続・竹林の愚人 2010年11月

源氏ゆかりの地



牛若丸と弁慶の像
    牛若丸と弁慶の出合いを表現した像。
神明神社
    源頼政が奉納したと伝わる2本の矢じりが今に残る。
五條天神社
    牛若丸と弁慶が出合ったのは、この神社の境内とも伝わる。
若宮八幡宮
    後冷泉天皇の勅願により源頼義が創建。
左女牛井之跡
    源氏六条堀川館内の井戸であったと伝えられる。
源為義公塚
    保元の乱で敗れ、朱雀野で処刑された源為義を弔う塚。


テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

  1. 2010/11/30(火) 07:15:20|
  2. Historic sites
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

神明神社


神明神社(しんめいじんじゃ) 京都市下京区綾小路通高倉西入ル神明町
祭神:天照皇大神・文子天満宮・菅原道真
近衛天皇が度々行幸された摂政関白藤原忠通公の邸内にあった鎮守社で、後に天台宗護国山立願寺によって管理され、明治の神仏分離によって神社だけが残った。
社頭に榎の大木があったので榎神明と称された。近衛帝を毎夜悩ました鵺(ぬえ)を源頼政が退治した2本の矢尻が社宝として伝えられている。明治30年に文子天満宮を合祀。
謡曲「鵺」は、古典「平家物語」から取材した曲。鵺とは頭が猿、尾が蛇、手足が虎、鳴く声は鵺に似た怪獣だったといわれています。
芦屋の里で一夜を明かす僧の前に、うつぼ舟(丸木舟)が着く。舟人に尋ねると近衛天皇の時代、源頼政に討ち取られた鵺の亡霊と名乗り、姿を消す。僧が供養していると鵺の姿となった亡霊が再び現れ、供養に感謝し、勝者・頼政の栄光と、うつぼ舟で冥途に流されてゆく自分の有様を語るのです。
この神明神社は鵺が退治された屋敷跡とされ、神社にはそのとき頼政から奉納された「やじり」2本が宝物として伝わっています。   謡曲史跡保存会

『都名所図会』
神明宮(しんめいぐう) は綾小路高倉の西にあり。祭る神伊勢内外太神宮なり。td>

テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

  1. 2010/11/30(火) 07:10:01|
  2. Shrines
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

五條天神社


五條天神社(ごじょうてんじんじゃ) 京都市下京区松原通西洞院西入ル天神前町
祭神として、大己貴命・少彦名命・天照大神を祀る。
社伝によれば、延歴13年(794)、桓武天皇の平安遷都に当たり、大和国宇陀郡から天神を勧請してのが当社の始まりといわれる。
当初は「天使の宮」(天使社)と称したが、後鳥羽天皇の時代に「五條天神宮」と改めた。
創社の頃は社域も広く、社殿も広壮であったが、中世以来度々火災に遭い、元治元年(1864)の蛤御門の変で社殿は焼失した。
現在の社殿は近時の再建である。
当社は古来、医薬・禁厭(まじない)の神として広く崇敬され、今なお節分には、厄除け祈願のために参詣する人が多い。
例祭は、毎年5月10日に行われる。  京都市


拝殿


本殿  祭神:大己貴命・少彦名命・天照皇大神


筑紫天満宮


福部神社・金刀比羅神社・大国主神社・白大夫神社


天神大明神・猿田彦神社・弁財天


北鳥居


『都名所図会』
五条天神宮 は松原道西洞院にあり。天使社と称す。祭る所少彦名命・相殿天照皇大神宮・大己貴命なり。桓武帝遷都の初め、平安城鎮衛の為造営し給ふ。医道の祖神とす。
古は宮殿魂々として東西四町、南北五町の神領なり。巡りには樹林森々たり。伝教・弘法の両大師も入唐の時、帰朝安全の祈額を籠め給ふ由、社記にあり。承安二年文覚上人配流の時、当社の鳥居の下に黄金を埋みたる計略にて難風を免れしよし、『源平盛衰記』に見えたり。安元元年には源牛若丸、鬼一法眼と兵書の遺恨あって戦ひ、忽ち感応を待て打ち勝ちしもこの所なり。また武蔵坊に逢ひ給ひしもこの森とかや。至徳元年には将軍義満公殿舎を再建し給ふ。祭は九月十日。また節分には白光・小餅・宝船を禁裏に上る。
小餅料は天文二年将軍義輝公の母公慶寿院より御推挙ありて賜はる。それより今に至り公務の沙汰として年々その料を賜ふ。この夜諸人群参して厄難除減を祈り、三種の神物をうくるなり。

テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

  1. 2010/11/30(火) 07:05:19|
  2. Shrines
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

若宮八幡宮


若宮八幡宮 京都市下京区若宮通花屋町上る若宮町
当宮は天喜5年(1058)源頼義が後冷泉天皇の勅を奉して創建され、六条八幡とも左女井八幡とも言われました。
平安時代は五條条路までが市街地で、六条の地は堀川館をはじめ当町に頼義・義家の館。その東には後に義経が居を構えるなど、長く源氏の邸宅があったところとして著名で、「拾芥抄(1540)」には「八幡若宮義家宅」の書入れがあり、「古事談」にも「六条若宮はかつて源頼義が邸宅の家向に構えた堂に始まる」とあります。また頼義の誕生水と称される井戸の伝承地があると記されています。(義家誕生1041年)
「吾妻鏡(1190年代)」によると文治3年(1187年)正月15日六条以南 西洞院以東の壱町の左女井御地を社地として六条若宮に寄進されたとあります。
そもそも左女井(さめごい)とは、現在の醒ヶ井通りのことではなく、平安京条坊図によれば北から五条大路(現松原通)・樋口小路(現万寿寺通)・六条坊門小路(現五条通)・揚梅小路・六条大路・左女井小路(現花屋町通)。七条坊門小路(現正面通)・北小路・七条大路とあり、寄進された壱町とは正しく若宮八幡宮を中心とした一画であります。
以来、源頼朝からも格別の崇敬を得、文治3年6月18日には放生会を始行すべき沙汰あり。同年8月15日に鎌倉八幡宮と共に放生会が行われたのが今日の祭事の始まりであります。
さらに室町時代に足利将軍家の崇敬を得て、ますます栄え応永17年(1410年)8月、四代将軍義持がお参りした時の様子を伝える「義持社参絵巻」には本殿のほか公文所・楼門・三重塔などが見え、壮麗な殿舎を彷彿させられるのですが、惜しくも応仁の乱(1470年)で焼失。その後、秀吉の京都改造(短冊形町割・寺院街形成・御土居築造)に際し、天正12年(1584年)当時の御旅所のあった東山へ移され天正16年には方広寺の北へさらに慶長10年(1605年)現在の五条坂へ移って今日に至っているのですが、東遷の後も町民の信仰あつく、創建以来の宮を守り、まつりごとを斎行し、年々盛んになってきているのであります。       若宮町


本殿 祭神:応神天皇・神功皇后・市杵嶋姫命・湍津姫命・田心姫命


若宮稲荷神社 若宮稲荷大明神

『都名所図会』
若宮八幡(わかみやはちまん) は五条橋東五町にあり。
例祭は八月十五日放生会なり。旧地は若宮通(今の仏具屋町なり)六条(今の魚棚通なり)の南、人家の裏に小社あり。これその旧蹟なり。天正年中にこの所にうつす。

テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

  1. 2010/11/30(火) 07:00:33|
  2. Shrines
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

テーマ展 「茨木城」


第27回 文化財資料館テーマ展 「茨木城」
平成22年10月23日(土)~11月28日(日)
茨木市立文化財資料館 茨木市東奈良3-12-18

茨木遺跡遺物

瓦製土管(かわらせいいどかん) (平成13年度発掘調査)


軒瓦(のきがわら)  (平成18年度発掘調査)


筬欄間(おさらんま)  (平成18年度発掘調査) 幅2196mm×高さ607mm 欄間框は出土していない。
框の幅と柱の太さを考慮すると、柱間約8尺に納まると推定される。
組子は横子が上下段に2本、中段に3本で構成され、竪子は12mm毎に配され、181本有ったものと推定される。
組子は雇い釘(木製か竹製)で留められ、竪子は一本置きに留められる。
2間半の室境に2枚用いたものであろう。


筬欄間(おさらんま・小)  (平成18年度発掘調査) 幅1405mm×高さ382mm、欄間框が残存。
柱太さから、柱間約5尺に納まると推定される。
組子は、横子が上下段に2本、中段に3本で構成され、竪子は15mm毎に配され、87本有ったものと推定される。
雇い釘は、横子の留め方が疎らで、欄間框は几帳面取りされ、留形三枚接ぎ雇い釘で組み立てられる。
欄間の大きさと組子の細さから見て、付書院などに用いたとみられる。


お茶席  1階ロビーにて茨木市茶華道連盟による接待があり、お城を模った和菓子を頂戴しました。

テーマ:大阪 - ジャンル:地域情報

  1. 2010/11/29(月) 07:05:38|
  2. NEWS
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

茨木遺跡


茨木遺跡(いばらきいせき)発掘調査風景

 
平成18年5月に行なった本町での発掘調査において、南北方向の流路から安土桃山時代~江戸時代初頭頃の建具や瓦が多量に出土しました。


建具は化粧板・遣り戸・筬(おさ)欄間・ 明かり障子・床板材・柱材・板材などが出土しました。
特に筬欄間は精巧緻密に細工され、大きくて薄い作りになっています。

テーマ:大阪 - ジャンル:地域情報

  1. 2010/11/29(月) 07:00:07|
  2. Historic sites
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

宗徳寺


粟嶋堂宗徳寺(あわしまそうしゅうとくじ) 京都市下京区岩上通塩小路上ル三軒替地町124
粟嶋堂は西山浄土宗に属する宗徳寺境内のお堂です。昔より「あわしまさん」と呼ばれ、親しまれてきました。
宗徳寺は応永年間(1394~1427)に行阿上人がこの地に開山し、ご本尊は阿弥陀如来です。粟嶋堂は宝徳年間に南慶和尚が紀伊の国、淡島にて虚空蔵菩薩像を感得せられて上洛の途上、俄かにこの辺りで重くなったのを、ご神意として鎮守粟嶋明神としてお祀りしたのが始まりといいます。 
江戸時代には粟嶋明神の霊験は広く伝わり、孝明天皇、光格天皇は度々ご代参され、歴代の后妃も篤くご信仰されました。また俳人の与謝蕪村や文人画家の富岡鉄斎も当堂にお参りし、今もその足跡を残しています。


粟嶋堂鎮守:粟嶋大明神、本地佛:虚空蔵菩薩、垂迹:少彦名命
宗徳寺本尊:阿弥陀如来


弘法大師 庚申堂


正一位咲分稲荷大明神


人形供養で知られています。


俳人与謝蕪村翁が娘の病気平癒を祈願されたときに読まれた句。
   粟嶋へ はだしまいりや 春の雨  蕪村

『都名所図会』
粟島社 堀川の西、生酢屋橋通の南、宗徳寺の内にあり。紀州粟島の勧請なり。祭は三月三日

テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

  1. 2010/11/28(日) 07:15:04|
  2. Shrines
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

芹根水跡


芹根水跡(せりねすいあと)  京都市下京区木津屋橋通堀川西入御方紺屋町


芹根水の碑  江戸時代後期 花崗岩(白川石)
芹根水は、むかし洛中七名水の一つに数えられた。
安永9年(1780)の「都名所図会」によれば「芹根水は堀川通木津屋橋の南にあり。近年書家烏石蔦辰(うせきかつしん)、清水に井筒を入れて、傍には芹根水の銘みづから(中略)書して石面に彫刻す云々」と記し、石の井筒から清水が湧きだして堀川に流れこむさまを図示している。
江戸時代の著名な書家、烏石蔦辰(1700~1779)は、葛烏石、烏石山人とも号し、洛中名水の保存と顕彰に努めた。
この碑もその代表的な一つであり、惜しくも年銘はないが、今から約230年前宝暦年間の製作と考えられる。
以来この名水は文人墨客、茶道家、商家一般に永く愛用されたが時移り大正3年(1914)堀川改修に際して濁水混入し、井筒も失われ、独り碑のみが護岸中にのこされていた。
いま堀川暗渠工事に先立ち、碑を河中より引揚げその保存を図るも、飲水を大切にした古人の心を現代に伝えたい願いにほかならない。


文房四神之碑
江戸時代の書家、烏石蔦辰の書と伝えられる。
蔦辰は「芹根水」の書家でもあり、この付近の下魚棚通り西堀川角に居住していたという記録が残されている。
文房四神之碑は、南方・朱雀を筆・東方・青龍は硯、西方・白虎を紙、北方・玄武は墨となり、これは筆硯紙墨を四神になぞられえて崇敬したものである。
この碑は、道祖神社の「書聖天満宮」に建てられていたが、神社の改築に伴い、平成6年7月にここに移設された。

『都名所図会』
芹根水(せりねのみづ) は堀川通生酢屋橋の南にあり。(近年書家烏石蔦辰、清水に井筒を入れて、傍には芹根水の銘みづから八分字に書して石面に彫刻す。また公卿の詩歌を集む) 
その序文に日く、 
  源融公、むかしこの辺青甸たりし風景を愛し、既に今日の竹林にある所において、奥州千賀の塩竃の景をうつし、汐汲のありさまを弄ばれし由にて、その時、第宅の用水たりしにや。かたの如く清水湧出でゝ絶えせぬは、ひとかたならぬ霊水なりと。石檻・石罅をかまへて名蹤の所以を公にせん事、今時その資を喜捨して烏石先生衆工に募りて経営れたり。諸君子その事を善として文藻に属れり。
寛雅公は転法輪殿の御子にて、隋自意院親王後猶子として上の醍醐報恩院に住持し給ひ、大僧都法印なり。先生の御勧め申上げられしかば、御作なされしなり。公卿の和歌繁多によってこれを略す。

テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

  1. 2010/11/28(日) 07:10:09|
  2. Historic sites
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

諏訪開諏訪神社


諏訪開諏訪神社(すわびらきすわじんじゃ) 京都市下京区諏訪開町

    
拝殿                                      鳥居
                                

本殿 神木の椋を挟んで八坂刀売命・大国主命、前立に建御名方命を祀る。

 
祓戸神社


稲荷神社

テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

  1. 2010/11/28(日) 07:05:51|
  2. Shrines
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

尚徳諏訪神社


尚徳諏訪神社(しょうとくすわじんじゃ) 京都市下京区諏訪町通五条下ル下諏訪町35
第50代桓武夫里の延暦16年坂上田村麻呂、東夷平定、征夷大将軍の命を受けました。将軍はかねてより信州諏訪大明神を深く信仰し、ご神威、ご加護のもと赫々の戦果を挙げ平安京に延暦20年10月に凱旋いたしました。
その御礼の為、都、五条坊門の南に社殿を造営、信濃より諏訪大明神のご分霊を勧請し祀られたのが当神社の創始です。爾来星霜を重ね社殿も荒廃いたしておりましたが、第82代後鳥羽天皇の文治2年、源義経社殿を広め、樹木を植え池を作る等して昔にまさる宏大な神域といたしました。
第96代後醍醐天皇の建武年間兵火に遭い、旧観とみに変じ再び衰微するも室町幕府(室町迫今出川上ル附近)3代将軍足利義満神馬を奉納し神域を復活せしもようです。
弟108代後氷尾天皇の慶長年間にも社殿の修覆が行はれ、更に徳川幕府5代将軍綱吉の項には、境内に社殿復興の為の大相撲興行も行われました。第120代仁孝天皇の元治甲子の年、禁門の変の兵火に遭い社殿、悉く烏有に帰し再建も覚束なかつたが、第121代孝明天皇再建の資として金150両と菊御紋提灯壱対を御下賜下さるに及び大いにカを得、更に尚徳学区先人各位のご努力と相侯って慶応2年再建の業、完成いたしました。
青丹よし奈良の都より、平安遷都以来の京都の歴史が即、尚徳諏訪神社の歴史であり、今日に及ぶ次第であります。


拝殿


本殿 祭神:建御名方神・八重事代主神


弁財天

『都名所図会』
諏訪社(すはのやしろ) は五条の南二町、諏訪町にあり。祭る所信濃国諏訪社と同神なり。
(獣肉を喰らふものこの社の神箸をうけて食す。汚穢なしとぞ)

テーマ:京都 - ジャンル:地域情報

  1. 2010/11/28(日) 07:00:54|
  2. Shrines
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ

プロフィール

bittercup

Author:bittercup
近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

Translate

検索フォーム

Loading

月別アーカイブ

カテゴリ

Table of Contents (46)
BOOK (1275)
Shrines (1718)
Historic sites (739)
Retro (114)
SIGHT (382)
NEWS (185)
GOODS (86)
PC (40)
Lecture (18)
Greeting (14)
Blog (7)
TRAIL (9)

FC2カウンター

リンク