食通で鳴らした喜劇役者の古川緑波が「美味の国」とたたえた富士屋ホテルは、明治11年(1878)に創業したリゾートホテルの老舗である。
大正9年(1920)に完成した厨房は天井が高く、ガラス張りの天井から太陽光が降り注ぐ構造が当時、注目を集めた。
2代目の山口正造が料理場をホテルの一番良いところにと考えて完成させた。
戦後、最初のリゾートホテルとして開発され、昭和26年(1951)に開業した志摩観光ホテルが新館を建てようとしたとき、高橋忠之は厨房のあり方が料理の味に影響すると考えて、天井の高い広々とした厨房を設けることを提案した。
横浜のホテルニューグランドが昭和2年(1927)に開業したとき、サリー・ワイルというスイス人が料理長として来日した。
ワイルは部下たちに惜しみなく調理技術を教えて、のちに多くの優れた料理人を輩出してニューグランド一派を形成することになる。
ワイルを有名にした科理の1つにシュリンプ・ドリアがある。
総料理長を務めた高橋清一によると、宿泊していた銀行家が体調を崩し、何かのどに通りがいいものを作ってほしいとの注文が出て、ワイルは即興で太鼓形のタンパルという器にご飯を盛り、ヨーロッパで流行していた小エビのクリーム煮を載せ、グラタン・ソースをかけて焼き上げた。
この料理は米を主食にしていた日本人に好まれ、日本中に広まっていくのである。
『ジャングル・ブック』の作者として有名なラドヤード・キプリングは、明治22年(1889)に神戸のオリエンタルホテルに滞在し、ペナン島のオリエンタルホテル、シンガポールのラッフルズ・ホテル、香港のビクトリア・ホテルというアジアの名門ホテルを超越していると絶賛している。
当時の経営者は、フランス人の料理人ルイ・ビゴーで、彼の腕前が大いに発揮されていたようだ。
大正11年(1922)に来日したアルベルト・アインシュタイン博士が、札幌で豊平館に滞在し、科理長の関塚喜平に「とても料理が美味しかった」と何度もお礼を言われた。
昭和7年(1932)に初来日した喜劇王チャールズ・チャップリンは、大の和食好きになったが、滞在していた帝国ホテルでは、昼も夜もステーキを食してご満悦だったという。
帝国ホテルでは和牛を炭火でていねいにミディアムレアに仕上げていたのだ。
食通で鳴らした池波正太郎は、軽井沢の万平ホテルの朝食を「クレープ風のパン・ケーキがあって、これにシロップとベーコンを添えて食べるのは、まさに戦前のホテルの朝食の醍醐味だろう。」と記している
ホテルではレストランだけでなく、宴会場という空間もまた食通のユートピアと化していた。
作家の内田百閒は無類の鉄道好きであるだけに、東京駅舎の一部を利用した東京ステーションホテルを愛用し、誕生日には「摩阿陀会」を宴会場で開いていた。
このとき、百百閒は酒から料理に至るまで、すべて自分で注文したものだった。
ホテルの料理というと西洋料理が主役だが、天ぷらで有名なホテルが東京・神田駿河台の山の上ホテルだ。
このホテルは作家御用達のホテルといってもいいほど、愛用する作家が多いが、創業者の吉田俊男が、天ぷら屋の主人に職人の原点を見て好きだったことから、山の上ホテルの宿泊客は例外なくこのホテルの天ぷらを好んだという。
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- 2012/08/31(金) 07:00:09|
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堤 勇二 京都観光の案内書
現在京都は年間5000万人の観光客を迎える日本最大の観光都市だが、京都が観光都市としてその名を轟かせ始めたのは江戸時代になってからのこと。
京都が名実ともにわが国の政治経済の中心であった間は、それほど多くの人々がこの地を観光に訪れていたわけではない。
政治や経済の中心ということはそのまま政権の舞台ということであり、多くの戦乱、争乱の舞台となるわけで、花見や物見遊山どころでない時期も多かった。
それが徳川の世の中となり、実質的に政治の舞台が江戸に移り、政治的には安定した世相のなかで多くの人々が京都見物を楽しめるようになる。
京都観光に関する最初の本格的なガイド、案内本が出版されたのは明暦4年(1658)のこと。
中川喜雲の『京童』は、利発な子供が洛中洛外の名所旧跡87ヶ所を案内するという設定で、以後毎年のように京都案内の本が出版されている。
経済の舞台が「天下の台所」といわれた大坂に移る寛文・延宝のころになると、さらにバラエティに富み、より広範囲な内容をもった案内書が刊行される。
延宝4年(1676)に出された黒川道祐の『日次紀事』(ひなみきじ)は元日から大晦日まで、その日に行われる祭事や行事、貴族や公家の忌日まで紹介し、民間の行事、生活、言語、風俗まで解説しているのが特長だが、残念ながら発刊後まもなく廃刊となっている。
今日わずかに残っている2部とも82ヶ所にわたって、上賀茂神社、松尾大社、貴船神社などの神事に関する記事が
墨引きされている。
貞亨3年(1686)には初の本格的地誌『雍州府志』(ようしゅうふし)が同じく黒川道祐によって刊行されている。
京都を形勝、風俗、山川、土産、神社、寺院、古跡などに分類して、道祐による実地の検分と古典の研究を基に論じられている。
政治、経済の中心地としての地位を江戸、大坂に明け渡しながらも、京都が都としての地位を不動のものとさせ、多くの人々の憧れの地であり続けた理由は、京都が文化の都として、また工芸、芸能の都としてそのスキルに磨きをかけて他地域の追随を許さない最高の水準を維持し続けていたからである。
18世紀になると、その後の京都案内書を先取りするようなガイドが出版される。
宝永元年(1704)に金屋平右衛門から出された『宝永花洛細見図』である。
改めて京洛の神社仏閣や雪月花の名所旧跡を実地に検分し、その建物の形容から建つ方角まで正確に写し出し、故事来歴や年中行事までを15巻の絵本としてまとめたもので、以後の絵入り案内書の囁矢といえよう。
さらに地誌の分野も充実し、現在までその内容が引用されることの多い『山州名跡志』や『山州名勝志』が相次いで刊行されたのが正徳元年(1711)のこと。
こうした京都案内本の故事来歴や祭事行事の研究書的性格とビジュアルな絵画的側面の2つを合わせもつ驚異的なベストセラーがついに登場する。
それが安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』である。
秋里籬島が文章を書き、挿絵を大坂の竹原春湖斎に依頼して書林吉野屋為八から刊行したもので、読者はいながらにして京都見物ができたかのような錯覚すら覚えた。
この絵の価値はその写実性にあり、刊行後の京都での大火で焼失した寺院の再建に大いに役立った。
凄まじい売れ行きで、書林は天明7年(1797)続編として『都名所図会拾遺』5巻5冊を刊行した。
この正続名所図会の刊行は全国に一大観光ブームを巻き起こし、各地の観光名所で幕末までに実に28点の名所図会が生まれている。
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- 2012/08/30(木) 07:00:18|
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死者最大32万人を想定 南海トラフ地震、政府が特別法検討へ (
日経) 2012/8/29 17:00
内閣府の有識者検討会は29日、駿河湾から日向灘の「南海トラフ」を震源域とする最大級の地震が起きた場合、関東から九州・沖縄の30都府県で最大32万3千人が死亡、238万6千棟が全壊・焼失するとの被害想定を公表した。
南海トラフの巨大地震モデル検討会被害想定は、地震のタイプや発生時間、風の強さ、早めに避難する人の割合など条件の異なる96のケースについて推計。
在宅率が高い冬の深夜に東海地方を中心に大津波が襲うケースで死者が最多になるとした。
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- 2012/08/29(水) 18:36:37|
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Charles Ka`upu(チャールズ・カウプ)2011.7.13死去。享年53歳。
チャールズ・カウプは、純粋なハワイアンの父と、ハワイアンと日本人の血を引く母のもとオアフ島パロロに生まれた。
チャールズの家族は祖父母、両親、二人の姉。
両親が育った時代には、ハワイ語を話すことが禁じられていたが、家では英語に混じってハワイ語と日本語が飛び交っていた。
チャールズは3歳のときに父の仕事の関係で沖縄へ渡り、幼稚園から小学校3年生まで、沖縄の民間校へ通った。
12歳の時、イオラニ宮殿でのアロハウィーク・フェスティバルのイベントで聴いたカウペナ・ウォンのチャントに衝撃を受け、チャンターになる決意をした。
その後5回、カメハメハ・スクールの入試に落ち、6度目の正直で晴れて入学を果たした。
クムフラ、ケリイ・タウアのもとで、4年間、ウニキのクラスも学ぶ。
高校卒業後、チャールズは、男性フラ・グループ、メン・オブ・ワイマーブナのチャンダーに。
同時にリーワード大学のキング・カメハメハ・シビック・クラブにも所属し、イオラニ・ルアヒネとも並ぶフラ・マスター、ヘンリー・パーのもとでカヒコとアウアナも学んでいった。
2年後、真剣にフラとも向き合わねばという気持ちが強まって、ワイマーブナから離れ、ケリイ・タウアのもとで4年間フラを学んだ。
アンティ・マイキからウニキを受けたケリイ・タウアはトラディショナルなフラで、チャールズは恩師を手伝う形でホノルルとマウイ島でフラを教えた。
現代ハワイでは新しいプロジェクトの成功祈願や新居、新店舗、新ホテルのオープニングなどにチャンターのプレッシングは欠かせない。
カメハメハ大王以前から、アリイ(首長)は常に専属のチャンターを抱えていた。
彼らはカフナあるいはプリースト(司祭)であり、アリイの家系や家族の歴史を事細かにチャントして伝えるのが最も大きな役割だった。
元来、文字を持たず書き残すことをしなかったハワイ人にとって、歴史や物事を伝える手段は口述しかなく、そのためにチャントが生まれた。
アリイの歴史ばかりか、その時代の自然災害、火山の噴火などもチャントで残されてきたのだ。
また神々への祈りもチャントで行なわれていた。
「もし、チャンターがいなければ、フラは存在しない。まず、チャントありきなのだ。
踊りがあってチャントがつけられたわけではない。それを、よく理解してほしい。
日本のフラの先生やダンサーの多くが、チャントなんてとてもできませんと言うが、それは絶対に間違い。
チャントはだれでも、どんな人でもできる。
だれかに何かを伝えたい、だれかの幸せを願いたい、美しい自然に感謝したい・・・、
そんな気持ちを口に出すのがチャントなんだ。
古代ハワイではだれもがチャントをしていた。
でも、ここハワイでさえも、ハワイ文化を一度は捨てようとし、ハワイ語も忘れかけたおかげで、チャントする人が激減してしまった。
私たちハワイアンも、限りなくゼロに近い場所からやり直したのだ。
だから、日本のフラ・ダンサーも勇気を出して、チャントの練習を始めてほしい。
もし、ハワイのフラを心から愛し、少しでも近づき学びたいと真剣に思うなら、次のステップへ上がるためにはチャントを避けて進むことはできないのだから」
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- 2012/08/29(水) 07:00:48|
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西部インディアンは弓に加えて槍、こん棒、短剣といった昔ながらの武器も携帯していた。
短剣でもっとも古くからあるのは黒曜石のナイフで、金属の刃が伝わるまでは戦闘と狩猟で活用されていた。
西部のアメリカ先住民への銃器の供給は非常に限られ、カリフォルニア地域の「残減段階」ではインディアンに銃器を売り渡すことはかたく禁じられていた。
東海岸のアメリカ先住民とは対照的に、西部インディアンの部族はあまり大所帯にはならなかった。
16世紀に北部カリフォルニアで、カトー族の女がユキ族の戦士によって殺害されて、首を切り落とされるという事件が起こった。
こうした場合、殺人をきっかけに手順をふんだ戦闘が行なわれた。
まずはカトー族が使者を送ってユキ族を戦いに誘い、戦闘場所が取り決められ、当日、戦闘開始を示すのろしが上げられる。
その後、敵味方の戦士が整列して互いの矢が届く距離まで接近し、敵の列に向かって一斉に矢を浴びせるのだ。
戦闘が途切れると両族長が死傷者数を数える。
こうした形の戦争が、間に10日程度の休みをはさんで、数日つづけられ、片方の戦士の損耗数が事実上の負けと規定されるレベルにまで達したときに終結する。
だが、「勝者」が敗者の人員や財産の損害に対して、補償する義務を負っていために、軍事的勝者がたいてい経済的敗者になるという、矛盾した状況が生じた。
「クウ数え」をもっともよく行なっていたのは平原インディアンだが、グレートベースンや高原地域のあたりも盛んだった。
クウ数えは、戦闘の最中に敵の体に触って逃げることで、仲間や部族に名誉と勇気を評価される行為で、素手か特製のクウ棒でただ触るだけなのだ。
こうした伝統的で様式化された戦い方は、インディアンが入植者と争うようになると通用しなくなった。
西部の部族は、勝つためにはもちろん、生き残るためにもゲリラ戦術に頼らざるをえなくなり、回避、機動、襲撃、待ち伏せといった戦法を土台に入植者への武力抵抗が行なわれた。
入植者の印象とは裏腹に、インディアン側の臆病さや怠惰さのおかげで、民間人への攻撃はめったに行なわれなかった。
インディアンが部族の土地の通過や利用を思いとどまらせる為の攻撃の行き過ぎが、インディアンを人間扱いしない口実を入植者に与えることも多かった。
インディアンの残虐行為の伝聞は、アメリカの報道機関によって脚色されていたのがほとんどで、当局の後押で地元民の怒りを掻きたてて、インディアン撲滅政策の支持を得る狙いがあった。
忌まわしい習慣ではあるが、戦場での手足の切断や捕虜の拷問は、アメリカ先住民にとっては精神性とかかわりのある深い意味を持っていた。
頭皮剥ぎは勇気の物証になったし、拷問されながらも度胸を示す捕虜には敬意を抱き、生存の可能性が高まることもあったのだ。
たしかにアメリカ先住民の戦士は、女や子供を手にかけていた。
だが、残虐行為の真偽はともかく、入植者には狙いどおりの効果をもたらした。
そうして生まれたアメリカ・インディアンに対する悪意に満ちた敵意が、皆殺しの政策に火をくべたのだ。
1860年のパイユート戦争では、ネバダのパイユート族が米正規軍に待ち伏せ攻撃をかけた。
戦いは例のごとく、破廉恥な原因から始まった。
ふたりのパイユート族の少女がレイプされ、インディアンが復讐のために、ウィリアム駅の交易所を襲って5人の入植者を殺したのだ。
入植者側では100人強の義勇兵が集められ、ウィリアム・オームズビー少佐がその指揮を執った。
パイユート族の一団を騎兵団が全速力で追い、インディアンの矢や弾丸に仲間がバタバタと倒され、待ち伏せ攻撃の餌食になったことを悟った頃には、死者42人、30人が行方不明になっていた。
こうした消耗戦は西部の戦い全般の特徴となった。
とはいえ最終的には、アメリカ先住民は、入植者の爆発的な人口増加や伝染病、米陸軍指揮官の対反乱戦術の向上に抗することはできなかった。
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- 2012/08/28(火) 07:00:07|
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早川和夫 居住福祉から見た災害復興
日本の地震予知はかなり進んでおり、1974年6月、神戸市委託の大阪市立大学理学部と京都大学防災研究所による報告書には、「神戸周辺では都市直下型の地震発生の可能性があり、その時には断層付近で亀裂、変位がおこり壊滅的な被害を受けることは間違いない」と断じた。
『神戸新聞』が一面を使って報道したにもかかわらず、神戸市は大学教授に「10万年単位の警告」という談話を発表させ、宮崎神戸市長は「報告はなかったことにしよう」とこれを無視。
約10年後、神戸市防災会議に設けられた地震対策部会幹事会では、神戸海洋気象台・稲葉昴課長が想定震度6に基づく対策を主張したが、市側は「それでは金がかかりすぎ、開発も空港もできなくなる」と、5強に決定して耐震対策は見送られた。
もし地震の近いことが市民に告げられていたら、公共施設や経済力のある民間企業、住宅所有者は自力で、力のない者は公的補助を求めて補強したであろう。
1979年、三東哲夫・神戸大学教授は兵庫県への報告書に「六甲山系西南西~東北東方面に並走している多くの活断層の再活動が予想され、特に神戸市は震度5でも大きな被害をうける」と書き、85年12月の地震予知研究会では京大防災研究所の佃為成が「兵庫県下など近畿地方にはM7クラスを超える大地震が発生してもおかしくないと、地震学者たちは警告し続けた。
「阪神」での地震による直接の犠牲者5502人の88%は家屋の倒壊による圧死・窒息死、10%は零細密集住宅地での焼死、2%の大部分は落下物によるもので、阪神大震災は明らかに「住宅災害」だった。
しかし、震災の年の1995年8月に開かれた住宅宅地審議会には被災地の貝原兵庫県知事、笹山神戸市長が入って、「住宅政策の一層の市場原理化」を答申した。
これでは住宅の公的保障を主張すべき立場にある被災自治体の長として、失格・無責任だ。
「阪神」では仮設住宅の多くは六甲山中や人工島につくられ、高齢者から順番に抽選で入居させられた。
見慣れた風景、親しい隣人、商店、医者等々からはなれ、コミュニティを分断された入居者の孤独死・自殺は年間で253人。
遠い仮設住宅に入ることを拒み、地代は要らないから仮設住宅を自分の私有地に建て、自分と他の人たちと一緒に住みたい、という申し出を行政は拒否した。
個人資産である土地と住宅に税金は使えない、公的利用も困難というのであれば、社会資産として位置づけることで、土地の公共的利用、修理や再建の公的補助、災害時の避難所利用、半壊の個人宅の修理補助、仮設に入らず友人の家に身を寄せたり個人宅で共同生活を続ける被災者を援助できる。
仮設住宅も必要だが、建設と撤去に500万円前後を要し原則2年しか利用できない仮設住宅より、民家の利用は被災者の暮らしを守り資金の使い方も有効である。
「東日本」では、民間賃貸住宅を仮設住宅とする「見なし仮設」の制度ができた。
中越地震で全村避難を余儀なくされた新潟県旧山古志村は「阪神」を反面教師として14の集落毎に仮設に入り、コミュニティを維持し一人の犠牲者も出さなかった。
住み続けてきた土地に住み続けたい、避難する場合も親しい人たちと一緒に住みたい、というのは居住の基本的欲求で、最大限に実現すべき課題である。
「阪神」の被災地を訪れた村山富市首相は、住宅再建の援助をもとめる被災者に対し、「私有財産である住宅の個人補償はできない」と拒否した。
生存の根源である居住問題の解決には、土地公有化と住宅の社会的性格の付与しかなく、 土地所有制度の改革にとりくむべきであろう。
憲法が掲げる生存保障の根幹は住居である。
地震で家を失い津波で家を流された人たちにとって、住居と生活環境が確保できないと生きることはできず、社会保障や福祉サービスも機能しない。
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- 2012/08/27(月) 07:00:33|
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フランスで求められるレシピは、宮廷に仕える偉大なシェフが創作する革新的で完璧な料理だから、16~18世紀のフランス上流階級の女性たちは台所仕事に手をそめたりせず、料理はそれを職業とする男性の仕事だった。
何世紀にもわたって、フランスのケーキは専門家が生みなす洗練と完璧のきわみとして存在し、家でお菓子を作る習慣はほとんどない。
一方、イギリスのケーキは家族のためのケーキだ。
エリザベス朝の時代、大きな屋敷や荘園の家政管理が男性の執事から上流婦人たる主婦の手に移り、イギリスでのホームベーキングの黄金期がはじまる。
17~18世紀には大きな屋敷でなくとも家に作りつけのオーブンを備えるのが普通になり、焼ける菓子の範囲も複雑さも飛躍的に高まった。
あらゆる種類のスポンジビスケット、マカロン、バンベリーケーキなどのケーキ類、マーチパン(マジパン)、ジャンブルナッツなどを混ぜたかためのクッキー、ワッフル、チューダー朝や中世期のジンジャーブレッドや香辛料入りケーキなどが家庭で作られはじめた。
この時代のイングランドでは、田園の邸宅とその料理は他の羨望をかきたてる文化的理想の役目をはたした。
各家庭の料理は脈々と受け継がれ、主婦たちは代々の料理集を大事に保管し、娘や孫娘の代まで伝えていった。
18世紀後半から19世紀にかけてイングランドの都市化が進んでも、カントリーハウスのベーキングを理想とする風潮は揺らがず、18世紀に貴族階級がはじめたアフタヌーンティーの習慣が中流家庭の女性たちのあいだに根をおろし、家で焼くケーキにはずっしりと重い社会的威信がかかっていた。
第二次世界大戦中に食糧配給がはじまったとき、もうケーキが作れないじゃないかというのが最大の不満のひとつだったことは、注目すべき事実だろう。
イギリスとならんで、ホームベーキングの習慣が深く根づいているのは北欧諸国とアメリカだ。
北欧諸国の食文化では、自宅でのパン焼きやお菓子作りはとても大切にされ、女の子は年頃になるまでに7種類のケーキやクッキーを作れるようにしておくというのが伝統だった。
コーヒーに菓子パンかケーキで午前中に一服するという北欧諸国の「コーヒーケーキ」の風習は、19世紀に中西部に移住したフィンランド人、スウェーデン人、ノルウェー人によってアメリカに伝えられ、さまざまな移民集団の文化と混ざりあって、お菓子作りに徹底的にのめりこむ国ができあがった。
北アメリカの文化ほどホームベーキングの概念を重要視している国はなく、中でもケーキの地位は高く、とりわけ家庭と母親像の形成に強くかかわっている。
アメリカをホームベーキングの国にしたのは国土である。
初期の入植者たちは、広大な原野にぽつんと存在する、孤立した質素な共同体で暮らした。
また、19世紀に西部へ移動した開拓者たちは自力ですべてをなしとげなければならず、その土地で手に入るわずかな材料から家族全員の食事を作る才覚が必要だった。
開拓者文化は今もアメリカのベーキングの姿勢に影響をおよぼし、独創的で、自分で作ることはアメリカのケーキが大事にしている点だ。
簡単に作れて創意主夫に富み、家庭で作るケーキが重要視され、なによりも大きさと軽さが優先されることから、1930年代初頭に最初のケーキミックスが売り出された。
製菓業界は盛大に広告をうち、従来のやり方で焼くケーキに「一から(フロム・スクラッチ)」の言葉をあてて、ケーキ本体を焼くのは下準備で退屈な部分、とアメリカの女性たちに信じこませるのに成功した。
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- 2012/08/24(金) 07:00:32|
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車には、燃料や油脂類といった危険物のほかに、プラスチック類やコムなど可燃物が多用されている。
そのため、車の異常や外部からの火など、何らかの原因で火がつけばよく燃える。
事故現場などで救助に当たる前に、救助中に車が動き出す危険が考えられるので、車輪止めをしっかりかけて、車を固定する。
思わぬことで車両火災や暴走につながる危険があるので、エンジンがかかっていたら停止させキーを抜き取る。
また、配線火災の危険を防ぐため、バッテリーのマイナス端子を外す。
電動パワーシートなどを作動させるときは、その間だけマイナス端子をバッテリーにつなげばよい。
ゲリラ豪雨の発生による道路冠水で車が水没する事故が発生している。
車が海や川へ転落し、水没する事故もまま見られる。
車はどの程度の水深まで走れるかという質問を受けるが、もともと車は水の中を走るようには設計されていないので、究極は止まるまでというしかない。
タイヤが隠れる程度までの水深であれば低速での走行は問題ないと思われるし、冠水区間が短距離の場合、マフラーの排気口を塞がない程度の水深20cm程度であれば、通過できる可能性が高い。
いずれにしても通過するときは速度を低くしてエンジン回転を高めにするとよいので、ギアを低速位置にする。
冠水路でエンジンが停止して立ち往生したら、エンジンの再始動を試みて、運良くエンジンがかかれば、来た方向へ引き返す。
再始動できない場合は車を降りて徒歩で来た方向へ引き返す。
水位が車の床よりも高い冠水路ではドアに水圧がかかり、開けにくくなるので力を入れてゆっくり開ければよい。
海のように水深が深い場合、重いエンジンのある前部が沈み、後部が浮き上がった前傾姿勢となり、外からの水圧でフロントドアは開かない。
こうした場合でも、リアドアはあまり水に浸かっていないので開く可能性はある。
各社からハイブリッド車(HV)や電気自動車(EV)が発売されている。
こうした車は、駆動用の高電圧バッテリーを搭載している。
駆動用バッテリーの高電圧は危険なので、十分な注意は必要であるが、正しい対処をすれば過度に恐れる必要はない。
HVやEVが水没や冠水した場合でも、異常な電流が流れると電流は遮断されるので、外部に電気が漏れ出すおそれはない。
駆動用バッテリーのプラス、マイナス端子が水没しても、その間の水に電流が流れるだけで外部に電流が漏れ出すことはない。
海中に水没したHVの車内を探索したダイバーからも、感電などの報告はない。
消火の際の放水によって高圧バッテリーに水がかかっても、水没時と同様、水を伝わって感電するようなことはない。
消火活動中に、むき出しの高圧電源端子の両側を触ることはないと思われるが、万一触れる場合あるいは触れるおそれがあるときは、耐電圧400~600V以上の絶縁手袋を使う。
キースイッチを切れば、バッテリーケース内のリレーにより高圧電源は遮断される。
火災で12V系統の配線が焼損すれば、高圧電源リレーはOFFになる。
リレーの溶融などで通電状態になっているおそれもあるので、原因究明などで車両に接するときは、サービスプラグやメインスイッチで高圧電源を遮断し、触れる箇所とボディ間に電圧のないことをテスターなどで確認する(30V以下はOK)。
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先般のゲリラ豪雨で水没した車両を見掛け、ハイブリッド車・電気自動車が水没したら感電するのだろうか?との疑問を持ち、この本に目が止まりました。
テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌
- 2012/08/23(木) 07:00:49|
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REUTERS 2012年 08月 21日 21:37
東京電力は21日、福島第1原発から20キロ圏内の海域(福島県南相馬市沖)で採取したアイナメから、
過去最大値となる1キログラム当たり2万5800ベクレルの放射性セシウムを検出したと発表した。

誰もが危惧していた事ですが、原発建設の際に漁業権を多額の補償と交換に放棄した地元漁協は別として、元にもどすことなどできない訳ですから、今後の補償問題が焦点となるでしょう。
東京電力とその恩恵を受けている電力消費者の負担が当然と思うのですが、現行の法律ではどうなのでしょうか?
窒素水俣のように公害訴訟を起こさないといけないとなると大変ですね。

アイナメとは関西でアブラメと呼ばれ、私も子供の頃、港の堤防釣でよく釣った馴染みのある魚です。
Wikiによると、「南西諸島と太平洋側の一部を除く日本各地の沿岸に生息し、昼行性で、岩礁帯やテトラポッド、防波堤などの陰につき、小魚や甲殻類、多毛類などを捕食する。」とあります。
汚染水が拡がった海域の藻やプランクトンが被曝し、それを食べる小魚や甲殻類がやられ、最後には回遊するカツオやマグロ、イルカが・・・。
食の連鎖は止まらず、事は「フクシマ」に留まりませんね。
テーマ:福島県 - ジャンル:地域情報
- 2012/08/22(水) 07:44:31|
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岡本 透 「草原とひとびとの営みの歴史」
日本は緑豊かな「森の国」であると考える人が一般的ではないだろうか。
しかし、第2次世界大戦前直後、あるいは今から150~300年ほど前の江戸時代にまで時代をさかのぼると、現在の「森の国」とは大きく異なる景観が日本各地の集落の周囲に広がっていたのである。
日本に分布する土壌のタイプで黒色土(黒ボク土)という土壌がある。
農耕地土壌分類に基づく分類名で、軽くてボクボクとして砕けやすいことに由来している。
日本に分布する土壌のなかで最も広い面積を占めているのは褐色森林土という主に森林下に分布している土壌だが、黒色土はそれに次ぐ国土の17%を占めている。
黒色土は北海道から九州まで全国に広く分布し、傾斜の緩い丘陵地や山地などの火山が噴出したテフラが厚く堆積する地域に多く認められる。
黒色土には「微粒炭」とよばれる細粒の炭が大量にふくまれ、過去に野火が生じた証拠である。
草原と火というと毎年春先におこなわれている山焼き(野焼き)が思い浮かぶ。
日本の温暖湿潤な気候では、草原が長期にわたって成立することはむずかしく、山焼きや採草をおこなうなど人間が手を加えなければ、草原は森林へと移り変わってしまう。
縄文時代に東北地方に広がった落葉広葉樹林と草原から構成される明るく開放的な植生は、秋の堅果類のめぐみだけではなく、春のワラビ、ゼンマイ、タラの芽などの山菜のめぐみをもたらしていたことが、遺跡周辺の花粉分析や植物遺体の研究から指摘されている。
また、キノコ形土製品が東北地方北部の縄文遺跡から発掘されており、秋のキノコ類のめぐみも享受していた。
黒色土の年代を調べた結果、縄文時代の開始年代とされる約1万5000年前以降に形成を開始し、黒色土の生成期間は数千年間にもわたっている。
阪口豊は、縄文時代には狩猟や焼畑を目的とした野焼きによって維持された草原と森林とがモザイク状に分布していたと推定した。
東北地方や中部地方の八ヶ岳山麓など東日本では、縄文時代中期頃に遺跡数が最も増加し、興隆を極めが、気候の寒冷化が進行するにつれて、採取・狩猟を中心にした生活が継続できなくなったようで、遺跡数が減少している。
弥生時代以降、水田稲作が日本に広がった埋由としては、寒冷化で悪化した食糧環境の改善に稲作が有効であったこと、縄文海進とよばれる海面の高水準期につづく海退によって稲作の適地となる氾濫原が低地に広がったことなどが考えられる。
安定した食程の供給は人口の増加をもたらし、人口の増加はさらなる食糧の需要の高まりをもたらし、新たな水田の開墾、水田への肥料の投入、木製品から鉄製品への農具の改良などがすすんでいったと考えられる。
農業生産を安定しておこなうために、人間による水や肥料などの管理が定期的におこなわれ、撹乱の頻度は自然状態よりも高くなる。
このため、農業がおこなわれる地域周辺では、草原的な環境が長期にわたって継続していった。
歴史時代に入ると、ウシ・ウマおよびその放牧に関連した牧(草原)の記述が多くの史料に見られ、『延喜式』には、官牧は御牧、諸国牧、近都牧に区分され、地方ごとに記載されている。
8世紀初頭に制定された大宝律令にある『厩牧令』という牛馬の飼育に関する取り決めに山焼きに関する記述があり、正月以降に山焼きをして草を一面に生やすように定められていることから、草原の維持を目的とした定期的な火の使用が飛鳥時代から奈良時代にはすでに確立されていたのである。
古代から中世にかけての牧の分布と黒色土の分布が一致する地域が多いため、黒色土の生成に対して牧(草原)が関与した可能性は高いと考えられる。
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- 2012/08/21(火) 07:00:32|
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