続・竹林の愚人 2014年12月

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堺の社寺

大野寺(おおのでら) 堺市中区土塔町2167
土塔神社(どとうじんじゃ) 堺市中区土塔町
野々宮神社(ののみやじんじゃ) 堺市中区深井清水町3889
家原寺(えばらじ)  堺市西区家原寺町1-8-21
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  1. 2014/12/28(日) 07:20:37|
  2. Table of Contents
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家原城跡

家原城跡

家原城跡(いえはらじょうあと) 堺市家原寺町1丁

家原城跡
16世紀中頃は、三好長慶が近畿・四国地方で9ヶ国余りを制圧し、和泉国もその支配下にありました。
しかし、永禄8年(1565)以降、三好長慶の重臣であった松永久秀が、長慶の後継者である三好義継を擁する三好三人衆と対立するようになり、家原城においても対立した状況が、以下の資料でわかります。
『細川両家記』によると、永禄9年(1566)2月、家原城には松永方の和泉国の侍たち(泉州衆)がたてこもっていました。
泉州衆は城を出て、堺を出撃した畠山高政と合流し、上芝(現在の上野芝)で三好義継の軍勢13000と戦いますが、敗れて岸和田城に逃れました。
永禄11年(1568)9月には、織田信長の勢力が、三好三人衆を破り、畿内を平定しました。
しかし、『細川両家記』によると、同年12月には、三好義継の家臣の寺町左衛門大夫・雀部治兵衛尉らがたてこもる家原城が、京都奪還を目指す三好三人衆に攻められ落城します。
この戦いは、翌年の2月27日に上杉謙信にも伝えられました(『上杉家文書』)。
家原城から逃れた人々は、踞尾、家原に住み着いたといわれています。
現在は、大幅に地形が改変されていますが、大池に面した部分にかつての家原城の面影を見いだすことができます。


家原大池

家原大池

家原城跡

門の内側の広場は、現在建築関係者用の駐車場になっています。

家原城跡

建築が進む堺市立総合医療センター

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  1. 2014/12/25(木) 22:03:49|
  2. Historic sites
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家原寺

家原寺

家原寺(えばらじ)  堺市西区家原寺町1-8-21
高野山真言宗 一乗山 清涼院 家原寺
飛鳥・奈良時代の高僧行基は、この地で生まれ、父の高志才智(こしのさいち)は、百済から渡来した王仁を祖先とする一族で、母は蜂田首虎身(はちたのおびととらみ)の娘の古爾比売(こにひめ)とされています(『大僧正舎利瓶記』より)。
行基は、仏教の民間布教と同時に、灌漑用の溜池を造るなどの社会事業を推し進めました。
行基が慶雲元年(704)に、母方の実家のあった生誕地に自ら寺院を建立したのが当寺とされています。
本尊の文殊菩薩は「知恵の文殊」として、一年を通して数多くの参拝者があり、特に受験生が多く合格祈願に訪れることで有名です。
行基の一代記を描いた、当時所蔵の「行基菩薩行状絵伝」は、国の重要文化財に指定されています。
また、当寺の境内は、大阪府の史跡に指定されているとともに境内にある石造板碑には天文20年(1551)の銘があり、大阪府の指定文化財となっています。
大左義長法会は、「家原のとんどまつり」として知られ、多くの参拝者が昇運や無病息災を願って訪れます。

家原寺

本堂  本尊:文殊菩薩

家原寺

合格祈願のハンカチが本堂の至る所にピン止めされています。

家原寺

開山堂  興正菩薩・行基菩薩・弘法大師

家原寺

行基菩薩誕生塚

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  1. 2014/12/25(木) 21:36:36|
  2. Shrines
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野々宮神社

野々宮神社

野々宮神社(ののみやじんじゃ) 堺市中区深井清水町3889
和泉國大島郡深井荘野々宮香林寺の略縁起によると、もと中村(現深井中町)にあった香林寺が天正年間(1573~1591)の兵火で諸堂悉く灰燼と化したので、当時奥山(現在地)に春日社領として広い野野々宮の地に転座した。
史実からみて野々宮神社の建立年については詳ではないものの、少なくとも今から400年以前にはすでに創建された。
明治4年、神仏分離により現在の姿になったもの。

行基建立49院の香林寺は明治初期の廃仏毀釈で廃寺となる。

野々宮神社

拝殿

野々宮神社

本殿  祭神:素盞嗚尊・火産霊神・菅原道真公

野々宮神社

稲荷神社  稲荷大神

野々宮神社

春日神社 春日大明神・住吉大明神

野々宮神社

八幡神社 大国主神・譽田別神(応神天皇)

野々宮神社

厳島神社 市杵島姫命(弁財天)

野々宮神社

遥拝所

野々宮神社

忠魂碑 陸軍中将 林弥三吉書  昭和3年10月11日 大阪府泉北郡深井村建之

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  1. 2014/12/25(木) 19:45:58|
  2. Shrines
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水賀池

水賀池公園

水賀池公園(みずがいけこうえん) 堺市中区深井水池町
堤の全長約800m、最深部5mの大池。
行基が掘った「薦江池」(こもえいけ)と考えられている。

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  1. 2014/12/25(木) 19:15:17|
  2. SIGHT
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土塔神社

土塔神社
土塔神社(どとうじんじゃ) 堺市中区土塔町  土塔町公民館脇

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  1. 2014/12/24(水) 21:47:03|
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大野寺

大野寺
大野寺(おおのでら) 堺市中区土塔町2167
当寺は、高野山真言宗の寺院で、本尊は十一面観音立像です。
飛鳥・奈良時代の高僧行基(668~749)が開創した四十九院の1つであう。
平安時代に書かれた「行基年譜」によれば、行基60歳の神亀4年(727)に創建されました。
現在は、江戸時代の本堂と門、庫裏をのこすのみですが、かつては本堂南東の土塔などを含む伽藍を有する大寺院であったと推定されます。
土塔は、大野寺の仏塔で、鎌倉時代の「行基菩薩行状絵伝」(家原寺所蔵、重要文化財)には大野寺とともに描かれています。
発掘調査により、「神亀四年」と記された軒丸瓦も出土しました。
一辺53.1m、高さ8.6m以上の十三重の塔で、6万枚以上の瓦が葺かれていたこともわかりました。
行基は、現在の堺市西区家原寺町で生まれ、父の高志才智(こしのさいち)は、百済から渡来した王仁を祖先とする一族で、母は蜂田首虎身(はちたのおびととらみ)の娘の古爾比売(こにひめ)とされています(『大僧正舎利瓶記』より)

大野寺

大野寺
本尊:十一面観音立像

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  1. 2014/12/24(水) 21:12:09|
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土塔

土塔

史跡土塔(どとう)  堺市堺市中区土塔町
国指定史跡 昭和28年3月31日指定
土塔は、堺出身の奈良時代の僧・行基が建立したとされる四十九院のひとつ、大野寺の仏塔です。
平安時代に書かれた「行基年譜」には神亀4年(727)の起工とあり、鎌倉時代の「行基菩薩行状絵伝」(重要文化財)にも、本堂・門とともに「十三重土塔」と記された塔が描かれています。
発掘調査によって土を盛り上げた一辺53.1m、高さ8.6m以上の十三重の塔で、各層には瓦が葺かれていたことがわかりました。
また、「行基年譜」の記述と同じ「神亀四年」と記された軒丸瓦も出土しています。
現在の姿は全体を盛土で保護し、十二層まで復元したものです。
土塔から北西約160mのところには土塔に使われた瓦を焼いた窯跡が2基見つかっています。
また、約460m北方には行基が天平13年(741)以前につくった「薦江池」(こもえいけ)ではないかと考えられる「菰池」というため池もあります。

土塔

土塔は土を盛り上げてつくられています。はじめに地面を水平に整地し、タテ30cm、ヨコ20cm、厚さ10cm程の大きさに揃えた粘土の塊を、各層の輪郭となる位置に並べて正方形の枠をつくります。
この枠の中に土を詰めた後、さらに枠を積み上げて上層をつくるという作業を繰りかえしています。

築かれた当初の瓦葺は残っていませんが、基壇・初層・二層・三層の南東角や層の境が茶色や灰色の粘土の並びで確認できます。
初層の奥の瓦は築かれた当初のものではなく奈良時代後半に補修されたものです。
外周には丸瓦や平瓦を積み上げた基壇の外面の化粧が残っていました。
本来は12mの高さがあったと考えられますが、手前には崩れ落ちた大量の瓦が散乱していました。

土塔

土塔には、前面に瓦が葺かれていました。その数は約60,000枚にもなります。
また各層の垂直面にも瓦を立てて風による盛土の崩壊を防いだようですが、葺かれていた瓦の制作年代から、室町時代までは瓦葺の補修が行われていたことがわかかります。
土塔からは、文字を記した瓦が約1,300点出土しています。大半は人名で、行基と共に土塔を建立した「知識」と呼ばれる人々の名を記したと考えられ、男女を問わずに尼僧や氏族の名前も見られます。

土塔


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  1. 2014/12/24(水) 20:56:31|
  2. Historic sites
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中臣氏

中臣氏と茨木の関係を『新修茨木市史』と神社で見てみよう。
中臣とは、神と人の中をとりもつ祭祀を掌る職掌からきたウジ名とする説が有力である。
中臣の姓を賜ったのは、『中臣氏系図』に引く「延喜本系」の記述によれば欽明天皇の時とする。
それ以前は卜部であったとする説があるが、確かなことは不明である。
その本拠地についても諸説があるが、河内とするのが妥当で、継体天皇の後背氏族の一つとして地位を上昇させたと考えられる。
まず、河内国河内郡の式内社として、中臣氏の祖神であるアメノコヤネなどをまつる枚岡神社がある。
また、『新撰姓氏録』から中臣氏の同族氏族の分布をみれば、摂津・河内・和泉に多く、とくに河内には、「中臣」そのものを姓とする氏がみえることが重要である。
中臣氏の同族である中臣藍連・中臣大田連は、いずれも現在茨木市内にある安威・太田の地名にちなむウジ名であり、後者については三嶋竹村ミヤケと関係があった可能性がある。
河内国河内郡の部曲が三嶋竹村ミヤケの労働力となったように、淀川を間に挟んではいるが、両地域は密接な交流があった。
中臣氏が河内のみでなく摂津三島地域にも進出していたことは、このような両地域の密接な関係を基礎にしているのであろう。
鎌足が三島に別業を有していたのも、彼の時に始まったのではなく、祖先からの地盤があったことによると考えられる。
なお、中臣氏が三島と関係が深かったことは、少し後のことであるが、『神宮雑例集』巻一「改宮地事」に記す天平12(740)年条の記載にも表れている。
それによれば、春日社を寿久山の御社に遷し奉ったが、これは右大臣の大中臣清万呂が摂津国嶋下郡寿久郷に籠居した時に、住家の近くに祭ったことによるとする。
この伝えは、『伊呂波字類抄』(10巻本)巻3・諸社の「春日社」の項にもみえている。
大は中臣意美麻呂の子で、神護景雲2(769)年に大中臣の姓を賜った。
なお、意美麻呂は藤原姓を称していたが、文武天皇2(698)年に神事に供するために中臣の旧姓に復していた(したがって、藤原姓は不比等の系統のみが継ぐことになった)。
寿久山の御社とは、式内社の須久久神社のことである。
『延喜式』神名式に2座あるのは、現在の須久久神社と清水にある春日神社とをさすと考えられる。
古くは両地とも宿久庄村の属邑であったが、明暦元(1655)年に分かれたという。
また、奈良の春日大社の創始は神護景雲2(768)年とされ、その前身はやや遡る可能性があるが、まだ社殿は建立されていなかったようである。
櫛木謙周 『新修茨木市史』第1巻第5章(2012)

枚岡神社
枚岡神社(ひらおかじんじゃ) 東大阪市出雲井町7-16
社伝によれば、神武天皇御東征の砌、紀元前3年国土平定祈願のため、天種子命勅命を奉じて現社地の東方山上の霊地神津嶽に、天児屋根大神、比売神の2柱の神霊を奉祀せられた。

阿井神社
阿為神社(あいじんじゃ)  茨木市安威3-17-17
苗森神社とも云わる。 中臣藍連氏がその祖神を祀ったもの。

太田神社
太田神社(おおたじんじゃ)  茨木市太田3-15-1
太田茶臼山古墳の西方にあり、元は太田に居住した中臣の太田連を祖神としていたと考えられる。

須久久神社
須久久神社(すくくじんじゃ)  茨木市宿久庄4-22-33
聖武天皇の天平(740)12年4月5日、右大臣中臣清麻呂が当地寿久郷に籠居の間、祖神を春日山と、須久久山に祀ったという。

春日神社
春日神社(かすがじんじゃ)  茨木市清水12-2-10
式内社 須久久神社2座の1つ。中世以降春日神社と称するようになった。

春日大社
春日大社(かすがたいしゃ) 奈良市春日野町160
中臣氏の氏神を祀るために768年に創設された。

茨木市内に60社ある神社の内、天児屋根命を祭神とする春日社をはじめとした藤原・中臣系の神社は18社現存する。

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  1. 2014/12/20(土) 08:48:31|
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安威(あい)

「あい」の呼称は古代から変わっていない。
阿為(延喜式神名帳)、安井(玉葉)、藍(皆川文書)、阿威(元亨釈書)、阿井(摂陽群談)の宛字がそれである。
しかし和名抄で書かれていた安威郷という書き方が定着した。
和名抄は読み方は「阿井」つまり「あい」と念押しをしている。
『安威郷土史』(1998)

安威郷

大宝律令(701)が制定され、祭祀をつかさどる神祇官と行政をつかさどる太政官が並置された。
摂津職は難波津と同時に津の国を管轄したが、管内には12の郡があった(平安時代には13郡)。
島下郡は島上郡と共にもとは三島郡と称したらしい(『日本書紀』雄略7年)。
両郡の境界は阿武山の南麓からほぼ南北にひいた線である。
平安初期に著わされた『和名類衆抄』には島下郡には新野・宿久・安威・穂積の4郷があった。
安威郷は太田・耳原・福井・安威・桑原・大門寺・生保・大岩・安元・車作・忍頂寺などの地域、
『茨木市史』(1969)

ここで問題となるのは、継体天皇陵だ。
『日本書紀』に「葬于藍野陵」(藍野陵に葬りぬ)と記され、『古事記』には、「御陵者三嶋之藍陵也」(御陵は三嶋の藍陵だ)と記されている。
そこで、江戸時代、松下見林が『前王廟陵記』(1696)で太田茶臼山古墳を継体天皇陵とし、現在も宮内庁によりそのまま引き継がれている。

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太田茶臼山古墳(おおだちゃうすやまこふん)  茨木市太田3
三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ) 

茨木中学校の天坊幸彦氏が条里の研究から、早くも昭和元年(1938)に継体天皇陵は今城塚古墳であると主張した。
『延喜式』に「磐余玉穂宮御字継体天皇在摂津国嶋上郡、兆域東西三町南北三町守戸五烟」と、継体陵は島上郡にあるとはっきり書かれている。
本居宣長は安威は上下両郡の境なので、藍野陵は昔は上郡だったが今は下郡になったと言っているが、島下郡との境界線は北方塚原村の山麓に沿って南下して、三島村の東辺を限とするもので、この境堺線は古来より変動していない。
このことは条里の遺制からも証明できるとする。

今城古跡

今城塚古墳はその名のとおり、16世紀に三好長慶が出城を築き、その後の伏見地震(1596)により墳丘の盛土が滑落したため、高槻藩が藍野陵を探索した頃にはただの城跡と見なされた。

今城塚

今城塚古墳(いましろつかこふん)  高槻市郡家新町   
現在では、太田茶臼山古墳の築造時期が5世紀前半または中頃、今城塚古墳は5世紀前半とされ、今城塚古墳が真の継体陵と目されている。

そうすると、安威の地は6世紀においては芥川西岸にまで及ぶことになるのだろうか?

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  1. 2014/12/19(金) 23:46:32|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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