊阿弥陀仏は長八尺の坐像にして、仏工賢問子(けんもんし)・芥子国(けしこく)両人の作なり。また春日大明神夜々影向ありて扶助し給ふ。故に春日の神作ともいふ。
仏面に朱字の名号あり。これ天智帝の宸筆なり。腹内に五臓六腑あり。稀代の霊仏にして奇験古今に著し。
額は大覚寺空性法親王の筆。当寺再興大施主大相国北御方佐々木京極女、為二世安楽也と書す。
六字額は一遍上人の筆なり。堂内の壇上には天智帝の宸影、恵隠和尚の影を安んず。
三重塔は元和八年の草創にして、本尊は谷薬師なり。開山堂には法然上人の像あり。釈迦堂には宝冠釈迦仏を安置す。
鎮守は春日明神なり。五輪石塔は秀吉公の愛妾松丸殿の墓なり。法名は寿芳院月晃盛久禅定尼と銘す。当寺再興の施主ゆゑ檀都塔と称す。
弁慶右は方丈の庭、仮山の上にあり。いにしへは三条京極の西、弁慶町にありしとなり。柏石は小方丈の西、手洗鉢の本にあり。羽二重井は方丈の前にあり。当寺の什物に烟除仏舎利あり。弘法大師よりの伝来とぞ。また法然上人の一枚起請を美嘆する一休和尚の筆あり。表具の中縁は紫地の牡丹からくさにして、古竹屋町織なり。小縁は萌黄地の宝づくし。これを誓願寺切とも、安楽庵ともいふ。
その文に日く、ロに法然上人の一枚起請あり。之を略す。
 伝聞法然活如来 安坐蓮華上品台 尼入道同愚癡輩 一枚起請文最奇哉 南無阿弥陀仏
この外達磨虚堂いらぬもの、唯法然の一大事と存じ奉る。我等今日より浄土宗に成申候穴賢〈
 応仁二年二月五日    薪酬恩院主一休 判
   仏御所さま
当寺の境内には紅梅数株あり。如月の頃は都下の人々.こゝに来り、未開紅の艶色を賞して美観とす。
 立ちならぷ木もふるぴたり梅の花       舎羅
塔中竹林院には小堀遠州の数寄庭あり。これを遠州の八窓といふ。庭中の風景絶倫なり。同じく長仙院の庭佳境なり。世に名高し。



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  1. 2010/07/27(火) 07:15:02|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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