続・竹林の愚人 2012年12月

アニメ「ハル」

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我が友、木皿泉脚本の劇場中編オリジナルアニメ「ハル」が、2013年6月8日に公開されます。
事故で最愛の少年ハルを失った少女くるみと、ハルの代わりとなるロボット「ロボハル」を描いた近未来ラブストーリー。
ロボットの恋人と云えば、前田敦子さんが演じた「Q10」を連想しますが、甘く切ない青春を描くものと今から期待大です。


別冊マーガレット(集英社)にてコミカライズ版もスタートする予定とか。

テーマ:アニメ - ジャンル:アニメ・コミック

  1. 2012/12/31(月) 18:26:21|
  2. NEWS
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古事記不思議な1300年史


古事記 不思議な1300年史古事記 不思議な1300年史
(2012/05/12)
斎藤 英喜

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『古事記』は長い歴史のなかで、ほとんど読まれてこなかったらしい。
『古事記』という本が、今みたいにメジャーな扱いになったのは、江戸時代中期、18世紀の国学者・本居宣長が『古事記伝』という注釈書を書いてから以降であった。
平安時代前期に行われた朝廷主宰の『日本書紀』の講義・日本紀講では、『古事記』は「古語」「倭語」を伝える本として、いくつかある参考書のひとつとして利用されている。
また鎌倉時代から南北朝時代にかけての中世の時代では、寺院の僧侶たちが仏教経典を注釈するように『日本書紀』の注釈書を作っていたが、そのときに彼らも『古事記』を利用したようだ。
現在伝わっている『古事記』の一番古い写本は、南北朝時代に、名古屋の「真福寺」というお寺で書かれたものだ。
また神祇官の占い専門の氏族であった卜部氏は、平安時代後期から『日本書紀』をはじめとした古典、神書の研究を専門とする家となり、鎌倉時代以降には「日本紀の家」と呼ばれるようになった。
彼らのなかからは鎌倉時代後期に『釈日本紀』という『日本書紀』の最初の体系的な注釈書が作られるが、そこには「古語」の参考として『古事記』も引用されている。
彼らのあいだでは、『古事記』は稀少本として扱われていたようだ。

『日本書紀』の版本が、関ケ原の合戦の前年、慶長4年(1599)に後陽成天皇の勅旨によって刊行されているが、『古事記』が刊行されたのが、寛永21年(1644)に、京都・寺町誓願寺下にある洛陽書林・前川茂兵衛の書肆で刊行された『寛永版古事記』と呼ばれるものだ。
宣長は京都での遊学時代、宝暦6年(1756)に購入している。
お金を出せば誰もが書物を購入し、読むことができるという出版文化の成立は、それまで写本の形でしか読めなかった『古事記』の読み方とはまったく違う日本神話の解釈を導き出した。
宣長は中世以来の『日本書紀』一辺倒の受容史を批判して、『古事記』の価値を発見するわけだ。

明治維新を迎えた近代日本においては、『古事記』は国家神道の聖典とされ、戦後の教育現場からも封印されてきた。
しかし実際の歴史を検証してみると、意外なことに皇国史観が華やかな時代にあっても、『古事記』はきちんと読まれていなかった形跡がある。
「大東亜戦争」が始まった頃の官吏任用試験の受験者が、なんと神武天皇のことを知らなかったらしい。
戦後においては、『古事記』はマルクス主義や構造主義、ポストモダニズムなど、時代の最先端の思想と切り結ぶことで、つねにその読み方を更新していった。
このように『古事記』が受容されてきた「1300年」の歴史は、謎だらけなのだ。

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  1. 2012/12/29(土) 07:00:18|
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大阪の神さん仏さん


大阪の神さん仏さん大阪の神さん仏さん
(2012/08/10)
釈徹宗、高島幸次 他

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大阪の神社の特徴は社格の高い古い神社が多いことです。
全国に65社ある官幣大社のうち、大阪府下には住吉大社・生国魂神社・枚岡神社・大鳥大社・水無瀬神宮の5社ありました。
大阪は格の高い神社が集中した場所なのです。
社格以外の特徴としては、大阪の神社は夏祭がとても多く、昔は旧暦の6月は毎日どこかで夏祭が行われていました。

平安中期までは藤原氏の政権の下で全国の主な神社は国家に統制されていました。
ところが天変地異が繰り返され、疫病が流行する中で、今までの既成の神道だけでは満足できず、もっと違った新しい信仰を求める風潮が高まっていきます。
それを受けて成立したのが天神信仰です。
神道の照葉樹の榊に対して、天神信仰では針葉樹の松がシンボルになります。
ある日突然に7本の松が生え、夜な夜な光り輝いたという大阪天満宮の創祀伝承があります。
また、天神さんと言えば「梅」のイメージが強く、これは室町時代に天神信仰の人気にあやかろうとした禅僧が「渡唐天神」の伝説を作ったことの結果で、「飛梅伝承」とも重なり合って、天神と言えば梅が定番になります。

日本の祭りは大きく「ムラの祭り」と「マチの祭り」に分けられます。
ムラの最大の関心は作物の豊凶ですから、それを無事に収穫できたことを神様に感謝する祭りが行われます。
収穫後の秋に行われるので秋祭と呼ばれますが、本質は収穫感謝の祭りです。
しかし、古代に中国をまねたマチが営まれるようになると、住民の最大の関心が「収穫」から「疫病」に移ります。
6月は梅雨もあって疫病が発生しやすい時期ですから、マチでは疫病を追い祓う祭りが不可欠となります。
天神祭も朝廷が行っていた夏越の祓の精神を受け継ぎ、祭りの中心は神職が本殿で行う「神事」です。
その後、神様は民地を巡幸され、このとき、氏子や崇敬者たちが神様の先導に立ったり、随行したりして渡御列を整える「神賑行事」があります。

「神事」の部分が伝統を守る一方、「神賑行事」は時代のニーズに応えています。  
天神祭の陸渡御・船渡御で、御鳳輦を中心に渡御列が組まれますが、この御鳳輦が登場するのは明治9年(1876)になってから。
それまでは鳳神輿・玉神輿が渡御列の中心でした。
鳳神輿に乗る菅原道真が外へ出た時に荒ぶる神として祟られたら困るので、法力を持っ法性房尊意が玉神輿に乗って必ずそばにくっつけていました。
ところが、明治維新の神仏分離によって、僧侶である法性坊尊意には退場してもらい、新しく御鳳輦を登場させて道真が乗り、鳳神輿と玉神輿には、それぞれ野見宿禰と手力雄命が乗るように変更されます。

天神信仰自体が、恵みや慈しみと、祟りや脅威が共存して、両義性が拮抗する構図になっています。
天神祭は、天神さんにも喜んでいただく、氏子たちも楽しむ、見物客も楽しむ、そういうバランス感覚がある。
船渡御の際に船と船が行き交うときに「大阪締め」を交わして、神様のお出ましを奉祝します。
以前、橋の上の一般の見物客が船に向かって大阪締めを求めていましたが、祇園祭でこれをやったらつまみ出されるかもしれません。
大阪の祭りにはコミュニケーションを交わす風土が根付いているということです。

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  1. 2012/12/28(金) 07:00:22|
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神戸~尼崎 海辺の歴史


神戸‐尼崎海辺の歴史―古代から近現代まで (のじぎく文庫)神戸‐尼崎海辺の歴史―古代から近現代まで (のじぎく文庫)
(2012/04)
辻川 敦、大国 正美 他

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盛岡秀人 「西攝の古代人と海とのつながり」
紀元3世紀後半~4世紀前半、阪神の海岸部に浜堤のような砂粒堆積物の上や海岸平野部に全長80~100mクラスの古墳が築造されており、往時にあっては沖合を航行する船舶から順次望見でき、大阪湾北岸海路の重要性を肌身で感じたと想像される。
最も古い時期に造られた西求女塚古墳(神戸市灘区都通3)は、西郷川によって形成された扇状地の末端近くに営まれ、『大和物語』や『万葉集』にも登場する古墳で、あたかも西方世界を意識して畿内勢力が布石したかのようである。
西求女塚古墳の東約2kmに処女塚古墳、さらに東2kmには東求女塚古墳が、さらに少し奥まった東灘区の山麓傾斜地にはヘポソ塚古墳があり、海の見える高みの翠ケ丘丘陵上に阿保親王塚古墳(芦屋市)が築造され、尼崎市西部の水堂古墳にまで連なる。
これらの古墳は大和の中枢勢力とも緊密な関係にあって、海上交通などの制海に係わった豪族たちの墓と考えられる。

古墳時代の中期、5世紀後半~末頃、前期古墳の途絶後、この地域の首長たちが奥津城として重視した場所は、海側に最も張り出して目立つ芦屋市東部の翠ケ丘丘陵であった。
この丘陵には中期後半から後期初頭にかけて、より海に面した地域に大型の首長墳を連続的に築造されている。
最近の調査では若宮古墳がみつかり、北西の標高10m付近に金津山古墳、その西方に打出小槌古墳が築造されている。
播磨灘の沿岸部の古墳が中期前半に活況を呈するのに対し、摂津西部側の古墳は中期後半以降のものが断然多くなる。
地域首長層と政権中枢勢力との政治的な関係が大きく変わる政変があったことは確かで、中期の中頃以降に再度、地域への挺入れに方針の大変動が生じたということだ。
そのキーポイントは、やはり海の通行権との関わり、そして古墳時代の海運やそのルートの実効支配であったと考える。

打出小槌古墳では入れ墨を表現した人物埴輪が出土しており、海人を率いた氏族のものとみてよい。
大型の靭形埴輪の鰭部には、赤色顔料とともに九州系の装飾古墳に使用された鉱石を原材とする緑色顔料が塗られていた。
その意匠の一つ、巴形透かしは北部九州地方の古墳の形象埴輪に存在し、また、円筒埴輪には停泊船をモチーフとする船の絵が描かれており、被葬者の慣海性を示す。
『日本書紀』雄略紀9年2月条に海路の守護神「胸方(むなかた)神」のために九州方面に派遣された「凡河内直香賜」(おおしこうちのあたいかたぶ)が登場する。
海岸部に位置し、北部九州との関係を示す物証を顕著に有する打出小槌古墳は、まさにこの香賜を埋葬した古墳であるかもしれない。

芦屋市の山麓部にある旭塚古墳は、既に1960年に小林行雄氏が発掘しているが、2008年の芦屋市教育委員会による調査では、墳丘は上部をすでに失ってはいるものの、巨石を使用した大型横穴式石室の羨道床面や前庭は播磨高砂の竜山石の砕石を大量に敷いていた。
また、墳丘裾部に須恵器には山陽地方で焼かれたものが含まれていた。
墳丘・外部施設・石室・出土品のすべての要素が播磨以西の地域と関係づけられ、こうした幾外的な様相から、埋葬された人物は芦屋地域の豪族ではなく、播磨や吉備の地域と緑深き人であったと考えられる。
築造された時期は7世紀の中頃、断行された大化改新が過ぎ、前期難波宮の造営が始まった頃のことである。

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  1. 2012/12/27(木) 07:00:32|
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地球に残された時間


地球に残された時間 80億人を希望に導く最終処方箋地球に残された時間 80億人を希望に導く最終処方箋
(2012/02/03)
レスター・R・ブラウン

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2011年3月11日、日本は地震と津波、そして史上最悪の一つに数えられる原子力事故を経験した。
このような状況下にあって、地熱、風力、太陽エネルギーに恵まれている日本は、今こそエネルギー経済を再構築すべきだ。
日本は長年にわたって、自動車から家電製品まで数々の分野で、エネルギー効率の世界的リーダーだった。
福島原子力発電所の事故ののち、日本はあらゆる分野でエネルギー効率をさらに改善するという偉業を成し遂げている。
日本は、エネルギー効率の分野では世界のペースセッター役を果たしてきたが、再生可能エネルギー源の開発という分野ではひどく後塵を拝している。
太陽光エネルギーは日本が最も強い分野で、世界第3位であるが、その設置容量はドイツのわずか4分の1だ。
日本には豊かな風力資源があるにもかかわらず、人口がたった600万人のデンマークに後れをとっている。

現在のエネルギー政策の結果、日本は輸入燃料に大きく依存している。
世界的に見れば、日本は石炭と天然ガスの輸入量では第1位で、石油は第3位である。
エネルギー消費量の全体を見ると、石油が半分近くを占めている。
石炭、天然ガス、原子力の合計が半分で、残りのほとんどは水力となっている。
大規模水力以外の再生可能エネルギーはわずか0.3%という少なさだ。
このように輸入エネルギーに大きく依存していることから、日本はエネルギー供給の途絶に弱い。
日本が再生可能エネルギーで後れをとっているのは、この分野における産業力がないためではない。
日本は、太陽電池の製造では世界のリーダーである。
三菱重工は屈指の風力タービンメーカーだし、冨士重工、東芝、三菱重工が地熱タービンの製造で世界全体の3分の2を供給している。
日本は世界でも最も地熱に恵まれた国の一つで、100以上の火山と2万8000の泉源があり、地熱の潜在的な発電容量は8万メガワットを超え、全国の電力の半分を賄うことができる。
すべての原子力発電所と古くて汚い石炭火力発電所の多くを止めることができるのだ。
地熱エネルギーに恵まれているにもかかわらず、現在の日本が地熱発電から得ている電力は全体の1%にも満たない。
膨大な潜在可能性があるにもかかわらず、日本の地熱エネルギー分野が政府からもらっている研究開発資金はゼロで、原子力は年に23億ドル得ている。

日本は新しいエネルギーの進路を決めるときだ。
風力、太陽、地熱といった国産のエネルギー資源を活用する道である。
現在ひどく偏って原子力に投入されている研究予算を再編成し、予算の大部分を風力、太陽、地熱エネルギーに振り向けなくてはならない。
そうすれば輸入依存から生じる供給不安を軽減でき、国外に流出する資本を減らすこともできる。
そのうえ、深刻な原子力発電所の事故が再び起こるリスクを減らし、石炭火力発電所から出る大気汚染を減らし、そして、二酸化炭素の排出量を減らし、気候を安定させる一助となるだろう。
日本の人々が、「我が国を21世紀にいざなってくれるエネルギー経済を再構築すべきだ」と主張するときが来ているのだ。

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  1. 2012/12/26(水) 07:00:11|
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仏像と古代史


仏像と古代史 ミステリー案内仏像と古代史 ミステリー案内
(2012/02/17)
関 裕二

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飛鳥大仏は、日本で造られた現存最古の仏像である。
いわゆる仏教公伝は、欽明13年(552)10月、百済から仏像と経論がもたらされたことを指す。
ただし、仏教がすんなり受け入れられたわけではない。
欽明天皇は仏像礼拝の是非を群臣に尋ねると、大連の物部尾輿らは、蕃神(海外の神)を礼拝すれば、国神の怒りを買うと反対した。
欽明天皇は帰依を断念し、仏像を蘇我稲目に与え、ためしに祀らせた。
蘇我稲目は仏像を小墾田の家に安置し、向原の家を浄めて寺とした。
ところが、この頃から疫病が流行り、物部尾輿らは天皇の許しを得て、仏像を難波の堀江に流し捨て、寺に火をかけた。
『日本書紀』敏達13年(584)是歳の条には、蘇我稲目の子で大臣の蘇我馬子は、百済からもたらされた石造仏を礼拝し、仏殿を建て、3人の女性に得度させ、大きな法会を行った。
ところが翌年、蘇我馬子は病に倒れ、占に父の祀った仏の御心が祟っているとあり、馬子は奏上し、敏達天皇は「稲目の崇めた仏を祀れ」と命じた。
しかし、疫病の蔓延は抑えられず、大連の物部守屋は「仏法のせいだ」と訴え、天皇も「仏法をやめよ」と命じた。
そこで、物部守屋らは仏像を焼き払い、焼け残りを難波の堀江に捨て、尼僧たちの法衣をはぎ取り監禁し、海柘榴市で鞭打ちの刑に処した。
だが、敏達天皇と物部守屋も病に倒れ、蘇我馬子は改めて三宝の力を借りたいと訴え、敏達天皇は蘇我馬子ひとりに崇仏を認め、3人の尼僧を馬子に返した。
この後、蘇我馬子は朝廷を動かし、物部守屋を討伐し(丁末の乱)、聖徳太子が大活躍した。

蘇我氏と物部氏の争いを宗教戦争と単純にくくることはできない。
3世紀のヤマト建国来継承されてきた前方後円墳体制は、崇仏派が優勢になった時点で崩れている。
巨大な古墳は、蘇我系の用明天皇の登場とともに廃止されたのである。
前方後円墳はヤマト建国の象徴的存在で、各地の首長霊祭祀を統一し、その方式を共有することによって、ゆるやかな連合体を形成した。
けれども、中央集権国家の建設が急がれた6世紀、前方後円墳体制はもはや維持できなくなっていたのである。

飛鳥寺は日本で最初の「仏法の興った寺」として法興寺と名付けられた。
蘇我馬子が仏法の守護神に、守屋討滅が成就した暁に寺を建立すると誓願し、法興寺は蘇我氏の氏寺として産声を上げた。
ところで、『元興寺伽藍縁起並流記資財帳』や『先代旧事本紀』には、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたという話が出てこない。
その代わり『元輿寺伽藍縁起並流記資財帳』には、崇仏派の受難と、推古天皇の呼びかけによって物部氏と蘇我氏が和解した経緯が記されている。

飛鳥寺は数十年にわたる受難と迫害の末に築かれた蘇我氏の悲願の寺だった。
そしてこの後、さらに悲しい歴史を背負っていく。
飛鳥寺は乙巳の変(645)の舞台となり、蘇我本宗家滅亡を目撃した寺院としても知られるが、蘇我氏の氏寺であったため、反骨の寺へと変貌していく。
平城京遷都(710)に際し、藤原京の建造物が次々と新都に移築されていく中、旧都に居座り抵抗した。
そこで朝廷は新たに元興寺を建立し、一方、飛鳥寺は次第に荒廃する。
江戸時代には粗末な仮のお堂に大仏様が鎮座するだけだった。

蘇我氏は大悪人として石礫を投げられてきたが、近年、史学界も「蘇我氏は悪くなかった」と気付きつつある。
飛鳥寺の発掘調査の結果、大仏さんが座っている場所は建立時そのままだという。
大仏さんは、けっして「ぶれなかった」。

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  1. 2012/12/25(火) 07:00:37|
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マニア力


マニア力(まにありょく) (マイナビ新書)マニア力(まにありょく) (マイナビ新書)
(2012/11/27)
森永 卓郎

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将来にわたって人生を楽しく送るためには、生きがいを感じるための「何か」が必要になります。
その最高の手段のひとつがコレクションです。
コレクターを突き動かすものは、達成感と満足感、そして渇望感であると思います。
高価な絵画や骨董品などを集めていたら、それは当然お金がかかるでしょう。
望みのものを手に入れる際はもちろん、手に入れたものをしまっておくスペースもバカになりません。
もちろんお金がかかるコレクションもあれば、1円もかからないコレクションもある。
それが事実です。
そして、この「どういうものをどういうふうに集めるか」こそが、コレクションという趣味の骨格になります。
自分が好きなものを、好きなように集めてください。
そのことに熱中することができたあなたは、もう立派なコレクターです。
そしてあなたの熱中が、いま現在だけでなく、将来の人生にも潤いを与えてくれる生きがいとなるのです。

作家の荒俣宏さんの名言に、「どんなものでも100年もてば宝になる」というものがあります。
庶民文化研究家の町田忍さんは、バナナのシールのコレクションを続けて、今では昔のものはかなりの価値が出ています。
長い間続けていれば、将来的に価値が出るのがコレクションの鉄則といえるでしょう。
私の経験からすれば、多少のお金を出して買い集めたものより、無料で手に入れられるもののほうが、将来的に価値が出る可能性は高くなります。
なぜかといえば、タダで手に入るものは、タダであるだけに大事に保管する人が少なく、後の時代まで残される可能性が低いからです。

私の人生はいつまでもコレクションのおかげで潤い続け、老後も生きがいを感じながら生きていけるだろうと、確信すらしています。
この確信の支えになっているのが、コレクションが将来の生活の保険になる可能性があるという事実です。
これこそは、現在および将来の生きがいとする目的以外に、コレクションを生涯の趣味としておすすめする理由でもあります。

コレクションを長く続けていると、相場観が育まれ、目利きができるようになり、コレクションの価値をより適切に判断できるようになります。
目が利くようになってくると、「あ、これは不当に安いな」と、正当な価値評価をされていないものを見分けられるということです。
目利きできるようになったら、ブローカーになって食っていくことも考えられるでしょう。
ブローカーでなくても、コレクションの過程で集まった不要なアイテムをネットオークションに出品し、ひと稼ぎしている人は普通にたくさんいます。
そして、万が一生活に困ったときは売ることで年金代わりにすることもできるのです。

コレクション生活において相場観とともに大切なのが、奥様との付き合い方です。
コレクターの中には奥様とうまくいっていない人がいますし、結婚できない人、離婚してしまう人も多いのです。
生活費に食い込むとかならずトラブルが起きますから、無料のコレクションがおすすめなのです。
なるべく、お金をかけずに。
そして奥様と家庭には十分すぎるご配慮を。

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  1. 2012/12/24(月) 07:00:16|
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飛鳥寺

飛鳥寺飛鳥寺 (美術文化シリーズ (48))

(1964/02)

坪井 清足

昭和32年の第1次調査で、飛鳥寺の金堂と塔とが簡単にみつかったので、つきは当然回廊と考えていた。
塔の後ろに金堂がならぶ一塔一金堂の四天王寺式伽藍が最も古いと考えていたので、『日本書紀』敏達天皇13年(584)に、鹿深臣(こうがのおみ)が百済からもたらした弥勒の石仏を飛鳥寺の東金堂に安置されたという記事の意味がわかっていなかった。
第2次調査で一塔三金堂の伽藍であることが確認された。
記録にみえるこの寺の建造について、百済工人が指導したというその実際が発掘によって具体的にわかったわけである。
飛鳥寺の発掘は前後3回、約200日をついやしたが、発掘面積は飛鳥寺全域4万m2の2割にもみたず、その中心部をきわめたにすぎない。
飛鳥寺の東南に禅院のあったこと、食堂や、『霊異記』その他にみえる道場和尚のつかまえた鬼の伝説のからんでいる鐘楼など、記録にみえる堂宇さえもまだ不明のままである。

飛鳥寺の発掘をやりながら強く感じたことの第1は、第1次、第2次の発掘で、伽藍配置や特殊な基壇を発見して、百済の工人の技術指導で、全くそれまでになかった新しい寺を建てたという、当時の技術導入の姿であった。
第2は、これとまったく反対に、第3次の発掘で塔心礎を掘って、古墳を掘っているのではないかと錯覚したほど、在来文化のにおいの強かったこと。                        
飛鳥寺の建てられた6世紀末は、考古学上で古墳時代とよばれる時期であり、仏教が伝えられ、ひろめられていった時代に飛鳥時代がはじまる。
飛鳥寺の塔跡の出土品はまさに古墳時代そのものであり、飛鳥大仏をはじめ堂塔の遺構は、新しく入ってきた外来技術の種種相をしめしている。

わが国に仏教が伝えられた6世紀中頃、帰化系の人々を中心に信仰がひろまり、一部に尼寺がつくられはじめた。
古来の神道をとるべきとする物部氏の敗戦によって仏教派の勝利に帰した翌年、崇峻天皇元年(588)に、本格的な僧寺の建立が計画され、これに必要な指導をあおぐために、はじめて百済国に僧侶や技術者の派遣が要請された。
こうして百済から派遣された6名の僧侶、大工、塔の屋上にとりつける露盤つくり、瓦師などの指導によって本格的な工事がはじめられた。
法興寺(飛鳥寺)の建立である。
この造営は蘇我馬子によって命ぜられ、帰化系の山東漢直麻高垢鬼(やまとあやのあたいまこくき)や意等加斯(おとかし)らが多数の部民を使役しておこなわれたことが、『日本書紀』と『元興寺縁起』にみえる。
また、崇峻天皇3年(590)には、山に入って寺の材をとり、5年(592)に仏堂、歩廊(回廊)などを建てはじめ、翌推古天皇元年正月十五日に、塔の心礎に舎利をおさめ、翌日心柱をその上に建てた。
推古天皇4年(596)に塔が完成し、寺僧が住みはじめたと記されている。
推古天皇13年(605)に、天皇は聖徳太子はじめ馬子大臣以下に、銅製と刺繍製の丈六仏をつくるようにとの詔勅をだされ、鞍作鳥を造仏工に任せられた。
この道仏のためには、銅二万三千斤と金七百五十両をついやした。
また、このことをつたえ聞いた高勾麗王が、黄金三百廿両を寄進したとも記されている。
翌14年、銅と刺繍の2躯の仏像および脇侍が完成し、大きい銅仏を扉をこわさず鞍作鳥が上手に仏堂におさめたという有名な話も残っている。
当時、天皇家をもしのぐ勢をえた蘇我氏の象徴としての飛鳥寺は、やがて大化改新にも大きな役割をもつにいたる。
飛鳥寺西門前の広場に生えていた大きな槻ノ木の下で、中大兄皇子と中臣鎌子達が打毬にことよせて出会い、飛鳥寺の南にあった板蓋宮で蘇我入鹿を殺し、大化改新の実践にふみきった改新の軍勢は、飛鳥寺をとりでとして蘇我氏と戦っている。
11世紀後半には大官大寺、本薬師寺、川原寺とならんで、四大寺といわれ、官寺として崇敬があつた。
8世紀に都が平城京に移るとともに諸大寺は移ったが、飛鳥寺はひとり故京にとどまり、やがて養老2年(718)に平城京の外京五条七坊の地に移っている。
塔、三金堂はじめ講堂などは飛鳥の地にのこされて本元興寺とよぶことになった。
平安時代後半期には、中門、南門、回廊などもつぎつきと崩壊し、最後にのこった塔と中金堂も建久7年の火災によって焼滅した。
室町時代には中金堂の本尊も雨ざらしになり、元禄の頃に再興する人があり、これを安居院と名づけて今日にいたったものである。

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  1. 2012/12/23(日) 07:00:59|
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推古天皇・聖徳太子の憧憬の仏たち

水野正好水野名誉館長の『口誦日本全史』講座

第8回 推古天皇・聖徳太子の憧憬の仏たち

水野 正好 名誉館長

12月21日(金) 13:30~15:00

今城塚古代歴史館2階 映像研修室 

奈良に初めて文化財研究所ができて初めての発掘が昭和30年に始まりました。
そうすると、飛鳥寺の全貌が地上に現れました。
中国や韓国なら、こうした場合は全ての土地を買い上げて、寺院を復元するところですが・・・。

飛鳥寺は蘇我馬子が588年に乾さんから土地を求めて、8年で完成しました。
発掘で、塔を挟んで金堂が3つもあり、日本では初めての伽藍配置です。
全国の研究者に呼びかけ、皆さん手弁当で駆けつけてくれましたが、誰も分からない。
飛鳥寺
そこへ遅れてきた藤沢一夫先生が「あそこと一緒やね」と、清岩里廃寺を教えてくれました。
今まで八角形なので塔とは考えず、高句麗王の宮殿と考えられていたのです。
それなら僕も小泉顕夫「高句麗清岩里廃寺址の調査」(1958)を持っている。
坪井さんから「お前も変わった本を持ってるな」と呆れられてしまいました。

飛鳥寺は高句麗の影響を受けている。
おそらく高句麗のことをよく知る匠か僧侶が百済に来たのだろう。

飛鳥寺は1体の銅造釈迦如来坐像(飛鳥大仏)だけが残り、後は何も分かっていません。
台座
現飛鳥寺の本堂床下を覗くと、真っ白な仏を載せる壇が残っており穴が左右にあります。
これで両方に脇仏を擁する真ん中の仏さんだということが分かりました。
すぐに仏の研究が始まりました。

飛鳥大仏

百済や高句麗を越え、雲崗とか敦煌に繋がる古い姿の仏です。
ではなぜ、このような古い仏が伝わったのでしょうか?
実は司馬という家の存在があります。
中国洛陽の貴族が日本に渡来していのです。
蘇我氏は司馬達等(しばたっとう)と付き合いがありました。
鞍作止利(くらつくりのとり)が飛鳥大仏を作ったことがはっきりしています。
飛鳥寺は奈良に都が移った後荒廃して、飛鳥大仏も露仏となり酷い状態です。

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  1. 2012/12/22(土) 07:00:03|
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男のロングスティ成功指南

バンコクで正解! 男のロングステイ指南

 (2012/5/19)

広沢 竹夫

団塊の世代の先駆けに当たる昭和22年(1947年)生まれの人たちが会社を去り、第2の人生を歩むことになります。
これからは人生後半の長い高齢期を「いかに生きるか」「いかに老いるか」が問われてくる。
そうした中で、いま「海外でのロングステイ」が再び注目されてきました。
言葉も、文化も、食べ物も、習慣も違う海外で、長期間〈暮らす〉ということは、そんなに甘いものではありません。
しかし、それだからこそ得られるものも多いと言えます。
観光旅行ではなく、海外のどこか1か所に滞在し、そこを拠点にして〈暮らす〉というのであれば、少なくても2か月や3か月、できれば半年以上は暮らしたほうがいいでしょう。
異国で暮らしていると、毎日何か発見があり面白くて仕方ありません。

ロングステイ先として人気のある国は、マレーシア、タイ、ハワイ、オーストラリアなどが定番です。
ハワイやパースは大好きな街ですが、予算的にかなりオーバーしてしまうため、1~2週間のショートステイで訪れる場所と決めました。
日本との距離や物価を考えると、やはり候補は東南アジアに絞られます。
リダイアした人たちを積極的に受け入れようとしている国は、マレーシアとタイです。
マレーシアはロングステイヤーの受け入れに積極的で、首都クアラルンプールは高層ビルが林立し、街も清潔で英語も通じる大都会です。
いっぼうのタイは全国各地に名所旧跡があり、リゾート地をいくつも擁する世界的な観光立国として知られています。
どこの国でロングステイをするかということも大事ですが、滞在地を大都市にするか地方都市にするか、それともリゾート地にするか、これも候補地選びの大事な要素です。

ひとつの国・ひとつの町にこだわらず、冬の寒さ、夏の暑さを避けて年に2回か3輿ハワイだ、バンコクだ、チェンマイだと、毎回行き先を変えて2~3週間ほどのんびり過ごすというロングステイのやり方もあります。
費用的には割高になりますが、長期間、日本の住まいを空けられない人や、持病に不安のある人には向いています。

現役時代は仕事に追われる毎日で、ストレスをためこんでいましたが、バンコクに来てからはストレスから完全に解放され、毎日が自由時間。
自分の時間を自分で自由に使えるということは、つくづく幸せなことだと思わずにいられません。
資産といえるようなものは最初からありませんが、それでも「お金持ちより時間持ち」のほうがはるかに幸せだと思っています。
病気や老後の心配ばかりしていては、一歩も前へ進めません。
書を捨てて海の外へ出てみませんか。

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  1. 2012/12/21(金) 07:00:49|
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