続・竹林の愚人 2011年01月

川村旭芳 筑前琵琶演奏



川村旭芳(かわむらきょくほう)さんの琵琶演奏がありました。
彼女の使っているのは平家琵琶ではなく、近世に作られた一回り小さい筑前琵琶です。
「筑前琵琶のしらべ~源平一ノ谷合戦」が近日リリースの予定です。

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  1. 2011/01/31(月) 07:05:25|
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倭の正体


倭の正体―見える謎と、見えない事実倭の正体―見える謎と、見えない事実
(2010/02/24)
姜 吉云

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『三国史記』「新羅本紀」で倭人・倭兵の新羅侵入事件を綿密に調べてみると、初代の朴赫居世王から第21代の炤知王までの間(BC.57~AD.500年)に36回ある。
新羅東辺の海からの攻撃として、2回(14、459年)にわたって倭人が100隻余りの兵船で山動している。
しかしこれらを、5世紀後半にようやく統一国家を形成した倭国の軍事行動とは考えられない。
大洋を船で渡る遣唐使を送るのに、7世紀になっても新羅や唐の船便を利用するはかなかったのであるから、3世紀や4世紀半ばの「倭国」が自国の船で、波が荒いことで有名な玄界灘や対馬海峡を渡って多数の兵力を輸送するというのは不可能なことであろう。
「倭」とは、ドラヴィダ語を使う加羅族全体を指し、任那加羅(駕洛国)・(後期)百済・日本となり、駕洛国は532年に、百済は660年に滅亡し、残っているのが日本だけとなったのだ。
神功皇后の三韓遠征は、駕洛国の第5代伊尸品王が399年、新羅の首都鶏林(今の慶州)に侵入し、一時降伏させたが、翌年には高句麗の援軍によって撃退されたばかりでなく、かえって駕洛国の首都の金官国が降伏した件の、駕洛国の新羅侵入部分だけを誇張したものか、永楽6(396)年の高句麗好太王の三韓遠征で、ここの征服者好太王を神功皇后に置き代えたものと考えている。
碑文の倭は百済や任那加羅の軍と協力して戦い、しかも高句麗領域の帯方界や新羅城に深く侵入して高句麗軍が5万の歩騎を動員して初めて撃退することができたほどの強力な軍隊の保持者であった。
碑文の中の倭の実体は、任那加羅を中心とする加羅族の集団で、この中に大和倭も少数含まれていたのだろう。
崇神天皇をはじめ、いわゆる河内王朝と呼ばれるものは、駕洛国王朝をトレースしたようなものになっている。
崇神天皇の諡号は、御間城入彦五十瓊殖尊と記して、ミマキ-イリ-ビコ-イニエと読まれたが、ミマキは、倭の宗主国である駕洛国の金官城を指し、イリビコイニエは「駕洛国に天下った偉大な主君」、すなわち駕洛国初代の金首露王を指す。
『日本書紀』の紀年を日本の学者たちも600年引き上げたものとしているが、『日本書紀』の倭国史は加羅(伽耶)族史にほかならず、『日本書紀』の紀年は『三国遺事』「駕洛国記条」をもとに直すべきだと思う。
だとすると神武天皇から欽明天皇が即位した531年の実歴年は、駕洛国の建国年である42年から531年までの実際の歴年である490年に当たるはずで、『日本書紀』における倭国の歴年は欽明天皇の実際の即位年である531年からすると701年を引き上げたことになる。
これに神武王朝の約80年間を仮に駕洛国の出自である弁韓の狗邪韓国の歴年の混同とみなすと、加羅族史上からは621年を引き上げたことになり、日本の学者たちの600年引き上げ説と一致する。

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  1. 2011/01/30(日) 07:00:35|
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パソコンのサイトを開設しました。

cloud

NECが中国のレノボと合弁会社を設立するとか。NECとはPC9801が出た82年からのお付き合い。
レノボは存じませんが、IBM ThinkPadなら弁当箱と呼ばれた95年の345CSから何台か乗り換え使っていました。

OSはDOS、Windows3.1、95、98、98SE、Me、2000、XP、Vistaは遠慮して64bitの7、と一通りMicrosoft OSを経験して、現在は2年前に組んだデスクトップにXPと7を入れて、古いノートにはUbuntuを入れて遊んでいます。

プログラムを組むほどの力量もなく、只々、このやっかいな道具と長く付き合って、少しは知恵がつきました。
そこで、皆様のお役に立つことがあればと、パソコンのサイトを作ってみました。

今流行のクラウドの利用法と、ブログに関すること等・・・、
このブログのコメント欄にご質問頂ければ、出来る限りお答えさせて頂きます。

まだ名前もつけていませんが、まずはこちらから。









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  1. 2011/01/30(日) 00:05:04|
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これから始めるクラウド入門


これから始めるクラウド入門 2010年度版 (ブルーバックス)これから始めるクラウド入門 2010年度版 (ブルーバックス)
(2010/09/22)
リブロワークス

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これまでは1台のパソコンにソフトウェアもデータもすべて詰め込んで使うのが普通でした。
しかし、それではすべてを詰め込んだパソコンが手元にないと仕事ができいという問題を抱えていました。
クラウドコンピューティングではソフトウェアもデータも、必要なものはすべてインターネット上にあります。
インターネットの「雲(cloud)の中」でコンピュータの操作を行うのです。
実際の操作は、Internet ExplorerなどのWebブラウザを窓口として行います。
つまり、Webブラウザを使って、インターネット上で企画書や見積書を作成したり、メールのチェックをしたりできるのです。 
携帯電話や、近年注目を集めているiPhone、Androidなどのスマートフォンも、Webブラウザを使って、クラウドコンピューティングができます。
簡単に持ち運べる端末でパソコンと同じ情報にアクセスし、出先でメールやスケジュール、必要な文書などをチェックしたり、後で読み返すためのメモを取ったりといった作業を行うことができるのです。
Googleのクラウドサービスは、メール「Gmail」、スケジュール管理「Googleカレンダー」、文書作成「Googleドキュメント」と、クラウド初体験に最適です。
人気のノート系クラウド「Evernote」を使って、日々接するさまざまな情報を記録します。
MS-Officeで作成した文書も、「Office Web Apps」でWebブラウザから編集できます。
インターネット上にファイルを保管して、どこからでも利用できるようにしたり他の人に送ったりできるのがストレージサービスです。
Dropbox」は、特定のフォルダにファイルをドラッグ&ドロップするだけで、自動的にサーバコンピュータと同期されます。
ファイル転送サービスの「宅ふあいる便」は、一度に転送できるサイズは50~100MBと大きいほうではありませんが、安定した機能を無料で提供し続けています。
「するべきこと」を整理するToDoリストの「remember the milk」で、いつでもどこでも確認できるようにします。
有料ですが、クラウドを使って、Faxの送受信や印刷もできます。
PamFax」は、Webページ上でFaxの送受信操作を行えるインターネットFaxサービスです。
送りたい文書をPDFファイルにしてアップすると、送信先のFax機にプリントされ、Fax機から受信するときは、自動変換されたPDFをダウンロードします。
セブンイレブンのマルチコピー機は、インターネット上にアップロードしたPDFやMS-Ofnceのファイルを印刷することができる「ネットプリント」で、24時間いつでも全国の店舗で印刷できます。

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  1. 2011/01/29(土) 07:00:03|
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平清盛福原の夢


平清盛 福原の夢 (講談社選書メチエ)平清盛 福原の夢 (講談社選書メチエ)
(2007/11/09)
高橋 昌明

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治承4年(1180)6月2日の明け方、安徳天皇以下の一団が、歴史に倦み疲れた平安京を離れ福原に向かった。
世にいう福原遷都である。
随行メンバーは、天皇の行幸に必ず供せねばならない近衛大将の実定を除けば、清盛と時子の一族及び清盛の眼鏡にかなった梶近の公卿・殿上人、最低限必要な儀礼・実務の官人たちだった。
それでも天皇の行幸ともなれば、相当数の邸宅・宿所が用意されていなければならない。
安徳天皇は平中納言頼盛の家、高倉上皇が清盛の別荘、後白河法皇は平宰相敦盛の家、摂政基適は安楽寺別当安能の房と決まっていたが、宿所は始めから足りず、あぶれた人びとは「道路に坐すが如し」のありさまだった。
4日夜になると、安徳は清盛の別荘、高倉は頼盛亭へと入れ替わり、以後「禅門の家」が「内裏」あるいは「皇居」と呼ばれるようになる。
福原への行幸は平安京を出た上で新都建設の具体的な検討を始めるという、まことに乱暴・唐突なものあった。
また、造都の候補地は福原の南方「和田の松原の西の野」(現在の神戸市兵庫区南部・長田区一帯)で、正確には和田京遷都計画と呼ぶべきであろう。
造都計画は、7月中旬には、「福原をしばらく皇居となすべし、道路を開き通し、宅地を人々に給ふべし」と、福原を天皇の暫時の滞在地と定め、それに必要な都市域の整備を行う方針に切り替えられてゆく。
遷都の計画がこのような準備不足を露呈したのは、清盛が安徳の即位をもう少し後に予想していたのが、予想をうわまわる後白河院勢力の結束と清盛への反発力にあったと思われる。
その後7月下旬から8月中旬まで、安徳天皇の大嘗会を平安京でやるか福原でやるかが厳しく議論され、清盛は、和田京頓挫の後福原を整備して居座るという現実路線を採用し、この地で大嘗会を行うことで、なんとか遷都を既成事実化しょうとし、高倉上皇は遷都に見切りをつけ、離宮でよい、大嘗会も延期と考えるようになっていた。
結局、天皇の命による公的な建設でなく、清盛の作事という私的な形で実質的に内裏建設を進められる。
大嘗会延期決定後の8月17日伊豆で頼朝が挙兵し、9月には信濃で義仲が、また甲斐で武田信義が挙兵し、内乱は一気に全国化してゆく。
それでも内裏の新造、都市整備と、福原を新都とする既成事実は積み上がっていくが、内乱の広がりは予想以上で、10月熊野で前別当湛増の反平家の挙兵があり、頼朝も房総半島から鎌倉に入り、事態は悪化の一途をたどる。
東海道一帯が急速に源氏の勢力圏に入ってゆく事態に、11月12日、ついに清盛が都帰りに同意する。
11月23日夕方、小雨そぼ降る、中安徳天皇の輿に徳子が同座し、都帰りが開始され、29日には清盛も引き上げ、かくして新都にかけた夢は約170日間で潰え去った。


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  1. 2011/01/28(金) 07:00:06|
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海軍グルメ物語


絶品!海軍グルメ物語 (新人物往来社文庫)絶品!海軍グルメ物語 (新人物往来社文庫)
(2010/12/08)
平間 洋一、高森 直史 他

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平間洋一 糧食と調理の変遷

明治13(1880)京城事件に出動した5隻の艦艇に脚気患者が多発し戦闘能力が発揮できず、さらに明治15~16年の「龍讓」の遠洋航海では、3170名中169名が脚気となり25名が死亡した。
衝撃を受けた海軍は、明治15年から脚気防止の研究を始めた。
米食からパン食に改変して、明治17年の遠洋航海で、「筑波」に「龍讓」と同じ航路を航海させたところ、乗員280人中脚気患者は16名という成果を得た。
これを受け海軍では、明治17年に兵員一日の食品摂取量を定めた「標準食料表」を定め、脚気撲滅のために米を副食として減量し、航海中は毎食「乾麺麵」とよばれるビスケットとし、「牛乳を飲め」「肉を食べろ」、「パンにはバターを塗れ」と指導した。
しかし、肉食の習慣がない農村出身の兵士には肉やパンの食べ残しも多く、帝国議会で非難されてた。
一方、海軍は脚気問題に加え、外国人の身長で設計された外国製の軍艦や武器に直面しており、兵士の体位向上が必要不可欠であった。
明治23年(1890)2月に「海軍糧食条例」が出されると、海軍は「海軍糧食経理規定」を定め、下士官や兵の食事を現物支給に改め、甲食(航海艦船糧食)乙食(陸上及び停泊艦船糧食)丙食(監獄食)の3種の兵食を制定し、この規程は昭和6年まで続いた。
当時、脚気は国民病といわれ、政府も明治10年(1877)には脚気病院を設立し、洋学医や漢方医を集めて対策を研究していた。
海軍軍医総監高木兼寛は、なぜイギリスの軍艦に脚気患者がなく、日本の軍艦に多いのかを追求し、「食事・栄養説」を唱え「兵士にパンを麦飯を」と主張した。
陸軍軍医の森林太郎(鴎外)は明治18年に『日本兵食論大意』を書き、米飯・魚・豆腐・味噌の組み合わせで、タンパク質や脂肪は充分に補えると批判。
依然として、陸軍は前線の兵士に白米を送り続け、日清戦争では戦死者1,270名に対し、3,944名を脚気で失い、日露戦争では22万1,600余名が脚気にかかり、2万7,800余名を失った。
明治43年には鈴木梅太郎がオリザニン(ビタミン)を発見し、高木の栄養説は世界の趨勢となっていたが、背景には「臨床医学・予防医学・栄養学」などを重視する実証的なイギリス医学の海軍と、「細菌学・病理学・薬学」などを重視する学術的なドイツ医学の東京大学や陸軍との対立があった。
陸軍では、白米飯は庶民のご馳走で、麦飯は貧民の食事とされた世情を無視できず、死地に行かせる兵士に、白米を食べさせたいという心情があったともいわれている。
海軍は昭和6年(1931)3月に海上・陸上に関係なく生糧品を主とした基本食に改定し、状況に応じて増加食と特殊糧食を追加し、さらに柔軟に各地の食材を利用するため、詳細な食品交換表を制定した。
しかし、終戦15日前の8月1日には、海軍次官から「主食品節減並ニ備蓄ニ関スル件」が出され、生存し得る程度にまで減らされて、ただ食い生きるだけの海軍になっていた。



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  1. 2011/01/27(木) 07:00:43|
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海岸線の歴史


海岸線の歴史海岸線の歴史
(2009/05/01)
松本 健一

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江戸末期、江戸、大坂、京都が百万人郡市になってくると、米も各地の物産も大都市に集中せざるをえなくなった。
古代にあっては葦の繁茂した浅い港であった難波潟は、淀川を利用して京都とつながっていたため、堀を掘って水路を造り、町を広げていった。
しかし、北前船のような大船は、難波潟には直接出入りできないので、北前船の発着港は兵庫になってしまう。
現在、地図上で兵庫第一突堤と表記されている場所がかつての兵庫港で、福原町という、平清盛が郡にしようとして開けた土地である。
しかし、この兵庫港はあまり水深が深くなかったため、喫水の深い洋帆船や蒸気軍艦が外洋から入ってくるようになると、もっと深い神戸港が幕末から使われるようになった。
日本では、江戸時代から長い年月をかけて、米づくりのために、全国各地で干拓と水田づくりが進められた。
米づくりは藩国経営の基本であるから、それができる地域では、どこでも防風林、防砂林、防潮林の役目をする松が植えられ、白砂青松の風景が生み出されたのである。
松林が植えられたから砂浜がつづくのである。
日本全土でつづいていた白砂青松の風景は、実は、松林によって守られていたのである。
かつて日本人は、白砂青松の風景が続き、「松原遠く」に海を眺め、そこに白帆が浮かぶ風景を持ってきた。
それが近代の都市生活によって海から遠ざかった。
テトラポットはコンクリートの防波堤を強い波から守るが、松原が穏やかに続いているような海岸線に敷設されると、波が引いていくときに砂を運び去ってしまう。
砂浜が消失した代表例が、房総半島の九十九里浜で、わずか20~30年のあいだに消失してしまった。
現代の日本は海辺の代わりに学校にプールを造ることによって、子どもたちに学校や公営のプールなどで水泳をさせるようになった。
いや、お台場や千葉の海辺でさえも、人工的に造られるようになった。
海水浴や潮干狩のために人工的に砂浜を造るわけだ。
近代にあっては、海岸線が防衛の拠点になり、貿易用の港湾になり、あるいは現代の産業の場所になった。
ところによっては、原子力発電所がその海岸を占有することになった。
その周辺には放射能漏出を恐れて、人を住まわせないから、昔どおりの自然が残される、という逆説も生まれるわけだ。



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  1. 2011/01/26(水) 07:00:46|
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木村庄助日誌


木村庄助日誌―太宰治『パンドラの匣』の底本木村庄助日誌―太宰治『パンドラの匣』の底本
(2005/12)
木村庄助 著、木村重信 編

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木村庄助は昭和18年5月13日に死亡した。
彼は昭和15年4月の「文藝」に掲載された、太宰治の「善蔵を思ふ」を読んで感動して、太宰に手紙を出して、文通が始まった。
自らの小説を送っていたようで、太宰の書簡を見せられたことがある。
兄の遺言は、日誌を太宰に送るようにとのほかに、なにもなかった。
私は12冊の日誌を荷造りして、発送した。
A5判大学ノートの数冊分をまとめて、京都の丸善で製本したもので、厚さ約3cmの、クロス張りの厚手表紙をつけ、背には短い語句と番号が印字されている。
未使用の巻十三は「虹に臥す」と題されていたが、これは私が貰って日記帳とした。
戦後、大学で美学を学んでいた私は、未亡人の津島美知子さんに、その日誌を返してほしいとお願いしたことがある。
その返事は、空襲で家が焼けた際、太宰の思い出に連なるものは、庄助日誌くらいなので、暫く預からせてほしいとのことであった。
平成3年、長女の園子さんから3冊(巻四〈一部欠落〉、巻五、巻九)が送り返されてきた。
多くの研究者が書いているように、この庄助日誌をもとにして、太宰の『パンドラの匣』が書かれた。
昭和16年8月15日から12月26日までの、大阪府の孔舎衙健康道場における、結核の療養日誌を底本としている。
本書は、背に「太宰治を思ふ 巻九」と金色で印字された日誌の、健康道場時代の後半を収録する。
前半を収める巻八は焼失して、現存しないからである。
執筆には種々の困難が伴ったようで、「毎日、割合に長い日誌を書いてはゐるが、しかし、また、大変乱れたものばかりを書いてもゐる。それは、人眼を盗んで、大急ぎで、こそこそ書くからである。」と、小さい字で紙面いっぱいに書かれ、加筆や修正はきわめて少ない。
編集に際しては、校正は私と弟の歌人木村草弥とがおこなったが、現在では死語になった言葉や言い回しが散在し、変体仮名がまじり、さらに読点が非常に多くて、難儀した。
それにしても、忽々に走り書きされ、修正や加筆がほとんどないにもかかわらず、文章が整っていることに驚く。
庄助は「この第九冊目は、単なる覚書に過ぎないと思ってゐる」というが、やはり日頃の修錬と自伝風の小説を意図したことが作用しているのだろう。


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  1. 2011/01/25(火) 07:00:42|
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探求 太宰治


探求 太宰治―「パンドラの匣」のルーツ 木村庄助日誌探求 太宰治―「パンドラの匣」のルーツ 木村庄助日誌
(1996/12)
浅田 高明

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敗戦直後の昭和20年秋、津軽出身の作家太宰治が仙台の日刊紙・河北新報に書いた連載小説の舞台モデルが東大阪に実在する。
昭和12年ころから17年秋まで、「孔舎衙健康道場」と称した結核療養施設だ。
京都府綴喜郡青谷村(現・城陽市)に住む、熱烈な太宰ファンの木村庄助青年が結核を病み、昭和16年8月から年末にかけて、この健康道場へ入院した。
一旦軽快、退院したが再発し、最後は他院で療養中に自殺した。
遺言により、彼から送られた療養日誌に基づき、昭和18年秋、太宰は、木村氏の孔舎衙での入院生活を主題にした小説『雲雀の声』を書き上げたが、時局柄出版できず、戦後『パンドラの匝』として発表した。
この新旧両作品の比較、そしてモデル問題の研究は手付かずであったが、最近、津島美知子未亡人から庄助氏の実弟木村重信氏のもとに、50年ぶりに日記帳の1冊が戻ってきた。
未亡人は、著書『回想の太宰治』中で「太宰のもとに届いたときは、10冊位あったが、私どもの疎開中に散佚して、いま私の手もとには3冊しか残っていない」と述べておられる。このたび返されたのは全12冊中の第9冊目、「太宰治を思ふ 巻9」だった。
「木村日誌」の所々に見られる「野望」と「献身」の字句から想像しても、その大半を占める明るさみなぎった文面が、果たして木村氏自身の日々の実生活の叙述と見做してよいものだろうか?
実際、「日誌 巻九」の初日、9月12日に、「これからは、私は、出来るだけ、元気になって、朗らかになって、莫伽にもなって、そして、馬鹿騒ぎをするのである。本心は隠して、嫌ひな人にも、人懐っこい對度を見せるのである。」と書いている。
太宰治に心酔し、その文学を愛好した木村氏故、あるいは彼も自ら道化の生活を演技し、時には虚構のシナリオを綴ったとしても別に不思議ではない。
分厚い表紙の本格的に製本された1冊数百頁に及ぶ全12冊の日記帳は、その量と体裁において、まさに作家の個人全集にも匹敵する。
昭和18年秋、木村氏から遺贈された療養日誌中、特に「孔舎衙健康道場」での明るさに満ちた文面を読んだ太宰治は、その木村氏の意を体し、鎮魂の思いを込めて直ちに小説『雲雀の声』の執筆に取り掛かった。
きっと太宰治は、一条の光明を頼りに、青春の一時をけなげに、精一杯生きた木村氏の姿に感動し、暗鬱な戦時中の己の姿をかいま見、かつ鼓舞されつつ、小説を仕上げたにちがいない。
やがて木村氏はひっそりと毒をあおって自らの若い生命を断ち、太宰またその後を追うがごとく、戦後間もない玉川の水中に身を投げて逝ってしまった。
木村庄助氏と太宰治は、きっと「一日一生」の峻烈なる精神の高まりと「可惜即今時」の切なる心魂の叫びとを、純粋の献身へ凝縮、昇華させ、その厳粛なる死をもって、未来永劫、永遠不滅の人間を完成させたのではなかったろうか。


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  1. 2011/01/24(月) 07:27:50|
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東京発掘物語


東京発掘物語東京発掘物語
(2009/11/21)
里山 春樹

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一般的に考えられている遺跡発掘調査のイメージは、手に持ったハケで土器の表面を椅麗にするような仕事と思われています。
実際の発掘現場ではハケは滅多に使いません。
初日はユンボで表土掘削をして表土を剥がし、調査面の頭(一番上の層)が出てくるまで掘り下げます。
ユンボで調査対象外の土を剥がしていって、そこから出てくるゴミ穴(撹乱・後世に掘り返されたり、ゴミや瓦礫の詰まった穴のこと)を、エンピ(一般にいうスコップ)で掘り抜いていきます。
ジョレンは畑を耕す鍬に似た道具で、鍬よりも幅広の刃が付いています。
丁寧にジョレン掛けして、その上を注意深く見ていくと、土の色の違う部分が見つかります。
ジョレンやエンピで掘っていると、小指の爪の半分程の小石をかすめても解るので、石器製作の過程で出る剥片も全て広義の石器とみなし、一点ずつラベルをつけて取り上げます。
遺跡が出てしまうと工事がストップして家も道路も造れなくなり、大変なことになるといったイメージが浸透しています。
俳優のKさんが新築の家の下から遺跡が出てしまって工事がストップしたと、TV番組内で迷惑そうに話しているのを見たことがあります。
新築工事や建て替えをする際に、地面の下の遺跡調査をしなければならない場所はたくさんあります。
その場所が遺跡の範囲内に入っている場合です。
Kさんはそのことをご存じなかったのでしょう。
それに、自分の家の下に何が埋まっているのか、どんな人の暮らしがあったのかが明らかになるのは楽しいことだとも思うのです。
私などは、「最近は埋蔵文化財に携わる仕事もしております」などと澄まし顔で云っています。
「本業だけでは生活が苦しいので、副業で遺跡発掘の作業員もしております」というのとでは雲泥の差です。
私もいつか黄金色の小判を見てみたい気持ちはありますが、発掘は埋蔵金探しではありません。
出土した遺物のひとつひとつが語りかけてくれる物語こそが歴史のロマンだと思うのです。

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  1. 2011/01/23(日) 07:00:44|
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