続・竹林の愚人 2012年01月

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日本列島 石器時代史への挑戦


日本列島石器時代史への挑戦日本列島石器時代史への挑戦
(2011/12)
安蒜 政雄、勅使河原 彰

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安蒜 政雄  旧石器時代編

約10万年前に誕生した現生人類は、アフリカを出て世界各地へ移り住んだ。
日本旧石器時代の石器群は、表土下の立川ローム層中、第Ⅲ層からⅩ層の時期まで連続して出土し、そこで跡切れる。
したがって、石器群が登場しはじめる立川ローム層第Ⅹ層の時点で、人類拡散の波が日本列島に到来したものと判断される。
人類が日本列島に移住した経路には、北海道を門戸とした北方ルートと、朝鮮半島・九州経由の南方ルート、それにフィリピン諸島方面から島伝いで九州に入る海洋ルートが想定されている。
第Ⅲ期の最終氷期最寒冷期では気温の低下で海が氷となり、日本列島と周辺大陸・半島との距離を大幅に縮め、所々に自然の陸橋もかけた。
旧石器時代人は、間近に迫った対岸へと狩りの獲物を追い求めて移り住んだことだろう。
このようにして、旧石器時代の日本列島には新旧2度にわたって人類が移り住んで来た。
人類の世界拡散に連動する第Ⅰ期の移住と、第Ⅲ期の最終氷期最寒冷期にはじまる環日本海旧石器文化回廊が背景となった日本列島への移り住みで、前者を旧移住(旧移住民)とし、後者を新移住(新移住民)とする。
日本列島内で発掘された旧石器時代遺跡の数は1万カ所を超え、東アジアのなかでも際立って多く、遺跡は関東平野部に集中する。
本州の中央部には、日本列島最大の狩場である関東の平野部に接して、石器石材に利用された黒色頁岩や黒色安山岩の大原産地赤城山麓(群馬県)がある。
その山あいを中部高地へと向かうと黒耀石原産地の霧ヶ峰に通じ、千曲川を下れば野尻湖周辺の狩場となる。
このように本州の中央部には日本海と太平洋とを横断するように狩場と石器石材原産地とが隣り合っている。
その関東・中部を中心とした本州中央部が、環日本海旧石器文化回廊が開かれた第Ⅲ期以後、右回りと左回りのミチ筋の終着地となり、ターミナル化するのである。
日本列島の旧石器時代にはナイフ形石器と槍先形尖頭器、それに細石器で区分され、いずれも剥片石器であり、ヤリの穂先の変革と歩調を合わせるようにして激しく変動した。
そのようななかでイエ造りとムラ構え、それに住まいの性格も大きくかわっていく。
日本列島の石器時代を特徴づける住まいは竪穴式住居で、地面よりも一段低く掘り下げた床があり、柱を垂直に立てる穴があって、中央には炉が設けられている。
これが石器時代の標準的なイエであり、縄文時代になってから本格化した。
旧石器時代の生業は狩猟と採集で、一個所に長くとどまることがなく、季節により狩場をかえ移動生活に支えられていた。
田名向原遺跡例のように柱穴や炉があり、まわりと区切る石を置いた住み直しがきく堅牢な造りのイエと、数本の棒を1点で束ねて円錐状に開いたような、柱穴の痕跡も残らない簡便な造りのイエの2種類があり、後者が圧倒的に多数を占めている。
第Ⅴ期の細石器文化では、2、3軒のイエごとにまとまる小さなムラが出現し、環状のムラと川辺のムラ、それに小さなムラという3種類の構えの違いがみられる。
旧石器時代は、植物の栽培や動物の飼育がまだおこなわれていない食糧採集の経済段階で、第Ⅲ期以降、主に北海道と東北の地を中心として河川漁撈がおこなわれたようだ。
しかし、日本列島には、湧別系細石器と矢出川系細石器が同化することなく、東西2つの分布圏が生まれた。
そして、自給自足の旧石器時代から、物々交換の縄文時代へ移っていく。
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  1. 2012/01/31(火) 07:00:59|
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戦後民主主義と少女漫画


戦後民主主義と少女漫画 (PHP新書)戦後民主主義と少女漫画 (PHP新書)
(2009/05/16)
飯沢 耕太郎

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1962年に『週刊少女フレンド』、63年に『週刊マーガレット』が創刊され、少女漫画の中心的な媒体が月刊誌から週刊誌にかわります。
週刊誌は毎月4冊以上出すので、連載漫画の描き手を懸賞で募集したわけです。
1964年に『少女フレンド』新人漫画家懸賞で入賞したのが、『ピアの肖像』でデビューした16歳の里中満智子で、青池保子、大和和紀、志賀公江、美内すずえといった少女漫画家たちが次々にデビューしていきます。
出版社は発掘した若い漫画家の囲い込みを進めて、担当の編集者やアシスタントを張り付け、人気が出た漫画をどんどん生産させるシステムをつくっていく。
そういう版元の消費社会の論理と、少女たちの表現意欲が幸福な形で結びついた時代が、70年代ということだと思います。
この人たちは、前の時代の漫画家たちと発想や制作方法がまったく違っていました。
大学闘争に敗れ、親への反抗が不発に終わる喪失感や挫折のようなものを同時代的に共有していた。
ストーリーに沿って並べたコマ割りを無視して、コマを横断した主人公の絵姿を置く描き方が出てくるのがその頃です。
ストーリーの流れとは別のところで、登場人物のモノローグの表現が増え、これを内面の言葉ということで「内語」と呼び、コマを浸食して増殖していくようになります。
「カケアミ」は、一定の運動と方向と規則性を持った線を縦横に重ねて、音楽でいえば通奏低音のような効果を発揮する線の束で、主に登場人物の背景として描かれます。
そうやって生み出された漫画の形式上の革命的な変化を、ほぼ極限まで洗練させていったのが、大島弓子をはじめとする「二十四年組」の漫画家たちでした。
男の子が女の子に入れ替わったり、猫が人間のように喋ったり。
いわば「関節はずし」みたいに、突然シリアスなヒロインの顔が稚拙な子どもの落書きみたいな造作になるというような、非常に自由な表現がどんどん出てきました。
彼女たちには、何よりも描かなければならないという切実な動機がありました。
少女漫画家志望の女の子たちは、学校を出てOLになって結婚して家庭に入っていくという、当時の普通の生活設計からはじき出されていたわけです。
だからこそプレッシャーに抵抗して周囲を納得させるには、自分の能力を自由に発揮できる居心地のいい空間を確保しなければならなかったわけです。
その意味で少女漫画は、彼女たちにとって一種のアジールでした。
70年代にはその欲求が、少女漫画のコミュニティとして開花したと言えそうです。
何人かの漫画家たちは、実際に共同体的な空間を作り出そうとしていました。
「大泉サロン」は、漫画家志望でのちに小説家になる増山法恵が、親しい友人だった竹宮恵子を誘い、竹宮が萩尾望都を誘って、練馬区南大泉にある増山の家の真向かいに一緒に住みはじめたのが始まりです。
この2軒の家にはやがて山岸涼子、ささやななえ、佐藤史生、坂田靖子ら、ほぼ同世代の漫画家たちが集うようになり、かなり濃密な「サロン」ができあがっていきました。
「大泉サロン」は1970年から73年頃まで続き、それぞれの仕事が忙しくなって共同生活もむずかしくなっていったようですが、このようなアジール的な共同体は、当時あちこちにあったのではないでしょうか。
作者を囲むお茶会や同人誌発行などの活動を通じて、少女漫画家の予備軍たちは横の連帯を強めていきました。
その動きが80年代以降、商業主義に傾きつつも「コミケ」のような巨大イベントに発展していったのです。

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  1. 2012/01/30(月) 07:00:31|
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スティーブ・ジョブスとアップルのDNA


スティーブ・ジョブズとアップルのDNA ~Think defferent. なぜ彼らは成功したのか?~スティーブ・ジョブズとアップルのDNA ~Think defferent. なぜ彼らは成功したのか?~
(2011/12/27)
大谷 和利

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初代Macintoshの誕生にあたって、ビル・ゲイツが「新たなスタンダードを作るには少しだけ違っているというだけでは不十分であり、本当に新しく人々の想像力をかき立てることが必要だ。」とコメントしたように、ジョブズは"Think different."であることによって、それまで世の中に存在していなかった素晴らしいクリエーションをいくつも行ってきた。
"Think different."こそ、スティーブ・ジョブズのDNAに刻まれた、彼の本質だった。
初代iMacでは、美しい半透明ボディを採用したためにCRTの電磁波を防ぐ対策や、ポリカーボネート樹脂に色素を均一に混ぜ合わせる解決法を新たに見つけなくてはならなかった。
新世代マシンに装備する入出力ポートの選択は難しく、過去の技術を捨てて、USBの採用や、エントリーモデルへのイーサーネットの導入など、さまざまなチャレンジを促した。
I/0ポート類を廃してまだ普及していないUSBポートの採用は、業界にとって非常識なマシンだったが、周辺機器メーカーが積極的に製品を開発・販売したために、iMacとともにUSB規格も常識化していった。
さらに、側面の入出力ポート部分を筐体の曲面に合わせたドアで隠す手間のかかる構造だった。
しかし、それらの特徴があったからこそ消費者はiMacの新規性を感じとれた。
長年、ライバル関係にあったマイクロソフトのビル・ゲイツは、そんなiMacの魅力を理解できず、一体ユーザーは何に騒いでいるのか?と首をひねったが、まさにそれがアップルと他のコンピュータ関連企業を分けるポイントといえた。
素晴らしいデザインを生み出しつつ、同時にコストをリーズナブルに抑えるというのは、並大抵のことではない。
例えば、フラッシュメモリの場合、総額12億5000万ドルの前納金を払って、5年先まで特別価格で優先的に供給されることで、iPodの競争力ある価格設定ができた。
MacBookに採用されたアルミ切削のユニボディは加工費が高くつくが、切削機械の速度向上で下げることができ、一体構造にすることで組み立ての手間が省けてコストダウンになる。
2009年に発売された第3世代iPodシャッフルも切削加工され、アップルはさらにこの手法を推し進めた。
アップルの戦略は、もともと他社では思いつかないようなものが非常に多い。
しかし、製品化されてしまえば、デザインやビジネスモデルなどを模倣した類似品が市場に出回るのは時間の問題だ。
だから、アップルは相手に考える隙を与えずに次々と奇手・新手を放って、素早い決断で先行者利益を確保し、フォロワ一を尻目に率先して流れを作り上げていくのだ。
iPhoneも当初はキーボードを搭載しないことが非常識だと叩かれたが、現在はほとんどのユーザーがタッチ式のソフトウエアキーボードに慣れ、iPhone自体がスマートフォンの常識となりつつある。
アップルは他社が常識だと思っているために越えられない壁を、直感とそれをフォロ一する綿密なビジネスシナリオによって打破し、孤高の存在となっても新しい分野に切り込んでいくのだ。

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  1. 2012/01/29(日) 07:00:08|
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謎解き 太陽の塔


謎解き太陽の塔 (幻冬舎新書)謎解き太陽の塔 (幻冬舎新書)
(2010/11)
石井 匠

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現在、「太陽の塔」は万博記念公園となった大阪の千里丘陵にひとりぽつんと立っている。
岡本太郎が「太陽の塔」を制作していた時期は、メキシコオリンピックに向けて建設予定のホテルロビーをかざる大壁画「明日の神話」を制作していた時期とパラレルな関係にある。
巨大な2つの作品は双子の兄弟だったのだ。
「太陽の塔」の左右には「青春の塔」と「母の塔」という2つの塔が並び立ち、千里の丘に立つ「太陽の塔」とゴルゴタの丘で磔にされたキリストとの相似をきわ立たせる。
太郎は『美の呪力』で磔のキリスト像を描写するとき、「ひきつった手の形相」に注目しているが、「芸術は爆発だ!」と叫ぶときの太郎の手の形にとてもよく似ている。
俺は磔にされてもにっこり笑っている、という太郎の意味深な冒涜的発言に加え、聖母子像と「母と子」「エクセ・ホモ」、さらにマリアとキリストが入れかわった「ピエタ」も描いていた。
岡本太郎は母に聖母マリアを、そして自身にキリストを見ていたのは確実だろう。
逆転の「ピエタ」には「太陽の塔」と同じ白い体で首のもげた母かの子が描かれていた。
そのもげた首は、黒い聖母と十一面観音にイメージが重なる黒いマスクとして、白い十字架=「太陽の塔」の背中に貼りつけられた。
ちょうど逆転の「ピエタ」で太郎が母かの子を抱きかかえるように、磔のキリスト=太郎=「太陽の塔」は黒いマリア観音を背負っている。
「太陽の塔」は母と息子が表裏一体となった、ハイブリッド磔刑図であったのだ。
「太陽の塔」がキリスト、あるいは聖母マリアだったとするならば、白い巨塔もまた磔刑のキリスト図のように両手をひろげ死んだあと、復活して昇天しなければならない。
「太陽の塔」の地下「いのり」の空間には、「地底の太陽」という黄金の仮面が鎮座していた。
しかも、「地底の太陽」の黄金の包帯を引きはがすと、両目がくりぬかれて口がないドクロが現れ、「明日の神話」のドクロとぴたりと一致するのだ。
つまり、「太陽の塔」の頭にある黄金のカラスと、足下にある黄金のミイラは、天と地で結ばれる「明日の神話」の霊と肉であり、生贅の魂と骸だったのだ。
「明日の神話」には燃える骸骨に黒焦げになった人々がいたるところに描かれた原爆図だ。
「明日の神話」は「太陽の塔」と双子の兄弟であるばかりか、骸と魂という関係性を持ち、しかも、壁画の燃える骸骨は「太陽の塔」内部の「生命の樹」と対応してもいる。
「明日の神話」の骸骨もまた、まちがいなく岡本太郎=キリストなのである。
キリスト=岡本太郎は磔刑に処されたあと、身体は天空の聖火に、頭は大地の聖火に焼かれて合体復活することで「明日の神話」の骸骨となり、さらに天空をめざしているのだ。
その場所は「明日の神話」の真上に倍のスケールをもつ壁画「豊穣の神話」だ。
この巨大な壁画は実制作されなかったが、残る習作には中央に黄色いわれた顔の人物が描かれており、おそらく岡本太郎自身だ。
こうして「明日の神話」の骸骨は昇天して、豊穣をもたらす幼神に転生することで、「太陽の塔」の磔刑からはじまる太郎神話は一応の完結をむかえるのだ。
大阪万博において、岡本太郎は祭りを司る呪術者として「進歩と調和」に対決を挑んだのである。
「太陽の塔」の地底に埋められていた「地底の太陽」は、現在も行方不明のままだ。
その黄金のミイラの正体「明日の神話」はメキシコで発見され、渋谷の空中回廊に復活した。

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  1. 2012/01/28(土) 07:00:48|
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銅像受難の近代


銅像受難の近代銅像受難の近代
(2011/02)
平瀬 礼太

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大村益次郎像近代の東京の三大銅像として、楠木正成銅像・西郷隆盛像・大村益次郎像がある。
大村益次郎像は、1884年に旧交ある数十名が発起人となって建設することとなり、86年には靖国神社境内に置くとされたが、寄付金が予算の1万円には届かず中止となっていた。
製造を大阪造幣局から埼玉県川口製鉄所に変更し、1893年2月5日にようやく落成式が挙行された。
楠木正成像後醍醐天皇を奉じて建武政権樹立に多大な貢献をなした楠木正成は、忠臣の代表として絶大な人気を得て楠公と親しまれ、全国に設置されたが、最も知名度が高いのが皇居外苑の像である。
1889年(明治22)に楠公馬上の肖像を靖国神社に奉納する計画があり、高村光雲が彫刻して、1891年秋頃には竣工する見込みだった。
それとは別に、九鬼隆一帝国博物館館長が皇城荘厳の観を添えるために正門外広場中央に巨大銅像を設置して本邦美術の模範としようと、東京美術学校・日本美術協会・京都画学校・東京彫工会などに懸賞募集を通達した。
その結果、川端玉章と岡倉秋水が考案した「楠廷尉甲冑騎馬の像」が優等とされ、これに博物館員の川崎千虎が修正を加え、上覧を経て製造することになっていた。
また、 1890年に 住友友忠が広瀬幸平と計画を練り、別子銅山の開坑200年記念として奉献しようと、意匠製作を東京美術学校に依嘱したとある。
面貌を高村光雲、時代考証は川崎千虎、刀剣は鑑刀家今村長賀の指揮、身体は山田鬼斎・石川光明、乗馬は後藤貞行と東京美術学校教授陣を中心に進められ、1893年に原型が完成し、岡崎雪声が鋳造を担当した。
1896年に鋳造が終り、石台は宮内省経費で造られることになり、1900年7月10日に工事が終っている。
西郷隆盛銅像 西郷隆盛銅像の建設計画は西郷の七回忌にあたる1883年(明治16)2月12日に記念碑建設運動が盛り上がるも実現しなかった。
勤王の士でありながら、国賊・西郷のイメージが顕彰を妨げていたことは想像に難くない。
1889年の憲法発布の大赦で西郷にも正三位が贈られ、贈位の祝宴の席で銅像建設の発議が行われ、上野公園内に軍装の馬上像を安置する計画となった。
翌年には樺山と九鬼が宮城正門外広場への設置をもくろむも、1892年には元寇紀念碑を是とし、西郷隆盛像の宮城正門外広場への設置は取り消され、上野公園への建設が許可された。
東京美術学校に依頼された銅像は陸軍大将姿であったが、最終的には現状の犬を連れた平服姿になって、1898年12月18日に除幕式が挙行された。
1914年(大正3)には靖国神社神苑改造計画で大村益次郎銅像を動かす問題が起こり、関東大震災では西郷隆盛像も行方不明者を探すビラが無数に貼られ、宮城外苑の芝生も20万人の避難者を収容して楠公銅像の取り壊しも計画されたという。
日中で交戦状態に入ると、1938年(昭和13)には銅使用制限規則が通達され、銅像供出への動きが加速し、1943年(昭和18)には「銅像等ノ非常回収実施要綱」が閣議決定され、 忠犬ハチ公の銅像も 1944年に供出された。
戦後、東京都では銅像や記念碑など20基を審査し、1947年に広瀬中佐銅像を撤去した。
撤去理由は戦意昂揚や敵愾心の助長、国際友好の損害などであった。

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  1. 2012/01/27(金) 07:00:59|
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昭和食道楽


昭和食道楽昭和食道楽
(2011/07/12)
矢野 誠一

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映画評論家荻昌弘を訪ねて、奥さんが、「よろしかったら」と出してくれたのが、朝店をあけると行列ができていて、焼きあがるのを待って有難く売っていただく、浅草はすし屋通りの有名店の手焼煎餅だった。
これがほんとの東京の煎餅だと、なつかしい味を楽しむにも、なにかと厄介な手間のかかる時代がすでにきていた。
子どものころ、どこの家に行っても煎餅があって、出してくれたものだった。
子どものおやつに格好だったというより、常備してある菓子といったら保存のきく煎餅くらいだったのだろう。
どこの家にも煎餅があったように、小体な煎餅屋も東京の町にはたくさんあった。
ひとつ町内に一軒くらいの割であったのではなかったか。
東京の人間が煎餅と言ったら、これはもう「塩煎餅」のこととする暗黙の了解があるのだが、大阪の人はそうでないらしい。
東京で言う塩煎餅は「おかきの一種」で、「せんべい言うのは別や」とすましている。
それにしても東京には塩煎餅好きが多い。
そうして、そんな煎餅好きが口をそろえてこぼすのが、近ごろは昔ながらの味のする美味い煎餅を手に入れるのがむずかしくなったという愚痴である。
いわゆる高級銘菓の老舗あたりが、一枚一枚和紙の袋におさめて、デパートの名店街などで売っている手焼煎餅と称するものがあって、たしかに上品なお味ではあるが、煎餅好きに言わせれば「京都の干菓子じゃあるまいし、あんなもの煎餅じゃない」と、こうなる。
手焼煎餅昔風の味のする煎餅とは、まずは手焼であること。
それも炭火の上を長箸使ってひつくりかえしながら焼く式のもので、上から鉄の重しで押しっけて平らにするのは感心しない。
蟇の背中よろしくいぼいぼができてなくては、煎餅の名が泣こうというものだ。
そしてこれがいちばんの肝腎かなめなのだが、つける醤油が辛口で、香ばしさのあることだ。
落語『道具屋』の与太郎は、土がやわらかくて穴掘りは楽な田圃の興立寺で親父の葬式を出したのだが、会葬御礼のお菓子の切手は煎餅の袋で安直にすました。
おそらくそのあたりのなんでもない煎餅屋であつらえたのに相違なく、またひと昔前には、うまい手焼の塩煎餅のそれこそ「買いどころ」がいくらでもあった。
神社仏閣の門前町にはいい煎餅屋が店をかまえているに相違ない。
やはりここが名門中の名門とされている浅草はすし屋通りの煎餅屋。
これが店の売物でもあるのだが、あの堅焼ぐあいがこの節めっきり衰えてきたわが歯牙のぐあいに、あまりふさわしくない。
そんなわけで、わが煎餅巡礼のあげくここが一番の好みは新井薬師の小店のもので、ひと口かめば子どものころのもろもろが蘇ってくるような気分に襲われる。
同好の士たる小沢昭一さんも、この店がお気に入りの様子だ。

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  1. 2012/01/26(木) 07:00:20|
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秦河勝


秦河勝 (人物叢書)秦河勝 (人物叢書)
(2011/12/15)
井上 満郎

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秦河勝のことは、史上に4度しか登場がない。
いわゆる崇仏論争のときと、広隆寺創建と、新羅からの使節を迎接したときと、東国の人大生部多を打ったときとである。
秦氏の祖の弓月君の渡来の際に、百済より渡来してくる時に新羅人が妨害したので加羅国に留ったという『日本書紀』の記事は創作としても、5世紀における朝鮮半島の戦乱・動乱が秦氏をはじめとする渡来人の日本列島渡来をもたらした。
『日本書紀』雄略天皇15年(471)条に、秦の民が分散して諸豪族に使役されていたのを雄略が秦酒公に賜り、禹豆麻佐(うずまさ)の姓を与えられたとある。
秦氏の集中的な居住地として京都の嵯峨野が知られるが、嵯峨野古墳群は5世紀後半の造営で、秦氏の同族墓と考えられる。
崇仏論争は、欽明天皇13年(592)天皇は仏教を「歓喜び踊躍」り、蘇我稲目が賛成したのに対し物部尾輿と中臣鎌子が反対し、用明天皇2年(587)に最終衝突となり、蘇我馬子が物部守屋を滅することを謀る。
このとき、秦河勝は厩戸皇子の側近として太子を護り、守屋の頭を斬った功績で「大仁」の位を与えられた。
『日本書紀』推古天皇11年(603)11月条に、厩戸皇子がだれか仏像をまつるものがいないかと問い、河勝が進みでてこれを受けて建立したのが峰岡寺だという。
この峰岡寺が太秦寺とも呼ぶ広隆寺のことで、現在は京都市右京区太秦峰岡町に所在している。
厩戸皇子の側近である川勝が仏像を下賜され、拠点の京都に持ち帰って氏寺ともなった広隆寺を創建したのである。
推古天皇18年(610)河勝は来日した新羅の使節を迎接する役目を負う。
同15年(607)聖徳太子が馬子とともに神祇を祭ったのち史上から姿を消すが、河勝もこの後、政界はおろか、まるでどこにも河勝の名は見出せない。
宮中に祀られた神々のなかに、朝鮮半島の神・園韓神がある。
園神社・韓神社は河勝の直系の家に祀られていた屋敷神が、平安遷都後に国家の信仰のなかに取り込まれていったのだ。
秦河勝が国家・朝廷の神祇政策の一環として大生部多の弾圧に動員されるが、式内社・大生部兵主神社が但馬国出石郡に所在する。
この神社の存在からして大生部・大生部氏の居住を推定しても誤りではないと思われる。
大生部氏と秦氏の奉祭する兵主神が但馬国に濃密に分布し、その但馬国は秦氏につながるアメノヒホコの最終到達地である。
京都の秦河勝と東国の大生部多とに関係性があったから、皇極天皇3年(644)に河勝が東国の「不尽河」あたりまで出かけていき、打倒に成功したのだろう。
秦河勝の死去については、信頼するにたる歴史史料は無いが、秦河勝の墓所が播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市坂越)にあり、秦氏の祖神・弓月君を祀る大酒神社が多くある。
この神社のおおもとは京都の大酒神社で、『山城名勝志』に「桂宮院内に座せり」と、もとは桂宮院のなかにあった。
もっとも、現存する桂宮院は建長3年(1251)の中観澄禅の勧進からはじまるものだ。
河勝墓所生島の地の大避神社の社伝では、河勝は大化3年(647)9月12日に死去したという。
『播州赤穂郡志』は、河勝が難波から船で坂越に至り、年暦を経て神僊と化すが、到着後の居所と、死後の墓所を坂越の生島とするわけである。
京都でも広隆寺本堂の西南に「石ノ塔」があって、それが河勝の墓石とされていたらしい。
今1ヵ所は、河内国茨田郡幡多郷(大阪府寝屋川市川勝町)にあり、秦村・太秦村なども存在していた。
この河勝墓所が史料上に見られるのは近世になってからで、秦河勝への敬意が近世にも続いていたことが知れて興味深い。

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  1. 2012/01/25(水) 07:00:04|
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「デジタル一眼」上達の極意


カラー版 一歩先行く「デジタル一眼」上達の極意 (COLOR新書y)カラー版 一歩先行く「デジタル一眼」上達の極意 (COLOR新書y)
(2011/01/19)
米本 昌英

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デジタル一眼はコンパクトデジカメより自由な絵づくりができます。
デジタル一眼で被写体以外のものをぼかすことで、被写体を浮かび上がらせることができます。
このボケ味をうまく使うというのが、上達のカギの一つになります。
撮った写真を見ていくと、色に不満が出てきますから、オートホワイトバランスで調整すると、思った絵柄にできることがあります。
昔から、「写真は引き算だ」といわれ、画面はできるだけシンプルを心がけることが大切です。
フィルムカメラを使った経験のある方は、いまだに暗いところではストロボなしでは写らないと思っていますが、今日のデジタルカメラはストロボを使わずにとてもきれいに撮れるのです。
フィルムカメラの時代には、フィルムごとにISO感度が決められていましたが、デジタルカメラは1枚ごとに感度を変えられます。
ISO感度を上げると画像は荒れますが、フィルムよりも荒れは少ないと考えていいでしょう。
現在はISO感度が3200とか6400ですから、フィルムカメラのISO感度400の8~16倍も感度がよく、それだけ暗いところで撮れるようになっているわけです。
逆にいえば、これまで2分の1秒のシャッタースピードで撮っていたものが、15分の1秒とか30分の1秒のシャッタースピードですんでしまうのです。
シャッター優先オートは動くものをピタッと止めて撮りたいときに選択します。
プログラムオートはスナップ撮影などシャッターチャンスを逃さずスピーディに撮影するときに便利です。
失敗なく写っている写真がいい写真だったら、プログラムオートはすごく便利な機能ですが、私は撮影するときは90%が「絞り優先オート」です。
カメラのレンズは、開放値から2~3段階絞り込んだあたりの画質が最もよくなります。
標準的な条件下での撮影ではこのあたりに絞りを設定して撮影をスタートして、液晶モニターで確認しては絞り込んでみたり、逆に開けてみたりと、許す限り露出補正を繰り返しながらシャッターを押すのです。
こうしたやりかたで撮影すすれば、納得のいく写真が撮れるようになるはずです。
プロは1カットで決めるのだろうと勘違いされるのですが、実際は、プロのほうがたくさん撮っています。
100カット撮って1カットよいものを選びます。
デジタルカメラだからこそ、何カットでも撮れるのです。
とにかく撮って撮って撮り続けてください。
そうすると、間違いなくうまく撮れるようになります。
カメラを持って歩いていると、普段は気がつかないようなことに気づき、感動できるのです。
この感動は人生を豊かにします。
これこそが写真の楽しみであり、醍醐味ではないかと思います。

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  1. 2012/01/24(火) 07:00:09|
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わたしの京都


わたしの京都わたしの京都
(2011/11)
山田 英子

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薔薇男

誕生日に薔薇の花束がとどく。
花屋ではない、男がたずさえて来たのは、彼が丹誠して開花させた薔薇の花であった。
そとおりひめ、あけぼの、てこな、だいもんじ……マダム・ビオレ。
うるわしき花さうび……とかいう詩を読んだことがある。
平安時代の京都の庭には、さうびが植え込まれていたという。

『源氏物語』賢木の巻では、「階の底の薔薇けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに、うちとはて遊びたまふ」
御殿から庭にかけられた階段の下に、ほんの少しばかり咲いた薔薇の花。
その風情を見て人々はくつろぎ、管弦の遊びを楽しんだ。
朧月夜は朱雀帝の寵愛をうけながら、病気のため里下がりしていた彼女は、夜な夜な源氏と密会する。
激しい雷鳴の朝、見舞いに訪れた父に見つけられてしまった。
衰勢に傾いていた光源氏は、この事件がきっかけで、須磨への失脚につながっていく。

少女の巻には、「北の東は、涼しげなる泉ありで、夏の蔭によれり。前近き前栽、呉竹、下風涼しかる、べく、木高き森のやうなる木ども木深くおもしろく、山里めきて、卯花の垣根ことさらにしわたして、昔おぼゆる花橘、撫子、薔薇、くたになどやうの花のくさぐさを植えて、春秋の木革、その中にうちまぜたり」
東北の町は、花散里が女主人として住まうことになる夏の町である。
彼女の好みを取り入れで、市中の山居のような庭の一部に、わざわざ卯の花の垣根をめぐらし、そこに薔薇が植えられたのだ。
花散里といえば、菩薇には似つかわしくなく、容貌が劣っていたけれども、源氏は生涯彼女を庇護し続けるのである。

京都の郊外、庭園だけでなく、館の周辺も玄関もおおいつくす色と香り、200種類の菩薇が栽培され、いまいっせいに花咲いている。
彼がお土産に切ってくれた花はピンクの「清涼殿」、白い「ティネケ」、覆輪の「ジェミニ」など、いずれも見事な大輪の菩薇である。
「本当はこの姿のままシリカゲルに埋めて、いつまでも残してくれたらうれしいよ」と菩薇男は言ったのだ。
帰り道で店を探して、真っ白な粉、シリカゲルを3キロ買ったものの、不器用なわたしがこれを利用することはなかった。
菩薇の生き埋め? 
そんな残酷なこと、わたしにはできない。

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  1. 2012/01/23(月) 07:00:37|
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ダルビッシュ球場


ダルビッシュ:一問一答「野球好きの子供は変わらない」 毎日jp 2012年1月21日 16時42分
「大阪の羽曳野市で生まれ育った野球好きの子ども」ということは変わらない。

これでダルビッシュ球場の実現が早まりそうですね。

「故郷に恩返し“ダルビッシュ球場” 大阪・羽曳野、寄付金で3年内に建設」 MSN Japan 2010.6.29 12:11
ダルビッシュ投手が平成20年12月、北川嗣雄市長に会い「故郷への恩返しのため、グラウンドの建設費用を出したい」と申し出ていた。
市内には現在、公式戦に使用できるような整備された硬式野球専用グラウンドがない。
ダルビッシュ投手も中学校時代、市内の硬式少年野球チームに所属していたが、練習場所は狭い河川敷だった。
そのため「子どもたちのためにもグラウンドが必要」との思いが強く、グラウンド建設を提案したという。

テーマ:大阪 - ジャンル:地域情報

  1. 2012/01/22(日) 09:36:19|
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