続・竹林の愚人 2013年09月

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よみがえる縄文の女神


よみがえる縄文の女神よみがえる縄文の女神
(2013/08/28)
渡辺 誠

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縄文海進がおこる前の陸地は、現在よりも140mも下がった地点にあり、東京湾も伊勢湾も干し上がった陸地であった。
それが温暖化によって海水面がどんどん上昇し、縄文前期(約7000~5000年前)には現在の海のレベルより約3mも上がり、関東平野はほぼ水没した。
この縄文海進によって、朝鮮半島でつながっていた日本列島が大陸から離れ、四国や九州も本州から分かれたのである。
その後、水位は徐々に下がって現在の陸地の範囲に落ち着き、現在とほぼ同じ気候になっていたことから、日本列島には今と同じような森林地帯が広がってきたと考えられる。

縄文といえば縄文土器といわれるように、土器のつくられた時代が縄文時代の始まりになる。
最古の尖底土器は、約12,000年前(縄文草創期)のもので、一見不安定な形をしている。
これは、底部を石で固定したり、倒れないようにして火にかけて使うと考えられる。
ドングリ類のアク抜きのために工夫された土器で、熱の対流効果を高め、煮沸の目的で使うきわめて合理的な形である。
尖底土器は後に、平底になり、底の大きい土器と小さい土器とが並存していき、中期から晩期には文様や形が緻密になる。
基本的には、縄文土器は食べ物を者炊きしたり、貯蔵するためのものである。

縄文人は遺跡から発掘された弓矢などの石器、貝塚の調査などから、イノシシやシカなどの哺乳類やサケやマスなどの魚類を食べていた
縄文人の生業は、植物採集・狩猟・漁労の三本柱で、食物の種類は地域によって異なるものの、小動物よりも植物を主として食べていたと考えられる。
各地の遺跡から、クルミのほか、ドングリ類やトチの実、植物を採取するための打製石斧や植物を加工するための石皿・磨石・敲石などの生産用具が多数発見されている。
中には炭化したパン状やクッキー状の食物も出土しており、木の実、動物の肉などを混ぜてつくっていた。
海岸部ではマダイ・カツオ・マグロ、海のない内陸部ではフナ・コイなどの淡水魚を捕っていた。
土器の開発によってドングリ類の実が食べられるようになってから、やがて縄文前期になると製粉技術が登場し、アク抜き技術がさらに発達する。
土器の形が円錐形から体積が4倍も大きい円筒形に変わるのも、クズやワラビなどの地下茎や球根類の植物デンプンを製粉して沈殿させるのが目的であった。
さらにこの頃になると、打製石斧を先端につけた掘り道具も発達して、デンプンの確保が安定したことから、クッキーやパン状の食べ物もつくられるなど、野生植物の利用が高度に進んだと考えられる。
そして、縄文中期には、野生植物のなかでももっとも難しいとされているトチの実のアク抜き技術が完成し、この段階であらゆる植物が縄文人の食卓にのぼっていたと推察できる。

ドングリ類やトチの実のアク抜きのためには、多量に水を使い、何度もボイリングする必要があるため調理場が必要で、移動生活では無理がある。
こうして縄文の人々は、森の近くの土地に竪穴住居を建て、堅果類などの調理や貯蔵のために複数の家族単位で集まって暮らすようになり、定住生活を始めたと考えられる。
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  1. 2013/09/30(月) 07:00:09|
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自費出版入門

自費出版入門
自費出版入門

(1986/10)

深田敦夫
 
自費出版した人は、どんなふうに素敵な本をつくったのでしょうか。
自費出版をするときに、編集作業も受付店で頼むと、もう一種類本を出せるぐらいに費用がかさみます。
いくら自費出版が身近になったとはいえ、原稿の量や発行部数、装丁の種類によってはかなりの費用が必要になってきます。
自費出版をする場合に、どうすれば少しでも安くできるのでしょうか。
印刷の現場では文字の外観を見ながら一字一字植字していくので、作業のしにくい原稿は、活字に移す前に清書が必要で、この清書代金が馬鹿になりません。
また新旧かなづかいの入り混じった原稿や、しつかり校正されていないものは、有料の内校作業が必要になってきます。
また、一度活字になってしまうと内容を変更するのに訂正代金が必要となってきます。

装丁によっても費用はちがってきます。
受付店の見積もりに上製本と書いてあれば、製本費用のかかるハードカバーです。
豪華なクロス貼りに金箔押しの厚みのある表紙は、書籍と呼ぶにふさわしい風格を持っていますが、本のレベルには関係ありません。
ペーパーバックスでも、表紙の折り返しをつけたり、カバーを厚い紙にすれば、ずいぶん幅のある本になってきます。
また印刷部数に関しても、最初100冊つくって、後から50冊、100冊と増刷すると、まとめて200冊つくるより余分な費用がかかります。

原稿ができあがり、いざ自費出版という段になると、たくさんの人に読んでもらいたいと思うようになります。
ここで自費出版は大きく2つに分かれてきます。
1つはできあがった本を友人知人に贈るというもので、もう1つは書店で売りたいというものです。
自費出版した本にニュース性があれば、新聞社の社会部へ本を送ってみましょう。
記事ネタになりそうな本であれば、紙面紹介の可能性があります。
日本国内で出版された本は国立国会図書館へ献本することが義務づけられていますから、献本すれば国会図書館に保管され、著作権の承認と登録番号を得ることができます。
そのうえ、国会図書館のまとめた出版物紹介の週報で、全国の図書館に紹介してもらえますから、資料性のある本などは特におすすめできます。
読者層がある程度つかめていて、連絡のとれる場合にはダイレクトメールを送ることをおすすめします。
自費出版した本が専門的な分野であれば、その分野の専門誌の読者からのハガキを紹介するコーナー宛に送ります。
本の内容と値段、郵送代金を記し、希望者に現金書留で送ってもらうやりかたです。
作品集やミニコミ誌なら、若者文化の発生源である喫茶店やライブハウス、画廊、ブティック、輸入レコード店などで委託販売するというやり方もあります。
売れる本にするには、いかにも読みたくなるような外観でなければいけませんし、内容も「他人に読んでもらうのだ」と思ってつくらなければなりません。
たいへんな作業ですが、気を抜かず、じつくり腰を落ちつけてつくりましょう。

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  1. 2013/09/29(日) 07:00:35|
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デカンショのまちのアリラン


デカンショのまちのアリラン―篠山市&朝鮮半島交流史 古代から現代までデカンショのまちのアリラン―篠山市&朝鮮半島交流史 古代から現代まで
(2006/12)
篠山市人権同和教育研究協議会

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徐 根植 「篠山の鉱山と在日コリアン」

2005年12月現在、篠山市に住む在日コリアンは118人ですが、歴史をたどれば多くの在日コリアンが住んでいました。
朝鮮人がいつごろから篠山に来たのかは分かりませんが、新聞記事によると、大正11年(1922)の朝鮮飴売り行商6人の登場が初めてです。
神戸では明治43年(1910)以前から、朝鮮飴売りが見かけられました。
篠山での最初の居住者は、大正14年(1925)に「多紀郡日置村宮ノ前に34歳の土工が住んでいる」との記事があります。

昭和5年(1930)の旧多紀郡に在住する朝鮮人は85人でしたが、昭和10年(1935)には約3倍の244人になりました。
昭和9年(1934)には珪石景気で篠山が活況を呈し始め、昭和11年(1936)の旧多紀郡の朝鮮人人口は225人です。
太平洋戦争が始まった昭和16年(1941)に、篠山の在日朝鮮人の多くが珪石鉱山で働きました。
珪石は耐火性が高く、主に炉材用煉瓦に使用されました。
篠山の珪石は、大正2年(1913)ごろ大芋村で発見され、採掘は主に表面露出部分で行なわれました。
掘り出された珪石は、牛馬などで篠山口駅に運び、鉄道で九州八幡まで運ばれました。
大正9年(1920)には火打岩でも発見されました。

畑鉱山は、大正12年(1923)、官営鉱山を八幡製鉄所が買い取り、採掘設備を整えて大正15年(1926)から、本格的な採掘を始めました。
昭和10年(1935)ごろからは露天採掘を終え、坑内採掘に移行しました。
第二次世界大戦が始まると桂石の需要が増大し、生産は飛躍的に伸びました。
戦争中は戦時体制に組み込まれて珪石やマンガンを掘り、鉄道を敷設し、松根油を造り、炭を焼き、軍に納める仕事をして生きてきました。
結果、在日朝鮮人の人口は多くなり、太平洋戦争開戦の年の旧多紀郡の朝鮮人は873人です。
それは、戦争激化で成年男子が戦場に送られて鉱山労働者が不足し、朝鮮人が多く篠山に入ってきたからです。

聞き取り調査では、珪石の仕事で差別的なことはなく、戦後は、仕事も賃金も保険も一緒でした。
戦後の村雲の鉱山などでは、日本人の親方の下で朝鮮人が働いたり、朝鮮人の親方の下で日本人が働いたり、渾然一体となって仕事をしたそうです。
篠山の花形産業であった珪石産業で、朝鮮人の存在はなくてはならないものでした。

戦争が終わったとき、兵庫県全体では朝鮮人の人口の54%が減少しましたが、篠山での人口減少は11.5%にとどまっています。
それは戦時に強制連行された朝鮮人が少なかったことと、田舎で食糧事情などがよかったからだと思われます。
最近は篠山の産業構造が大きく変化し、在日外国人の構成も変わって、ブラジル国籍、フィリピン国籍、中国国籍の人たちがおおむね60%を占め、そのうち、女性の占める割合が65%です。

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  1. 2013/09/27(金) 07:00:28|
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気持ちのよい聖地


空間快楽案内―気持ちのいい聖地 関西編空間快楽案内―気持ちのいい聖地 関西編
(2013/04/27)
フェルニッチ

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三島神社(みつしまじんじゃ) 薫蓋樟(くんがいしょう) 
門真市三ツ島1374

大阪府下最大という幹周り。
そこから四方八方に広がる枝葉が、小さな境内をすっぽり覆っている。
奥にある拝殿も、大きな緑の傘で守られているような格好だ。


伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)
京都市伏見区深草藪之内町68

稲荷山全体にディープな神域が広がっている。
鳥居を抜けてさらに参道をのぼっていくと、山頂付近に3つの峰が待っている。
それぞれの峰には神々を祭るお塚が群集していて、いかにも神が降臨してきそうなこの世ならぬ雰囲気が漂う。
保久良神社(ほくらじんじゃ)
神戸市東灘区本山町北畑680
境内に入ってまず目につくのは、参道へ向かって左側の「立岩」。
しめ縄がなされ、一帯の中心核のような存在となっている。
そこから見て、東の森の斜面と、西側の林間地に無数の巨石が集積している。
重なり合い、散乱している光景は壮観だ。
大神神社(おおみわ) 桜井市三輪1422
お山全体が日本最古といわれる大神神社のご神体であり、大国主神の国づくりを助けた大物主神が鎮まる地として厚い信仰を集めてきた。山中は大和政権の初期王朝の祭祀拠点であったと考えられていて、さらにそれ以前の縄文~弥生時代から、三輪山は自然を崇拝する原始信仰の対象であったと推測される。
大斎原(おおゆのはら) 田辺市本宮町
熊野川と音無川が合流する大斎原 。当時は川の中を歩いて渡るのがしきたりで、参拝者は水で身を清めてから訪れたという。遠くから見ると楕円形に残された森のようだが、その中心部は原っぱのような何もない空間。御神霊を祭る2基の祠がポツンと置かれるのみだ。
伊勢神宮 伊勢市宇治館町1
伊勢神宮といえば、皇室の祖神であり、太陽神にたとえられる天照大御神を祭る内宮のイメージが強い。しかし、衣食住の守り神を祭る外宮と合わせて参拝するのが本来とされている。さらに広義では、三重県内に分布する別宮、摂社、末社など、計125社の総称として神宮という。

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  1. 2013/09/26(木) 07:00:08|
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朝鮮人のみた中世日本


朝鮮人のみた中世日本 (歴史文化ライブラリー)朝鮮人のみた中世日本 (歴史文化ライブラリー)
(2013/08/20)
関 周一

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8世紀、律令国家は、唐や新羅・渤海と外交関係を結んでいた。
それに呼応して、外国の使節や遣外使節などが滞在する施設が、京(平城京・平安京)・難波(摂津)・太宰府(筑紫)に設置された。
この施設は「館舎」「客館」と呼ばれたが、9世紀になると、嵯峨朝が弘仁年間(810~824)、殿舎諸門の呼称を唐風化して、鴻臚館とよばれるようになる。
また新羅使は、博多湾に来航して太宰府が管理している鴻朧館において応対を受けた。
また渤海使は、主に日本海沿岸に到着し、平城京や平安京に迎えられた。
日本からも遣新羅使、遣渤海使が派遣された。
このように8世紀は、国家と国家の間の交渉が中心で、外交に付随して貿易が行われた。
しかし日本と新羅の関係が悪化し、新羅使は、779年(宝亀10)を最後に来日が途絶えた。
9世紀になると、遣唐使の派遣は激減し、9世紀前半の2回のみである。
渤海使は、8世紀同様に頻繁に来日して活発に交渉をしたが、それも919年(延喜19)が最後になる。

国家間の交渉に代わる担い手が海商であった。
10世紀、唐や渤海、新羅が滅ぶと、中国では北宋が成立し、江南を中心とする経済の発展がめざましかった。
11世紀中ごろ、太宰府管理下の鴻朧館が廃絶し、その東側に位置する博多が貿易の拠点になった。
博多には、中国人海商が住居・倉庫・店舗を構え、日本人女性を妻とした。
海商らの居住地区は、「唐房」とよばれ、有力な海商は綱首とよばれた。
海商たちは、九州の寺社や、京都の貴族や寺社などの権門と結びつき、彼らをパトロンとして資金の提供を受けながら、商船を経営した。
北宋との貿易では、白磁や青磁などの陶磁器、綿織物や薬などの唐物が輸入された。
日中間を活発に往来した商船に僧侶が乗船し、五台山や天台山などの中国の聖地を巡礼している。
13世紀半ばからの約100年間は、中国に渡来し参学する僧侶が数多く、また北条氏の招請で中国僧があいついで渡来し、鎌倉や京都の禅宗寺院に任した。
13世紀、モンゴル(元朝)が台頭し、広大な帝国を作り上げ、日本には2度にわたる攻撃をし、ヴェトナムやジャワなどにも侵攻した。
モンゴル(元朝)との戦争後、日本と大陸との間の商船の往来は、むしろ活発になり、日中の禅僧も頻繁に往来した。
14世紀前半には、建長寺船や天龍寺船のような寺社造営料唐船が日中間を往来し、この貿易を通じて鎌倉や京都の禅宗寺院は、絵画や陶磁器などの唐物を得ることになった。
                                             1350年2月、高麗の慶尚道南岸の固城・竹林・巨済を倭寇が襲った。
これを皮切りに、ほぼ毎年、倭寇は朝鮮半島の南部や西海岸、時には首都開京(開城)に近い島々や沿岸部まで襲撃し、さらには中国大陸を襲撃する者もいた。
倭寇の主な掠奪品は、食糧(米)と沿岸の住民たちである。
1366年(貞治5)、高麗の恭愍王は、使者として金龍と金逸を京都に派遣し、倭寇の禁圧を要請した。
朝廷は使節の受け入れを拒否したが、幕府側は天龍寺を宿所として接待し、朝廷から外交権を接収する第一歩になった。
その後、5度にわたって高麗使が来日し、幕府は倭寇の禁圧を約束した。
しかし、その約束に満足できなかった高麗は、九州探題今川了俊と大内義弘と交渉をもつようになった。
彼らは、被虜人の送還に協力したり、倭寇を鎮圧するための軍勢を高麗に派遣したりした。

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  1. 2013/09/25(水) 08:00:42|
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神さまと神社


神さまと神社―日本人なら知っておきたい八百万の世界 (祥伝社新書 (035))神さまと神社―日本人なら知っておきたい八百万の世界 (祥伝社新書 (035))
(2006/02)
井上 宏生

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熊野の神倉神社は速玉大社に近い神倉山の項にあり、社殿の裏手にはゴトビキ岩という巨岩が突き出ている。
専門家によれば、ゴトビキ岩が神の棲む家(磐座)だったという。
花の窟神社は熊野灘に面した七里御浜にあり、50mを超す切り立った崖がそびえている。
この神社は『日本書紀』にも登場し、国生み、神生みの神として知られるイザナミノミコトを祀っている。
ただし、崖の前には玉垣をめぐらした拝所があるだけで、神殿はどこにも見あたらない。
崖そのものがご神体であり、神々が棲むイワクラなのである。
神殿をもたない神社で有名なのが奈良県桜井市の大神神社で、神さまは拝殿の背後に控えている三輪山だ。

人工的な神殿は必要ではなく、人びとが神々を必要としたとき、神々はつくられた臨時の祭の場所を訪れ、祭が終われば、ふたたび旅人となって去っていく。
これは支配者には不都合で、祭のときまでひたすら神々の訪れを待たなければならず、日々、神々の権威を利用できない。
こうしてムラや地域に神殿が誕生し、神々が神殿に棲むようになった。
神殿といっても、当初はその規模も小さかったと想像される。
しかし、ムラから地域へ、地域から国の形ができるにつれ、ますます支配者は神々のより強力な権威を必要とし、それに比例して神殿の規模も大きくなっていったのだろう。

その後、律令制度が整い、国家が強力な力を持つにつれ、こんどは国家の命令によって神殿が造営されていった。
それは7世紀の後半からだとされる。
『日本書紀』によれば、大化の改新から36年後の681年(天武10)、律令国家は近畿地方や諸国の神社に神殿の修造を命じている。
それは日本の神々が神殿に棲みついていた証明でもある。
神々が旅をする時代は終わり、多くの神々はヒトが造営した神殿に棲み、神殿には神々の神霊が宿るという神体が祀られるようになった。

そこには支配者の思惑が見え隠れするが、だからといって日本人が古代の信仰を捨てたわけではなかった。
それを象徴しているのが神社をかこむ緑あふれる杜、鎮守の杜である。
石川県羽咋市の気多神社には国造りの英雄として知られるオオクニヌシノミコトが祀られているが、本殿の背後には鬱蒼とした杜が広がる。
タブやツバキなどのこの杜は「入らずの杜」と呼ばれ、杜には神が棲んでいるとされ、ヒトも入れなかったのである。
そう考えると、鎮守の杜は本来、神さまが棲む空間であり、杜を訪れることは神さまを訪れることを意味している。
そこに神殿がつくられ、杜と神殿とは一体化し、鎮守の杜が地域の人びとの守護神となり、やがて人びとが共有するコミュニケーションの空間となったのだろう。
その空間でくり広げられるのがムラの祭だというわけである。

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  1. 2013/09/24(火) 07:00:14|
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日本地名の語源


日本地名の語源―地名からわかる日本古代国家日本地名の語源―地名からわかる日本古代国家
(1999/12)
石渡 信一郎

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ヤマトという地名は、最初奈良盆地東南部の狭い地域を指していたが、次第にその地域が広がり、今の奈良県全体を指す倭(やまと)という地名となり、ついで国家としての倭国・日本の国号となったといわれている。
三輪山の西麓の箸墓古墳を中心とする纏向遺跡は、その規模と位置からみて、崇神の王都の跡とみていい。
マキムク(纏向)のマキは、「カラ(加羅)・キ(城・城邑)」が、カラキ→カキ→マキとなったものと思われる。

纏向遺跡のすぐ北に天理市槍垣町があるが、ヒガキ(槍垣)は、「キカラ(大加羅)・キ(城)」がキカラキ→ヒカラキ→ヒカキ→ヒガキと変わった地名と考えられるので、纏向とその周辺は、大加羅(加羅系倭国)の王都であり、「大加羅の王城」の意味で、ヒガキとも呼ばれていたとみられる。
そして、三輪山のミワも、キカラ(大加羅)がキカラ→ミカラ→ミカ→ミワと変わったものと思われる。
ちなみに、箸墓のハシは、「カラ(加羅)・キ(城)」がカラキ→カキ→ハシと変わったものであろう。

『日本書紀』は、崇神の本名を「御間城入彦(みまきいりひこ)」と書いているが、ミマキは、キカラ(大加羅)がキカラ→ミカラ→ミカ→ミマと変わったミマに、「城」を意味するキがついたものと考えられる。
ミマキのキは纏向のマキと同一のキ(城・城邑)を指しており、ミマキイリヒコという、崇神の名前は「纏向にある大加羅(加羅系倭国)の城に入った王」を意味するとみられる。

「垂仁紀」2年条には、御間城(みまき)天皇(崇神)の名をとって、弥摩那国(みまなのくに。任那国)と名付けたという説話がみえるが、国名ミマナはキカラ(大加羅)の転訛と考えられる。
『日本書紀』は「任那」をミマナと読むが、任那という呼称は、古代朝鮮語でのニムナの表記で、ニムは「主」、ナは「地・国」の意で、ニムナ=「主の地。本国」と解される。
朝鮮南部の加羅諸国が日本列島にあった加羅系倭国の本国であったことから、ニムナと呼ばれていたのであろう。

崇神は、任那(加羅諸国)を「大加羅連合王国」=加羅系倭国の一部とみて、ミマナ(大加羅)という呼称で呼ぶことにしたと考えられる。
任那という呼称は、広義では朝鮮南部の加羅諸国の総称であるとともに、狭義では加羅諸国の1つ金官加羅を指した。
高句麗の好太王碑(414年に建立)に「任那加羅」、『三国史記』列伝に「任那加良」とあるが、「任那加羅」「任那加良」は金官加羅を指す狭義の任那である。
『南斉書』加羅国伝によると、479年に中国南朝の斉に朝貢した加羅国王荷知(かち)は、「輔国将軍・本国王」に任じられているが、「本国王」の「本国」は任那の漢訳で、荷知は金官加羅の国王であったとみられる。

前述の「垂仁紀」の説話は、崇神が朝鮮半島南部の金官加羅から渡来し、纏向に王都を置いたことと、崇神が「大加羅連合王国」の初代王であったことを反映している。
  広義の任那(ニムナ。「本国」)=加羅=朝鮮半島南部の加羅諸国の総称
  狭義の任那(ニムナ。「本国」)=任那加羅=金官加羅(加罪・大伽耶・南加羅)
以上のように、纏向には加羅系倭国の初代王崇神の王都があったとみられ、纏向とその周辺がヤマトと呼ばれていたと推定される。

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  1. 2013/09/23(月) 07:00:13|
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八幡神の正体


八幡神の正体: もしも応神天皇が百済人であったとすれば八幡神の正体: もしも応神天皇が百済人であったとすれば
(2012/12/13)
林 順治

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天平7年(735)8月ごろ大宰府に発生した天然痘は、2年後の天平9年藤原不比等の子で武智麻呂・房前・字合・麻呂ら藤原四兄弟、小野朝臣老、長田王、丹比朝臣麻呂、百済王郎虞など中央政府高官の命を次々に奪います。
『続紀』には天然痘で亡くなった死者の数さえ記録していませんが、正倉院に残っていいる天平9年の諸国の正税帳の公出挙(稲の利息貸与)の返却免除額から死亡した公民の比率が25~35%と推定されます。
奈良時代前半の総人口450万人の100万~150万人もの死亡者が出た計算です。
その頃、聖武天皇の母藤原宮子をめぐつて起きた長屋王自殺事件が藤原四兄弟の策謀によることが広く知られ、また口分田配分の強行などがあいまって藤原氏へ不平不満が諸国に広がっていました。

藤原武智麻呂は天平3年~6年まで太宰帥を兼務し、弟宇合も兄についで帥となり、天平9年8月に天然痘でなくなっています。
宇佐八幡宮が九州の大社として朝廷より官幣社の取扱いをうけたのが、宇合が亡くなる2カ月前の天平9年4月1日です。
藤原広嗣の乱は天然痘で父宇合と叔父3人を一度に失った広嗣のあせりから生れたものですが、藤原広嗣の乱が落着する1ヵ月前には、こんどは聖武天皇の彷徨が伊勢国から始まり、平城京に戻る天平17年(745)5月まで続き、「謎の彷徨」と呼ばれています。
恐るべき疫病によって平城京が汚された畏怖と懺悔の心境に起因するものと考えられます。
謎の彷徨が始まった天平12年(740)聖武天皇は難波宮に向かう途中、河内国大県郡(現大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を見て、大仏を造る決心をします。

八幡神が『続日本紀』に登場するのは聖武天皇の天平9年(737)4月1日条の「使者を伊勢神宮・大神神社・筑紫の住吉・八幡の2社および香椎宮に幣帛を奉り、新羅国の無礼のことを報告した」という記事が最初です。
『書紀』には八幡神の名はいっさい登場していません。
白村江の戦に備えて斉明天皇は中大兄と大海人皇子を連れて九州に遠征しますが、八幡神に戦勝祈願した気配はありません。
応神天皇は斉明天皇にとっても特別な存在であるはずで、その応神が生れた筑紫の然るべき地に斉明天皇が参詣しないのはおかしな話です。

聖武天皇の一世一代の念願は盧舎那仏を造立して国家鎮護と天皇家の安泰を祈願することでした。
清輔道生氏によれば、聖武天皇が東大寺の大仏道立の成就祈願のため八幡宮に勅使を送りますが、八幡大神が八百万神を率いて大仏道立成就に尽力するという「天平19年の託宣」や黄金が国内に出現するという「同20年の託宣」は、いかに神通力自在の八幡大神でも不可能だと指摘します。 
したがって神託を画策したのは宇佐八幡宮祝部大神宅女と同大神社女とみています。
2人が従8位上から外従5位下に昇進しているからです。
大神杜女と大神田麻呂が大神朝臣の姓を賜っていることから大神田麻呂もその一味としています。
大神氏に情報を伝えたのが、大神氏の始祖大神比義と同じ百済系渡来氏族の良弁で、鍛冶集団を出自とすると言われています。
陸奥国小田郡黄金出土の情報はすばやく良弁の耳に入り、陸奥国守百済王敬福は良弁の指示によって指定日に多量の黄金出土の奏上と献上にいたったのです。
良弁の地位を不動ものとするためにはさらに八幡大神を上京させることで、12月27日、八幡大神の禰宜尼・大神朝臣杜女が天皇と同じ紫色の輿に乗って東大寺に参拝します。
孝謙天皇太上(聖武)・皇太后(光明子)に続き、百官が東大寺に集まりました。
僧5000人を講じ、大唐楽・渤海楽・呉舞と五節の田舞・久米舞を上演させ八幡大神に一品、比咩神に二品を賜ったのです。

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  1. 2013/09/21(土) 07:00:36|
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富松神社

富松神社

富松神社(とまつじんじゃ) 尼崎市富松町2-23-1
社伝で云う抑々当社は奈良時代、行基猪名野笹原開耕した時の23ケ坊の1つにして、素盞鳴尊薬師伝を祀り厄災除祈願所として造営されたのであります。
平安期に荘園制度が施行されてより、藤原大納言家関白一条家の荘園となり、春日大社の末社として奉祀された。
その後、戦乱により堂塔悉く烏有に帰し往古の面影は止めませんが、聖地の現況と樹木等により昔時が偲ばれます。
下って徳川時代になって尼崎藩主松平公の厄災祈願所として特別の庇護を受け盛況を誇ったのであります。
明治の廃藩により当神社境域は内務省主管地として国の管理に移管せられ、立花村川辺郡県より年々祭祀料の奉幣があり(国家神道)東富松区にては氏神社として維持経費の奉幣があり、社有田地もあって神社の基礎は確立して居った。
戦後世情の変化により神社の基礎はこわれ、昭和23年より伊勢神宮を本祖とする神社本庁に所属、宗教法人富松神社として現在に至って居ります。

富松神社

舞殿

富松神社

拝殿 祭神:素盞嗚尊
富松神社神社の創立時期は明らかではありませんが、本殿は、寛永13年(1636)に社司良雄が再建したもので、その後、承応2年(1653)、寛文11年(1671)など数回の修理を経て今日に至りました。
本殿は一間社春日造で正面の扉や縁まわりに補修のあとがみられますが、そのほかはよく保存されています。
組物(三つ斗組)、蟇股などは極彩色で、壁には絵画が描かれており、華麗な桃山時代の余風をよく伝えています。
春日造の特徴は、かつて富松神社が春日神社の末社であったことを意味しているように思われます。
本殿は、昭和43年3月29日に兵庫県指定文化財に指定されました。 尼崎市教育委員会

富松神社

愛宕社 火之加具土神

富松神社

三社 熊野三山社・皇大神宮社・白山比売社

富松神社

金刀比羅社 大物主命

富松神社

天神社 菅原道真公

富松神社

巌島社 市杵島姫命

富松神社

金福稲荷社 金福稲荷大明神

富松神社

春日大社遥拝所

富松神社

行者堂

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  1. 2013/09/20(金) 07:10:27|
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友行 須佐男神社

友行 須佐男神社

友行 須佐男神社(ともゆき すさのおじんじゃ)  尼崎市武庫之荘8-21-28
昭和37年に境内の北隣に時友神社が建立されるまでは友行・時友両村の氏神として祀られてきた。

友行 須佐男神社


友行 須佐男神社

拝殿

友行 須佐男神社

本殿 祭神:須佐男命・大国主命
覆屋内の本殿身舎正面猿股には阿弥陀如来・薬師如来・弥勒菩薩を表す梵字が刻まれている。

友行 須佐男神社

厳島神社

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  1. 2013/09/20(金) 07:05:24|
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