続・竹林の愚人 2011年02月

硫黄島 栗林中将の最期



硫黄島 栗林中将の最期 (文春新書)硫黄島 栗林中将の最期 (文春新書)
(2010/07/20)
梯 久美子

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24歳のウォレン・アール・ヴォーン少尉が乗っていた戦闘機が被弾し、父島で捕虜になったのは、隣の硫黄島に米軍が上陸して5日目、昭和20年2月23日のことである。
3月17日に海岸にある魚雷艇隊に連行され、米軍の砲弾によってできた穴の縁にひざまずかされ、百名以上の将兵の前で斬首された。
軍医が肝臓と肉を切り取り、海軍の厨房で調理され、その夜、食堂で将兵たちに供された。
一連の行為を命じたのは、父島海軍通信隊長、吉井静雄海軍大佐だった。
人肉食の犠牲になった捕虜は陸軍によるもの3名、海軍によるもの2名である。
混成第一旅団長の立花芳夫少将(のちに中将)と、第308大隊大隊長、的場末男少佐は飲み仲間で、陸軍の捕虜殺害と人肉食の中心となったのは的場少佐だったようだ。
吉井大佐が部下たちに捕虜の肉をふるまっていたちょうどその頃、硫黄島では、最高指揮官・栗林忠道中将が、部下たちと別れの盃を交わしていた。
硫黄島の戦いは、凄惨で悲劇的ではあるけれども、日本軍にとって恥じるところのひとつもない、見事に英雄的な戦いであった。
そんな戦いが行われていた同じ時期に、父島の事件は起こったのである。
栗林中将が最後の突撃命令を下した3月17日以後、硫黄島からの通信は途絶え、大本営は21日、硫黄島守備隊は全滅したと発表する。
だが、23日午後5時、暗号を使用しない生文で、〈父島ノ皆サン、サヨウナラ〉に続けて次々と部隊や個人の殊勲上申の電文を送ってきた。
戦闘が始まって以来、栗林は、部下の殊勲を念入りに調べ、こまめに上申していた。
降伏後、父島に進駐してきた米軍が最初に行ったのは、捕虜に関する調査である。
米軍は表向き友好的で、日米合同の夕食会や映画会なども行われたが、一方で戦犯問題に関する徹底的な調査が進められ、証拠固めがなされていた。
昭和21年4月6日、戦犯容疑者25名と証人45名がグアムに送られた。
グアム裁判は、米軍によるBC級戦犯裁判の中で唯一、海軍による法廷だった
ハーグでもジュネーブでも敵の遺体を食べた犯罪例はなく”遺体に対する適正な埋葬を怠った”罪状を該当させた。
いったいなぜ、人肉食という異常な行為が行われたのか。
父島には当時、十分な食糧があり、飢えのためになされた行為ではない。
3人の法廷での言動は対照的で、旅団長(のちに師団長)だった立花中将は、すべてを否定し、何も知らなかったと主張した。
的場少佐は、最初は部下がやったと主張したが、やがてすべてを認め、宴会の様子なども詳しく供述した。
吉井大佐は、戦意高揚のために命じてやらせたもので、部下には一切罪はないと言い続けた。
そして、米空軍の無差別爆撃を非難し、戦勝国アメリカの批判を展開した。
吉井は絞首刑を宣告されたが、部下は全員、有期刑で済んだ。
陸軍が、立花、的場のほかに、2人の絞首刑と4人の終身刑を出したのとは対照的である。
グアム法廷は、できる限り公正に日本人被告を裁こうとした。
だが、当局は見て見ぬふりをし、立花と的場は処刑の前夜に惨虐を加えられて刑死した。
米側の検事が言うところの「日本軍の悪魔性を象徴する犯罪」を犯した「非人間的な野蛮人ども」は、こうして復讐されたのである。
安全な父島から指揮をとることを拒み、米軍上陸が予想される硫黄島にみずから赴いた栗林は、最前線で2万の兵をひきいることで軍人としての死に場所を得た、ということもできる。
戦犯として処刑された吉井大佐もまたこの戦争に勝ち目はないと知っていた。
吉井大佐が最後に戦った戦場は法廷であった。
罪を犯した事実は消えないが、最後まで軍人として生き、死のうとしたといえるのかもしれない。



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  1. 2011/02/28(月) 07:00:53|
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科学の偉人伝

おとなの楽習 科学の偉人伝 (おとなの楽習シリーズ)おとなの楽習 科学の偉人伝
(2010/09/16)
白鳥 敬

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ハッブルは、宇宙が膨張している証拠を初めてつかんだ天文学者です。
ハッブルが、1919年にウイルソン山天文台で本格的に天体の研究を始める2年前に、同天文台に口径2.5mの巨大な反射望遠鏡が設置されました。これは当時、世界最大の口径を持つ望遠鏡でした。
ハッブルは、この巨大望遠鏡で、星雲(nebula)と呼ばれるぼんやりと微かに光っている天体を観測しました。
当時、ケフェイド(ケフェウス型)変光星という、変光周期と明るさ(絶対等級)の間に一定の関係のある星が知られ、この星の光度変化の周期と光度(実視等級)が分かれば、その星までの距離を知ることができます。
1923年、ハッブルはアンドロメダ銀河の中に、ケフェイド変光星を見つけ、変光周期と光度変化から、アンドロメダ銀河までの距離を約90万光年と見積もりました。
これで、アンドロメダ銀河は私たちの銀河系の外にあるということが分かったのです。
彼は、ケフェイド変光星を利用して銀河系の外にある18個の銀河までの距離を測り、さらにスペクトル写真を撮ってみたところ、スペクトル線が通常よりも赤、つまり波長の長いほうにずれていることを発見しました。
スペクトル線が赤のほうにずれることを「赤方偏移」といい、この値を調べたところ、遠方の銀河ほど速い速度で遠ざかっていることが分かりました。
詳しく観測したところ「銀河の遠ざかる速さと銀河までの距離は正比例する」ことが分かりました。これがハッブルの法則です。
遠い銀河ほど速い速度で遠ざかっているということは、宇宙が膨張していることを示しています。
膨張しているということは、時間を逆回しすると、宇宙はどんどん小さくなっていって最後は一点に凝縮されると考えることができます。
宇宙の全質量が小さな点になるのですから、ものすごい高温の状態になります。
ジョージ・ガモフはこのように考えて、宇宙は火の玉から始まったとする火の玉宇宙論を唱えました。
ガモフは宇宙誕生時にビッグバンという大爆発があったとすると、そのときに出た光が宇宙の膨張とともに波長が伸びて長くなり、宇宙のいたるところから放射されているように見えるのではないかと考えました。
これを宇宙背景放射(宇宙マイクロ波背景放射)といいます。
1964年、ベル研究所のアーノ・ペンジアズとロバート・ウイルソンは、マイクロ波アンテナのテスト中、正体不明のノイズに悩まされていました。
2人は、ノイズを詳しく調べて、ノイズと考えられていた電波は絶対温度3Kに対応する波長7cmの電波で、宇宙のどの方向からも均等にやってきていることを発見しました。
これが、ガモフが予言した宇宙背景放射でした。
ペンジアスとウイルソンは、宇宙背景放射の発見によって、1978年にノーベル物理学賞を受賞しています。
宇宙背景放射はその後、人工探査機によって宇宙空間からより精密に観測されるようになり、ビッグバンはいまから約137億年前に起こったこと、宇宙は永遠に膨張を続けることなどが分かりました。

 

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  1. 2011/02/27(日) 07:00:15|
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星から宇宙へ

 
星から宇宙へ星から宇宙へ
(2010/08)
青木 和光

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超新星探しは、天文愛好家にとっては魅力的なチャレンジとなっています。
少し前までは年に20件ほどの発見でしたが、最近は観測効率が上がり、年に何百例も見つかっています。
しかし、これらは遠くにある銀河の中での爆発です。
私たちの太陽系のある銀河系では、100年に度の頻度で爆発が起こるとみられています。
古い記録にも超新星とみられる記述があり、西暦1054年に中国や日本の文献に明るい天体が現れたとの記録があります。
この方角には、かに星雲という天体があり、日本では藤原定家が『明月記』に伝聞として書きとめています。
ヨーロッパでは天文観測が行われた16、17世紀に記録があり、今では観測者の名前をとってティコの超新星、ケプラーの超新星と呼ばれています。
その後の観測では、今に到るまで銀河系内での超新星は目撃されていません。
しかし、方向によっては塵が濃いので光を吸収して、爆発があっても観測できなかったでしょう。
幸い、1987年に、銀河系のお供の小銀河である大マゼラン星雲に超新星が出現しました。
この超新星からのニュートリノという粒子が日本のカミオカンデという施設で検出され、これが2002年の小柴昌俊・東大名誉教授のノーベル賞をもたらしました。

ビッグバン直後の宇宙には水素とヘリウム、そして微量のリチウムしかなく、人体を構成する水や有機物を作る炭素や窒素などは存在しなかったのです。
では炭素や酸素などの元素はどうやって作られてきたのかというと、星のなかで起こる核融合反応です。
太陽のような星は、水素が核融合を起こすことによって新たにヘリウムが合成されます。
やがて星が進化すると、ヘリウムから炭素を作り、そこから酸素を作り……というように核融合の連鎖が起こります。
こうして作られた元素が星から放出され、宇宙のなかに蓄積されてきたのです。
ひとたび太陽系ができてしまうと、その中では新たに元素が作られることはほとんどありません。
では水素とヘリウム以外の重い元素はどこで作られてきたのかというと、質量の大きな星が一生の最後に起こす超新星爆発です。
酸素の大半はこうした大質量星の中で合成され、爆発の際に放出されます。
星は、その中心で水素の核融合反応によって輝きますが、やがて水素から作られたヘリウムが反応を起こして炭素を作り、その炭素とヘリウムから酸素が作られます。
われわれが吸っている酸素のほとんどが太陽系が生まれる前、つまり46億年以上前に誕生し、爆発していった大質量星の中で作られたものなのです。
一方、太陽くらいの質量の比較的小さな星では、水素からせいぜい炭素くらいまでしか作れません。
炭素と酸素の組成比はとても重要で、一酸化炭素は炭素と酸素の原子ひとつずつからなり、広い温度の範囲で安定に存在する分子です。
ですから、それ以外の分子は、CO分子にならなかった原子から作られることになります。
炭素が酸素より少ない場合は酸素が余るので、その酸素が水などになります。
逆に炭素が多いと、シアンやアセチレンといった、炭素を中心とした分子が作られます。
一方、鉄は大質量星の起こす超新星でも作られるのですが、Ia型超新星でも作られます。
このタイプの超新星は、1回の爆発で、太陽の質量に匹敵する量の鉄を放出します。
このように、私たちの体や身の周りのものを形づくる物質は、宇宙の歴史の中で生まれては消えていった星たちによって作られてきたものなのです。

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  1. 2011/02/26(土) 07:00:45|
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ニッポン・スウィングタイム


ニッポン・スウィングタイムニッポン・スウィングタイム
(2010/11/26)
毛利 眞人

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ジャズが社会現象だった時代がある。戦前のはなしである。
ジャズは大正10年代に日本に伝わり、昭和初期の大ブームを経て戦時中にかけて黄金時代を迎えた。ジャズという新しい音楽が出現したとき、人びとはとまといを隠さなかった。
作家の佐藤春夫はジャズの何物たるかがよくわからないまま、「このごろは世の中の何もかもめちゃくちゃだ。音楽のめちゃくちゃがジャズとかいふものださうだが、言葉などもジャズだ。」
そのころ、日本の娯楽の王様は歌舞伎、義太夫であった。
それに対して、新しい芸術、娯楽も台頭した。歌舞伎を旧劇として否定し、欧米の演劇を目指して新劇がはじまった。新劇から島村抱月の主宰する芸術座が派生し、そこから松井須磨子といそして、音楽における和洋の融合のもっとも大きな精華は「浅草オペラ」であった。
義太夫に堂摺連があったように、浅草オペラには 「ベラゴロ」 と呼ばれる熱狂ファンが発生した。
和と洋の違いこそあれ、熱狂の根源が娘義太夫またはオペラ女優の肢体が放つエロチシズムであったことは共通する。
昭和となってからエロチシズムはレヴューに移しかえられた。
川端康成は「浅草紅団」で「エロチシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジャズ・ソングと、女の足とー」と、浅草で大人気のレヴューブームを盛り上げた。
松竹楽劇部レヴュー(松竹少女歌劇団の前身)のジャズダンスなどもスパンコール衣装で激しく肉感的に踊っていた。
ジャズは拒否反応をも引き起こした。
「銭形平次」の野村胡堂や上司小剣はストイックな西洋音楽崇拝者で、ジャズは神聖なるクラシック音楽を汚す低劣な娯楽と決めつけていた。
宮澤賢治は「岩手軽便鉄道 七月」や「ジャズ 夏の話です」で、移ろう気まぐれな心境を疾駆する汽車に乗せてシンコペーションさせている。
詩人で作家の室生犀星は新聞に「ジャズの中」という詩を発表している。
ジャズという言葉が放つ放縦さ、即物主義的なスピード感、華やかさと淫靡さは若い作家に影響を及ぼし、デカダン人士の醸成に一役買った。吉行ヱイスケや龍胆寺雄など新感覚の文士は好んでジャズを作品に取り入れた。
関東大震災でダンス教師やダンスバンドのプレイヤー、上流階級のダンスファンはこぞって関西に移住し、社交ダンスの中心地は神戸、大阪に移った。
ダンスホールは都会のホットスポットになり、音楽もフォックス・トロットのダンス曲から、アドリブ自在のホットなジャズに移り変わっていった。
神戸、横浜のダンス倶楽部で外国人の素人バンドが始めた、日本人プレイヤーたちも気概だけは立派なジャズメンとなっていた。
日本のジャズ・エイジは1925(大正14)年にはじまったと言ってよい。
怜宝塚少女歌劇のオーケストラにいた井田一郎が数人編成の松竹座ジャズバンドを組んで、道頓堀をはじめとする京阪神の松竹座のステージでジャズ演奏をおこない、関西ジャズ界の覇者となる。
ジャズは野火のように道頓堀、千日前から関西一帯に広がったのである。
同じころ、神戸オリエンタル・ホテルにはフィリッピン・ジャズバンドが出演していた。
同時期の東京では、もっぱら素人の編成したジャズバンドが活躍していた。
大阪のジャズバンドは徹底したプロ志向で、服部良一は「昭和初期には大阪の若いジャズ奏者は、争って外人の演奏をまねた。当時のハイカラな大阪の、ちまたの音楽家の胸の底に流れる音楽性の目を聞かせたのである。それは大阪的フィーリングが、ジャズの表現にそのまま乗り移ったかのようであった。」
1925(大正14)年、日本でラジオ放送が開始され、ジャズはより身近な存在となる。
堀内敬三による、せまいながらも楽しい我が家…という「私の青空」のフレーズは人口に膾炙した。

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  1. 2011/02/25(金) 07:18:21|
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リラックス ハック!


RELAX HACKS!RELAX HACKS!
(2010/09/09)
小山 龍介、小室 淑恵 他

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「ハック」という言葉には、コンピュータの「ネットワークに不法侵入する」といった悪いイメージがありますが、もとの意味は「問題をサクッと解決する」ということです。
問題解決のテクニックであるハックを応用しようということから「ライフハック」という言葉が生まれました。
ちょっとした工夫で、生活を、仕事を楽しいものに変えてくれるリラックスするためのハック。
適度なプレッシャーは人の成長に欠かせませんが、プレッシャーをストレスではなく、楽しみに変えるのです。
月曜日、会社に行くのが憂鬱になるのも、そこにやることがたくさんあるからです。
そこでおすすめしたいのが、インボックスゼロ(受信箱をゼロにする)という仕事術です。やり方は簡単で、業務を完了したメールをすべて「完了」フォルダへと移動させるだけ。
受信箱には、これから返信しなければならないメールだけが残るようにする。
やるべきことの全体像が見えていれば、「これだけやれば大丈夫」というリラックスした状態になるのです。
メールと同じようにTODO管理もまた、リラックスの敵。
TODO管理で重要なことはTODOを漏れなく管理することですが、それとセットにして実行すべきルールが、できるだけTODOを減らすということ。
そのためには、「2分でできることであれば、すぐにやる!」ことが重要です。
「2分でできることはすぐやる」とルール化すると、TODOがたまることもなく、リラックスした気持ちで仕事を進めていくことができます。
書類の作成も一から作っているのでは、2分で作ることは難しいですが、事前にひな形を作っておけば、2分で作れる書類はどんどん増えていきます。
メールも同様で、決まりきった内容のものはテンプレートで使い回します。
もうひとつイライラさせられるのが書類整理です。
野口悠紀雄さんの『「超」整理法』の「押し出しファイリング」で書類は分類をせず、そのまま時系列に並べていく。
使用したら、一番手前に戻し、使わないファイルを押し出していく方法です。
このワンポケットの原則は、さらにノートにも当てはまり、一冊にまとめる。
検索が難しい点は「日付を記入する」というハックで対処しています。
パソコンの中のファイル管理も、手軽にストレスをなくす管理方法が、「古いものはアーカイブフォルダにまとめて入れる」というもの。
パソコンのデスクトップも、できるだけスッキリさせます。
使い終わったらとにかく、マイドキュメントに放り込む。
これだけで、パソコン仕事が劇的にスッキリします。 
あとはファイル名のルールを「プロジェクト名+ファイル種類+日付」に統一しておけば、完壁です。


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  1. 2011/02/24(木) 07:00:04|
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習合思想史論考


習合思想史論考習合思想史論考
(1987/11)
村山 修一

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日本の薬師信仰

歴史的にももっとも古く、かつ上下の階層を問わず普遍的なものは薬師信仰である。
古代末中世初頭以降、盛んとなったのは弥陀信仰で、浄土宗・浄土真宗・時宗・融通念仏宗などの日本的宗派が成立し、宗派教団が西方浄土の信仰を普及させた。
ところが薬師信仰からは独立の宗派教団は生れず、むしろ教団的布教を超えた民族的な習俗の中で広まった。
薬師如来の利益は『薬師如来本願経』に続命法すなわち延命の呪法がのべられ、そこに現世信仰を基調とする日本人は魅せられた。
飛鳥より奈良朝にかけての薬師信仰の模様は、用明天皇御悩平癒のために造られた法隆寺金堂安置の作、同様聖徳太子のための法輪寺金堂安置の作、天武皇后(後の持統天皇)のための薬師寺金堂安置の作が古来有名である。
天平16年(744)、17年には、聖武天皇不予により薬師悔過の法が行われるに至り、新薬師寺が創立されている。
薬師寺の景戒の『日本霊異記』をみると薬師信仰が上層階級に限られていなかったことがしられる。
奈良仏教には、薬師経はどの宗派の経典でもなく、薬師信仰は別なところで成立していた。
病気平癒・長寿延命の呪法が世人の関心をそそり、階級の如何を問わず受け入れ易いところがあった。
最澄・空海は、前者は釈迦如来を本尊に法華経を、後者は大日如来を本尊に大日経・金剛頂経を中心とする信仰をもって、すべての人が平等に解脱し成仏する道を説いた。
空海は高野山に講堂(現金堂)を建て、その本尊に阿閦(あしゅく)如来を安置したが、この如来は薬師如来と同体と考えられ、天治元年(1124)の『白河上皇高野御幸記』ではこの堂を薬師堂と呼んでいる程である。
また最澄も延暦7年、比叡山に延暦寺の一乗止観院(根本中堂)に、虚空蔵尾という倒木に自ら刻んだ薬師如来像を安置した。
公家貴族が競って私寺建立をはじめた9世紀から薬師像や薬師堂の道立は増加し、一家一門の安泰祈願の中心たる観をみせる。
とくに藤原氏は圧倒的な権勢の下に豪華な私寺を営む。
忠平の法性寺は延長2年(924)頃、いまの東福寺の地域に創建され、本尊毘慮遮那仏の前に銀製の薬師如来像が安置され。
道長の法成寺は、いまの京都御所の東、道長の豪壮な土御門本邸に接近した地域に、万寿元年(1024)3月に阿弥陀堂を中心に、南北15間に達する薬師堂が建立された。
東寺・西寺では、空海の要請により天長4年(827)より両寺各々49人の僧を招き、正月に薬師悔過の行事がはじめられ、以後恒例的につづけられた。
鎌倉期に入ると、生死の境を彷律する武士の救済者として武家社会の尊崇をあつめた。
中世、薬師信仰はまた行基の信仰とも結びついて発展し、摂津国昆陽寺は『古今著聞集』に行基が薬師の像をつくり創建したとある。
このように薬師信仰が俗化した背景として考えられるのは神仏習合思想の流布である。
本地垂迹は法華経にとかれているが、仏家はこれを神仏関係に転用し、仏を永遠なもの(本地)、神祇を権に日本人教化のため現われたもの(垂迹)とし、中世を通じ神仏は同体とみる思想が一般化した。
ことに平安朝、神祇界に新しく進出した仏教(密教)色の強い神はもっとも早く本地仏をつくり出し、八幡の神は弥陀、北野の神は観音とされ、祇園では薬師を本地とした。
祇園の祭神牛頭天王は、インドの疫神が災厄除去の信仰と習合して、中世には素箋鳴尊と同一視される。
中世、七仏薬師巡礼が盛んとなり、京都では太秦広隆寺・延暦寺根本中堂・蓼倉法雲寺・六道珍皇寺・八幡護国寺・祇園社・因幡堂が選ばれた。
このうち因幡堂は、室町初期、平家語りの盲人が参籠して開眼し、『やすだ物語』を十二段にして語り、「浄瑠璃」と称し、東国に下って語り広められ、遂には人形浄瑠璃へと昇華する。


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  1. 2011/02/23(水) 07:57:44|
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習合思想史論考


習合思想史論考習合思想史論考
(1987/11)
村山 修一

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吉田神社と吉田神道

藤原山蔭が貞観元年4月、藤原氏の氏神である春日神を神楽岡西麓に勧請した。
山蔭の孫時姫が関白兼家に嫁し、生れた詮子が一条天皇を生むと、奈良の春日社、乙訓の大原野社と合わせて氏の三社と称せられ、長暦3年(1039)より二十二社の中に入り、春秋二季の祭りは吉田祭として都民に親しまれるようになった。
社家である吉田家は系図が偽作されているが、9世紀中頃、伊豆国の卜部の出身である平麻呂が遠祖であることは信じてよい。
平麻呂は、天安2年(858)には神祇権大祐外従五位下の地位にあって宮主に任ぜられたことが『文徳実録』に見える。
『延喜式』は追儺の祭りで陰陽師が読む祭文に、天曹地府の陰陽道諸神をまつる旨を述べており、その祭事に陰陽道的要素が含まれているが、平麻呂も承和6年(839)8月、遣唐使とともに大陸に渡って、新しい陰陽書をわが国に伝えたと思われる。
平麻呂は晩年平野杜預を、その孫兼延は吉田神社の預をも兼ねた。
吉田兼燕・兼敦父子の日記『吉田家日次記』によると、平麻呂5世の孫兼忠から嫡男兼親が吉田社家、次男兼国が平野社家と分かれ、鎌倉時代には平野流卜部氏が古典学者の家として名をはせ、吉田流卜部氏はやや低調をまぬがれなかった。
兼夏の頃に吉田卜部家の進出が目立ち始め、兼豊の子兼熈は永和元年(1375)には卜部朝臣の姓を賜い、家を「吉田」と号し、至徳3年(1386)従三位、明徳元年(1390)正三位に進み、応永9年、55歳で浄宝寺住持運阿上人を戒師として得度して、神楽岡上に神光寺を建て念仏三昧の日を送った。
この頃になると、吉田家の学問は、その権威主義・神秘主義的傾向が著しくなり、御祓に『日本書紀』や『神系図』を読合せる作法が始まった。
応仁の兵乱で自邸や吉田社を焼かれ、賀茂神人に吉田杜領を押領されるなど多難な時期であったが、兼倶は昇殿して清祓を奉仕し、陰陽道や密教的要素をとり入れた新規軸で、自ら神道長上と称し、文明12年(1480)には従二位神祇大副に昇った。
吉田神道の教義は『唯一神道名法要集』に示され、遠祖兼延に仮託されているが、兼倶の著作で、著作の時期は文明以後(1487)、永正(1504)以前と推定される。
本書は神道を第1本迹縁起神道、第2両部習合神道、第3元本本宗源神道の3種に分別し、第3が吉田家の当流神道である。
文明16年に越後の守護上杉房定から寄進を受けて吉田社本殿再興は緒につき、明応19年年6月、奈良春日社の式年造替に伴い、その数年後、若宮と大宮の社殿として移された。
天正15年(1587)11月、後陽成天皇母后は神殿の修造を申し出られ、同18年4月には2棟の神殿が完成し、遷宮をみた。
兼倶の子、九江和尚は永正10年(1522)に父の霊を神龍社に祀り、現在境内に安土桃山時代の造建と見られる一問社流見世相造の祭祠がある。
慶長7年(1602)方広寺大仏炎上の受難の歳、淀君の申し出により、大元宮と四足門が建てられた。
慶長13年9月、徳川家康は神祇官八神殿が吉田社斎場内にあるところから、今後、神祇官の作法はこの斎場所で行うべきことを命じ、以後明治4年までそれが慣例となった。
また、天正頃(1573-92)から諸国神職に許状を発行していた吉田家は、寛文5年(1665)7月、幕府が諸社禰宜神主法度を出すにおよんで、伊勢神宮以下二十二社や大社を別として、全国の諸社に神位を、神職に位階・斎服の免許状を授与することになる。
中世神道の総括である吉田神道が近世においても長く命脈を保ったのは、神仏習合体制が封建体制の中で温存され、一般民衆の信仰を支配していたからであった。


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  1. 2011/02/22(火) 07:00:34|
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新修 茨木市史 年報 第5号


年報5 新修 茨木市史 年報 第5号

    (2006/06)

  茨木市史編さん委員会編

芦田 淳一 平安時代の総持寺
                    
4月18日は年に一度の山蔭流庖丁式の日で、藤原山蔭が観音菩薩を彫る仏師のために千日間料理を供えたことから、室町時代から「日本料理の祖、庖丁人の祖」として、多くの料理人から信仰を集めている。
藤原山蔭が開いた総持寺の歴史は、伝世する文献史料が少なく謎に包まれている。
境内の発据調査では、大規模な本堂の基壇遺構や、華麗な瓦と巨大な凝灰岩切石などの遺物が出土する。
総持寺は標高10~30mの富田台地の先端に位置し、弥生・古墳時代以来、居住と水田開発が進み、古代には条里制が施行され、大部分が水田化されていた。
この地に総持寺が建立されたことについては、摂津国鳥上郡に不比等、房前、その子清河が所領を認められていたこと、山蔭の高祖父魚名が太宰府に下る時、この地の別業で治療したように、古くから藤原氏が基盤を築いていた事と関係がある。
総持寺の創建時期は、江戸時代に刊行された『摂陽群談』に寛平2年(890)とあるが説話的で、むしろ、『朝野群載』所収の延喜12年(912)山蔭の次男公利による梵鐘鋳造銘や、承平5年(935)作成の総持寺資財帳から、9世紀末から伽藍造営が開始され、10世紀初頭には完成していたものとする。
幾度となく行われた発掘調査から、確認された遺構と出土瓦は創建当初の古代、中世のものであり、この地に伽藍があり続けた事を示す。
平安宮と同じ瓦が出土したことから、総持寺造営には木工寮・修理職などの中央造営組織の工人があたったものと考えられ、一私寺の造営に使用できるとは考えられす、基壇は東西5間~9間、南北4間~7間の堂舎が建っていたと想像できる。
山蔭の系統は中流貴族、官位にすれば4位・5位の身分であるが、10世紀後半には山蔭の長男有頼の子、在衡が天慶4年(941)参議に任ぜられ、天禄元年(970)左大臣となっている。
そして、彼の娘藤原正妃は村上天皇の更衣となって親王が生まれている。
さらに、藤原山蔭の第6子摂津守中正の娘時姫は藤原摂関家の兼家に嫁いで、道隆・道兼・道長・詮子を生んでいる。
娘詮子が円融天皇の女御として入内、一条天皇をもうけると、兼家をはじめ道隆・道兼・道長は摂政・関白を歴任する。
この兼家が権力を握っていた寛和2年(986)に総持寺が御願寺となり、寺格は藤原忠平が建立した法性寺に准じられ、山蔭が貞観年間に春日四神を勧請した吉田神社は永詐元年(989)に二十二社の一つ、そして春日社・大原野社と並ぶ藤原氏の氏社になっている。
10世紀後半の『新儀式』には、御願寺は天皇の御願によって造営されるものとあるから、大規模な基壇と堂舎を造営することも可能である。
山蔭一門の私寺であった総持寺は、一条天皇の御願寺となり、一門の社に過ぎなかった吉田神社も藤原氏全体の社となり、朝廷の奉幣を受けるようになった。
また一条天皇が即位した翌年の987年は山蔭の百回忌であり、この時に公利の鐘銘をもとに、藤原山蔭を最大に脚色した『長谷寺験記』のいう「総持寺本縁起」が藤原公任によって再び作成されたのではなかろうか。
そして、摂関家の後ろ盾を得た総持寺の繁栄を背景として、亀の恩返し部分が『今昔物語』や様々な中世説話集で取り上げられるようになったと考えられよう。



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  1. 2011/02/21(月) 07:00:08|
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講座平安文学論究 第四輯


講座平安文学論究 第四輯講座 平安文学論究〈第4輯〉
(1987/06)
平安文学論究会

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池上洵一 「藤原山蔭説話の構造と伝流」

「海中に落ちた人間がかつて助けた亀の背に乗って救われた」ことを語る山蔭説話は、『十訓抄』に「人毎に知れり。こまかに書かず」とあるように、平安末、鎌倉時代には万人周知の話であった。
この話は『日本霊異記』巻上第7話の禅師弘済とまったく同型で、『今昔』では巻19第30話として山蔭説話(巻19第29話)に隣接し、両話の頬似は撰者にも認識されていた。
『宝物集』『十訓抄』『沙石集』や『平家物語』諸本では、この話と総持寺建立との関連には触れていないが、『長谷寺験記』巻下第13話では明確に同寺縁起の一部として語られている。
総持寺(大阪府茨木市)は西国三十三札所の一つとして知られ、山蔭は発願者であって、彼の薨後、一門の者が力を合わせて建立した。
この関係は、同時代の藤原高藤薨後、一門が結集して造立した勧修寺との関係を思い出させる。
山蔭は藤原北家左大臣魚名流の人で、父高房は正四位下越前守にすぎなかったが、65歳で亮じる前には従三位中納言で、中興の祖的な存在である。
山蔭の子中正の女子時姫は兼家との間に詮子を生み、詮子は円融后となり一条帝の母となった。
一門は時姫の兄安親が正三位参議に昇り、山蔭が氏神春日社を勧請した吉田社も官社に昇格し、山蔭一門の氏寺総持寺もこの時期に御願寺となったらしい。
高藤も山蔭も子孫たちはやがて中流貴族として地位を固定させる。
一門の氏寺や氏社は定額寺や御願寺、官社として格式と歴史を誇り、社寺の創設者、一門の過去の栄光の体現者として2人は回顧される地点にいたのである。
山蔭説話は報恩譚と継子譚から成り立っているが、継母の処遇には触れておらず、不自然な構造を持つ。
『平家物語』の延慶本、長門本、覚一本や『源平盛衰記』は、最初に亀を助けてやったのは山蔭ではなく、今は亡き如無の生母であったと語っている。
継子の危機を生母が救う話は室町時代物語草子には特に多く見られ、『鉢かづき』『日月の本地』『ふせや』『秋月物語』『岩屋草紙』など、山蔭説話と同型の構成を持つ作品では生母の援助を語る方がむしろ普通であった。
こうした中にあって『今昔』は、ひたすら事件譚として登場人物の行動や心中を具体的に追尾し描写する。
『長谷寺験記』と『三国伝記』では亀を助けたのは高房、亀に助けられたのは山蔭と、人物が一世代上にずれ、如無はまったく登場しない。
総持寺建立をめぐって最も信頼できるのは、『朝野群載』所収の『総持寺鐘銘』で、延喜12年(912)、山蔭の25回忌に山蔭の二男公判がこの鐘を寄進し、観音信仰の篤かった高房の遺志を山蔭が継ぎ、唐土から香木を求めて観音像を造り、衢場(道場)を島下郡に建てて総持寺と号したという。
如無についての言及はなく、総持寺の建立が如無とは関係ないとすれば、人物関係に関する限り『長谷寺験記』の説話の方が明らかに事実に近い。
このような改造が寺にとっては名案であったとしても、それによって山蔭如無型の話が消えたわけではなく、『宝物集』『十訓抄』『沙石集』『平家物語』『寝覚記』等々、中世の文学作品に見られる山蔭説話はこの方が圧倒的に多い。
やがてこの山蔭如無型の話は播磨の地に根を下し、室町初期の『峰相記』には、如無が亀に救われた海面の北方、自国山の麓に山蔭が一寺を建立して亀井寺と号し、如無はそこに住んだという。
山蔭説話の伝承において如無の名を最も遅くまで記憶し続けたのは、この播磨の人々であったかもしれない。

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  1. 2011/02/20(日) 07:00:53|
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街場のマンガ論


街場のマンガ論街場のマンガ論
(2010/10/04)
内田 樹

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「戦後マンガ」と言えば、まずは手塚治虫からだと思います。
戦前戦中の軍国主義イデオロギー、反科学的・非科学的な精神主義が日本を敗戦に導いたという苦い反省があって、手塚マンガの基本には科学主義があった。
それも単なる科学礼賛ではなく、科学の二面性にも配慮して、天馬博士とお茶の水博士が科学のダークサイドとサニーサイドを代表している。
我々の世代はスボンジが水を吸うように、『鉄腕アトム』の科学と民主主義に対する熱いメッセージを吸い込んだわけです。
赤塚不二夫が播いた種の実は広範囲に広がって、磁力の強い文化圏を作っていった。
メインカルチャーが手塚治虫で、サブカルチャーが赤塚不二夫というふうに。
「これでいいのだ」は絶対的肯定だから、そのあとの世代にものすごく広がっていって、いろんな種類のマンガが登場してきました。
大友克洋、鳥山明、井上雄彦の3人が、日本のマンガの絵のクオリティを世界最高レベルまで上げた。
マンガ家の場合、画力が上がるのと、物語の構想力がスケールアップするのとは同時です。
その点にマンガ家の圧倒的なアドバンテージがあると思う。

マンガを読めるのはとりあえず日本人だけです。
外国の人がマンガを読むのは相当苦労しないといけません。
音と絵が、無原則に結びつくのが日本語の表記の特徴です。
マンガは日本語を読むのと同じょうに、意味なる図形に音をふる、フキダシはルビです。
フランスの非識字者はずいぶん多く、小学校6年生の35%の子どもたちが速読では文章の意味がとれないという。
これはアルファベットを使う国ではどこもかなり深刻な問題で、知性の問題ではなくて、言語の構造の問題です。
日本は世界有数の識字率で、おそらく江戸時代からずっと世界一だと思う。
これは日本人の頭の問題ではなくて、日本語が識字しやすい構造だと考えるべきです。
表音文字だけを使っている人たちと表音文字と表意文字を並行使用している人では言語処理に用いる脳内部位が違い、日本人はとりあえず二箇所使っている。
世界中でマンガは描かれていますが、どう見ても日本の方が画力が上だし、イノベーションの速さが桁外れです。
アメコミの場合は、言葉で説明するときは画像を静止させて、フキダシに大量の文字を書き込み、動作を見せるところではあまり文字が書き込まれない。
だから、日本人がアメコミを読むと、「話の進み方が遅い」という感じがする。
本を右から左に向かって読んでいくのは、欧米語話者にリテラシーの根本的な書き換えを要求します。
その努力をした人だけが、MANGAを読むことができる。
だから、アメリカやフランスでは「マンガが読める」というのは、一種の「特殊技能」だと思います。

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  1. 2011/02/19(土) 07:00:00|
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