続・竹林の愚人 2012年09月

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覚悟の片付け


リバウンドなし!覚悟の片付け (NHK出版新書 374)リバウンドなし!覚悟の片付け (NHK出版新書 374)
(2012/03/08)
阿部 絢子

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衣類も食器も、家具も、持っているもので充分に間に合っているにもかかわらず、なんとなく買ってしまう。
気がつくと家にモノがどんどん溜まっていく。
とくに増えたのは衣類と本で、着たい服がどこにあるかわからず、買った本と同じ本が家にある。
片付けることが苦手だった私は、「いる」「いらない」の二者択一ができず、選択を先延ばしにしていた。
どうしてそれが難しかったのだろう。
世の中に片付けられる人と片付けられない人がいるとしたら、決断して実行するかしないかの違いだけだ。

モノが膨張してしまうのは一生懸命生きている証。
だとしたら、呼吸のように、吸った分を吐き出して代謝を上げなくてはならない。
自分にとって本当に必要な養分だけを吸収し、余分なものは体の外へ出さなければ、健康ではいられない。
捨てるときの基準がここで明確になる。
これからの自分が生きていくために、必要な養分を残すということだ。
「自分にとって本当に必要なものって何だろう?」の問いを、常に自分に突きつける。

片付けは生き方に通じる。
衣類がごっちゃり山積みになった部屋で暮らす人と、自分で厳選した衣類を整頓して潔く生きる人では、家を一歩出たときの選択や決断のしかたも違ってくるだろう。
自分にとって大切なものを選択し、スッパリ決断する力がついてくると、探す時間や迷う時間も大幅に短縮される。
片付けが身に付くこと、それは、モノ持ちから時間持ち、空間持ちへの移行でもある。
心の余裕もでき、趣味や大切な人との時間が手に入る。

本の片付けを通して、意外な発見があった。
山のように詰め込んだ本を分別するには、自分にとって何が必要かを考えなければ決断できない。
いつか使うかもしれないと思い増えてしまった資料や本を見返してみると、それは自分のテーマが絞り込めていなかったことの現れだとわかった。
「今の自分にとって興味があるテーマはなんだろうか」と問いかけながら本を分別していくと、紙切れ一枚でも残しておきたい資料はあるし、自分の著作のストックは不要になった。
これからの自分に必要なテーマを探しながら行う分別作業は楽しかった。
結果的に、自分がとっておいた山の中から、磨けば光る原石を探し出す作業となった。

なぜ片付けのプロセスで「捨てる」ことが必要なのだろう。
「捨てる」とモノの量が減り、全体量の把握がしやすく、どこにあるかも一目瞭然だ。
結果的に、それまで生かされていなかったモノは息を吹き返す。
つまり、いらないモノを「捨てる」のは、必要なモノを生かすために必要なプロセスなのだ。
捨てるステップでは、持ち主ごとに分け、アイテムごとに分け、「いる」「いらない」を分ける。
その段階でしっかりと持ち主とアイテムが分かれ、「いるモノ」だけが残っていれば、その先の収納もずいぶん楽になる。
その「いるモノ」を納める作業が収納で、「取り出しやすく戻しやすい」場所が最も適切な指定席となる。

片付けることが人生の最終目標ではない。
快適に暮らしながらも、「使い切ること」を目標にしていきたい。
現在の自分の欲も認めつつ、目標も意識して日々暮らしていれば、無理なく一歩ずつ「使い切る」ことに近づけるのではないかと思う。
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  1. 2012/09/30(日) 07:00:36|
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飛鳥の木簡


飛鳥の木簡―古代史の新たな解明 (中公新書)飛鳥の木簡―古代史の新たな解明 (中公新書)
(2012/06/22)
市 大樹

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古代の日中関係は、倭王武による遣使(478年)から遣隋使派遣(600年)までの約30年間、国交がなかった時期もある。
これとは対照的に、日朝間の交流はきわめて盛んであった。
なかでも百済は高句麗・新羅・伽耶諸国との駆け引きや戦争もあって、日本からの軍事援助を引き出す必要性に迫られ、各種の文物や技術・思想を伝えた。
また、朝鮮半島に出自のある渡来人からの影響もきわめて大きかった。
660年の百済滅亡、663年の白村江の戦い、668年の高句麗滅亡を経て、新羅は一転して唐との対立を強め、日本との連携を模索して日本もそれに応える。
そのため、670年から701年まで遣唐使は派遣されなかったのに対して、日本と新羅との間では連年にわたる交流が展開された。
こうした朝鮮半島との長年の交流は、「飛鳥の木簡」からも容易に読み取れ、「椋」「鎰」「評」などの朝鮮半島系の文字、角材の『論語』『千字文』木簡、漢音よりも古い呉音や古韓音、日付を文頭に書くこと、上申時に使う前白木簡、唐風よりも古い六朝風の筆遣い……。
漢字を使いこなすための技術もその一つで、日本に先んじて漢字を摂取するための吏読・空格ができ、日本ではさらなる改良を加えていけばよい。
こうして日本列島に文字が普及し始めたとき、当時の主要な書写材料は紙と木であった。
38万点以上出土している日本の木簡を時期別に整理してみると、7世紀前半までの木簡の使用頻度は高くなく、飛躍的に増えるのは672年の壬申の乱で勝利を収めた天武天皇の時代である。
その後、8世紀末まで「木簡の世紀」と呼ばれるような活況を呈するようになる。
天武朝に国家機構が大幅に整備され、石神遺跡は迎賓館から官衙域に生まれ変わり、飛鳥池工房も操業を本格化させていった。
木簡を通じて飛鳥寺の活動が明瞭にうかがえるようになるのもこの時代である。
天武天皇の王宮は飛鳥浄御原宮だが、本格的な都城として藤原京の建設に乗り出していった点も特筆される。
天武朝とそれに続く持統朝には日唐間に国交はなく、新羅との直接交渉を通じて、さらに渡来人の子孫や百済亡命人の知識を総動員しながら、国づくりが進められていった。
ところが、701年の遣唐使の任命、翌年の派遣を契機として、日本は中国に直接向き合うようになる。
これは木簡レベルでも認められ、朝鮮半島方式とでも呼ぶべきものは急速に姿を消していく。
中国からの諸制度を摂取し、官人たちは大宝令の施行を強く受け止めた。
もっとも、数年後には、日本の実状により合致したものへと軌道修正を行っている。
701年は聖武天皇と光明皇后が誕生し、その翌年には持統太上天皇が死去する。
704年に遣唐使が帰国すると、藤原京の廃都が決まり、710年の平城京遷都へと、飛鳥時代から奈良時代へ、日本古代国家は新たな段階へと入っていく。
2003年の木簡出土によって、藤原宮の朝堂院回廊の完成が703年頃であったことが判明した。
これは『日本書紀』『続日本紀』には記録がない新発見である。
1979年に藤原宮造営時の運河から天武朝末年頃の木簡が出土して、『日本書紀』を読み直し、676年に中断された新城(藤原京)の造営が682年に再開され、684年に正式決定された「宮室の地」が藤原宮を指すことが明瞭となった。
木簡は『日本書紀』などの既存史料を相対化し、歴史の実像に迫ることを可能にした。
史料数が絶対的に乏しい日本古代史の研究に対して、新たな木簡の出土は多くの活力を与えている。
720年に成立した『日本書紀』は、編纂時における対新羅政策との関係もあって、朝鮮半島に対する蔑視観で覆われており、豊かな日朝交流史の有様に気がつかないことがある。
それを再評価させてくれたのが「飛鳥の木簡」であり、そして近年徐々に姿を現してきた韓国木簡である。

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  1. 2012/09/28(金) 07:00:03|
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五重塔入門


五重塔入門 (とんぼの本)五重塔入門 (とんぼの本)
(2012/01/27)
藤森 照信、前橋 重二 他

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日本の仏塔は韓国からもたらされ、中国からの影響も受けているけれど、五重塔の相輪とインドのストウーパ全体の構造をくらべてみると、みごとに響きあっているのだ。
日本に仏教が渡来した6世紀、仏舎利信仰と仏像信仰とが同時に到着し、これが仏塔のデザインや伽藍の配置に少なからぬ影響をおよぼした。
文献にみえる本邦最初の造塔は敏達天皇14年(585)、蘇我馬子が大野の丘の北に塔を建て仏舎利をおさめたというものだが、塔は教カ月もたたないうちに廃仏派の物部氏に切り倒されたと『日本書紀』は記す。
仏法に勝利を祈念した蘇我氏が苦戦のすえ物部氏を打ち破った。
大願成就の仏恩にむくいるため馬子は飛鳥に法興寺(飛鳥寺)をおこし、また四天王に願をかけた厩戸皇子(聖徳太了)は難波に四天王寺を建て、これを皮切りに6世紀末以降、仏寺造営ブームがまきおこり、五重塔や三重塔がつぎつぎと建てられていく。
飛鳥時代の寺院では金堂と塔との役割分担がはっきりわかれ、金堂は仏像を安置し、塔は仏舎利を奉安し、両者が伽藍の中央をしめる。
伊東忠太が指摘したように、古代寺院においては、仏塔が金堂の2倍ほどの高さである例が多く、そのデザインや仕様は、伽藍の諸堂と歩調をあわせつつ決定され、次第に洗練されてきたとみていいたろう。
舎利の安置に飛鳥・白鳳時代の人びとが好んだのは地下埋設法で、心柱の根元を支える礎石(心礎)に孔を穿ち、ここに仏舎利を納めた容器を安置し、上から蓋をする要領で心柱を立てた。

寺院の伽藍配置は、飛鳥時代から天平時代にかけて段階的に変わっていき、金堂に対する五重塔の相対的な地位が低下していったことがみえてくる。
飛鳥寺や四天王寺の金堂は、法隆寺金堂とほぼ同じスケールで、コンパクトな厨子型金堂と五重塔がバランスよくならんでいたが、天平時代になると金堂は大きなものとなり、横幅の広い建物を縦長の塔と並べては釣り合いが溢れず、回廊の外に塔をだす配置が多くなる。
平安時代になると、仏舎利に対する人びとの接し方が大きく変わる。
天平勝宝6年(754)、鑑真和上は如来の舎利を大量にたずさえ、国王大臣らにわけ与え、残りの三千粒は唐招提寺で白瑠璃の壷におさめ、これを金銅の小仏塔に安置して宝蔵に保管、舎利の一部は「自供舎利塔」に分奉して日々供養したという。
その後、円行や空海・円仁らも仏舎利をもたらし、ストゥーパ内に秘匿されていた仏舎利は、いまや仏徒たちの眼前に姿をあらわし、日供や舎利講の本尊として仰き拝され、またときに法統継承の証として師から弟子に相伝される宝物ともみなされるようになった。
しかし、密教は五重塔を見捨てたわけではなく、ことに真言宗ではその根本道場たる東寺に五重塔が造られ、また聖宝が開いた醍醐寺にも美しい五重塔が建立され、これら真言密教の五重塔の内部は密教の図像で埋めつくされた。

古来この国でどれほど多くの塔が建てられたか、その実数はわからないが、7~12世紀の塔はわずかに6基、14世紀以降の五重塔は南北朝時代2基、室町時代4基、桃山・江戸時代12基の18基が現存している。

大正12年9月1日の関東大震災では赤煉瓦の明治建築があいつぎ倒壊し、アメリカ流の鉄骨構造のビルディングが大きな被害を受けたのに対して、関東一円の木造多層塔で倒壊したものはひとつもなかった。
五重塔が脚光をあびたのはこの有無をいわせぬ実績によるものだろう。
スカイツリーの「心柱」となるのは鉄骨構造の中央をつらぬく鉄筋コンクリートの円筒で、上端は第一展望台の上端に達する。
地上125mまでは周囲の鉄骨と鋼材で緊結されているが、そこから上は五重塔の心柱と同じく「倒立振子」の状態で、鉄骨構造の「塔身」とは独立して揺れ動く。
「心柱制振」により大地震のさい塔に加わる力を最大約50%減らす効果があるという。

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  1. 2012/09/27(木) 07:00:26|
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すうねるところ

すうねるところ
10代の頃からの友人・木皿泉の初めての戯曲「すうねるところ」の千秋楽(9月24日)に行って来ました。

タイトルの「すうねるところ」は、落語の「寿限無」にある「食う寝るところに住む所」に引っ掛けたもので、吸血鬼の住まう所です。
登場人物は4人。
女形・篠井英介演ずる「こがね」は、900年生きる吸血鬼ということですから、天永3年(1112)伊豆七島の噴火に始まり、天承・長承と都大路に疫病・飢餓で死体がごろごろという時代に生き、吸血鬼にチューと吸われて今や「気分はアラフォー女子」。
(木皿は大学で日本史を研究したから、このあたりの設定は事細かい。)
荻原聖人演ずる「夏彦」は幕末の武家に生まれ、厳格な父親から島原・天草の乱に出陣を命じられ、キリシタン征伐のあまりの残虐さに世を儚んでいたところをチューとされ、今や人間の子「マリオ」を育てる父親を演じている。
薬師丸ひろ子演ずる「アザミ」は、戦時中の学徒勤労奉仕の軍事工場からの帰りに、お腹を空かせた家族のために海辺のフジツボをどっさり集めて帰ったところを空襲され、家族を失ったところでチュー。
今やフジツボを研究する女子大生気分。
この3人に共通するのは絶望的状況の最中に吸血鬼となり、現実から開放されたこと。

そしてこの3人の吸血鬼が住む所がガード下の「極東パン店」。
セットは「ALWAYS 三丁目の夕日」のような戦後の居間が茶色を基調に組まれています。
古いもののTVも3ドア冷蔵庫もあることから、時代設定は現在と見てよいでしょう。
太陽を避けて、夜間しか営業していないことから、地域の人からは「晩パン屋」(バンパンヤ)と呼ばれています。
(元町のガード下に懐かしい洋菓子を作っている店がありますが、そこは昼も営業しています。)
15年前に店主の夏彦が震災孤児の2才の「マリオ」を家に連れて帰り、3人の吸血鬼と1人の人間の擬似家族生活が続いているという設定です。
今や反抗期を迎える高校生・マリオを村井良大が演じています。
(阪神・淡路大震災を作者の木皿泉は体験し、今も神戸に住んでいます。)

マリオの不審な素振りから、擬似家族はマリオが人を殺めたのではないかと、凶器を探す。
(極端から極端へ向かうslapstickな展開はこの作家の特徴です。)
隠していたのは人間の歯だった。
それはマリオの目の前で死んだ男の口から飛び出したものだった。
目の前の死を見て、生きることの意味、自分は何者かと、心揺さぶられるマリオ。
「僕の母は誰?」
長くおねえちゃんとして暮らしていたアザミではなく、ましてやおばあちゃんのこがねはありえない。
突き詰められた夏彦は、実は自分が本当の母親で性転換手術を受けておとうさんになったと云う始末。
(これには爆笑しましたね)
そんなことは信じられないとするマリオに、とうとう本当のこと、吸血鬼であることを打ち明ける。
性転換以上にありえない話だが。
やがて、マリオは震災で一人ぼっちになって、夏彦に付いてここに来たことを思い出す。
そして、元のところに帰ると云うところで結末を迎える。

マリオに帰る先があるのだろうか?
マリオが去ったこの「極東パン店」の吸血鬼達は普段通りの生活に戻るのだろうか?

テレビの脚本を手がけている木皿らしく、「to continue」のスーパーでも入りそうなエンディングでした。


予告
木皿泉脚本×末満健一演出  2013年3月中旬 神戸アートビレッジセンターにて 新作公演 決定!

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  1. 2012/09/26(水) 07:00:44|
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FabLife


FabLife ―デジタルファブリケーションから生まれる「つくりかたの未来」 (Make: Japan Books)FabLife ―デジタルファブリケーションから生まれる「つくりかたの未来」 (Make: Japan Books)
(2012/06/09)
田中 浩也

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パーソナル・ファブリケーションの文化は、「工作機械の普及」と、「つくるための知識の交換と共有」が両輪となり、プロジェクトをもった個人の自発性と創造性をエンジンとして進んでいく。
しかし、そこで2つの課題が立ち現れることになる。
ひとつは、多彩なデジタル工作機器を、個人ですべて買いそろえるのは難しく、それだけの作業スペースも確保できないだろう。
もうひとつは「つくるための知識の交換と共有」である。
その2つを解決するものとして、「デジタル工作機械をシェア」し、「実際に顔をあわせて、つくるための知識、スキルの交換、共有を行う」工房のアイデアが育てられてきた。
それが「ファブラボ」である。
ファブラボの「ファブ」は「FABrication(ものづくり)」と「FABulous(愉快な、素敵な、楽しい)」という2つの語からつくられた言葉である。
2002年前後、マサチューセッツ工科大学のビット・アンド・アトムズセンター所長ニール・ガーシュンフエルド教授がデジタル&デスクトップ・ファブリケーション技術を社会でどのように活かせるか調査・検証しようとしていた。
そこで大学の外に、工作機械をそろえた開かれた市民工房をつくろうと考えたのである。
そして、ボストンの旧スラム街やインドの小さな村、ガーナやノルウェーに、現地と協働しながら実験的にファブラボをオープンしていった。
選んだ土地には、「世界の周縁の人こそ、先端技術を真に必要としている」という彼の信念が表れている。
その実践の過程で、ないものを自ら発明して次々につくりだしていく人々に出会い、フアブラボにその土地の人々が集まり、一緒にものをつくりながら互いに教えあい、学び合う自生的なコミュニティが生まれてきた。
工房はまるで小さな寺子屋のようになっていったという。

デジタル・ファブリケーションは、「必要なときに、必要な量だけをつくる」仕組みである。
ファブラボ2・0では、工作機械さえも自分たちでつくってしまおうというコンセプトだが、まったくのゼロから工作機械をつくる必要はない。
オープンソース化されているレップラップ(RepRap)などの3Dプリンターを組み立てながら、部分的に改造してもよいし、既製品の工作機械をハックして別のものに作り替えてもよい。
この段階からファブラボは「工作機械を使う場所」ではなく、「工作機械をつくる場所」になっていく。
ものからものが生まれてくるのだ。

2011年に東口本大震災が起こった際、スイスのファブラボからすぐ日本に送られてきたのが、ハックしたウェブカメラとレーザーカッターでつくることのできる、小型の水質検査用顕微鏡だった。
遠隔会議を通して、デバイスやプロダクトを別の環境に適応させていくという、知識とものの運び方、伝え方が新鮮だった。

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  1. 2012/09/25(火) 07:00:14|
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船寺神社

船寺神社
船寺神社(ふなでらじんじゃ) 神戸市灘区船寺2-1-25
住吉、神功皇后が三韓よりの帰途海路此の地を過ぎ給う時当地にて風波を避け御船を留め給うたと伝えられ、下って仁和4年(888)石清水八幡宮より御分霊を迎えて朝日の豊栄昇る東の方へ向け神殿を設け、永保2年(1082)八幡太郎義家が八幡宮を造営したのを当神社の起源とする。
やがて厄除東向八幡宮として朝野の崇敬を集め寛文8年(1668)4代将軍徳川家綱公が拝殿を寄進。
昭和20年戦災に依り全焼直ちに仮殿を設けて復興に努め、昭和41年新築完成現在に至る。

船寺神社
拝殿

船寺神社
本殿 祭神:八幡大神・天照皇大神・春日大神

船寺神社
岩楠社(楠霊命)

船寺神社
船吉稲荷社

『摂津名所図会』 舟寺八幡(ふなてらのはちまん) 
河原村にあり。近隣五ヶ村の生土神なり。域内に船寺といふあり。神宮寺とす。
 『散木』    舟寺の僧の経を読む所にて
  舟寺に法うかむなりよもすがら声を帆にあげて詞みすましつつ

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  1. 2012/09/24(月) 07:20:15|
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素佐男神社

素佐男神社
素佐男神社(すさのおじんじゃ) 神戸市灘区岸地通2-13
この地は天城郡都賀荘鍛冶屋村と称し、水害も多く、鍛冶屋町の守り神として祀られた。
兵庫区・平野の祇園さんに対し、東の祇園さんとして親しまれている。

素佐男神社
拝殿

素佐男神社
本殿 祭神:建速素佐男命

素佐男神社
白玉稲荷神社

『摂津名所図会』  末友天王祠(すゑともてんのうのほこら) 
鍛冶屋村にあり。この所の生土神とす。文明の旧記存す。

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  1. 2012/09/24(月) 07:15:33|
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河内国魂神社 莵原郡式内社

河内国魂神社
河内国魂神社(かわちのくにたまじんじゃ)  神戸市灘区国玉通3-6-5 
延喜年間(901~)、菅原道真公が筑紫の太宰府へ左遷の途次、御影の浜に船を泊めたとき、菅公との別れを惜しみひそかにこの地まで下向した師父尊意僧正(延暦寺第13代座)と社頭において餞別の際、その応侍が極めて慇懃丁寧なるを垣間見た村人達が、管公の没後、その勧学文墨の姐を墓って御霊を勧請舎配し、俗に五色天神と禍せられるようになった。

河内国魂神社
拝殿

河内国魂神社
本殿 祭神:大己貴命・少彦名命・菅原道真公

河内国魂神社


河内国魂神社
荒川稲荷社 荒川大明神

河内国魂神社
遥拝所

河内国魂神社
社号標石  河内國魂社  菅廣房建  莵原郡 五毛村 

河内国魂神社
臥牛

河内国魂神社
菅公手植松

『摂津名所図会』 河内国魂神社(かはちくにたまのじんじゃ) 
五毛村にあり。『延喜式』に出づ。いま天神と称す。
上野・畑原・榛原の生土神とす。文明年中の杜記あり。


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  1. 2012/09/24(月) 07:10:43|
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海蔵寺

海蔵寺
海蔵寺(かいぞうじ) 兵庫県神戸市灘区国玉通3-6-3
曹洞宗 旭曜山
延喜元年(901)、法性房尊意の開基。河内国魂神社の神宮寺。
幕末の摂海防備の時、長州の毛利藩が武庫川から須磨までの警備に当たるための陣屋が置かれた。
明治維新の神仏分離で海蔵寺として独立。
明治12年頃には五毛梅林として梅の名所となっていた。

海蔵寺
禅宗 海蔵寺 菅公手植松

海蔵寺
山門

海蔵寺
本堂

海蔵寺
霊符堂

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  1. 2012/09/24(月) 07:05:09|
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兵庫縣神戸護国神社

護国神社
護国神社(ごこくじんじゃ) 神戸市灘区篠原北町4-5-1
戦没の慰霊祭は、神戸市兵庫区会下山に於て臨時に祭場を設けて、毎年官民合同で招魂祭か斎行されていた。
後に灘区の関西学院跡地約3千坪に素木流造りの本殿が建立され、昭和16年6月25日内務大臣指定の護国神社に列せられた。
昭和20年6月5日戦災にあい、昭和34年11月に現在の地に新社殿が復興された。
境内の桜が有名で、例年春には多数の参詣者で賑わう。

護国神社
拝殿

護国神社
本殿 祭神:兵庫県下の当神社管内出身戦没者5万余の英霊

護国神社
末廣稲荷社

護国神社
響第五三三三部隊戦没者慰霊塔
昭和十三年春半ば
内蒙派遣独立混成第二旅団独立歩兵第二大隊が始めて中国大陸の首都北京に於いて編成されて以来、支那事変並びに大東亜戦争に参加中国全土及び南方方面に転戦、戦没された御霊の冥福を祈る為、当時の戦友相寄り浄財を募り茲にこの地を選び建立す。
昭和四十五年四月吉日

護国神社
大戦殉難 北方異民族慰霊之碑  元樺太敷香陸軍特務機関長 同志会代表 元陸軍少佐 扇貞雄 建之
過ぐる大戦に於いて無数の白系ロシア人、キリヤーク人、オロッコ人が中野の子等と共に理想に参画し、非情なる最後を遂げ帰るに 安住の祖国さえなき事実を知らさる者今日余りにも多い。
永久凍土を吹きすさぶ風に 或いは北大洋の怒濤音にこれら北方異民族の亡き同志の声を聴くものは日に日に少なくなって来ている。
この碑はこれら残り少ない生き証人にかわって死の意味を問いつづける昭和の語部となろう。
そしてこの碑の祈念するところは、余りにも報われることのない故北方異民族同志への鎮魂であり、磐石深く刻み込まれたものは祖国の永遠の安泰であり、平和の二文字である。
昭和五十年五月十九日
全国壱萬参阡五百有余名
建立同志会代表 扇 貞雄

護国神社
陸軍少年飛行兵顕彰碑
日本陸軍航空の華として、昭和九年二月に誕生した陸軍少年飛行兵は、昭和二十年八月の終戦までの間、第一期生から第二十期生まで五万八千八百余名を数える。
その歴史的生命は僅か十二年に過ぎなかったが此の間、日支事変をはじめ、ノモンハン事件、大東亜戦争と常に陸軍航空部隊の中核として敢然と大空の決戦場に出陣し、本県からも多くの少年達が参加した。
若冠十五歳前後で大空を志し、猛訓練に耐え、青春を惜しみなく国の危急存亡に捧げ、その多くは祖国の繁栄と同胞の幸せを祈りながら若き命を雲染む屍と散っていった。
戦後三十五年、日本の空に平和が訪れ、かつてこれら戦友と苦楽を倶にした標語県下在住の生存者ならびに有志相集い、今は亡き戦友の御霊と功績を偲び、若人が国の為につくした栄誉と、至純にして崇高な精神を讃え、その歴史的事実を後世に伝えるとともに、戦争を実際に体験した我々が世界の平和と人類の幸福を祈念してこの碑を建立する。
昭和五十七年四月五日
陸軍少年飛行兵出身者の集い 兵庫県少飛会

護国神社
歩兵第百七十連隊 慰霊之碑 昭和58年11月13日建立。

護国神社
雄魂 第十四飛行団司令部・飛行第六十八戦隊・第七十八戦隊 戦没者

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  1. 2012/09/24(月) 07:00:10|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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