続・竹林の愚人 2011年12月

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沖縄・米軍基地観光ガイド

本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること―沖縄・米軍基地観光ガイド本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること―沖縄・米軍基地観光ガイド
(2011/06)
矢部 宏治

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沖縄本島は長さ100km・幅4~28km・面積1208km2の土地に123万人が住む小さな島だが、米軍基地は18.4%を占めており、その多くは住宅地に接した一等地にある。
空港を出たらレンタカーかタクシーに乗って普天間基地をめざそう。
長さ2800m、幅46mの滑走路をもつ海兵隊のヘリコプター部隊の拠点で、52機の軍用機が配備されているアメリカ本土以外でヘリ部隊が常駐する唯一の基地だ。
普天間基地がよく見えるポイントは、滑走路の延長線上12kmにある「嘉数の丘」だ。
急な階段を100段近くのぼるこの公国の高台は、1945年4月の「沖縄戦最大の激戦」とよばれる過酷な戦いの舞台となった。
展望台からは普天間基地の全景と、遠くには米軍が上陸した北谷・嘉手納・読谷の海岸も見える。

天願桟橋から国道329号線を北上し、金武町に向かって、石川インターチェンジから沖縄自動車道に入ると、伊芸サービスエリアから左手にキャンプ・ハンセンが見えてくる。
キャンプ・ハンセンの面積51km2で、米軍ではキャンプ・ハンセンとキャンプ・シュワプの両基地地区をあわせて「中部訓練地域(CTA)」とよんでいる。
キャンプ・ハンセンのゲート1前と高速道路上の車窓が撮影ポイント。

北谷町役場の先、国道58号線と県道23号線が交差する「国体道路入り口」から先が、アメリカ国外最大といわれる嘉手納基地だ。
3700mの滑走路が2本、面積は約20km2で、基地の主力は1機125億円といわれるF15戦闘機で、計48機配備されている。
それ以外にも各種の戦闘機や輸送機などが配備されたアジア太平洋地域最大の空軍基地である。
約2万人の軍人・軍属とその家族が暮らしていて、学校、病院、教会、銀行、郵便局、スーパー、映画館、劇場、ボーリング場にゴルフ場が完備されている。
嘉手納空軍基地がもっともよく見えるのは、なんといってもドライブイン「道の駅かでな」だ。

「平敷屋」交差点の南側にある平敷屋公園から、ホワイト・ビーチ軍港を一望することができる。
幅24m、長さ850mの海軍「A桟橋」と、幅24m、長さ450mの陸軍「B桟橋」の2つの桟橋をもつこの港は、現在、沖縄におけるもっとも重要な軍港だ。
沖縄で唯一、米軍艦船への給油施設をもっていて、横須賀基地を母港とする第7艦隊の空母や、佐世保に配属されているエセックス(強襲揚陸艦)、グアムを母港とする原子力潜水艦などが燃料や物資の補給を行なうための寄港地となっている。
乗組員が休養するための施設もある。

米軍基地を撮影する場合は、基地の外から撮影しているといっても安心はできません。
もし違法行為や「不当な方法」または「通常ではない方法」による撮影があれば、そこが日本側の土地であっても、「日米安保条約」にもとづく「日米地位協定」に対応した「日本の刑事特別法」によって、10年以下の懲役になるおそれがあります。

日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法(昭和27年5月7日法律第138号)
第6条 合衆国軍隊の機密(合衆国軍隊についての別表に掲げる事項及びこれらの事項に係る文書、図画若しくは物作で、公になっていないものをいう。以下同じ。)を、合衆国軍隊の安全を害すべき用途に供する目的をもって、又は不当な方法で、探知し、又は収集した者は、10年以下の懲役に処する。
2 合衆国軍隊の機密で、通常不当な方法によらなければ探知し、又は収集することができないようなものを他人に漏らした者も、前項と同様とする。
3 前2項の未遂罪は、罰する。
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  1. 2011/12/31(土) 07:00:34|
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日本の照明はまぶしすぎる

日本の照明はまぶしすぎる    節電生活の賢い照明術 (角川oneテーマ21)日本の照明はまぶしすぎる 節電生活の賢い照明術 (角川oneテーマ21)
(2011/08/10)
東海林 弘靖

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20年ほど前にアメリカの照明デザイナー、ポール・マランツ氏から「日本にもキミたちのような照明デザイナーが登場して、公共の施設の照明はどんどん良くなってきている。しかし、残念なのは住宅の照明です。日本の住まいの明かりをなんとかすることがキミたちのミッションだと思うよ」と云われて以降、私の使命となりました。
高度経済成長期のさなかに蛍光灯が登場し、蛍光灯のまばゆい白い光が日本人にとっての〝豊かさの象徴″のようにもなっていきました。
日本では、約30%の電力が原子力発電にゆだねられています。
その発電所が危機的な状態にあるわけですから、発電した電力をできるだけ使わず明るさを得るのが理想ということになります。
そこで着目したいのは自然エネルギーの利用、とりわけ「太陽光発電」です。
昼間の太陽光で充電され、暗くなると自動的に点灯するガーデン用のミニライト「ソーラーガーデンライト」の光源部の蓋を外して透明のワイングラスに載せれば、即席のテーブルスタンドが出来上がります。
その上からサイズのあったシェードをかぶせれば、自分流にアレンジしたお酒落でかつ、電力を消費しない照明器具となるのです。
畳敷きの和室があるにもかかわらず、洋室と変わらない天井からの照明を使っているという人はいないでしょうか。
侘び茶の世界では、ほの暗い茶室のなかで微かな光を楽しみます。
光の重心を低くする・照度を低くする・色温度を低くする、というのが俺び茶のイメージを考えた「和室の照明 3Lの法則」です。
日本の光の原点を探る中から発見した凄い光のひとつが、平安時代から鎌倉時代にかけて広がった密教文化の中にあります。
密教の世界観を示す「曼荼羅」は絵による照明で、木を燃やしながら祈祷する「護摩」は光の演出です。
密教寺院の本堂の規模は著しく大きく、中は真っ暗になるように作られており、そこで火を焚けば昼でも自在に光の演出が可能になります。
こうした光を使った空間演出は、1980~1990年代に流行ったディスコによく似ています。
あるいは、テーマパークのパビリオンにも似たところがあったのかもしれません。
アメリカで「LED大躍進」と云われたのは10年前のことですが、2010年になると、ヨーロッパにおいてもLEDの占める比重が大きくなっていました。
オランダのフィリップス社は「レトロフィットな商品ではまったく面白みがない」と云います。
彼らがLEDという新しい存在に求めるのは、白熱電球では叶わなかった新しいスタイルの照明です。
LEDであれば、調光・色の調節もできるので、ひとつの光源で、朝は白い光ですっきりとした目覚めを迎え、夜は暖かな光でリラックスするように使いわけできます。
現代の日本人は、蛍光灯のある生活に慣れ、過剰な明るさに麻痺しているようにも感じられますが、日本人の感覚は本来、非常にセンシティブなものでした。
江戸時代までは「粋な光」を楽しむ文化や習慣があったのですから、そのDNAは私たちにも必ず引き継がれているはずです。
これまでは照明に対して「明るいか暗いか」といった非常に大雑把な二者択一がなされていましたが、これからは、ムダな照明と必要な照明が丁寧に仕分けされていくでしょう。
「無駄な光」か「必要な光」かを見極めることは一見難しそうですが、私たちの命(人生) を温めてくれる光であるかどうかが大きな判断基準となります。
光を取り巻く価値観は、震災を経験した私たちが改めて考え直すことのできる部分ではないでしょうか?

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  1. 2011/12/30(金) 07:00:50|
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古代の都はどうつくられたか

古代の都はどうつくられたか―中国・日本・朝鮮・渤海 (歴史文化ライブラリー)古代の都はどうつくられたか―中国・日本・朝鮮・渤海 (歴史文化ライブラリー)
(2011/01)
吉田 歓

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『周礼』考工記に「匠人、國を営むこと、方九里、旁三門、國中は九経九緯、経涂は九軌、左に祖、右に社、面は朝、後は市、市朝は一夫なり」とある。
都城は四方を城壁で囲まれ、各辺に3つの城門が開かれ合計12の門を持っており、中央に宮室を配置して碁盤目状に町割りが施され、宮室の東西に祖廟(宗廟)と社禝が置かれ、南に朝庭、北に市場が配置され。
このような『周礼』型都城のイメージは中国における理想の都となった。
隋唐長安城は、従来の都城とは隔絶した都で、宮城を中央北詰に配し、官庁街の皇城を完全に独立させ、整然とした碁盤状の町割りを行った。
そして、極めて計画的に設計され、北方異民族などと漢族の融合と皇帝の絶対的地位を演出する舞台装置であった。
高句麗では平地の居城と逃げ込み城の山城のセットがオリジナルなスタイルで、卒本・国内城・前期平壌城までは伝統的な形態であった。
そして、最後の長安城(後期平壌城)で碁盤目状の町割りを持つにいたったが、それは方形ではなく中国の都城の外観とはだいぶ異なっていた。
百済でも漢城・熊津ともに土城や山城を主体とする独自の形態で、最後の洒批城で山城の麓に王宮が作られ、中国的な様相を見せるが、中途半端な段階で滅亡してしまった。
新羅は逆に遷都をせず、本拠地慶州から離れないばかりか、月城を最後まで維持していた。
月城の北方に碁盤目状の町割りを作るものの、日本のように遷都して中国風の都城を新造することはなかったのである。
それに対して日本と渤海は、唐長安城をモデルに都城建設を行っていった。
日本は飛鳥盆地から藤原京を経て平城京へと遷都し、唐長安城をモデルに都を造営したが、羅城も一部だけで、坊を囲む垣牆も朱雀大路に沿う地区にしか作らなかった。
また、天皇が住む内裏は檜皮葺きで中国風の宮殿様式ではなかった。
渤海の場合は、日本よりもかなり忠実に唐長安城を模倣していた。
上京龍泉府は全体が横長の長方形で、外郭城や坊を囲む城壁も作られ、皇城もあった。
さらに三朝制の宮殿群も備えていた。
しかし、中国風の面貌の裏では床下暖房施設を備えた生活空間があり、やはり独自性を保持していたのである。
隋唐長安城はまさしく帝国型都城の究極のモデルを提示していた。
この衝撃を高句麗と百済は十分模倣できないうちに滅亡し、新羅は逆に月城に固執して新しく都を造営することはなかった。
日本と渤海はかなり真似をしたが、核心部分では独自性を温存していた。
日本の場合、蝦夷や南島人、さらに新羅・渤海から朝貢を受ける国家であると自らを位置づけ、まさに帝国型国家を意識していた。
日本では外交や服属儀礼に直接関わる部分に力を入れて都作りをしていたのである。
日本には帝国型都城のエッセンスが必要であったために大和朝廷の本拠地である飛鳥から出て、新しい都を次々と作っていった。
渤海も諸部族を支配下に置いていたことから帝国型都城が必要だったのかもしれない。
それに対して新羅は、滅亡するまで慶州から離れることはなく、遷都してまで都を整える必要性がなかったということであろうか。

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  1. 2011/12/29(木) 07:00:52|
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渤海国

渤海国 (講談社学術文庫)渤海国 (講談社学術文庫)
(2004/04/10)
上田 雄

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「あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今さかりなり」と小野朝臣老が神亀年間(724~728)に詠んだ頃、朝鮮半島全体を統一して強大な国力を誇る新羅の都、叙城(慶州)、そしてその北方の茫漠とした大陸に広大な版図を広げていた渤海の都、上京龍泉府も奈良の都に勝るとも劣らず「咲く花の薫ふ」ように繁栄していた。
西暦668年、高句麗が滅び、唐は戦後処理として王族やそれに協力した靺鞨人の族長たちを捕囚とし、営州(現・遼寧省朝陽)に強制移住させた。
この流謫地に鬱積していた不満が7世紀の終わりに爆発し、高句麗の王族の流れを汲むという乞乞仲象(こつこつちゆうしょう)が高句麗の残党を率いて、また靺鞨族の酋長乞四比羽(こつひう)が靺鞨族を率いて反乱に加わり、営州を脱出して唐に反旗をひるがえした。
唐は「道路阻絶」を理由に討伐することをあきらめ、日本の文武天皇2年(698)新しい国、振(しん・震)を建国した。
初代の王は高句麗王族の一姓である大氏を継承して、大祚栄(だいそえい)と名乗り、高句麗国の復興を唱えて支配地域を広げ、彼が死んだ718年には旧高句麗領の北半分を領土にした。
その後、唐との関係は円滑になり、713年、唐帝玄宗は大詐栄を「左驍衛員外大将軍渤海郡王」として冊立し、大所栄は以後「渤海郡王」あるいは「渤海王」を名乗り、国号も「渤海」と称するようになった。 
2代目の武芸王(ぶげい)は、武略にすぐれ、その国の四周に軍を進めて版図を広げ、ついには唐・新羅とも衝突する好戦的な王であった。
3代目の文王大欽茂(だいきんも)から文治主義の政治が徹底し、戦争や征服の痕跡は見出せなくなる。
渤海国が滅びた後は、その地域には女真人が住み続けたものの、国家らしいものは建設されることがなかった。 
渤海国は数多くの少数民族が散在していた辺境の地域に成立した国であるから、唐は一括して靺鞨の名で呼んだが、乞乞仲象が高句麗王族の系累だから、高句麗の流れを汲む朝鮮系の民族であったと見るべきであろう。
渤海国は唐の正朔を奉じる国で、基本的には唐の文化圏に包摂されて、文字は漢字を使っていたが、渤海使が来日した時に、日本の朝廷では新羅訳語生を臨席させていることから、話し言葉は朝鮮語系のものであったと推定される。
渤海国は新羅を牽制するために日本に使節を派遣し、その後、150年余の間に30回もの渤海使が日本へやってくるという関係が展開される。
渤海使がもたらす物は毛皮で、日本に求めたものは、徹頭徹尾、繊維製品であった。
渤海は契丹に滅ぼされた際に徹底的な破壊を受けたため、その文化を語る文献や文化財は乏しいが、首都であった上京龍泉府跡にある都城遺跡や、日本への窓口であった東京龍原府跡の仏寺跡では仏画や仏像の断片が発掘されている。
宗主国の唐や隣国の遼などの史書は、渤海国の姿を描き写したデッサンのようなものだが、日本に来た渤海の使節は、その国書や牒文に、あるいは日本の文人と詠み交わした詩文に、自ら書いた文章を残している。
これを比喩するなら、今から千年前に滅びた渤海人の肉声が日本にだけ録音されて残っていると例えることができるだろう。 

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  1. 2011/12/28(水) 07:00:30|
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フーゾクの日本史

フーゾクの日本史 (講談社プラスアルファ新書)フーゾクの日本史 (講談社プラスアルファ新書)
(2011/04/21)
岩永 文夫

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人類最古の仕事とも言われるフーゾク。
わが国で最古の歌集『万葉集』にも当時のフーゾクの足跡が歌謡として残されている。
遊行女婦と表現され、あそび女・うかれ女と呼ばれた飛鳥・奈良時代の娼婦たちの中には歌づくりの才に溢れた女性もいて、恋に別れに誘いにと多くの和歌を詠んでいる。
『万葉集』で遊行女婦とはっきりクレジットされているのは、児島・土師・蒲生娘子と「君が家の花橘」を詠んだ無名の郎女の4名にすぎないが、遣新羅使の一行に交じって歌を詠んでいる対馬娘子玉槻と松浦に住む娘子の2名、それ以外にも遊行女婦と思われる女性はかなりの人数を数えることができる。
女婦たちは恋する思いを伝えたり、はたまた営業のためにか再会を切に願ったりと、31文字の小宇宙を自在に遊行するのである。
有閑階級の皇族・貴族のほか、旅行者・商人・船員・防人などが集まる港湾河口とか宿駅・市場など、代表的なところとしては難波の御津や、那大津(博多)などの地があげられる。
遊女たちが早乙女として住吉大社の田植え神事に参加する乳守遊廓は〝遊女の本場〟と言われるほどの人気を集め、播磨国は室津の賀茂神社と室津遊廓、伊勢神宮と古市遊廓、春日大社と木辻遊廓、下関の赤間神宮と稲荷町遊廓、博多の筥崎宮と柳町遊廓などがある。
これらの神社と結びつきながら発達した遊里は近世以前に大いに栄えたところである。
やがて平城京から平安京へと都が移ると、奈良から瀬戸内への出口・難波津を離れて遊女たちはこぞって、京から大阪湾に流れ込む淀川の河口の地、江口・神崎・蟹島に移る。
それにしても上代、平安期における我々のご先祖たちの性に対するおおらかさば、原始の時代からの母系制社会の名残によるものなのか、はたまたニッポン人が本来持つ性へのとらわれない倫理観によるものなのか。
加えてもう1つ、近世以前まで性病がこの国にはなかったこともおおらかさの理由になっているのかもしれない。
ともかく上代、平安期においては乱倫は文化ではあって、不道徳ではなかったのである。
このような社会風潮の中で遊芸と売春の2枚の看板を掲げて遊行女婦・あそび女・うかれ女の諸嬢たちは全国を闊歩し、さすらいながら立ち回っていた。
平安時代から中世へ、貴族政治から武家政治へ世の中が大きく変化していく中にあっても、フーゾクの世界は相変わらず、殷賑を極めていた。
鎌倉時代に入って白拍子が人気を博するようになるも、江口・神崎では流れの君(遊女)たちが大いにわが世の春を謳歌していた。
そして、鎌倉幕府の官職の中に、遊女の統制と争論の裁決をするための遊女別当が設けられ、〝長者の館″と呼ばれる娼家が宿駅などの交通の要衝に出現した。
当時の遊女屋には1軒あたり数人から30~40人の遊女が抱えられていたという。
鎌倉期の娼婦でもっとも有力だったのがくぐつ女で、旅人たちに木偶人形を舞わして見せ、歌を唄っては銭を乞い、ついでに淫も売る。
室町の世になると京の街中から湯女(風呂女)が起こる。
やがてそれが各地で人気となり、湯女は有馬(兵庫県)や山中(石川県)といった温泉地で大いにもてはやされた。
彼女たちは、まるで上臈のように歯を染めて黛を描いて白衣紅袴の装束という格好をして客の入浴時には垢を磨り、湯から上がれば酒の酌をし、さらに褥をともにするという結構なサービスぶりなのである。
いつの世にあっても、実にあさましきものは、無能な為政者の取り繕いのワザ。
時の足利幕府は、疲弊した財政の再建策として手当たり次第に税をかけ、その挙げ句が傾城局の新設である。
すなわち公娼制度の始まりである。

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  1. 2011/12/27(火) 07:00:03|
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「蛮社の獄」のすべて

「蛮社の獄」のすべて「蛮社の獄」のすべて
(2011/06/15)
田中 弘之

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天保10年(1839)5月に起きた「蛮社の獄」については、シーボルト事件とともに、「蘭学者弾圧事件」として知られている。
天保9年10月、前年のモリソン号来航事件をきっかけとして、江戸の蘭学者高野長英は『戊戌夢物語』を書き、田原藩の渡辺華山は『慎機論』を書いて幕府の対外政策を批判した。
そのため長英は永牢の判決を受けたが、弘化元年(1844)獄舎の火災に乗じて出獄し、嘉永3年(1850)江戸に潜伏中捕吏に襲われて死亡。
華山は在所蟄居の判決であったが2年後に自決し、華山・長英の同志であった小関三英は自ら命を絶った。
このほかに常陸の僧侶と江戸の町人たちが無人島(小笠原島)への渡海を計画していたとして捕えられ、そのうち4人は取調べ中に拷問を受けて死亡している。
文政11年(1828)のシーボルト事件は、鎖国の禁制が幕府のお膝元でもほころび始めていたことを示す事件であった。
華山は不自由な時代遅れの制度は改めるべきだという論法で、鎖国の撤廃こそ、国家、幕府のためにもなるものと考え、啓蒙活動を続けていた。
シーボルト事件を身をもって体験した長英の鎖国批判の思いは、華山にも増して切実であったであろう。
天保のなかば頃、常陸国鹿島郡鳥栖村(茨城県鉾田市鳥栖)浄土真宗無量寿寺の住職順宣とその倖順道が無人島に関心を抱くようになり、江戸の定宿である日本橋の旅籠山口屋の後見人金次郎らも、この渡航計画に関心を持っていたという。
この無人島渡航計画は幕府の許可を得たうえで実行することになっていたが、具体的なことは決まっておらず、無人島に関心のある人々が語り合っていたにすぎなかった。
しかし、仲間の花井虎一が目付の鳥居耀蔵のスパイとなって密告に及び、蛮社の獄で渡辺華山が捕縛されると同時に、花井虎一を除く僧侶や町人らが北町奉行所に拘引された。
無人島関係の町人たちが、すべて無実の罪で断罪され、獄死しているにもかかわらず、水野忠邦から「無人島渡海一件の魁首」と名指されていた華山が、判決ではまったく無人島関係に触れられていないのは、耀蔵と対立した大草奉行の尺力の結果といえようか。
しかし、幕府は事実の有無、判決の如何を問わず、終始華山を「無人島渡海一件の魁首」として扱っている。
以上のことから、いわゆる「蛮社の獄」とは、耀蔵が『夢物語』の著者の探索にことよせて「蘭学にて大施主」と噂されていた華山を、町人たちとともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して引き起こされた事件であったといえよう。
従来、蛮社の獄の犠牲者といえば、長英・華山の名があげられてきたが、鳥居耀蔵の好計を一身に浴びて獄死したのは、4人の町人たちであった。
このことは蛮社の獄という事件の性格をよく表しているといえよう。
こうした蛮社の獄の実態・性格からみて、この「蛮社の獄」という事件は、むしろ「無人島の獄」と称するのがより実態に近いといえようか。

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  1. 2011/12/26(月) 07:00:52|
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日本の聖なる石を訪ねて

日本の聖なる石を訪ねて――知られざるパワー・ストーン300カ所(祥伝社新書252))日本の聖なる石を訪ねて―知られざるパワー・ストーン300カ所(祥伝社新書252))
(2011/10/05)
須田 郡司

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日本各地の石を訪ねると、「注連縄」が巻かれている光景をよく目にします。
注連縄は、その石が神の「依り代」「御霊代」となっていることを表わす印で、神がその石に降臨するのです。
さらに、石や岩そのものが神として崇められ、これを直接拝む場合もあり、「石神」「イシガミサン」や「岩神」などは、そのさまをよく表わした言葉だと思います。
また、2つの石の間を注連縄でつないでいる場合は、そこが神の世界と人間界を分かつ結界。つまり、あの世、彼方への入り口です。
和歌山県新宮市の「神倉神社」(かんのくら)の社殿は、巨石に寄り添うようにありました。
高さ10mの巨石が「ゴトビキ岩」で、社号の「神倉」とはこの石のことです。
同じ新宮市に、熊野三山のひとつ、熊野速玉大社(はやたま)が鎮座していますが、神倉神社は、その元宮といわれ、速玉大杜を「新宮」としたことから地名にもなりました。
つまり、速玉大社の神々が最初に降臨したのは、ゴトビキ岩ということにもなります。
新宮市から近い、三重県熊野市の「丹倉神社」(あかぐら)にも古くからの巨石文化が残っており、神社に社殿はなく、岩が御神体です。
「夫婦岩」「夫婦石」は、大小2つの岩が夫婦が寄り添うように見えることから名づけられ、最も有名なものが三重県伊勢市の「二見浦の夫婦岩」でしょう。
夫婦岩は、男の岩と女の岩ですから、そのまま「陽」と「陰」に置きかえることができます。
海岸に「立神」(たつがみ・たてがみ)と呼ばれる岩が日本各地に60ヵ所以上も存在し、山中にそそり立つ石は不動岩・天柱石・石の塔などの名称で呼ばれていますが、やはり石そのものが信仰の拠りどころになっています。
なぜこうなったのかと考えさせられる造形のひとつに、「割石」があります。
巨大な石がスパッと大きな刀で断ち切られたような断面を見せていますが、実は、石と「切られる」ことの関係は深いものです。
多くの神々を生んだイザナミは、カグッチという火の神を生んだときに、体を焼かれて死んでしまい、夫のイザナギは悲しみのあまり、十握剣(とつか)でカグッチを二段に斬ったそうです。
そのとき、カグッチの体を流れ出た血から、石の神が次々に生まれました。
岡山県赤磐市郊外の小高い丘の上にある「岩神神社」(いわがみ)に本殿はなく、「畳岩」と呼ばれる巨岩がありました。
背後の岩で異彩を放っていたのが「ゆるぎ岩」で、揺れるだけで落ちないのです。
日本では、古くから丸い形には魂が宿ると信じられ、「丸石神信仰」の盛んな山梨市では500カ所以上で丸石が神として祀られています。
柱を立てる行為は、日本の神社において、大変重要なもので、そこが特別な聖域になります。
長野県の諏訪大社で8年に1度行なわれる「御柱祭」においても、20年ごとに行なわれる伊勢神宮の「御遷宮」においても、柱を立てることが最も重要な神事とされています。
「日本にもメンヒルがあった」と発表した鳥居龍蔵が命名したものに「鶴原メンヒル」「高山メンヒル」などがあります。
鶴原メンヒルは、大分県竹田市の「柱立(はしらだて)神社」にある2つの立石で、かつては陰陽石として信仰されていました。
愛媛県大洲市にある高山メンヒルは、「高山ニシノミヤ巨石遺跡」といい、いまは石仏として祀られています。
今度の震災で大きな被害を受けた東北地方沿岸部を訪ねましたが、ここでも石の信仰は不変でした。
むしろ大変なときだからこそ、自然と向き合おうとする純粋な気持ちが強くなるのかもしれません。

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  1. 2011/12/25(日) 07:00:55|
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聖武天皇と仏都平城京

聖武天皇と仏都平城京 (天皇の歴史)聖武天皇と仏都平城京 (天皇の歴史)
(2011/01/12)
吉川 真司

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天平21年(749)2月22日、黄金が出たという緊急報告が陸奥国から届き、4月1日、聖武天皇・光明皇后・皇太子阿倍内親王はそろって東大寺の大仏鋳造現場に赴いた。
このとき聖武は北面して大仏に相まみえ、みずからを「三宝の奴」と称して、陸奥産金を仏の慈悲のたまものと感謝し、随行した群臣に、国分寺建立・大仏造顕振り返り、三宝と神祗、および歴代天皇霊のおかげで金が出たと述べた。
陸奥産金をうけて新年号は、「天平」に「感宝」を加えて宝の出現を祝った。
聖武天皇の三宝への帰依はいよいよ深まり、閏5月23日には、出家して薬師寺に入った。
譲位の儀礼は7月2日に行なわれ、阿倍内親王が太極殿に即位し、孝謙天皇となり、「天平勝宝」という新しい四字年号が定められた。
大仏の鋳造作業は天平勝宝元年(749)10月に完了した。
光明皇太后に娘の孝謙天皇の治世を支えるために紫微中台という官司が設けられ、この後、光明皇太后-藤原仲麻呂を軸に動いていく。
天平勝宝7歳(757)5月2日、聖武は56年の生涯を終え、5月19日佐保山陵に葬られた。
聖武の死の前後から、(孝謙-光明-仲麻呂)による国政掌握を良しとしない空気が漂い始め、孝謙は大炊王を皇太子に立てることに決めた。
仲麻呂にとって大炊王はわが子同様の存在であり、仲麻呂と光明によって行なわれたのは明らかである。
天平勝宝9歳(757)6月、平城京に戒厳令が出され、仲麻呂が橘奈良麻呂らの謀議の取り調べを命じ、黄文王・道祖王・大伴古麻呂・小野東人ら6人が叩き殺され、獄中に死ぬ者、配流に処される者相次ぎ、処罰者は443人にのぼったという。
仲麻呂が主導した国政はめざましいもので、儒教的政治理念に立脚しながら、現実の政治・社会を改良しようとする積極的な施策であった。
天平宝字2年(758)8月、孝謙天皇が譲位し、皇太子大炊王が即位して淳仁天皇となった。
天平宝字4年(760)正月、孝謙太上天皇と淳仁天皇の臨席のもと、藤原仲麻呂は従一位を授けられ、孝謙の勅により大師(太政大臣)に任ぜられた。
光明は60歳にしてその生涯を閉じ、聖武と同じく佐保山に葬られた。
天平宝字6年5月、近江国の保良宮で、淳仁天皇が道鏡に深く帰依する孝謙太上天皇を批判し、ついに関係が決裂した。
孝謙太上天皇は機敏な初動で藤原仲麻呂の反乱を鎮圧し、10月には中宮院を包囲させ、淳仁天皇を廃位して淡路国に幽閉し、船親王・池田親王も隠岐国・土佐国に流された。
こうして孝謙太上天皇はふたたび天皇位(称徳天皇)についた。
藤原仲麻呂の乱によって、議政官に大変動が起き、僧道鏡が「大臣禅師」に任じられた。
称徳天皇の治世はよく「道鏡政権」と呼ばれるが、太政官政務に関わった形跡は見られない。
称徳は和気清麻呂に宇佐八幡神の神託を承ってくるよう命じたが、「天皇家以外の者を即位させてはならぬ。無道の人はすみやかに排除せよ」とする報告に称徳と道鏡は激怒して、清麻呂に別部穢(きたな)麻呂という姓名を与えて大隅国に配流した。
称徳天皇は道鏡即位を望んだのだが、不成功に終わった。
称徳天皇は神護景雲4年7月4日、平城宮西宮の寝殿で死去し、高野山陵に葬られた。
称徳を失った道鏡は、皇位をうかがう好計ありとして下野国薬師寺に左遷され、翌々年4月坂東の地で死んだ。
『続日本紀』は称徳の治世を「天皇は仏道を重んじ、つとめて刑罰を軽くした。最初の在位中には倹約を旨としたが、重祚ののちは道鏡に乗ぜられ、寺院造営に力を入れて財政難をまねいた。刑罰も厳しくなり、みだりに人を殺した」と総括する。
武朝に書かれたこの評言を、どれほど信じてよいのか分からないが、現段階にして認められるのは、重祚後の称徳天皇が「空前の専制君主」であったという、その一点である。

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  1. 2011/12/24(土) 07:00:05|
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野蛮な読書

野蛮な読書野蛮な読書
(2011/10/05)
平松 洋子

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宇能鴻一郎。
じぶんの内なる場所でこの五文字が依然効力を持ちつづけていることにもおどろく。
「あたし、濡れるんです」あたしと書くだけでアナザーワールドに連れてゆく天才、芋能鴻一郎。
でも、そもそも芥川賞作家ではなかったか。
かの山本夏彦は「宇能鴻一郎は名のみ高く、その姿を見たものがない唯一の文士である。」と評したが、そのすがたはおぼろげだ。
たしかに一世は風靡したけれど、実像が極端にうすい。
丹羽文雄の芥川賞選評は「芋能鴻一郎君の『鯨神』には、その豊かな描写力は、ひとを驚かすに足る。宇能君はどんな風になっていくのか、私達とあんまり線のないところへとび出していくような気がする」とある。
昭和37年大映作品、田中徳三監督『鯨神』もやっぱり濃い。配役がすでに濃厚すぎます。
丹羽文雄の予言どおり、『鯨神』以降の宇能鴻一郎は独自の世界に足を踏み入れてゆく。
昭和40年代前半、性と死、サディズム、フェティシズム、同性愛、異形のエロスを探求しながら『獣の悦び』、『魔楽』、『切腹願望』…おびただしい数の作品を中間小説誌に発表する。
『楽欲』を論評した澁澤龍彦は、「おそらく、日本で獣姦小説を書いたのは、宇能鴻一郎が最初であろう」と、さすが見逃していない。
「女ざかり」(昭和47年)あたりを契機にあの一人称独自体を発見したとき、宇能鴻一郎はあらたなべつの場所へ「とび出して」いたのではないか。
純文学から中間小説へ、さらに娯楽官能小説へ自在に進む足どりを知るにつけ、わたしは宇能鴻一郎がたどりついた文体にすがすがしさをおぼえはじめていた。
男の願望を女の肉体にぴたりと同一に重ねてみせる一人称独白体など、誰もかんがえつかなかった、書きえなかった。むしろ超俗。
それは、文学と官能をひとつの項にさだめて登攀しつづけた宇能鴻一郎ただひとりが達した険しい峰のように思われる。
その宇能鴻一郎がなんとまあ食のエッセイ『味な旅舌の旅』を書いていた。
食べものの味わいにやわらかく絡む視線、時間の流れ、気候風土、土地のひととの会話、そして日本文化にたいする造詣。
旅の情感をまとってたっぷりと豊か、こくのある文章が紡ぎだされる。
こんな作家を、きょうまでわたしは放擲していた。
不覚にもほどがある。
一箇所だけ、食べることと官能とのかかわりをつい吐露しているくだりがある。
「たしかにぼくには自分以外のあらゆる存在を、わが身に取入れたい、熾烈な願望のようなものがある。とりこんだあとの、血と脂にまみれた舌なめずりは言いがたい喜びである。」
このとき30代前半、「血と脂にまみれた舌なめずり」とは、なんとまあ不埒な書きっぷり。
宇能鴻一郎はつねに前後左右よけいなものは視界に入れず、じぶんだけの速度を思うさま疾走していたのだ。
昭和から平成へいたる日本をたっぷり悦ばせ、宇能鴻一郎は自分だけひと足先にどこかへ駆けていく。

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  1. 2011/12/23(金) 07:00:08|
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曹操墓の真相

曹操墓の真相曹操墓の真相
(2011/09/22)
河南省文物考古研究所

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西高穴二号墓は、現在までに発見された最大規模の後漢墓もしくは曹魏墓であり、総面積は740m2に達する。
墓道の幅は9.8mで、墓室の壁も非常に厚い。
また墓室は前・後室が配置され、それぞれが2つの側室をともなう構造である。
また墓室の建築材料は、いずれも後漢末における最高級かつ最高規格のものである。
墓室中から発見された頭骨から3名の被葬者がいたことを示し、主室には石葬具が用いられ、主室の両側室に陪葬された2人の女性は墓主の合葬・陪葬者であろう。
墓内に大きな石圭と石璧が組み合わせて使われており、皇帝陵に際立つ特徴である。
もっとも重要な点は、西高穴大量には墳丘が築かれていないということで、「薄葬」のもっとも重要な体現といえよう。
すなわち、死者の身分と墓葬の規格に反して、この墓は典型的な「薄葬」なのである。
西高穴二号墓における地上建築があったことが、発掘により実証されており、2号墓の北側で発見された版築の基礎址は、当時の地上建築の基礎であろう。
墓道の東端にある柱洞と墓室頂部の柱洞から、2ヵ所の殿堂があったことが分かり、墓主を祭る場所もしくは墓主に祭品を奉る場所であったと考えられる。
古代中国において、帝王の埋葬は重大な事業であり、埋葬が行なわれるとすぐに記録が残される。
曹操の埋葬については、『三国志』親書・武帝紀に―遺令に言う、「天下はいまだ安定しておらず、古代の制度に従う必要はない。埋葬が終わったならばすぐに喪服を脱ぎ捨てよ。
納棺の際には普段の衣服を着せ、金玉珍宝を副葬してはならない」―とある。
曹杢の「武帝哀策文」、曹植の「武帝誄」に曹操の埋葬前後の事情について、曹操が死去したのは建安25年(220)正月であり、埋葬が行なわれたのは同年の2月23日であった。
これは後漢王朝の時代である。
曹操は、66歳で戦争に明け暮れた生涯を終えた。
216年、漢の献帝は曹操を魏王に封じていた。
「武王」は、曹操がその死後かつ埋葬以前に献帝から贈られた諡号である。
墳葬の儀式あるいは墓葬中に「武王」や「魏武王」の語が確認できるのは、当然のことである。
220年10月、曹操が埋葬された8ヵ月後、曹杢は帝を称した。
同11月、曹丕は父の曹操を「武皇帝」と追尊し、220年10月以降、曹操は「武皇帝」「魏武帝」と呼ばれるようになり、「魏武王」と呼ばれることはなくなったのである。
「終令」「遺令」以外の文献も例外なく、曹操が鄴城の西部に葬られたと記録している。
曹杢の「武帝哀策文」に「此の宮廷を棄て、彼の山阿に捗る」とあり、崇山の峻嶺に向かう、まさに現在の西高穴村一帯に一致する。
西高穴二号墓は曹操の墓である。
皇帝の墓、西高穴二号墓は「曹操高陵」こそふさわしい名称であろう。

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  1. 2011/12/22(木) 07:00:02|
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