続・竹林の愚人 2010年10月

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禅林寺


新版 古寺巡礼京都〈7〉禅林寺新版 古寺巡礼京都〈7〉禅林寺
(2007/02)
小木曽 善龍安部 龍太郎

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高野 澄  禅林寺の歴史

京都の東山連峰のひとつ、若王子山の西の麓に禅林寺がある。
京都では、禅林寺よりは永観堂とよぶほうがわかりやすい。
平安時代のはじめ、ここには藤原関雄の山荘がたてられていた。
藤原関雄が亡くなったときいて、河内の観心寺の僧の真紹は山荘を買取り、ここに観心寺の仏像をうつそうと決意した。
弘法大師空海の弟子で、真言の秘法を会得した高僧である。
定額寺とする手続きをとり、貞観5年(863)に勅許があって聖衆来迎山無量寿院禅林寺の寺号が下賜された。
河内の観心寺から毘慮遮那仏と四方の仏像がうつされ、真言の道場としての歴史をきざみはじめる。
発足5年、真緒は十五ヶ条の「禅林寺式」を制定した。
禅林寺に新しい方向転換をもたらしたのは永観である。
永観は文章博士の源国経の子で、幼児のうちに禅林寺の探観に入室し、さらに東大寺で三論宗をまなんだ。
永観は浄土の教えに感激し、18歳をすぎてからは毎日一万遍の念仏をとなえることを日課としてみずからに課した。
山城の光明山寺に蟄居し、40歳のときに禅林寺にもどった。
延久4年(1072)のころと推定され、禅林寺はこのとき、真言の道場から念仏の寺へと方向転換をとげる。
やがて永観は浄土往生についての考察をまとめて、『往生拾因』と『往生講式』を著す。
法然は禅林寺の住持となったことはないが、12世静遍が法然の『選択本願念仏集』に共感し、法然を禅林寺11世として仰いだ。
12世の証空は源親李の子としてうまれ、吉水の法然の弟子となって浄土教をまなんだ。
建保年間(1213~19)、証空は京都西山の三鈷寺を本拠として浄土教の布教に専念し、世人は「西山上人」の尊称をささげた。
禅林寺は証空の浄土思想をうけつぐ浄土寺院として名乗りをあげ、浄土宗西山禅林寺派の総本山の立場を明確にうちだしてゆく。
文永元年(1264四)にはじまる南禅寺の造営によって境内の南半分が侵食された。
応仁の戦乱では伽藍のほとんどを失い、ようやく往時の姿にもどったのは天保年間(1830~44)のこと。

永観堂といえばみかえり阿弥陀が有名で、「聖衆来迎山永観堂顧本尊略縁起」と題した一枚刷りの版本がある。
そもそもは東大寺の仏像であった。
東大寺勧進職の任期が満ちて、永観が阿弥陀像を背にして禅林寺にもどろうとすると、東大寺の衆僧が奪い返そうとする。
しかし、像は永観の背から離れず、白河上皇の勅によって阿弥陀像は永観のものとなり、禅林寺に安置された。
永保2年(1082)2月、永観が道場にはいり、念仏行道していると、阿弥陀像が壇から降りて永観の先に立って行道する。
永観は思わず歩みを止め、道場の乾の隅に立ち疎んでいると、像は首を左にまわして永観を見返し、声をかけた。
「永観、遅し!」
以来、この本尊仏は「みかえり阿弥陀」と通称される。
永観はわれを先導する阿弥陀仏の背に、念仏行の艱難を悟ったのである。
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  1. 2010/10/30(土) 07:00:55|
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トウガラシ讃歌


トウガラシ讃歌トウガラシ讃歌
(2010/04)
山本 紀夫

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トウガラシはアメリカ大陸でもっとも古くから利用され、最古の栽培植物の可能性もある。
ペルーでは、紀元前8000年から利用されていた。
始めは狩猟によって得た肉などの料理の香辛料として野生のトウガラシを利用していたのだろう。
トウガラシの野生種は赤い実を上向けにつけ、脱落性があるため、鳥などによって発見されやすく、食べて排泄することによって野生種の遠隔地への自然散布を助けている。
一方、人間が利用するうえでは実が熟すやいなやポロポロと脱落したのでは収穫するうえで都合が悪く、また、小指の先ほどの小さな実では利用するうえでも不都合であろう。
中南米の人びとは脱落性のあるものから非脱落性のものへ、小さな実から大きな実をもつものへ、と野生のトウガラシを栽培化させていったと考えられる。
トウガラシは、ジャガイモやトマトと同じナス科のなかのトウガラシ属に属し、20~30種ほどの野生種のあることが知られ、メキシコやアンデスでは現在も利用されている。
トウガラシは温帯では一年生の作物だが、原産地の中南米では2~3mくらいの木になっている。
このような木本性の植物は実をつけるまでに数年間を要し、野生植物から栽培植物への遺伝的な変化は草本性植物の何倍もの年月がかかり、栽培化には相当の困難があっただろう。
トウガラシの栽培種は5種あるが、現在、世界中で広く栽培されているのは、植物学的にアンヌームという種だけで、中米でチレと呼ばれているものだ。
トウガラシの花は基本的に白色だが、紫色の花をつけるアンデスの標高1000~3000mあたりで栽培されているトウガラシは、現地ではロコトの名前で知られる。
また、アンデス以外の、とくに南米の南部地域ではでアヒと呼ばれている白い花の基部に黄色の斑点があるトウガラシは植物学的にはパッカータム種に属している。
チャイネンセ種は花弁が黄色あるいは緑色がかった白色で、アマゾン流域からカリブ海あたりにかけての熱帯アメリカで栽培されている。
このトウガラシと非常に近縁で花の色もほとんど同じであり、栽培の分布域も似ているものが、もう一種のフルテッセンス種だ。
これも現地でアヒと呼ばれているので、呼称だけではどの種のトウガラシか区別することはできない。
胡椒にかわる香辛料としてトウガラシに注目し たコロンブス一行は、早速ヨーロッパに持ち帰ったようで、1493年がヨーロッパにトウガラシが初めて持ち帰られた年とされている。
しかし、トウガラシはヨーロッパでは容易に広がらなかった。
冷涼な気候の多いヨーロッパでは栽培が困難で、トウガラシの比類のない辛さも容易に受け入れられなかったであろう。
この辛さのせいで、ドイツやイギリスなどヨーロッパ北部の地域ではいまなおトウガラシがあまり使われていない。
そのようなヨーロッパでも、やがて冷涼地で育つ辛味の少ない品種が育成され、ハンガリーではパプリカが色や香りづけに使われるようになった。
アフリカには、ポルトガル人が16世紀頃に、アメリカ大陸由来のトウモロコシなどといっしょに運んだと考えられている。
西アフリカから喜望峰をまわって東アフリカへ、さらにインドへ伝えられると、古くからメレゲタ・ペッパーや胡椒を使った料理になじんでいたため、トウガラシを抵抗感なく受け入れたようだ。
また、中南米に似た気候をもつアフリカやインドではトウガラシの栽培も容易であった。
その周辺のネパールやブータンなどでもトウガラシの利用は半端ではない。
さらに、インドのゴアからインドネシアへ、そして香料諸島として知られるモルッカ諸島へとトウガラシは広められ、16世紀初頭にはニューギニアの北海岸へ、17世紀中頃までには中国、朝鮮半島にも伝えられたとされる。
日本でトウガラシが知られるようになったのは意外に早く、天文11(1542)年あるいは天文21(1553)年にポルトガル人によってもたらされたとされる。
コロンブス一行が西インド諸島で初めて目にしてから、半世紀ほどで地球を半周して日本に到達したことになる。
寛永2(1625)年には江戸・両国の薬研堀で七味唐辛子が売られるようになっていた。
其角の「あかとんぼ はねをとったら とうがらし」の句を師匠の芭蕉が手を入れて、「とうがらし はねをつけたら あかとんぼ」としたほどに、トウガラシが親しまれていた。
現在のウドンに入れるようになったのは江戸時代も後半になってからで、最初の頃はソウメンに入れていたとされる。
ちなみに、朝鮮半島へは日本からもたらされたとされ、当初はかなりの抵抗感があったようだ。
にもかかわらず、その後の朝鮮半島では日本では考えられないほどトウガラシをさかんに利用するようになり、日本と朝鮮半島におけるトウガラシ利用は対照的なものとなった。


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  1. 2010/10/29(金) 07:00:56|
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復元安土城


復元 安土城―信長の理想と黄金の天主 (講談社選書メチエ)復元 安土城―信長の理想と黄金の天主 (講談社選書メチエ)
(1994/05)
内藤 昌

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世に「天守」の濫觴(らんしょう)は安土城といわれ、「天守」の用例は、元亀2年(1571)ごろまでおよそ半世紀にわたって絶えてない。
信長は、吹き抜けの大空間という、ユニークな空間構成の手段をもって、従来2~3層にすぎなかった楼閣建築を一挙に高層化し、大天主の造形に仕立て直している。
安土城天主の地階石蔵東向き宝塔下には、舎利容器が秘蔵された可能性がある。
金閣の第2層は観音像を安置して、天井には極彩色の天人飛天のさまが描かれており、これはまさしく安土城天主5階の「長てんにんあまたあり」という状況と合一する。
そして金閣第3層「究境頂」における金色燦然たる三間四方禅宗仏堂風のデザインは儒教的主題で飾った安土城6階のそれと照応し、吹き抜け空間は南蛮建築の影響とみて差し支えなかろう。
そもそも城郭内部に大規模な見寺を造営すること自体が、近世築城の常軌からはずれている。
この寺で信長みずから神体であり、ボンサン=盆山と称する石をもって、彼の生誕日に、自己の神体代りに男女貴賎をして拝ませたという。
その盆山を安置する部屋は、安土城天主1階南側にも認められ、天主では充分なる大衆動員ができないとみて、天主完成後、急速見寺を造営したものであろう。
天主信長移徒の5月11日は信長生誕の日で、キリスト教の聖日にも似た大祭日とみなすこともできる。
かくして信長は、自らが「神にして不滅なるもの」として万人に尊敬されるべく安土城天主を造営し、くわえて見寺を建立したものと考えられる。
戦国武将は儒仏不二・神仏唯一・三教一致の天道思想で、実力主義を鼓吹して運命を打開する神秘性と、支配権力を理念づけ、ひいては秩序の安定を要求する倫理性の二面を兼有していた。
同時にキリスト教のデウスが「天道」「天主」に擬せられていた。
天道思想は安土城天主が造形される天正初期において、儒教・道教・仏教・神道それにキリスト教までも包含したまさに重層的性格を具備して、思想界に「天下を正す」原理を固めていたと考えられる。
叡山焼討ちなどの非道な行動から、信長を神を恐れぬ無神論者と見なされがちだが、実は、キリスト教世界の唯一絶対神の存在にも憧憬にも似た関心をもっていたのである。
都市計画的視座から安土城をみれば、城下町の南西方=百々橋に接する安土山尾根続きに「見寺」が開設されている。
この軸線は、発掘調査によって水平距離約130mの直線状の大手通石段に直交している。
そして極彩色唐様南蛮風の新建築、天主が、城下町から約22m高の安土山山上本丸台地に、さらに約46mの木造高層建築としてそびえ立ち、新政権のシンボルとなっている。
したがって禅寺というよりは、天道思想にもとづく超宗派的性格のものと推測される。
甲賀より移建した六間四面の仏殿・円通閣に本尊十一面観音と信長の願になる弁財天が祀られ、三間四面の三重塔に安阿弥作の大日如来、脇侍に不動・毘沙門を据え、鎮守に尾張から熱田社を勧請している。
キリスト教が渡来した初期に、デウスを「大日」と称した件を想起すると、キリスト教をも内包した儒・仏・道・神を総べる天道思想をもっていわゆる庶民信仰を推進し、人心収横の宗教的ひいては政治的効果を求めた信長ならではの意図が「見」にこめられているとみられよう。
そして天主は、既往のイデオロギーを超越する天道思想をもって、まず須弥山上にみたてた安土山上石蔵に宝塔を設けて仏舎利を奉祈し、ついで1階に盆石を安置して「神にして不滅なる」自己の化身を崇めさせ、そこでの超越的権威をもって1・2階でおこなわれる政治を支配、3階の天界に常住する。
さらに5・6階は、まさしく天堂で、キリスト教の天主にも通じる「総合絶対神」を志向して信長の座を極めたのである。
結局、安土城天主は、軍事を第一機能とする旧来の常識からは遠く離れた存在であった。
安土城を「天下を正す」シンボルとなし、見寺で天道思想にもとづく庶民信仰をおこす。
くあえて「楽市・楽座」の施策をもって城下の繁栄を図り、なおかつ周辺には外濠をうがって外敵からの安全性を住民に保障し、その「正義」をより具体的に天下に顕示したわけである。

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  1. 2010/10/28(木) 07:00:53|
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京都の歴史を足元からさぐる


京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻
(2008/03)
森 浩一

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出雲郷や花の御所

古代の愛宕郡には出雲郷があった。
出雲国のほかでこれほど多数の出雲人が居住した土地は他にはない。
今日でも賀茂川のすぐ西岸に南北に長く出雲路の地名はのこり、さらに賀茂川にかかる橋を出雲路橋という。
『和名抄』の出雲郷の項には「以都毛(いづも)有上下」と註記され、平安前期にも上と下の二郷のあったことがわかる。
出雲路とは、北から愛宕郡の主邑のあった栗田郷や愛宕郷へ行くのに出雲郷を通過する道のことであり、出雲郷は鞍馬や貴船、若狭や越の国々への出発点であり、北西へと道をとると丹波、因幡や出雲への出発点でもあった。
ぼくの推定では雲上里はより北に、雲下里はより南にあって、その境付近に幸神社があった。
雲上里が出雲郷のなかではより主邑だったと推定され、出雲郷に2つある出雲寺が上出雲寺のほうが、より立派な伽藍をもっていたとみられることとも符号する。
山背の出雲臣の集団が勢力を築くうえで、壬申の乱での出雲狛の活躍があり、山背国の愛宕郡からは山背直小林がいち早く大海人側に加担した。
雲上里と雲下里の計帳では、戸主たちが位だけでなく勲十等とか勲十二等などの勲位をもつ者が5人おり、壬申の乱より後の戦での功にむくわれた者たちであろう。
出雲国の政治的な中枢の地に、ヤマシロの地名があり、山背国愛宕郡出雲郷や、ヤマトの屯田との連絡を担当する役目のあった土地とみられる。
『出雲国風土記』には意字郡の杜のなかに2の意陀支(おたき)社があり、オタキは山背国愛宕郡のオタキに関係する地名とみられる。
出雲国と山背国をつなぐ陸路の途中、丹波国桑田郡に式内社の出雲神社(出雲大神宮、京都府亀岡市千歳)があり、出雲人の移動を考えるうえでは重視してよい神社である。
天禄元年の『口遊』(くちづさみ)に大きな建物ベストスリーとして「雲太、和二、京三」が載っている。
山背国の出雲郷は、都での物品や情報を出雲国に伝達し、出雲国からの人や品物の処理が役割で、「雲太、和二、京三」などの誦を出雲郷の人たちがひろめたとぼくはみる。
江戸中期の『山城名勝志』巻之二に、出雲寺には上出雲寺と下出雲寺があり、「今按ズルニ相国寺慈照院ノ北ニ出雲寺町有り」としているが、その町名はいまはない。
『延喜式』では出雲寺の名は2度でており、平安中期には東寺や西寺につぐ大寺としての扱いをうけていた。
出雲寺の伽藍は南大門と中門があって、中門をとりこんで回廊がめぐらされ、講堂、食堂、鐘楼と経蔵、さらに三重塔2基もあった。
そのどちらかの塔のものとされる心礎が、手水鉢に転用されて渉成園(枳殻邸)にのこっている。
出雲寺址の発掘はおこなわれたことがなく、創建期や奈良時代の史料ものこっていないが、出雲寺があったとされる御霊神社の境内から昭和11年ごろに出土した瓦から、出雲寺は690~700年の初めに建立されたと推定できる。
ぼくは出雲寺は壬申の乱で功績があった出雲臣狛の建立とみる。
出雲狛は大宝2年(702)に従五位下に叙せられ、その直後に臣の姓を賜っている。
このことを記念して出雲寺の建立に着手したとすると、瓦の示す年代ともほぼ一致する。
出雲寺は平安遷都以前にあった京都の寺のなかでは、伽藍の整った寺だったといってよかろう。


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  1. 2010/10/27(水) 07:00:53|
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金子みすゞの世界


「童謡詩人 金子みすゞの世界」展 ~没後80年パネルと絵本『おひさん、あめさん』原画展~
展示期間:10月26日(火)~11月7日(日)  場所:茨木市中央図書館 1階ロビー

金子みすゞ(本名テル)は、1903年(明治36)4月11日、山口県大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎にうまれました。3歳で父を亡くしますが、母や祖母や兄の心遣いで明るく育ち、瀬戸崎尋常小学校、大津高等女学校を卒業しました。物静かだけれど、好奇心旺盛で読書好きな少女だったそうです。
1923年(大12)、みすゞは下関随一の書店上山文英堂の支店で働き始めます。上山文英堂主人の後妻となった母を頼ってのことでした。仕事のかたわら、ペンネーム「みすゞ」で童謡を書き投稿。
雑誌『童謡』等の誌上で西条八十に認められ、若き童謡詩人たちの憧れの星となっていきました。
幸せは長くは続きませんでした。やがて結婚し、一人娘ふさえをもうけますが、夫から詩作を禁じられ、辛い生活ののち離婚。ふさえを引き離そうとする夫に抗い、1930年(昭和5)3月10日、26歳の短い生涯を閉じました。
没後、みすゞの作品は埋れ、生い立ちも知られぬまま、幻の童謡詩人と語り継がれるばかりとなりました。しかし、学生時代に「大漁」というただ一遍の童謡に魅了された童謡詩人・矢崎節夫の熱意により、1982年(昭57)6月、弟正祐が50年以上も大切に保管していた遺稿集・3冊の手帳が見つかります。そこには、512編ものみすゞの作品が眠っていました。遺稿集は、翌々年2月『金子みすゞ全集』として発行されました。

大漁

朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮(おおばいわし)の 大漁だ。

浜は祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の 鰮のとむらい するだろう。


金子みすゞと茨木市との関係は特段ないとのこと。
それにしては12月11日には矢崎節夫氏の講演会、「みすゞさんのうれしいまなざし」
来年1月16日には小林綾子の朗読と茨木の音楽家たちの「みすゞ いのちのうた」コンサートと、とても力が入っています。

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  1. 2010/10/26(火) 16:27:40|
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日蓮聖人註画賛

詳解 日蓮と日蓮宗 』をガイドに『日蓮聖人註画賛』を見てみよう。


房総半島の漁村に一人の男子が出精した
貞応元年(1222)2月16日、日蓮聖人は、安房国長狭郡東条郷片海小湊の地(千葉県鴨川市天津小湊)に産声をあげた。『本尊問答抄』に「海人が子」と述べているところから、生家は漁夫の家であったと思われる。


出家・修学 鎌倉から比叡山へ
12歳の時、生家近くの清澄寺に登り、住僧の道善房に初等教育を受けた。16歳の時、道善房を師として出家し、房号を「是聖房」、諱を「蓮長」と名乗ったと伝えられる。


立教開宗 清澄寺で題目を唱える
建長5年(1253)32歳の春、故山清澄寺に帰った日蓮聖人は、法華経への信仰を表明するとともに痛烈な念仏批判を行った。この説法は一山を驚動させ、地頭の東条景信の怒りをかって、清澄下山を余儀なくされた。


鎌倉弘通 辻に立って説法
建長6~8年(1254~6)には相模国鎌倉に出て、街の東の名越松葉谷に草庵を結び、痛烈な諸宗批判と法華信仰の勧奨を唱えた。このころ名を日蓮と改めている。


『立正安国論』を北条時頼に上奏
正嘉元年(1257)の大地震を、鎌倉の地で体験した日蓮聖人は、度重なる天変地夭の原因を調べるべく、東国随一の蔵書を誇った駿河国富士岩本の実相寺の経蔵に籠もり、あらゆる仏教典籍を閲覧。その結果、相次ぐ災害の原因が、仏の正法である法華経を蔑ろにする国家の謗法(ほうほう)にあると知り、文応元年(1260)、『立正安国論』を執筆し、鎌倉幕府の前執権の北条時頼に上奏する。法華信仰勧奨と念仏禁断を主張し、正しい仏法に基づいた政治のあり方を進言したが、時頼の反応はなかったという。


伊豆流罪 法難の地で釈尊立像を感得
弘長元年(1261)5月12日、伊豆流罪となった。日蓮聖人は、伊豆伊東の地で『教機時国紗』を著し、法華経こそが仏の真実の教えであり、末法の日本に弘まるべきことを論証した五義判を発表している。


小松原法難 眉間に傷を被る
流罪生活は3か年に及んだが、伊豆流罪を赦免された日蓮聖人は、翌文永元年(1264)9月ごろ、病床の母を見舞うため、故郷安房国に帰省した。東条景信は、東条松原大路に兵を伏せて日蓮聖人ら一行を襲撃し、弟子・檀越に初めての死傷者が出た。文永2年(1265)11月ころ、小松原法難で殉教した門弟の一周忌のため再び清澄に帰り、文永3年1月6日に清澄寺で『『法華題目抄』を著している。


蒙古国書到来 恐ろしい警告が的中
第6代の世祖フビライは、日本に使者を送った。自発的な隷属か、服属かの二者択一をほのめかしていた。この国家の危急存亡に直面し、蒙古調伏の祈稿を命じている。日蓮聖人の真言宗批判が激化するのもこの時期である。不安にかられた多くの武士や民衆が、日蓮聖人の信者となっていった。


瀧口法難 危うく斬首を免れる
文永8年(1271)夏、鎌倉では早魅が続き、幕府は極楽寺の律僧良観房忍性に命じて祈雨の修法を行わせた。この祈雨を巡って忍性と対立を起こし、侍所所司の平頼綱に逮捕され、佐渡へ流罪と決まった。江ノ島にほど近い「瀧口刑場」で、頼綱の部下が日蓮聖人の頚を斬らんとしたその瞬間、奇跡が起こった。日蓮聖人は斬首を免れ、本間邸のある依智についたのである。斬罪赦免の理由に、北条時宗の妻の懐妊があったと推測されている。また斬罪赦免に、日蓮聖人は、大学三郎という人物の手助けがあったと述べている。なお、この時の弾圧は門弟の間にも広がっていた。


大曼荼羅を佐渡流罪の地で始顕
佐渡では守護代本間重連の館そばの荒れ果てた三昧堂に入る。文永9年(1272)4月、聖人は佐渡石田郷の一谷入道の邸に移され、文永10年(1273)4月25日、聖人は、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』を著し、題目五字七字による救済の理論を明らかにした。ついに文永11年2月14日、流罪を赦され鎌倉に戻ることとなった。


三度目の国家諫暁 そして身延に入山
4月8日、幕府は日蓮聖人を召喚し、蒙古問題について話し合ったという。しかし、平頼綱は聖人の進言を採択しなかった。5月12日、幕府にみきりをつけた日蓮聖人は、鎌倉を後にした。


元寇 ついに蒙古来襲
日蓮聖人が身延に入った文永11年(1274)10月5日、蒙古軍がわが国を襲い、対馬・壱岐、筑前・肥前に大きな損害を与えた。日蓮聖人にとって、この蒙古襲来は「他国侵逼難」が的中したという確信と、それにもかかわらず蒙古が敗退したという孤絶感とをもたらし、その思いを建治元年(1275)6月『撰時抄』に披瀝している。また、建治2年には、恩師道善房死去の報せを受け、恩師への報恩回向のため『報恩抄』を著している。建治3年(1277)12月、聖人は下痢を患った。弘安4年(1281)正月に再発。この年の5月、蒙古は高麗軍を合せて再び来冠した。


法華経に生きた日蓮聖人 池上にて入滅
弘安5年(1282)、秋に入ると弟子たちが湯治をすすめ、9月18日武蔵国千束郷(東京都大田区)の池上宗仲の館にたどり着いた。臨終間近きことを覚った聖人はここを入寂の地と定め、翌月10月8日、本弟子6人を選び後事を託した。13日、臨終にあたり、伊豆感得の釈尊立像を安置し、大量茶羅を掲げ、門下読経のうち、午前8時ごろ、日蓮聖人は波乱に富んだ人生に幕を閉じた。世寿61歳であった。


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  1. 2010/10/26(火) 07:00:24|
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日蓮と日蓮宗


詳解 日蓮と日蓮宗 (宗教書ライブラリー)詳解 日蓮と日蓮宗 (宗教書ライブラリー)
(2010/07)
小松 邦彰


室町時代の日蓮宗 

日蓮聖人は鎌倉を中心に活躍したので、各門流の活動の場も東日本が中心で、京都進出は大きな課題だった。
この課題を最初に突破したのは、日朗門流の日像(1269~1342)だった。
日蓮聖人は没する直前、六老僧に後事を託したあと、まだ少年だった日像を枕辺に呼び、京都弘通を依嘱した。
日像は師の十三回忌をきっかけに、京都に入り、町中で声高に法華経を説いて回った。
他宗を邪教と断定する日像に不快感を募らせた延暦寺は、朝廷を動かして、3度京都を追放された。
しかし、商工業者や公家などの応援を得て、ついに建武元年(1334)、四条に妙顕寺を開創。
朝廷の勅願寺と武士の祈願所とする論旨を賜るに至った。
建武3年(延元元年)に後醍醐天皇が吉野に逃れ、世は足利氏の室町政権の時代になると、鎌倉は衰退し、京都がふたたび政治と文化の中心地となった。
そのなかで、京都布教の拠点となったのが妙顕寺で、四条にあったことから、一門は「四条門流」と呼ばれることになった。
公家出身の弟子・大覚妙実(1297~1364)は、四条門流の教練を急速に伸張させ、北陸、近畿、中国に弘まった。
また、日像の兄弟弟子である日印 (1264~1328)は、日朗門流から独立して鎌倉に一寺を建立し、その後越後に移り、本成寺を建てた。
足利氏とゆかりがある日静(1298~1369)は、日印が鎌倉に建てた寺を京都に移し、本国寺と名づけた。
本国寺は六条に所在していたことから、「六条門流」と呼ばれ、妙顕寺と並んで京都を代表する日蓮宗寺院となった。
日蓮聖人没後、身延山久遠寺を中心とする教団の結束が崩れ、各門流は分立して統一されることはなかった。
宗内の教義論争も激化し、「一致派」と「勝劣派」の対立が方面化した。
論争は分派を加速させ、六条門流の日陣(1339~1419)は本勝迹劣を主張し、本禅寺を建てて「日陣門流」を興した。
四条門流の日隆(1385~1464)は本門八品を正意として京都本能寺と尼崎本興寺を建て、「日隆門流」を開いた。
また、同じ四条門流の日真(1444~1528)は本隆寺を建て、「日真門流」を興した。
さらに、関東の中山門流からは日什(1314~1392)が独立して京都に妙満寺を建てて 「日什門流」を興した。
身延門流では中興の祖と仰がれる11世日朝(1422~1500)の弟子、日意(1444~1519)が京都に妙伝寺を建てて同門流の拠点とした。
富士門流では日尊(1265~1345)が上行院を建て、日大は住本寺を建て、のちに合流して要法寺となった。
こうして各門流は京都に居を構え、論争を先鋭化させ、京都には21の本山ができ、「京都の大半は法華の巷になった」といわれるほどになった。
日蓮の折伏精神を受け継ぎ、積極的な法華信仰を説いて教練を拡張していったのは日親(1407~1488)だった。
獄舎を共にした本阿弥清信は日親に帰依し、本光という名を授けられ、以後、本阿弥家は代々名前に光の字を用いるようになる。
本阿弥光悦(1558~1637)はこの家系から出、法華経を基調とする文化の花を咲かせた。
応仁の乱(1467~77)で乱れる治安に町衆は団結して、武装して身を守る「法華一揆」へと発展。
本願寺8世の蓮如(1415~1499)が、山科に本願寺を移すと、この勢力をおそれて、天文元年(1532)法華一揆は山科の本願寺を焼き払った。
天文5年(1536)2月には、比叡山延暦寺との戦闘(天文法華の乱)で下京は焼失し、上京も3分の1が焼け落ち、法華一揆は終息した。
この争乱で21箇本山は堺の末寺に逃れたが、天文11年(1542)に帰還が許され、15か寺が帰洛復興した。
天正7年(1579)、織田信長の命により浄土宗と論争がなされ、浄土宗の勝ちと判定され(安土宗論)、日蓮宗は「摂受」の姿勢を占めるようになる。

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  1. 2010/10/25(月) 07:00:15|
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凌雲閣跡


凌雲閣跡(りょううんかくあと) 大阪市北区茶屋町1-40 梅田東学習ルーム体育館

明治のはじめ、文明開化の時代には、高層の展望台をつくることが流行しました。凌雲閣はその代表的なもののひとつです。当時このあたり一帯は、鶴の茶屋などの料亭が立ち並んでいました。鶴野町や茶屋町といった地名は、その名残です。そこに茶店や温泉、ボート遊びのできる池などが並んだ『有楽園』という公園がつくられました。その中心となる施設として、堂島浜の壇重三という人の発案で、明治22年(1889)に建てられたのが凌雲閣です。
構造についてはいくつかの説がありますが、木造9階建てで、高さは130R(約39m)、1・2階は五角形、3階から8階は八角形、らせん状に通路が巡り、9階部分には丸屋根の展望台と時計台(時辰台)がありました。
難波に築かれた5階建ての展望台である眺望閣が、「南の5階」と呼ばれたのに対して、凌雲閣は「北の9階」あるいは「北野の9階」として親しまれました。いつ頃まで建っていたのかはよくわかりませんが、昭和のはじめには撤去されて広場となっていたようです。
大阪市教育委員会

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  1. 2010/10/24(日) 07:05:28|
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南蛮屏風


重要美術品 南蛮屏風(レプリカ)
絹本金地着色 六曲一双 桃山時代 各161.7cm×376.9cm 堺市博物館蔵
レプリカとはいえ、身近に見えるのは喜ばしいこと。
市民ギャラリーとありますが、市の施設でも、銀行のウインドウでもありません。


ボートピア梅田 大阪市北区堂山町18-8
2007年3月16日に開場した競艇場外発売場でした。
南蛮屏風に帆船が描かれていることから、飾られているのでしょうか?

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  1. 2010/10/24(日) 07:00:41|
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日本書紀の謎


古事記と日本書紀でたどる日本神話の謎 (青春新書INTELLIGENCE)古事記と日本書紀でたどる日本神話の謎 (青春新書INTELLIGENCE)
(2010/07/02)
瀧音能之

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『古事記』『日本書紀』 の天孫降臨神話をみると、降臨を指令する神にアマテラス大神の他にタカミムスヒ神の存在がみられる。
アマテラス大神は、黄泉国から逃げ帰ったイザナキ命がミソギをしたさい、左眼から生まれた神とされる。
このとき、右眼からはツキヨミ神、鼻からはスサノオ神がそれぞれ誕生している。
これら三神を総称して三貴子といい、アマテラス大神は三貴子のなかでも神格が最も上位とされている。
一方、タカミムスヒ神は、『古事記』では天地開闢で、アメノミナカヌシ神に次いで2番目に誕生した神とされている。
また、『日本書紀』では、やはり天地開闢を記した所伝の第4の一書に、国常立尊、国狭槌尊、天御中主尊に続いて誕生したことになっており、タカミムスヒ神の神格もきわめて高い。
『日本書紀』の顕宗天皇3年2月1日条には月神、同3年4月5日の条には日神と、タカミムスヒ神は日神・月神の祖とされている。
つまり、皇祖神として、アマテラス大神の他にタカミムスヒ神を考えることが可能なわけである。
『古事記』には、アマテラス大神が高木神の命をうけて、アメノオシホミミ尊に降臨を指令している。
ここに姿をみせる高木神はタカミムスヒ神の別名とされている。
『日本書紀』第9段では、皇祖高皇産霊尊と、タカミムスヒ神が皇祖として登場している。
こうして、『古事記』と『日本書紀』の降臨を指令する神をグループ化すると、
(A)タカミムスヒ神を司令神とするもの。
(B)アマテラス大神がタカミムスヒ神の命を受けて降臨を指令するもの。
(C)タカミムスヒ神とアマテラス大神の二神が司令神として登場するもの。
(D)アマテラス大神を司令神とするもの。
と4つのグループに分類でき、これを全体的にとらえると、A→B→C→Dという動きが自然だ。
つまり、天孫降臨の司令神は、そもそもタカミムスヒ神であったが、アマテラス大神の出現によって、タカミムスヒ神の命を受けてアマテラス大神が司令を出すようになる。
次いで、アマテラス大神の立場が強まるにつれて、タカミムスヒ神と共に二神が司令神としての役割を果たすようになり、最後はアマテラス大神のみが司令神として登場することになる。
つまり、天孫降臨のさいの司令神は、タカミムスヒ神からアマテラス大神へと変化していると考えることができるのである。
こうした司令神の変化、皇祖神が入れかわった時期や理由について、従来いわれていることは、天武・持続期に大きな変化があったのではなかろうかということである。
その理由としては、天武・持続期における神祀制度の改変・整備があげられており、より直接的には、持統およびその後の皇位継承が天孫降臨神話と類似していることが指摘されている。
天武天皇が崩御したのち、皇后の持続は称制をとり、皇后という立場で政治をおこなった。
しかし、3年後に皇太子であった草壁皇子が死去したため、自らが即位することになる。
そして、持統天皇11年(397)に草壁皇子の子、すなわち持銃の孫にあたる珂留王を皇太子に立て、その半年後に天皇位を譲ったのである。
ここには、祖母から孫への継承という関係がみられ、天孫降臨神話と同じ構造を指摘することができる。
この持銃から文武への皇位継承を正統化し、保証するための拠り所として形成されたのが、アマテラス大神を司令神として、孫のニニギ尊が天降るという天孫降臨神話に他ならない。
このように理解するならば、皇祖神の転換は7世紀後半から8世紀前半にかけておこなわれたとえよう。




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  1. 2010/10/23(土) 07:00:57|
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