続・竹林の愚人 2010年08月

Mad Science


Mad Science ―炎と煙と轟音の科学実験54Mad Science ―炎と煙と轟音の科学実験54
(2010/05/24)
Theodore Gray

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マイナス196℃のクッキング
液体窒素アイスクリームの話は、『Chemical&Englneering News』という石油精製所やシャンプー工場、液体空気の分別蒸留を行う大規模工場などを建築する人たちが読む学術誌に載っていたものだという。
私の頭に浮かんだのは、カチカチに固まって、喉に凍傷ができそうな代物だったが、それはまったくの見当違いだった。
どんなレシピやフレーバーでも構わないが、アルコールや大きめの果物は入れないこと。
超低温であることに気づきにくく危険だからだ。
次に窒素が空気中の酸素と置き換わらないようにするため、換気の良い場所を選ぶ。
人体を凍結させる液体窒素の威力に気をつけ、30秒後には、これまで味わったことのない最高のアイスクリームができ上がった。

材料
□アイスクリームミックス(生クリーム1リットル、低脂肪生クリーム1リットル、砂糖1カップ、バニラ大さじ1)。
□液体窒素2リットル。
□柄の長い木製スプーンと金属製のボウル。
□厚手のクライオグローブ(極低温・高温用手袋)。
□保護めがね。

1.卵とイチゴはなくてもよい。液体窒素は必須。
2.極低温でない材料群をボウルに入れて混ぜる。
3.液体窒素を1カップずつ加える。
必ず厚手の極低温用手袋を使用すること。オーブン用手袋は役に立たない。
4.氷の塊ができないように、混ぜ続ける。
5.なめらかで、「だま」がなくなったらアイスクリームのでき上がり。

雪の結晶を永久保存する
雪をつかまえて、そのままずっと持っていたいと思ったことがないだろうか。
瞬間接着剤は、サラサラとした液体状の接着剤で、第二次世界大戦中に発明された。
シアノアクリレートと呼ばれるモノマーが、接触するあらゆる微細構造へと侵入して絡み合う。
モノマーが互いに頭と尾をつなぎ合い(重合)、ポリマーに変わることによって硬化する。
この過程は、ごく微量の水または水蒸気によって引き起こされ、きわめて速く進行する。
どんな小さな隙間にでも侵入し、水分に触れると硬化するというこの性質は、非常に小さく、水でできている一過性の物体の型を取るのに最適だ。

用意するもの
□顕微鏡のスライドガラス。
□カバーガラス。
□瞬間接着剤。
□冷凍庫。

1.外気温が零下5℃以下の日に、スライドガラスとカバーグラスと醗問接着剤を外に出して冷やしておく。
雪をスライドガラスで受けるか、冷たいピンセットでつまんで載せる。
2.雪の結晶の上に冷たい瞬間接着剤を一滴垂らす。
ゲル状のものはうまくいかない。粘り気のないサラサラしたタイプを選ぶこと。
3.接着剤の上にカバーガラスを載せる。
強く押すと結晶が割れたり、指の熟で溶けたりするので注意すること。
4.スライドガラスは、暖かい手で触らないようにして冷凍庫に1~2週間入れておく。
雪の結晶を暖める前に、接着剤が完全に国まっている必要かある。

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  1. 2010/08/31(火) 07:57:18|
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除痘館跡


除痘館発祥の地(じょとうかんはっしょうのち) 大阪市中央区道修町4-4-6 「美々卯」道修町店前
江戸時代最も恐れられていた疫病の天然痘がジェンナーの発明した牛痘の種痘で防ぐことができることがわかった。
嘉永2年(1849)に緒方洪庵により大阪で最初の種痘が行われたのが古手町この碑の西隣の地である。
洪庵はこの種痘所を除痘館と称して導師と共にここを中心に全国的に種痘事業を展開した。
除痘館は万延元年(1860)に適塾の南側に移転した。

平成19年(2007) 適塾記念会・緒方家洪庵会建立。
桜御影石の記念碑は、緒方洪庵の画像と種痘医・桑田立斎作成の引札の図版をあしらい、碑文は芝哲夫氏。
記念碑の足元には、洪庵生誕地より採取した砂岩の自然石を添えている。


除痘館跡(じょとうかんあと) 大阪市今橋3-217 緒方ビル
大阪の除痘館は牛痘種痘をおこなう場所として緒方洪庵(1810-1863)が中心になって嘉永2年11月7日(1849)に古手町(道修町)に開設した。それは痘苗がはじめて長崎へ渡来した年である。
大阪の種痘活動はまことにさかんで、安政5年4月24日(1858)には全国にさきがけて官許を得た。
万延元年10月(1860)にはこの場所すなわち当時の尼崎町1丁目、現在の今橋3丁目に移って事業を拡張した。
昭和53年(1978)10月吉日


ロビーに種痘をしている場面が展示されています。
漫画家手塚治虫の曽祖父手塚良庵(後に手塚良仙)は、緒方洪庵の下、適塾において蘭学と種痘術を学んだ。そのことを手塚治虫は自著『陽だまりの樹』の中に描き残している。


除痘館記念資料館 緒方ビル4F
2007年春より、洪庵記念会が洪庵や適塾関係者の子孫、縁者たちから寄せられた日記・文献・肖像画など約50点を展示している。






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  1. 2010/08/30(月) 07:10:17|
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適塾


史跡緒方洪庵舊宅及塾(おがたこうあんきゅうたくおよびじゅく) 大阪市中央区北浜3-3-8
史蹟名勝天然紀念物保存法に依り昭和16年12月文部大臣指定。


この建物は、蘭学者緒方洪庵が弘化2年(1845)に住宅として買い受けて瓦町から移り住み、文久2年(1862)に幕府の典医師として江戸へ迎えられるまでの17年間にわたって、私塾(適塾と呼ばれた)を開いたところである。
洪庵はここで諸国から集った門人たちに蘭学を教え、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人材を育てた。
敷地は間口約12m、奥行き約39mあり、建物はこの間口いっぱいに建てられ、前方の教室部と後方の居室部からなり南庭に土蔵と納屋がある。前方部は寛政4年(1792)の北浜大火後まもなくの建築とみられ、もとは町筋に面する商家の形であったが、洪庵入居の際に背後を切り縮め、おもて造りの店を改め、教室とし、後方に居室部を新しく建て直した。
教室部は二階建て 一階を教室、二階を塾生の部屋とし、居室部は一部二階建て西側に通り庭をもち、台所、書斎のほか四室がある。台所の二階にはゾーフ部屋と女中部屋がる。
洪庵が出府してのち、再三の改造があり、大正4年(1915)には前面道路の拡幅によって正面を奥行き幅約1.2m切り取られたが、昭和51年(1976)からおこなった根本修理で、正面を除いて、概ね洪庵居住当時の姿に復原した。
この住宅は、蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、近世のおける北浜の町家建築の姿を示す貴重な遺例である。
    昭和55年3月 文化庁


客殿より書斎・中庭を望む。書斎には洪庵が使用した薬品調合台が置かれている。


ヅーフ部屋 大部屋の隣りにヅーフ辞書が置かれた部屋。
長崎出島のオランダ商館長ヅーフ(Hendrik Doeff)がパルマの蘭仏辞書第2版(1729年)に拠って、文化13年
(1816)に初稿を作成した蘭日辞書。


塾生大部屋 
適塾に学んだ塾生は姓名録に記載されただけでも637名おり、総数1,000人ほどであった。
塾生のほとんどは医者や侍の子弟で、2,3年を区切りに適塾で学び、故郷で医者となった。
適塾に住み込む塾生が寝起したのがこの2階の大部屋で、福沢諭吉もその一人であった。


大部屋の柱は塾生による刀疵が残っています。


緒方洪庵先生像   河合敏久製作、緒方惟之題字、大阪大学・適塾記念会監修。1997.2.19.

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  1. 2010/08/30(月) 07:05:22|
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適塾の謎


適塾の謎適塾の謎
(2005/06/01)
芝 哲夫

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緒方洪庵(おあがたこうあん)は文化7年(1810)7月14日に備中の足守で、佐伯瀬左衛門惟因の三男として生まれた。名は章、元服して騂之助(せいのすけ)と名乗った。
天保9年(1838)、緒方洪庵は長崎遊学を終えて、大坂へ出てきて、瓦町に適塾を開いた。
弘化年代(1844-48)、大坂の高麗橋4丁目の白粉商・永岡庄右衛門の子が相次いで天然痘に屠り死亡した。
気丈な祖母は残った孫を懇意にしている緒方洪庵に相談し、人痘種痘法を試すも、不幸にしてこの児は死亡したという。
嘉永2年(1849)7月に天然痘を防ぐ唯一の手段として、牛症がわが国にはじめてもたらされた。
バタビアから長崎の出島に居たオランダ医モーニッケ(Otto Gottlieb Johann Mohnike)の許に届いた牛痘痂はまたたく間にいろいろなルートを経て日本全国に伝わった。
洪庵が大坂除痘館を開くもとになった痘苗は長崎唐通辞の穎川四郎八がモーニッケからわけてもらった痘苗を京都の日野鼎哉(ひのていさい)に送り、それがさらに大坂に分与されたものである。
洪庵は大坂除痘館開設に当り、全く新しい医療システムを作り上げることを企てた。
まず大坂で種痘をひろめるために、天満与力荻野七左衛門に諮ってその賛同と協力を得、新しい種痘法を世にひろめるのは仁術を旨として、得られた謝金は個人の利益とせず、この種痘事業のための基金とするという原則を立て、大坂の商人大和屋喜兵衛に頼み、古手町、現在の道修町4丁目の貸家を借り受けて、大坂除痘館とした。
さらに荻野七左衛門、その父勘左衛門、平瀬市郎兵衛の母等から経済的援助を得て、この主旨に賛同する医師9名を社中の名に加えて用意万端整えた上で、11月1日に京都へ趣き、同7日に京都から鼎哉、笠原白翁(かさはらはくほう)を大坂除痘館に迎えて正式の分痘式を行っている。
分苗の親元の鼎哉の京都の除痘館ではその年に早くも絶苗に及び、日本全国に伝播されたモーニッケ苗も数年経つと、皆消えて行った。
その中にあって、洪庵の大坂除痘館の牛痘は明治6年(1873)に至る24年間も続いたということは異例のことである。
幕府が安政5年(1858)に至って、大坂除痘館を官許第1号の種痘所に認定したのも当然であった。
分苗を希望する者には誓約書を取り、痘医としての認定免状を受けた医師は20余年間に168名を数え、近畿一円を中心に中国、四国、九州に及んでいる。
1ヵ所で絶苗すると、直ちに近くの分苗所から補給するというネットワークがうまく働いていた。
これは時代にさきがけた公衆衛生に関する近代的治療システムのわが国でのはじめての構築と実施であった。






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  1. 2010/08/30(月) 07:00:01|
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八軒家船着場跡


八軒家船着場跡(はちけんやふなつきば)  大阪市中央区天満橋京町2-10
この地は江戸時代には八軒家と称し淀川を上り下りの三十石船の発着場として、さらに古くは渡辺といい紀州熊野詣での旅人の上陸地として栄えた。
また大江山の鬼を退治したといわれる渡辺綱はこの地を支配した摂津源氏一族の出身であり、『地獄門』で知られる遠藤盛遠が袈裟御前を見初めたのもここに架けられた渡辺橋の渡りぞめの時のことと伝える。
楠正行がこの橋からなだれ落ちる敵兵を救いあげ衣料を与えて国へ帰してやったという美談は明治初年わが国が万国赤十字に加盟のとき伝えられて感銘を与えた。
  昭和45年5月  牧村史陽識


『八軒家の今昔ー熊野街道のはじまり』
八軒家浜船着場開講記念・熊野古道世界遺産登録記念
顕彰碑を店頭に持つ永田屋昆布本店がリールレットを発行されています。


八軒家浜(はちけんやはま) 大阪市中央区天満橋京町1
2008年3月29日、水上ターミナル「八軒家浜」が開港。三十石船に代わって水上バスが運行しています。



『摂津名所図会』
大江岸(おほえのきし)古歌の心を按ずるに天満橋南爪、今の八軒家の浜なり。これより南の方一堆の丘山にして、西北は大江なり。
大坂旧図を見るに大江橋・渡辺橋は一橋二名なり。
八軒屋といふは旅舎八家つらなりて、京師の上下夜となく昼となく入船出船ありて喧(かまびす)し。
この地すべて夏の夜に蚊なし。風土の奇といふべし。
『後拾遺』 わたのへや大江の岸にやどりして雲井に見ゆる生駒山かな      良暹法師
『夫木』 船呼ばふ声もおよばずなりにけり大江の岸のさみだれの頃   長俊
『堀百』 さみだれは日数ふれどもわたのへの大江の岸はひたらざりけり   隆源法師

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  1. 2010/08/29(日) 07:20:25|
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明治天皇聖躅碑


明治天皇聖躅碑(めいじてんのうせいちょくひ) 
紀州邸址  大阪市青年聯合圑   大正14年5月10日建之


日本郵政グループ大阪ビル(旧近畿郵政局) 大阪市中央区北浜東3-9


前島密之像
前島密(まえじまひそか・1835~1919)
明治のはじめ、日本に郵便の仕組みを築き、「郵便」や「郵便切手」などの用語も定めた。
その多大なる功績から、「日本近代郵便の父」と呼ばれる。
(信条)
「縁の下の力持ちになることを厭うな 人のためによかれと願う心を常に持てよ」

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  1. 2010/08/29(日) 07:15:10|
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少彦名神社


少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)  大阪市中央区道修町2-1-8
道修町には、明暦4年(1658)頃から薬種商が集まっており、享保7年)1722)124軒が幕府より道修町薬種中買仲間として公認された。
この仲間が生命に関する薬を神の御加護のもとに間違いなく取り扱えるよう、中国の薬祖神・神農氏と共に、安永9年(1780)京都・五条天神から少彦名命をお招きして、仲間会所(現在地)にお祀りした。
柱連柱(しめばしら) 定給療病方咸蒙  其恩頼    正二位伯爵 源通禧   明治43年11月建之


鳥居


本殿 祭神:少彦名命・神農氏


         神農神像        張子の虎
文政5年(1822)大坂で疫病(コレラ)が流行した時、道修町薬種中買仲間が疫病除けとして「虎頭殺鬼雄黄圓」(ことうさっきうおうえん)という丸薬を施与すると共に、「張子の虎」を造り、神前祈願の後、病除け守りとして授与した。それ以来「張子の虎」は、家内安全、無病息災のお守りとして世に知られるようになった。


春琴抄の碑
「春琴抄」(昭和8年・1933)は、谷崎潤一郎が道修町を舞台に借りて、松子夫人に対する思慕を、架空の人物―幼時に失明した琴三絃の天才春琴と、彼女に献身的に仕える佐助に託して創作した、日本近代文学史上屈指の名作である。
菊原初子師は、谷崎邸への出稽古に、父菊原琴治検校の手を引いて行った。その父娘のことが、作品に生かされているという。当年百一歳、地唄箏曲の人間国宝で、かつて一丁北の伏見町から、集英(現開平)小学校に通った人である。
  三島佑一記(前四天王寺国際仏教大学教授)


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  1. 2010/08/29(日) 07:10:58|
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栴檀木橋


栴檀木橋(せんだんのきばし)  大阪市北区北浜3
土佐堀川に架かる、中之島と北浜を結ぶ橋。
昭和初期の橋名板。


顕彰碑と大正時代の親柱 
栴檀木橋は、江戸時代の初期、中之島にあった蔵屋敷へ行き来するために架けられたと考えられ、その昔、橋筋に栴檀の大木があったところからその名が付けられたという。当時市中と中之島を結ぶ橋上からは、生駒連山を背景に大阪城を望み、天満・天神・難波の三大橋を眺めることができた。
明治18年、淀川大洪水が発生し、この橋をはじめ、中之島に架かる多くの橋が流された
栴檀木橋が再び姿を見せたのは大正3年のことで、以後昭和10年に架けかえられ、中之島公園とともに、広く市民に親しまれてきた。
このたびの架けかえにあたっては、高欄に栴檀の模様を配し、橋詰の整備も行って、この由緒ある橋の歴史を顕彰することにした。
  昭和60年9月  大阪市

『摂津名所図会』
栴檀木(せんだんのき)むかし栴檀木筋に大木の栴檀あり。かるがゆゑに名とす。 またその側に池あり。
諺に云ふ、神功皇后御船をここに埋めし地なり。船の形に池ありといふ。詳らかならず。

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  1. 2010/08/29(日) 07:05:09|
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淀屋の屋敷跡


淀屋の屋敷跡(よそやのやしきあと) 大阪市中央区北浜4-1
近世の初め中之島の開発その他、大阪の発展に貢献するところの多かった淀屋の屋敷は大川町にあり、淀屋の名は今も淀屋橋に残っている。  昭和36年3月  大阪市建之


淀屋の碑
淀屋は江戸時代前期の大坂を代表する最大の豪商であった。
淀屋の豪富と闕所のことはあまりにも有名である。
淀屋の本姓は岡本氏。通称三郎右衛門。城州岡本の荘の出身。辰五郎の称もあった。
秀吉氏が天下をとるに及んで大坂に出て 十三人町(いまの大川町)にト居し、淀屋と称し、材木を商う。
元和元年京橋一丁目の淀屋持地に青物市を開き、また米の相場をたてる。
中之島を開発し、常安請地を開く。常安橋ー常安町の名がいまにのこる。
初代常安の長子(養子)喜入善右衛門、常安町家、斎藤町家、斎藤町家の祖となる。
次子(実子)常有五郎左衛門は別に大川町家の初代となり、言直から六代までつづく。
心斎橋筋から西肥後橋の間にその宅地あり。その宅内の小路を淀屋小路という。
四十八四十八戸前のいろは蔵あり。町人蔵元の元祖といわれたが、むしろ巨大なる米商人と自すべく、淀屋米市のために土佐堀川に自費で橋をかける。
淀屋橋であり、ここで行われた淀屋米市の盛大さはこの碑の絵が表現する通りであった。
     日本学士院会員 宮本久文  昭和63年3月19日


淀屋橋(よどやばし) 土佐堀川に架かる橋。
昭和10年(1935)完工。橋長 53.5m・橋幅 36.5m 。


『摂津名所図会』
堂島(どうじま) の市立(いちたち)は雑穀(くさぐさのたなつくもの)を糴糶(あきなふ)なり。
その市人を見るに、早旦(そうたん)より斜陽まで街に聚(あつま)りて、指頭(しとう)を揺(うごか)して百万の斛数(こくすう)を相対す。
その囂(かまびす)しき事いはん方なし。その年の豊凶、または時候の幸災、天地の順不順によりて、尊きあり、卑きあり。その高下の極を市[言貝](そうば)といふ。
これをまた須臾(しゆゆ)に遠き国々までもしらすとかや。いかなる術にやしらず。
粗(ほぼ)この市の始元を原(たづ)ねるに、俗諺に云く、天正年中に今の淀屋橋爪に淀屋巨庵(こあん)といふ豪富の者あり。豊太閤の旗下へ多くの軍粮(ぐんりょう)を運送する事年久し。
その恩賞として名画の鶏を腸ふ。多くの黄金の代となれば、世に賞じて黄金の鶏と呼ぶ。
これはむかし遣唐使の時、唐の玄宗帝より本朝へ献ぜられし宝器なりとぞ。巨庵が家は倍(ますます)繁栄して、国々の米粟(べいぞく)・菽麦(しゅくばく)を買ひ積みて、この橋爪にて毎朝市を立て、諸人に賈ふことその数際りしられず。
この家絶えて後、今の堂島にて市を立つる事は、淀屋が遺風なりとぞ聞こえし。あるが云ふ、今の淀屋橋もこの家より架け初めしとぞ。
また堂島といふは、近歳五花堂(きんせいごかどう)といふ風流者あり、原は洛に住みしが、浪花に移りて庭に梅・桜・牡丹・蓮・菊を植ゑて五花堂と号す。『羅山文集』に見えたり。
その頃この辺いまだ野原なりしが、貞享の頃公命によつて市中となれり。今は北浜といふ。大江橋・渡辺橋・田蓑僑・玉江橋等は堂島開発の後、元禄年中掛け初めしなり。
              堂じまの市立を見て
指さきで百万斛(こく)をうとかすは蝸牛(かぎゆう)の角の争ひと見ん 九鯉
北浜や水打つうへの初しぐれ 大江丸





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  1. 2010/08/29(日) 07:00:16|
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モダニズムのニッポン


モダニズムのニッポン (角川選書)モダニズムのニッポン (角川選書)
(2006/07)
橋爪 紳也

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大阪市立電気科学館は、昭和12年(1937)に開業した日本最初のサイエンス・ミュージアムであり、かつ国内で初めて、ドイツ製のプラネタリウムを装置し、昼間の屋内に星空を上映していたことで知られている。
名建築だと思うのだが保存運動もおこらずに、近年になって、ひっそりと壊された。
電気事業市営十周年を迎えた大阪市電気局では、四ツ橋に保有していた土地を活用して、さらに充実した専用のサービス拠点を建設するべく構想を練る。
当初は電気技術に関する発明考案の指導・援助に重きを置いた「産業指導機関」となることが想定されていたが、多くの市民を集めることも意識される。とりわけ電気の普及・啓蒙という側面が強調された。
大阪市は武田五一、長谷部鋭吉、古宇田実など、当時の関西を代表する建築家をメンバーに含む建設委員会を設置し、1階を「市電の店」、3階から7階までを美容室・大衆浴場・大食堂・スケートリンクとする案をまとめた。
電気の宣伝を効果的に行うため、大衆向けの娯楽施設、集客施設との複合化が意図されたわけだ。
かくして昭和9年、新たなビルディングの工事がはじまる。
ところが起工してまもなく、外遊中の木津谷電灯部長が帰国して、当時、世界で24台しかない、東洋では前例のないプラネタリウムの導入が英断された。
設計は大幅に変更され、2階から5階を「電気館」、最上階を「天象館」とすることになった。
ここに産業指導機関や電気の啓蒙所という初期構想に加えて、青少年の社会教育をはかるサイエンス・ミュージアムという機能を兼ねることが意図されることになった。
もっともこの施設には、さらに別の機能が託されていた。それは空襲や災害を市民に伝える役割である。
階段室のある塔屋は「防空塔」と称し、「灯火管制司令室」と「灯火管制監視所」にあてられ、敵機の来襲を事前に警告し、灯火管制を統制する役割を担った。
また府立測候所との間にも連絡網が用意されていて、津波や高潮などの時、あるいは最大風速25mを超える暴風の到来も市民に音で警告した。
巨大なサイレンが屋上に据え置かれ、大阪は国内ではもっとも充実した警報網が確立された。
天象館のドーム屋根には、日本を中心とした北半球の大陸と大洋、経線と緯線が描かれており「大地球儀」と命名された。
このモダンなデザインの防空塔最頂部には、鳥居が建立され、東方の生駒山越しに伊勢神宮を拝する「神宮遥拝所」として利用されていた。
電気と科学がひらくであろう未来の暮らしを啓蒙する最先端の施設の頭上に、国防と聖戦を示唆する塔と聖域が用意されていた。
これも当時の「必然」であったのだろう。


四つ橋の電気科学館


日本初のプラネタリウムカールツァイスII型モデル第25号機。ドーム径18m・投影星数6,000個。

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  1. 2010/08/28(土) 07:00:12|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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