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李朝朝鮮時代、徐居正らが、『東国通鑑』を編纂する過程で、中国の尭が即位したとされる紀元前2357年から25年経った後に檀君が朝鮮を建国したとされることから、紀元前2333年が檀君朝鮮の建国年度と言われてきた。
ところが、1993年10月、北朝鮮は、「檀君陵発掘報告」で、平壌市江東郡文輿里にある高句麗遺跡から、檀君とその夫人の遺骨を発掘し、檀君の遺骨は5011±267年前のものと断定した。
1972年編の北朝鮮歴史書では、檀君は歴史的事実ではないとしていたが、1993年に金日成主席の呼びかけで始まった発掘作業で、檀君とその夫人のものとされる遺骨が発見されると、大規模な「檀君陵」の改築に取り掛かり、翌年1994年末に高さ22m、底辺50m角のコンクリート製ピラミッドが完成する。
紀元前7~6世紀ごろの事情を伝える中国漢代の書『管子』に、初めて朝鮮という名前が見えることから、今から2500~2600年前には古朝鮮が存在したものとみるのが韓国の通説だ。
韓国・北朝鮮の人にとって高句麗は、北方の扶余、渤海とともに、民族の伝統的文化と精神を育んだ国であり、とりわけ高句麗は古朝鮮を引き継ぐ直接的な祖先の国である。
北朝鮮では、歴史上三国のなかで統一のために本当に努力したのは高句麗で、とりわけ広開土王が果たした役割は大きく、新羅は唐と手を結んで百済や高句麗を滅ぼしたと非難している。
韓国では長い間、三国時代の中心国家を新羅とし、朝鮮半島の南半分に位置した韓国政府の正統性を内外に印象づけてきたが、このところ韓国でも従来の政治的な立場を超えて、高句麗の歴史に自負心と誇りを持つ人が増えているようだ。
朱蒙をはじめタムドクこと広開土王など、高句麗の歴代王は、昔の朝鮮民族の領土と民を回復するという強い使命感のもと、自国民を固く信じ、兵を育て、軍事技術の開発を進め、百戦百勝の戦術戦略を立てて勝利へと導く。そういう英雄的な王の姿は、韓国の人々の心をつかんで離さない。
韓国で高句麗ブームに火がついたのには理由があった。
2002~2007年に中国社会科学院の辺疆史地研究センターが行った「東北辺境の歴史と現状系列研究工程」が韓国人を刺激したのだ。
「高句麗は独自の国ではなく、中国の一部であった」とし、高句麗やそれに続く渤海は、朝鮮民族ではなく、靺鞨(まつかつ)族によって建てられたと指摘。
さらに、「扶余と高句麗の人々は東北部の中国人と同じ部族だが、朝鮮人は新羅の一部族だ」と主張した。
韓国の反発は激しく、とりわけドラマでの高句麗ブームは群を抜き、『朱蒙』、『太王四神記』、『風の国』、『淵蓋蘇文』といった高句麗を舞台にしたドラマが矢継ぎ早に出される。
新羅による三国統一の過程は、かつての高句麓の広大な領域を放棄したという悲劇的な側面があり、高句麗が遼東・陵西地域まで勢力を拡大して、中国に負けない強国だったことを誇る声が韓国にも広まりつつあるのだ。
広開土王碑に刻まれた404年の倭冠の侵入については、日本軍はあくまでも百済や伽耶軍の支援部隊にすぎなかったというのが、朝鮮半島ではもちろん、日本の学会でも通説になっているようだ。
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テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌
- 2010/09/30(木) 07:00:51|
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葬儀を自宅でするのが一般的でしたが、その後、手間を軽減でき、自宅を会場にしなくてもすむ葬祭会館が人気を集めます。
各地で葬祭会館が増え始めたのは、バブル崩壊後のこと。
駅前の一等地にビルを買えるような事業体は葬儀社くらいしかなく、それに目をつけた銀行がどんどん融資をしたのです。
葬祭会館は、ホールが1つだけの小さな建物でも、2億円はかかっているといいます。
これまでの葬儀料金は、定価なしと言われるほどの根拠のない価格設定がまかり通っていたといいます。
高額な祭壇の使い回しや、原価の10倍以上の価格の棺など、粗利益率50%と、葬儀屋は月に1体死体がでれば食っていけると云います。
2兆円産業とも言われる葬儀業界が激変したのは、2007年以降のこと。
それまでの葬儀の主流は数十~数百人が入場できる「葬祭会館」で行われるものでした。
それが、家族葬・直葬と呼ばれる価格が明瞭な簡易葬儀に、一気に主流を奪われたのです。
家族葬とは、家族・親族だけで通夜・告別式などを行い、故人の親しい友人が参列することもある葬儀のことです。
直葬とは、通夜・告別式などは行わず、自宅または病院から直接火葬場に運び、火葬にする方式で、炉前で読経、祈祷の行われることもあります。
シンプルな家族葬をさらにシンプルにすると直葬になります。
葬儀費用の全国平均は約231万円。しかし、長引く不況でお金に余裕がない遺族もいますし、いまや50人以上の会葬者が参列する葬儀も稀になっています。
平均単価約27万円と、安い家族葬・直葬が大半を占めるようになれば、まだ返済し終わっていない会館を抱えている葬儀社の経営が成り立たなくなるのは明白です。
葬儀業界が成長産業と言われていたのは死者数がしばらくは増えていくからです。
しかし、家族葬・直葬がメインになることで、葬儀の件数が増えても単価が急激に下落していきますから、市場規模は縮小していくことが明白です。
成長産業どころか、斜陽産業であるという見方もできます。
業界最大手である公益社ですら、2009年3月期の決算は、葬儀受注件数が2.0%、葬儀単価が3.2%低下し、前期比5.2%の減収となっています。
高額な葬儀をメインにしている葬儀社の経営はますます苦しくなります。
しかし、低コスト体質で、家族葬・直葬をメインにしている葬儀社は、単価はそれほど変わらずに全体の件数が増えていくわけですから、成長が続くことになるでしょう。
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- 2010/09/29(水) 08:00:48|
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奈良の建物は、再建でも創建当時のように元に戻すという意志が強いですね。
元に戻すというのは、力も、技も、知恵もいります。
まずは奈良の建物や工人の考え方を理解できなくては、ただの真似になって、下品になる。
それか自信なげになぞるだけに陥ってしまうものです。
文化財の仕事をするときでも、私たちは復元修理するなら、当時のものと同じものを造れる能力がなかったら、やってはいけない。
それほど後の時代の修理というのは難しいものです。

興福寺の五重塔は50.1mあります。
日本に百済から仏教が伝来し、四天王寺に五重塔を建てた時の塔は、これぐらいの大きさだったそうです。
木組みが太い。一個一個の斗も、ずらりと並んで飛び出している尾垂木も愛想なまでにごついですね。
実際、相当重く、隅側にみんな重さがかかるから、隅の斗が潰れています。
ですから、ヒノキではもたない。ケヤキでなきゃ無理です。
しかし、堅いケヤキを加工するのには、道具がなくちゃできない。
これは室町の再建ですから、道具はかなり進化して、台抱や鋸なんかもあったんでしょう。
そうでなければこの塔はとてもとても出来ないです。
もし、これと同じ塔を頼まれたら、ためらいますな。
こういうものは「やってみてもいい」と思える年齢があるんです。
挑むには無知じゃなくちゃ駄目です。勉強しすぎたら、怖さが出てきてしまう。
必要なのは、「やってやる」という心構えの強さ。勢いに任せなくちやできない。
再建となったら束縛されますから、オリジナルで造ってくれって言われる方が嬉しいです。
斗とか肘木とか構造はほとんど変えられないね。造り方も同じやね。
もう構造は出来てますから、やるとすれば、全体的にもっと軽く、柔らかく見せるぐらいですね。
この高さで、この大きさになればやっぱりケヤキみたいな堅い木を使います。
しかし、何度見ても、よく倒れないなあと思います。
いま造る人は、建築基準法抜きで造ってもいいといわれても、造れないのではないですか。
中を鉄骨にしてみたり、いろんなところで補強を考えるでしょうな。
柱をずうっと一本で通そうとか考えるかも知れません。
しかし、それをやったら倒れてしまう。
これは一重ずつ、ただ積み重ねてあるだけですが、それが強いんです。
このへんは、当時は見渡せば塔だらけだったんですね。



東大寺の100mの塔に春日大社の塔、元興寺の五重塔は70mを超えていたでしょう。
都会にビルが建っているように奈良の都に塔が立ち並んでいた。
すばらしいものだったでしょうね。
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- 2010/09/28(火) 07:00:28|
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延長5年(927)に完成した『延喜式』の神名帳には2,861の神社が記載されているが、そのなかで神宮を称しているのは伊勢・鹿島・香取の3社だけで、皇室とゆかりの深い由緒ある神社にだけ許されたものであるらしい。
「宮」も格式は高く、香椎宮・筥崎宮・天満宮などがある。
「大社」は地域の信仰の中核をなした大神杜で、出雲大社(杵築大社)・春日大社・松尾大社・日吉大社・熊野大社・多賀大社・諏訪大社などがある。
『延喜式』神名帳に記載されている式内社は、大きく官幣社と国幣社に分けられ、官幣社は神祇官が直接管理をおこなう神社、国幣社は各地の国司が司る神社である。
位階をもつ神さまでもっとも有名なのは、天慶5(942)年に授けられた伏見稲荷大社の稲荷神の正一位だろう。
石上神宮の布都御魂神や大神神社の大物主神、春日大社の武甕槌命と経津主命も正一位に叙されている。
勲位は外国の侵攻や謀反などの平定の霊験があった場合に授けられ、天平神護元年(765)に、恵美押勝の乱の平定に功があった近江国浅井郡の都久夫須麻神に勲八等が与えられたのが初例で、宗像大社の祭神は正一位勲一等を、鳥海山大物忌神社の大物忌神は勲二等を授かっている。
お寺の境内には寺院を守ってくれる神さまが祀られている鎮守がある。
このようにお寺に神社があるのは、仏教が外来の宗教だということに由来している。
一方、境内にお寺があったことがわかっている神社も多く、石清水八幡宮や鶴岡八幡宮はお寺としての性格を濃くもち、八坂神社も祇園社または感神院といい、仏教色の強い社であった。
こうした状況を神仏習合といい、7世紀ごろより始まり、奈良時代に入って急速に進行した。
神話と儀礼を根幹とし、論理的な教義をもたなかった神道は、仏教と習合することによって世界観を語る言語を得ることができた。
神仏習合の一つの到達点が七福神で、インド・中国・日本の神が一つの船に乗って歓楽する姿は、神道の懐の広さを示すものといえるだろう。
平安時代中期以降、中央政府の尊崇を得た神さまを地方へ勧請することが多くなっていく。
伊勢・石清水・賀茂・松尾・稲荷・春日・住吉・日吉・祇園・北野などだ。
江戸期には少なくとも63,000以上ではないかと推定されている。
神道が国教となって、明治35年(1902)には約20万社にのほったが、明治39年(1906)の勅令によって神社合祀政策が進められ、大正時代初めまでに、約7万社が廃された。
昭和22年(1947)には87,000となり、現在では79,335になっている。
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- 2010/09/27(月) 07:00:14|
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適塾を応援している勝手連「
熟塾」の代表・原田さんからコメント欄で通知頂きました。
①
適塾へ行こう!
②
除痘館記念資料室へ行こう!
③ 映画「適塾」
④ ミニレクチャー 緒方洪庵の生涯
⑤ 講演「適塾と久留米藩蔵屋敷絵図
⑥ 名塩和紙 人間国宝の谷野武彦氏来店
⑦ 文楽人形にふれよう
⑧ 神宗秘蔵の一人遣いの文楽人形の紹介
⑨ 料亭「花外楼」のお弁当
⑩ 昆布ソフトクリーム
⑪ オランダ料理とオランダビール
⑫ マルコさん自慢のオランダワッフル 詳細は
こちら
神宗(かんそう) 淀屋橋店 大阪市中央区高麗橋3-4-10 (淀屋橋センタービル1階)
創業天明元年(1781)の昆布屋さんです。
所蔵の「
大阪中之島久留米藩蔵屋敷絵図」(大阪市指定有形文化財)は現存する唯一の江戸時代末期の蔵屋敷絵。
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- 2010/09/26(日) 10:17:10|
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旧トーマス住宅 神戸市中央区北野町3-13-3
「風見鶏の館」として知られるこの館は、明治42年頃、ドイツ人貿易商ゴッドフリート・トーマス氏の自邸として建てられました。 北野・山本地区に残る異人館で、レンガ張りの建物としては唯一のもので、色鮮やかなレンガの色調、石積みの玄関ポーチなど重厚な雰囲気を持っています。 設計はドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデです。 室内のデザインは、ドイツの伝統洋式をとり入れながら19世紀末から20世紀初頭にかけての新しい芸術運動(アールヌ-ヴォー)の動きを感じさせるものがあります。 昭和58年12月から昭和60年3月までかけて解体修理を行い、当時の写真などを参考にして、できるだけ元の姿に戻しました。 平成4年3月 |


神戸市は今だに1909年(明治42年)の建築として、訂正する気はないようです。
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- 2010/09/26(日) 07:05:46|
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神戸にある風見鶏の館(旧トーマス邸)を建てた貿易商トーマス家は横浜で成功後に神戸に移り住み、設計者のデラランデも横浜に建築事務所を構えた。
今でもそうだが、ドイツから日本にやってくる階層は、知的労働者、エリートが多い。
戦前はなおさらで、旧制高等学校のドイツ語教師、大学の講師、キリスト教関係の他に、技術者が大変多く、谷崎潤一郎の「細雪」では、主人公の隣のドイツ人一家の暮らしが詳細に措かれている。
神戸市は風見鶏の正式な建築年は1909年だとして、パンフレットなどで広報してきている。
今回、ゴットフリード・トーマス氏のサイン付きで「ハウス〝レナニア″神戸、日本、1904年竣工」と、新築写真帖に書き込まれているものを発見。
さらに風見鶏を設計したドイツ人建築家デラランデのオリジナルサインの入った設計図も発見でき、サインの上にドイツ語で、「1904年6月横浜」との設計年月が記載されていた。
これにより、【
1904年設計、同年竣工、1905年になってトーマス家一家が入居】が立証された。
神戸市側の公式説明では「トーマス一家は帰国した」とあるが、実は「ドイツから再び神戸へと戻れなくなった」のだ。
トーマス一家は、1914年2月、一人娘のエルゼさんを上級学校に進学するために、数年間ドイツで教育を受けさせることを決断。
トーマス氏とその妻レナニアは半年間のドイツでの休暇のつもりで、家財道具も会社もそのままにし、ペットも、使用人も置いた状態で、旅行鞄だけを持って家を出たのに、第一次世界大戦勃発によって、自宅である神戸に永久に帰れなくなった。
日本は日英同盟を口実に宣戦布告し、風見鶏の家は敵性資産とみなされ、神戸市によって没収され、後から涙ばかりの金を家具と一緒に送ってよこしただけで、戦争が終わっても、それっきりだったという。
この悲劇のせいか、風見鶏は代々所有者が変わっても、本格的に居住する所有者はなく、空き家であったり、寮にされたりと、どこかに影があった。
神戸におけるドイツ人人口は、明治末期にいったんピークを迎え、再び第二次世界大戦直前にピークとなる。
1944年に入ると、神戸在住のドイツ人たちも空襲の危険を回避するため、神戸の近く、岡本や苦楽園、芦屋、須磨、塩屋、等に逃げ場を求め、また六甲山にあった別荘を疎開先とした。
このためドイツ人学校も、各地区毎に分校が開かれた。ただ5年生だけが六甲山ホテルに疎開し、ホテルを生徒寮にしていた。今の六甲山ホテル・旧館である。
1945年になるとさらに空襲は激化。5月8日、ドイツは無条件降伏した。
6月5日の激しい空襲によって北野町南半分が大被害を受け、ドイツ大学校、ドイツ人クラブも焼かれたが、幸いドイツ人に被害者が出なかった。
神戸のドイツ人が集中して暮らし、愛された「北野ドイツ人村」は、この戦争を境に、歴史の彼方へと消え去り、異人館建築の減少も時を同じくして起きている。
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- 2010/09/26(日) 07:00:20|
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お守りや魔除けは、国や文化によって実にさまざまだが、どこでもお守りは真剣に取り扱われ、魔術的な相性で人々を助けると考えられている。
科学的な思考と情報化社会のこの現代、魔術による守りを冷笑している人々ですら、「幸運」をもたらす小さな物を持っているもので、古い伝統は健在である。
技術の進歩は我々に多くの利便をもたらし、安全の感覚を与えてきたが、病気・怪我・老化や死といった脅威が完全に解消されるまで、超自然的な助力を何らかのかたちでわれわれは必要としつづけるだろう。
奇妙な小物、その名は、ボディガード。
魔除け・マスコット・お守り・護符という言葉には、それぞれ固有の由来がある。
お守り(アムレット・Amulet)はラテン語のamuletumから来ているが、その起源はアラブ語の「持ち運ぶ」という意味のhamalaであると言う。
マスコット(Mascot)」は魔女を意味するフランス語(プロヴァンス語)のmascoから来ており、また「仮面」を意味し、妖術師によって身につけられる仮面を指す古代フランス語のmascotteに由来する。
魔除け(チャーム・Charm)」は、奇妙なことに、「歌」を意味するラテン語のcarmenに語源を有し、これは「恍惚」状態を導く詠唱にまでさかのぼるものだ。
護符(タリスマン・Talisman)は、清められたもの-宗教的儀式によって神に捧げられたもの、という意味のギリシャ語のtelesmaから来て、は魔術的な徴しが刻みこまれたアムレットといえる。
我々に身近な石や岩は、その珍しさや美しさから何百午もの間、強力な魔術の力をもつお守りとして使われてきた。
指輪にしろ、ペンダント、ネックレス、ブレスレット、アンクレット、冠にしろブローチにしろ、最も初期の宝飾品芸術は、持ち主に好運を運び、邪悪な霊を払いのけるために身につけられたのであった。
こうした古くからの目的は、徐々に美とステイタス-に取って代わられ、飾りの裏に隠れて力をふるっていた迷信は、美学によって追い出され、高価なために、高い社会的地位のシンボルとなった。
現代鉱物学の科学的説明がその信仰を蝕みはじめた時期にあって、美しい宜飾品の伝説は、別の角度から重要なものとみなされ、多くのクリスタルが古い方法で使われるべく神秘的な品物として売られている。
カリフォルニアで、ヒーリング用のクリスタルや宝石という形で、新しいお守りが生まれ、クリスタル・ヒーリングは、ニューエイジ運動流行の一翼を担い、現在ではアメリカ全土にわたって、またヨーロッパの多くの地に見られる。
しばしば“力の石”と呼ばれる水晶は、何百年もの間、魔術的な、また癒しの儀式の中心であり、あらゆる悪魔の影響を防いでくれるお守りとして、幅広く使われてきた。
また、水晶球は精神集中の大きな助けとなり、大きな水晶球が音から透視に用いられる。
テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌
- 2010/09/25(土) 07:00:38|
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かっぱ 最近、若い人からどんな本を読めばいいですかって聞かれるんですよ。私達の世代は、乱読する時期があったじゃないですか。
大 福 今は、欲しい情報に一直線にたどりつくから無駄な読書はしないんでしょうね。
かっぱ 読むうちに、自分が何が好きで何が嫌いかわかってくるわけですからねぇ。
大 福 何を読めばいいか人に聞くこと自体、時間を無駄にするのがいやということですね。ボクの場合は、友人達が難しい本を読んでいて、負けたくない一心でいろいろ読みました。
かっぱ 今でも、大福ちゃんの友達は、難解な本を読んで、難解なことを言い合ってますよね。
大 福 正直に言うと、ボクは全部読んでるわけじゃないんですけどね。
かっぱ 要点だけチェックしておいて、後で要る時だけ取り出してくるでしょう?今度のドラマはこんなテーマでと言うと、すぐに何冊か本を出してきて、それで足りなかったら、アマゾンに注文して、あっという間に本を取り寄せてくれるじゃないですか。どこから情報を得ているのか、ほんとに謎ですよ。
大 福 森林パトロールみたいに常日頃から、あちらこちら見回っているんです。
かっぱ 私は最初から最後まできっちり読んで、後は忘れてしまうなあ。
大 福 ボクはテレビの構成作家をしていたので、本は大事な道具だと身に染みてるんです。
かっぱ 私は自分に必要なものなら、忘れないだろうと思ってるんです。
大 福 多分、かっぱさんは本に情報を求めていないんでしょう。
かっぱ たしかに。浸りたいんですよね。物語とか、その世界に。例えそれが学術書でも。
大 福 そういえば、かっぱさん、森敦の『意味の変容』という本が好きですよね。
かっぱ 今でも青い背表紙を見ただけで、ただただ闇雲に「好きツ!」と思ってしまう。
大 福 何かが、かっぱさんの心をとらえたんでしょうね。でも、そういうことが仕事に役立っているんじゃないですか。ボクの切れ切れの情報を、かっばさんが独特のイメージでつないでいってくれてドラマが出来上がるわけですから。
かっぱ 考えてみれば、私達がドラマを書けるのも、信じられないぐらいの量の本があってこそですよね。
大 福 同じ本を読む、というのは何か嬉しいもんですよ。『ヴィーチャと学校友だち』という児童文学を、誰に聞いても知らないと言うんですよ。でも、かっぱさんは知っていて、黒いを調教するくだりを事細かに語ってくれた時は感激したなあ。懐かしくて嬉しい気分になりましたよ。
かっぱ 同じ物語を共有する人がいれば、子供達もリストカットしたり、家出したりせずにすむんじゃないかな。
大 福 ボクらの書くドラマも、そんなふうに誰かと誰かを結びつけるようなものであれば、幸せですよね。
木皿泉(きざらいずみ)
夫婦で共同執筆している脚本家。神戸市在住。本作中の呼び名「大福」(男性・1952年兵庫県生まれ)、「かっば」(女性・1957年兵庫県生まれ)は、ともに仲間うちで呼ばれているニックネーム。
「やっぱり猫が好き」「くらげが眠るまで」などの脚本を執筆。2003年「すいか」で第22回向田邦子賞、05年「野ブタ。をプロデュース」で第47回ザテレビジョンドラマアカデミー賞脚本賞を受賞。その他、脚本を手がけたドラマに07年「
セクシーボイスアンドロボ」がある。最新作は「
Q10」(キュート)。
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- 2010/09/24(金) 07:00:05|
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木村巽斎(そんさい)は、大坂夏の陣で戦死した後藤又兵衛基次の血を引く生粋の浪華っ子である。
北堀江に代々醸造業を営み、18、9歳より片山北海の許で句読を受け、狩野派の大岡春トにつき、春卜模の『芥子園画伝』や彩色絵本『明朝紫硯』を習い、本領とする文人画を池大雅に就き、書は骨法を大雅より承けている。
混沌詩社結成後はその一員として、文雅の交わりを結んだ。
詩書画簑刻ともにすぐれ、その並外れた蒐集癖は昂じて、堂内には文物万般のコレクションで山を成し、蒹葭堂の名は、早くから来舶人たちを通じ、中国や朝鮮にも知られていた。
有名な『蒹葭堂日記』も日記とは「名ばかり」で、実は来訪者名と当方よりの訪問者名の丹念な蒐集簿であった。
かれは訪客を心底歓待し、愛蔵の奇書珍品をも音しみなく展示した。
堂主のこの開放的姿勢は、町人学者らしいギブアンドテイクで、諸国の物産や情報の入手が目的の、交歓・交換の好機を得たいのがその本意であった。
蒹葭堂の蒐集晶は典籍、地図、金石博物標本のいずれをとっても超一流の内容で、後世の専門家を益するものも数多い。
蜀山人大田南畝は、蒹葭堂との学芸問答録『遡遊従之』の序文で、その人がらを「謙虚退然、博学方無し。最も地理に精しく、能く物産を弁ず。其の風韵蕭灑、啻に一好事家にあらず」と称讃している。
事実、蒹葭堂の編集になる『禽譜』『奇貝図譜』『植物図譜』は、いまも専門家に貴重視されている。
蒹葭堂の愛蔵する売茶翁高遊外、池大雅、秋成遺愛の茶具は、堂二世より当地の煎茶家花月奄田中鶴翁に譲られ、『兼葭堂日記』の2年分も、花月奄流家元田中家の架蔵である。
蒹葭堂が歿して4か月後、享和2年(1802)5月に、蘿月庵尾崎雅嘉が、30年来渉猟し続けた典籍のうち、和書2360部の解題書『群書一覧』を大坂の本屋から刊行。国書解題の囁矢である。
木村蒹葭堂の伝記資料としては、伊勢長島侯増山河内守正賢の墓碑銘が挙げられ、雅友でパトロンでもあった増山雪斉の手に成ったもので、刻碑は大応寺境内に現存する。
いま一つの根本資料として、生前自ら認めた小伝が伝わっている。
上田秋成の「あしかびのこと葉」は、本人の口から親しく聞いたという自伝的内容を、かれ一流の擬古文で綴ったもので、安永3年2月の年記があるが、全体の組織から措辞、用語にいたるまで、すべて兼葭堂自伝ときわめて密につながっている。
どうも秋成は、蒹葭堂の書いたままを下敷きにしたようである。
「あしかびのこと葉」は依頼主兼葭堂向けに、また娘の物学び用に綴りしたためられたもので、小伝は子孫への遺訓として、それに加筆清書して成ったものとの想像が成り立つのである。
テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌
- 2010/09/23(木) 07:10:50|
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