続・竹林の愚人 2011年08月

素盞烏尊神社


素盞烏尊神社(すさのおじんじゃ)  大阪市北区大淀南3-3-25
通称、八坂神社。牛頭天王社・祇園社と呼ばれ、浦江の氏神
明治5年、素盞烏尊神社に改め、村社に列す。
明治41年12月12日、西里中の八幡神社、江川の野々宮、宮の前の斎宮社を合祀。
明治42年6月、神饌幣帛料供進社に指定される。
明治45年7月25日、東殿の和邇社を合祀。
昭和20年の大阪大空襲で焼失。
昭和52年4月16日再建。


拝殿


本殿 祭神:素盞烏尊


王仁社 王仁博士


神宮遥拝所


八幡社 応神天皇 


大典祈念
奉載 皇室敬事神祇唯是一片忠誠所貫涵養正気勉勵職業宝為萬年興隆之基
大正四年十一月  正五位藤沢南岳撰 小泉 卓書


斎宮社 飯豊受皇女神


野々宮社 飯豊受皇大神


祖霊社


『摂津名所図会』 犬江殿古蹟(おほえどのこせき)
難波旧図、田蓑島にあり。この所斎宮女御御楔の地、今大仁村の北端に古松一株あり。
その下に石造の宮の屋根なるもの見ゆる。余は土中に堙もれたり。これ、祓除の地の古称なるか。

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  1. 2011/08/31(水) 07:15:18|
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子宝延命地蔵尊


子宝延命地蔵尊  大阪市大淀南3-3-25 素盞烏尊神社社頭
寛政年間、当地が未だ葦の葉に鷺が舞い、田や畑小川などにいろどられた一寒村、摂津の国浦江村と称された時代より当処に鎮座され村民信仰の的となりてより約200年の歳月が流れ今日に至る。
その間、人の世の道標として信頼を集め慈悲を慕いて遠近をとわず多数の善男善女の參詣あり。
特に子授けの徳と子どもに対する緒願の御利得あらたかを願っての參詣が多かったと伝えられている。
尚現在に至るも信仰厚き方々が多くその人々の御芳志に依り地蔵堂の新築をする。
 昭和48年8月23日



 

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  1. 2011/08/31(水) 07:10:44|
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地蔵堂(安楽寺) 


地蔵堂 大阪市北区大淀南3-9-17 安楽寺山門脇




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  1. 2011/08/31(水) 07:05:26|
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安楽寺


安楽寺(あんらくじ) 大阪市北区大淀南3-9-16
法性山 真宗興正寺末寺
もと野々宮にあり、天台宗。中興覚性が明応元年(1492)4月真宗に帰依し、興正寺16世蓮秀の法弟となり、
文亀2年(1502)3月、現在地に移転し、自費にて再建す。


本尊 阿弥陀如来




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  1. 2011/08/31(水) 07:00:06|
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ロボット創造学入門

ロボット創造学入門 (岩波ジュニア新書 〈知の航海〉シリーズ)ロボット創造学入門 (岩波ジュニア新書 〈知の航海〉シリーズ)
(2011/06/22)
広瀬 茂男

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福島第一原発事故で廃炉(デコミショニング)という作業を必要とする世界をつくりだしてしまった結果、これからのロボット工学のすすむ方向は決定的に変わっていくだろう。
原子炉内のような人がアクセスしにくい環境で実作業できる極限作業ロボットの開発が、再度、真剣に研究開発されるような時代を迎えている。
国のこれまでのロボット開発研究の方向性は一貫性をもたず、将来的な見通しを明確にもたないまま、ときには遊びのようなロボット開発が国のプロジェクトになったりしてきた。このつけが、今回の事故でのロボットの初動を遅らせて事故を拡大させ、またアメリカ製のロボットが先に使われた。
ロボット大国日本で、鉄腕アトムのような日本製ロボットがなぜ原発で活躍しないのだという疑問が、一般にわきあがった。
1979年のスリーマイル島原子力発電所の事故を受けて、1980~90年に通産省(現経済産業省)が極限作業ロボット開発プロジェクトを実施した。
これには多くの企業が参画し、原子炉関連の作業をふくめておもしろい極限作業ロボットの開発が試みられ、この8年間に多くの企業がこの方向性に興味をもち研究開発も加速した。
しかし、このプロジェクトが終わって国の補助金が出なくなると、急速に企業の興味は減衰してしまった。
日本では原子炉関連事故はぜったい起こらないというのが、国の立場だったため、各企業では極限ロボット開発にたずさわったロボット開発者をべつの部署に配置がえしてしまった。
ところが、1999年に東海村1COで死者2名を出す臨界事故が起きた。
そして国は、2000年の補正予算30億円を使って、半年ぐらいで、三菱重工、日立、東芝、そしてフランスのサイバネティックス社などに合計6台のロボットを急遽開発させた。
私も、三菱重工からの依頼でクローラ型ロボットに関する2つの特許をライセンスして、三菱重工はMARSをつくった。
ところが、開発されたロボットはその後、評価委員会で、すべて性能不十分で廃棄処分すると判定されてしまったのだ。
半年の突貫工事でつくらせておいて、はい捨てますとはなにごとだ。
その後何回も改良しつづけなければ、実用機などできるはずがない。
そして、2011年の福島第一原発事故が起きてしまったときには、日本には原子炉関連の事故でまともに使えるロボットはまったくない、という状況になっていたのだ。
私は、ずっと前から「サンダーバード部隊」をつくろうと主張してきた。
世界中どこでもなにか災害があったら、かけつけて日本の誇るロボット技術で人命救助や復興支援活動をするという部隊だ。
まだまだ夢のような話だが、なんとか実現できるようにしていきたい。
そして将来は、ロボットに興味をもつ若いみなさんにもこのような活動に参加してもらって、安心安全な世界の構築におおいに貢献してもらいたい。



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  1. 2011/08/30(火) 07:00:14|
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新・片づけ術「断捨離」

新・片づけ術「断捨離」新・片づけ術「断捨離」
(2009/12/17)
やました ひでこ

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私たちは、季節の変わり目によく「着る服がない!」って言っていますね? 
でも、箪笥の中は洋服でぎっちりだったりしませんか? 
「もう着ない服なのに、なんらかの思いが残って、ただ取っておいてある」という状態で、そこにあるのは「愛着」ではなく「執着」です。
そして「じゃあ、箪笥の中から始めよう!」と決心がつきました。
モノが悪いのではなく、ひとえに自分が間違った判断でモノを堆積させて身動きが取れなくなっているのだから、断捨離とはこのセンサーを磨いていこう!という技術でもあります。
家のゴミ1個捨てるというアクションが内在智磨きなのです。
今の日本の社会は、大洪水のアマゾン川のようにモノが溢れた状態で流れているのに、意識は隅田川程度の流れのまま、そのギャップに無自覚なまま暮らしている状態。
そして、要らないものが出ていく出口の水門は余程意識しないと開かない。
「もったいない」とか「分別が大変」という錆がこびり付いているわけです。
「ひからびたハム」のように、使えるけれど使う気のしないモノの放つ運気を「停滞運」、「腐ったハム」状態のゴミ、そしてホコリが発する運気を「腐敗運」と呼びます。
逆に言うと、ガラクタ、ゴミ、ホコリを取り除くことで「停滞運」「腐敗運」は取り除ける、
断捨離のプロセスは「減らす・分ける・納める」。
その「減らす」をまず徹底します。
どこからどう見てもゴミというモノが必ず山ほどあるはずなので、それを捨てていきます。
台所を例に見ると、大分類に「食材」「調理器具」「食器」とに分けてみます。
私の家の場合、食材は調味料も含めて冷蔵庫で一元管理し、中は上中下に分かれています。
上は普通の冷蔵品で乾物も調昧科もここに、中は野菜室でその中の分類は葉物と根菜くらいのもの、下は冷凍庫。
「調理器具」を大まかに分けて「シンク周りの道具」「コンロ周りの道具」「電化製品」としてみます。
断捨離では見えない収納をあえて7割収納としています。
要らないモノを手間ひまかけて収納するのは根本的な解決にはならないですね。
食器棚、サイドボードなどの「見える収納」の美的限界量は5割です。
「見せる収納」までいくと1割です。
モノが制限されていると、とにかく「掃く・拭く・磨く」がラクになります。
7、5、1割と徹底的に繰り返すと、自動的にクラスが上がっていくのを実感できます。
ただし、これは「総量規制の法則」があってこそ。
総量規制の法則で5個、お気に入りを持っていいとします。
「常にトップ5のモノとお付き合いするベストな私」という状態を育てていけるわけです。
所有とは結局、思い込みです。
せっかく持つのなら「ま、いいか」よりも「これじゃなきや」と思えれば、維持管理も楽しいもの。
そしてご縁が終わりのときを迎えたら、潔く手放していく。
モノ、そしてすべてのことにそうありたい、それが断捨離の願いです。


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  1. 2011/08/29(月) 07:00:53|
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こういうこと。

こういうこと。-終わらない福島原発事故こういうこと。-終わらない福島原発事故
(2011/06/30)
広瀬 隆、たんぽぽ舎 他

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福島や浜岡のような沸騰水型原子炉では70気圧という大変な圧力で運転していますが、地震のあった翌日、1号機の圧力容器の圧力がゲージ圧で0.8メガパスカル(8気圧)と、圧力容器の圧力が大きく落ちている。
原子炉のメカニズムからいって、こんなことがあるはずがない。
圧力容器につながっている配管のどこかが、地震の揺れで破損した可能性が高いのです。
今日まで、福島第1原発事故は津波でやられたと説明されてきましたが、1号機が地震の揺れで破壊したなら大変なこと。
実は福島第2原発の3号機で、22年前に再循環ポンプの脱落事故が起きており、今回はこの巨大ポンプの配管で破損が起こった可能性が高い。
わずか500ガル程度の揺れで配管に亀裂が入るとなると、現在日本全土の原発54基の安全審査が全部吹き飛びます。
しかも3月12日の1号機の水素爆発以後は、環境に放射能放出を始めた。
今回は津波で電源が失われ、それがさらに冷却水喪失事故を拡大していったのです。
原子炉に水をジャージャー流し込んで、「冷やす」と言って国民を安心させようとしました。
あれだけ水を入れて、死の灰をジャージャーと外に洗い流してきたのですから、10日近く経って東電が放水口近くでサンプリング調査をしたら、コバルト58が出てきた。
いよいよ、魚介類、生態濃縮の危機が始まったとわかったわけです。
原発でウラン燃料の核分裂によって、ヨウ素が大量に発生しますが、テレビでは「ヨウ素は半減期が8日だから、1カ月あればほとんど消えてしまう」と、コメンテーターたちがしゃべっている。
半減期を計算すれば、1カ月後には16分の1、56日で128分の1まで減る。
しかし、それまでに大量に放射能のガスが出て、それを1カ月以内に甲状腺に吸い込んで濃縮して、DNAに傷を付け、癌細胞ができてしまったら、体の中でどんどん増殖していく。
1986年のチェルノブイリ原発事故では、5年目あたりから急激に甲状腺癌が増えています。
特に、妊娠中の女性はヨウ素を自分の甲状腺にためずに胎児に送り込み、赤ちゃんを産んだ後は母乳に甲状腺ホルモンの原料であるヨウ素を送り込む。
ヨウ素とセシウムが大量に検出されるようになっても、「大丈夫」という学者の話ばかりが伝わる。
ヨーロッパ議会の中に設置されているヨーロッパ放射線リスク委員会(ECRR)が、国際原子力機関(IAEA)と、日本の公式発表データをもとに、今回の被曝事故でどのくらい福島の人たちに癌患者が出るかという予測を計算しました。
その計算によると、今後50年間で、福島県内で40万人くらいが放射能によって癌になるという予測です。
100キロ圏内では今後10年間に10万人が癌を発病し、100キロから200キロ圏に22万人ぐらい癌を発病するという結果です。
「日本人は、大丈夫なのか」と、海外の人は不思議に思っています。
私たちは、原発を即刻止めなければいけません。
計画停電というウソの中に巻き込まれないことが一番大事です。
ところが、100万キロワット、1基の原発をソーラーで置き換えようとすると、山手線の内側と同じ面積が必要です。
現在最善の方法は、自家発電の普及、つまり送電線の開放です。

Katastrophe in Japan 2011



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  1. 2011/08/28(日) 07:00:38|
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「水都」大阪物語

「水都」大阪物語―再生への歴史文化的考察「水都」大阪物語―再生への歴史文化的考察
(2011/03/23)
橋爪 紳也

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大阪を「水都」と呼ぶ用法は少なくとも明治40年(1908)3月にまでさかのぼることができる。
明治45年(1912)、高安月郊が『畿内見物』に寄せた「水の都」と題する文章に
「○川涼
大阪は水の都である。町幅が狭い丈川が大道である。
淀川は大通である。横堀は小路である。
町を通るより、川を通る方が大阪の特色が味はれる」
といった1節がある。
明治41年(1909)10月、箕面有馬電車が発行した冊子『如何なる土地を選ぶべきか』の冒頭には
「美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!
出産率10人に対し死亡率11人強に当る大阪市民の衛生状態に注意する諸君は、憤然として都会生活の心細きを感じ給うべし。
同時に田園趣味に富める楽しき郊外生活を懐うの念や切なるべし」
とある。
「水の都」の初出があったほぼ同じ時期に、この脅迫的な住宅売り出しの文句が「近代水都の現実を『告発』している。
大阪はベニスとの対比にあって、「水の都」の名を得ることになった。
しかし、「水都」「水の都」という都市の形容は、しばしば「烟都」「煙の都」と対となる語句として使用された。
「煙-工業-富の増殖」に傾斜した都市近代化のパラダイムのなかで、「水の都」とは、蔵屋敷・24組問屋・菱形廻船・過書船など「昔の大阪の繁栄」と称するべき、懐旧の対象として再発見されるものであった。
大正時代から昭和初期にかけて、大阪を「水の都」と形容する表現は、いっそう一般化する。
「水の都」は、過去を懐旧する場合だけではなく、同時代の都市の繁栄を誇らしげに讃える場合にも用いられ、昭和11年(1936)6月、大阪市が新たな観光艇の就航をはかった際、その名前に「水都」という名称を選んだのも当然だろう。
就航後1か月の感想が、雑誌『大大阪』昭和11年8月号に掲載され、都市の規模はもはやベニスを超えたものと認識されている。
「水都」のパンフレットでも、大阪の新しい美観はベニスではなくロンドンのテムズ川と比べられている。
観光に特化した産業政策の文脈にあっては、「水都」という呼称は、かつてのように単に水際の美観を讃える美辞麗句ではなく、水路に沿って発展した「水の商工都市」そのものの呼び名となる。
もっとも観光艇「水都」は短命で、昭和15年(1940)には一般の運航が中止されている。
大阪をベニスにならう「水の都」と讃えた時代は、戦火とともに終焉を迎えたのだ。


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  1. 2011/08/27(土) 07:00:03|
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このタワーがすごい!

このタワーがすごい! - スカイツリーから「太陽の塔」まで (中公新書ラクレ)このタワーがすごい! - スカイツリーから「太陽の塔」まで (中公新書ラクレ)
(2011/07/07)
鈴木 重美

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日本一の塔はと聞かれたら、ほとんどの日本人は「東京タワー」と答えるだろう。
実は、関西こそ塔の聖地なのである。
日本語の「塔」は梵語のstupa(ストウーパ)に由来し、「卒塔婆」が簡略化されて「塔」と呼ばれるようになった。
京に「この塔有り」という塔中の塔が東寺の五重塔だ。
落雷により4度の火災にあい、現在の塔は江戸時代に三代将軍・徳川家光の寄進によって再建されたものだ。
今の京都を見下ろしているのは、JR京都駅前の京都タワーで、鉄骨を使わない応力外皮構造で建設され、京都初の高層建築として1964年に完成し、蝋燭として京都の街を照らしている。
東寺の五重塔が古塔最高の高さを誇れば、法隆寺の五重塔(8世紀前半建立)は最古の歴史を持つ。
斑鳩の里を背景に替える塔は「美」そのものである。
五重塔が建立されて以来、近畿地方を襲った大きな地震は40回以上を数えているが、塔はびくともせずに立ち続けている。
最大の天敵は風で、風の力に負けないだけの重しを天辺に載せて対抗したのだが、風による揺れを防ぐための相輪は、雷から狙い撃ちされやすいという諸刃の剣になってしまった。
東寺の55mに次ぐ高さ51mの興福寺の五重塔は、天平2年(730)光明皇后の進言によって建立される。
明治に入り、新政府下で始まった「廃仏毀釈」で「売却」されそうになった。
スクラップ業者は木造部は燃やして相輪だけを欲したという。
スクラップになりかけた古塔は今、観光の中心地・奈良公園の中にあり、奈良になくてはならない存在となっている。
ナニワで1番の塔と言えば通天閣を指し、1912年、第5回内国勧業博覧会の会場跡地に建設された。
パリのエッフェル塔と凱旋門をモデルにして、遊園地「ルナパーク(月の園)」ともに誕生し、75mという東洋一の高さを誇り、通天閣とルナパークはロープウエーで結ばれていた。
1943年に直下の映画館の火事で類焼し、太平洋戦争中は鉄材供出の名のもとに解体され、姿を消した。
戦後、2代目・通天閣は、1956年に再建され、通信塔というより広告塔のイメージが強い。
「通天閣」の名は、「天に通じる高い建物」という意味で、儒学者・藤沢南岳によって付けられた。
やがて塔史に燦然と輝く塔が戦後の大阪に現れる。
その名を「太陽の塔」という。
1970年に、日本万国博覧会のメイン広場のシンボルとして建造された太陽の塔は、子どもたちによる「太陽の塔を残して!」という投書で解体を免れた。
太陽の塔は、高さが70m、底の直径20m、で3つの顔を持ち、上部の黄金の顔は未来を、正面胴体部の顔は現在を、背面に描かれた黒い顔は過去を表す。
地下にも顔があったが、現在は行方不明となっている。
東洋一を謳った神戸タワー(湊川公園タワー)は、太平洋戦争での2度にわたる空襲を逃れたにもかかわらず、1968年に取り壊された。
ビルと一体化したこの美しいタワーは、「新開地タワー」の名称で地元の人々に愛され、「新世界」の通天閣と人気を二分したが、今その場所には時計台が建つのみである。

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  1. 2011/08/26(金) 07:00:37|
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古代日本謎の四世紀

古代日本 謎の四世紀古代日本 謎の四世紀
(2011/03)
上垣外 憲一

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『播磨国風土記』に「昔、呉の勝(すぐり)が韓の国から渡ってきて、はじめ紀伊の国の名草(なぐさ)の郡の大田の村に着いた。その後、分かれ来て摂津の国の三島の賀美(かみ)の郡の大田の村に移って来て、それがまた揖保の郡の大田の村に移住して来た」とある。
「紀伊の名草の郡の大田」は和歌山市太田で、有名な弥生時代の「太田黒田遺跡」のある場所で、その場所には大和朝廷にとってきわめて重要な神社・日前官、国懸宮が立ち並ぶ。
この日前官、国懸宮のご神体について、社伝では皇室の神器である「八咫の鏡」に先だって鋳造された鏡であるとしている。
『紀』では有名な天の岩戸神話で、神々が天照大神に岩屋から出てもらうために、玉、鏡を木にかけて大騒ぎをした。
その時の鏡こそ、伊勢神宮にご神体としてまつられる「八咫の鏡」であると記す。
忌部広成が平安時代に書いた『古語拾遺』の記述では、中臣氏(後の藤原氏)の祖である天児屋根命と、忌部氏の祖である天太王命であるが、この天岩戸引きこもり事件の時に、最初に鋳造された鏡が、日前宮にある「日像(ひかた)之鏡」であるとする。
つまり、最初に石凝姥が鋳造した鏡が、和歌山の日前宮のご神体であり、少し出来がよくなかった。そのつぎに鋳造したものは美しく、これが伊勢神宮のご神体である、という。
「摂津の国の三島の大田」は現在の大阪府茨木市で、ここには弥生時代の青銅器鋳造の数々の遺品を出土したことで知られる「東奈良遺跡」がある。
茨木市内にある紫金山古墳(古墳時代前期)では、三角縁神獣鏡の他に、新(BC8年~23年)の時代の方格規矩鏡(直径36cm)という大型の勾玉文帯神獣鏡などが出土している。
中国江南に由来する神獣を主たる模様としながら、日本独特の「勾玉」を模様に取り込んだ大型鏡は明らかに日本国内で作られた国産鏡であり、この「摂津の大田」の地で「呉の勝」の子孫にあたる鏡職人が日本的デザインを取り込んで作ったものと考える。
東奈良遺跡の地には、銅の神をまつるとされる延喜式内の古社「沢良宜神社」が今も残っている。
つまり、摂津の大田においては、弥生時代の銅鐸から、古墳時代の銅鏡へと、青銅器の技術は存続したが、製品の完全な転換に際して、新たな銅鏡作りの技術を伝えたのが、「呉の勝」だったのである。
景初4年という間違った年号が日本国内で銘に入れられるのは、正始元年=240年に呉の鏡職人によって作られたと考えられ、この景初四年銘盤龍鏡の製作地は大阪府茨木市の東奈良遺跡あたりであろう。 
渡来した呉の鏡作り職人「呉の勝」が中心となる集団の一部は分かれて播磨の太田、今の姫路市西方に移った。
しかし、「呉の勝」鏡作りの一部はそのまま茨木付近に残り、新たな国産の大型鏡を制作し、一方、主力部分は270年前後に、何らかの形で大和に移動した。
銅鉱山のある葛城の地、奈良県御所市にも太田があり、3世紀の大遺跡のある纏向のすぐ西側に位置する桜井市の太田がその移住先であろう。
この近くの田原本町には5つ「鏡作神社」が所在する。
「呉の勝」の末裔集団は、和歌山市、茨木市、姫路市と、大田という地名を残しながら移動し、最初にヤマトに住み着いた場所がこの桜井市太田であったと考える。

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  1. 2011/08/25(木) 07:00:03|
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