続・竹林の愚人 2015年03月

小浜宿

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小濱宿
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南門跡 愛宕宮

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毫摂寺(ごうしょうじ) 宝塚市小浜5-5-12
毫摂寺は真宗本願寺派のお寺で、丹波の僧乗専が本願寺3世覚如に帰依し、丹波六人部の天台寺院を本願寺に寄進し、覚如の別号の毫摂を寺名としました。
この寺を京都に移し、覚如の末子・善入をこの寺の住職としました。
その末裔の善秀が明応年間(15世紀末)に小浜庄を開き、ここに毫摂寺を建立したのがはじまりです。
江戸期には八本松の名所として知られ、また豊臣秀次と寺の次女・亀姫との悲話も残されています。
現在は小浜御坊ともよばれ、別院真宗寺院の典型的建築である江戸後期の本堂が残っています。

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制札所跡 代官所跡
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小浜には大坂から伊丹を通り、湯山(有馬)に至る湯治の道としての有馬街道や、西宮から伊子志の渡しで武庫川を渡り、酒や米を運んだ西宮街道(馬街道)、京都・伏見から山崎を通り、瀬川半町や加茂を経て入ってくる京伏見海道などの道筋が入っていました。
このため小浜の地は、江戸幕府から交通の要衡として重視され、抜け荷の禁止や駄賃を定めた制札(幕府の御定書)なども残っています。
また、小浜は荷物の継ぎ荷のことで西宮市の生瀬宿と争いがあったことも浄橋寺文書(西宮市)などの記録に残っています。
小浜は嘉永4年(1851)の記録によると、戸数202戸で人口800人であり、馬借・問屋・茶屋・旅籠などがならぶ町場で、専業農家はほとんど無かったとされています。
また、酒造りの名所としても知られ、井原西鶴は『西鶴俗つれづれ」のなかで、名産の産地として小浜の名をあげています。
さらに小浜は大工の町としても知られ、享保8年(1723)ごろ大工の組として「小浜組」が成立しています。 

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山中家幅
小浜の山中家は、戦国時代の武将・山中鹿之助幸盛を先祖とする家系で、その子・幸元には八男二女があり、長男・新兵衛(清直)が慶長19年(1614)に小浜に分家して小浜山中家の祖となりました。
この家系は、江戸時代前期には酒造業も営んでいたようですが、中期頃からは医家として家系を継いだようで、当主は良和の名を代々継いでいました。
幕末には大坂の適塾にも学んだことがあったようです。
現在の屋敷は、寛政13年(1801)の祈祷札から18世紀末頃に建てられたものと考えられ、桟瓦葺で主屋入口はすり上げ戸になっていました。
この屋敷の位置は小浜の中心部にあり、町並み景観の重要な位置を占めています。
また裏庭に残る「玉の井」は名水が湧く井戸として著名で、秀吉が有馬へ湯治に出かけた際、毫摂寺に宿泊し、土地の銘菓・川面の水飴とともに、この玉の井の名水を汲み、茶を喫したといわれています。
また明治11年に起きた竹橋事件(西南事件の論功行賞に不満を持った兵士達が維新政府に対して起こした反乱事件)に参加し、処刑された山中繁蔵は当家の次男でした。
江戸初期に分家した伊丹鴻池の家系は大酒造家として財をなし、さらに鴻池善右衛門家も代々両替商として成功しています。

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小浜宿資料館    右手の土蔵は山中家が使用していたものを、そのまま収蔵庫として改造したもの。
小浜皇大神社 (おばまこうたいじんじゃ) 宝塚市小浜5-4-4
創建年月は不詳。
古伝に創建嘉吉元年(1441)と伝えられております。
伊勢神宮の御神体をお祀りしています。
また、身佐神社は、奈良県高市郡明日香村身狭(見佐)と小浜のほとり身佐の2社に天武天皇「生霊の神」としてまつられたと摂津国名所絵図にも記載されていますが、明治30年の武庫川氾濫により身佐村全体が流出してしまい、大正元年(1912)に小浜皇大神社に合祀されました。


首地蔵(くびじぞう)  宝塚市小浜5-1-4
摂陽群談(1500年頃)によると、今の小浜の首地蔵のことを「首から上の病気は治してもらえる地蔵さんとして全国から参詣者がある」と記されている。
この地蔵は、御影石像のお首だけで高さ1m30cm、耳だけでも60cmです。
お顔はよく調和のとれた素朴な美しさをたたえている。
この首地蔵石段の石組みの中に、南北朝時代の宝篋印塔の笠が3つ、そして石段の左右に鎌倉時代の石灯籠があり、この一角には鎌倉時代の遺物があります。

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西村則周(にしむらのりかね)墓
幕末期の大工で、戊辰戦争で壊れた京都御所蛤御門の再建の棟梁や、大阪難波別院御堂の脇棟梁をつとめた。
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徳本上人名号碑
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北門跡
小浜の町の出入口、東、南、北の三ヶ所に町門が設けられ、ここを北門と呼び小浜の町の防備を固めるものであった。
この内脇に火難を除く火伏せの小祠がこの北の愛宕さん(宮)である。
毎年8月の地蔵盆には町内総出で赤い提灯を境内一面に飾り、お供え物を持ち寄り、この町の人を厄災から守ることを祈願するという愛宕さんのおまつりがあり、北の口町の行事として今に引き継がれている。 

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  1. 2015/03/29(日) 07:33:19|
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四ノ宮めぐり

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京都市山科区の京阪四宮駅附近の散策コース。「弦楽器と福祉の神様人康親王史跡をめぐる」
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諸羽神社(もろはじんじゃ) 京都市山科区四ノ宮中在寺町17
人康親王(さねやす)が視力を失う前年、858年に即位した清和天皇が862年に創建。
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人康親王山荘跡碑(昭和47年建立)
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親王が座して琵琶を弾いたと伝わる琵琶石。
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徳林庵(とくりんあん)   京都市山科区四ノ宮泉水町16
南禅寺の雲英禅師がその祖といわれる仁明天皇の第四の宮人康親王の菩提を弔うために草創。
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地蔵尊は親王の化身といわれ、小野篁が一本から刻んだ六地蔵の一といわれる。
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四の宮明神と人康親王を祀る供養塔。
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十禅寺(じゅうぜんじ) 京都市山科区四ノ宮泉水町17
859年、仁明天皇の第四の宮、人康親王を開山として創建され、この辺りが「四の宮」と呼ばれる所以となった。
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仁明天皇皇子 人康親王御墓
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四宮大明神(しのみやだいみょうじん) 京都市山科区四ノ宮泉水町
江戸時代には琵琶法師たちに祖と崇められ、琵琶を奏でる法要が行われた。
※各寺社で配布されている「弦楽ふるさとマップ」を参照しました。

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  1. 2015/03/23(月) 06:07:18|
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最明寺滝トレイル

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不動明王の標石を頼りに満願寺を出発。
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最明寺川もこの辺りは護岸ばかりか川底までコンクリートです。
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満願寺町を外れて、再び宝塚市に。
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左手に大聖不動明王の標石は井植歳男氏が昭和37年12月28日に建立したもの。
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左手を最明寺川に沿って下っていきます。
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お堂があり、
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不動明王が祀られています。
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道を戻って、不動橋を渡ります。
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一本の木を中心にしたロータリーに出ます。

井植歳男氏の井植山荘があります。
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磨崖仏
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防砂ダム
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不動明王の山門と手前に辰巳橋が。
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山門を潜らずに左手に道をとります。
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目指す滝はこの先に。
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  1. 2015/03/21(土) 12:36:36|
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満願寺参り

01駅
阪急雲雀丘花屋敷駅から満願寺へ半時間ほどのお散歩です。
02山手公園
雲雀丘山手公園
住宅地を急峻な坂を上って、宝塚市東消防署雲雀丘出張所の前にあります。
この公園は土地所有者の 故吉矢元彦氏の御遺言により東京大学医学部時代の友人の実家である別所家の御賛同を頂き自然を残し地域の子供達に開放する目的で、雲雀丘山手自治会員の全面的協力によって開園されました。 平成6年3月31日


精常学園生成幼稚園の正門脇には「切畑群集墳1号墳」が保存されています。
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道を宝塚大学の方向に上っていきます。
04石仏
大学前の万年坂には石仏が安置されています。
地蔵石仏 宝塚市指定文化財 平成元年6月5日指定
この地蔵石仏は花崗岩の中に二重光背を作り、その中に彫り込んだものである。
蓮華座の上に、宝珠や垂飾などを表す手法は非常にすぐれたもので、鎌倉時代後半(14世紀前半)の特色をよく表しており、貴重なものである。
地上高 156cm 幅 160cm 奥行 150cm

坂を上っていくと突然マンホールが変わります。
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リラではなく、スミレをあしらった宝塚市から、
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りんどうの川西市へ。満願寺は宝塚市域にある川西市の飛び地です。
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満願寺駐車場では軽装甲機動車LAVの上に士官が立って演説していました。

満願寺(まんがんじ) 川西市満願寺町7-1
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千手観音菩薩を本尊に、源満仲が帰依した多田源氏の祈願所です。
寺のキャッチコピーは「願いのかなう満願寺」。

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  1. 2015/03/21(土) 10:51:57|
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長賢寺


長賢寺(ちょうけんじ) 高槻市萩谷404
浄土真宗大谷派

本堂 本尊:阿弥陀如来
蓮如上人御旧跡
文明3年(1471)、比叡山延暦寺などの迫害から京から逃れた蓮如は、越前吉崎に拠点を置く。
しかし、文明7年、戦乱で吉崎御坊は焼失して去ることとなった。
若狭から摂津に入った蓮如はこの地、萩谷に逗留。
その後、富田村に富田道場(教行寺)を開いたという。

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  1. 2015/03/15(日) 18:10:43|
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西法寺



西法寺(さいほうじ) 高槻市萩谷592
浄土真宗本願寺派  本照山
蓮如上人御旧跡  
本堂  本尊:阿弥陀如来

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  1. 2015/03/15(日) 18:09:38|
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諏訪神社


諏訪神社(すわじんじゃ) 高槻市萩谷774
割拝殿
拝殿前に土俵があり、12月には奉納相撲がおこなわれます。
貞観元年(859)の勧請と伝えられ、信州・諏訪一族の、近畿内における活動の本拠のひとつであったと言われています。
本殿 祭神:武御名方命
巖の前に鎮座。
『摂津名所図会』に「萩谷神祠(はいたにのやしろ) 荻谷村にあり。春日明神と称す。社内に大岩あり。岩神と崇めて祭祀す。 」とあります。

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  1. 2015/03/15(日) 18:08:39|
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六條判官源為義公塚


六條判官源為義公塚(ろくじょうはんがんみなもとのためよしこうつか)
源為義(1095~1156)は平安末期の武将である。
父義親は西国で乱行を起こしたため、1108年に平正盛により誅される。
祖父義家が1106年に死去し、家督を継いだ叔父義忠が1109年に暗殺された後、為義は河内源氏の棟梁と称する。
通称は六条判官、陸奥四郎。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。
その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の為朝の乱行により開官となる。
保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の義明の手で処刑された。
保元物語では、義朝の部下である鎌田正清と波多野義通によって七条朱雀で切られ、圓覚寺に埋葬されたとある。

顕彰碑 供養塔
この供養塔は、寺伝によれば、『当山(祇陀林寺)中興(1596)のはるか昔より、丹波街道(七条通)を挟んだ北側には、源為義公の墓があった。
現在の五輪塔は、貞享3年(1686)の為義の年忌法要に際し、再整備したものである。』とのことである。
また、明治45年(1912)京都操作場の拡張工事に伴って、現在の中央卸売市場(京都市下京区朱雀堂ノ口町)から現在地へ移設した。
その際に、五輪塔の下から水輪などの石塔の一部が見つかり、水輪を積み重ねると現在のような姿にしたとのことである。

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  1. 2015/03/08(日) 10:11:32|
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権現寺

権現寺(ごんげんじ) 京都市下京区朱雀裏畑町10
浄土宗 清光山 成就院
寺伝などによれば、長保2年(1000)に藤原廠光(藤原道長の従兄弟で、1017年に左大臣)より宅地(五条通富小路辺り)の寄進を受けて寺となしたことから、須達長者の祇園精舎を造るが故に、祇陀林寺と号した。
その後、度重なる災害(水害や、治承3年、承久元年の火災など)に遭って諸堂が焼失し、地蔵を護持するため、三災不動の地である朱雀へ移って地蔵堂を建立した。
一方、建保2年(1214)に高倉天皇の妻で、後鳥羽天皇の母である七粂院(藤原殖子)が建立した歓喜壽院は、承久の乱(1221)の結果、く曾孫>仲添天皇が廃位、<子>後鳥羽上皇・<孫>土御門上皇・<孫>順徳上皇らが配流されてしまい七条院の勢威が衰えるとともに、後鳥羽上皇の息・仁和寺道助親王に譲られ、仁和寺御室の管領するところとなった。
その後、荘園の喪失や度重なる火災などにより荒廃し、室町時代には権現堂のみとなり、安土桃山時代に祇陀林寺に譲られた。
祇陀林寺も、戦国時代には動乱などにより衰退したが、「火印地蔵菩薩譚(津子王物語)jを弘めるとともに、地蔵講を行って法灯を守り続け、慶長元年(1596)に御土井の外側(規在の朱雀内畑町)で、浄土宗寺院として再興することができ、権現堂も移設した。
江戸前期には祈祷所【勝軍地蔵(防災、厄除け、必勝祈廟など)、火印地蔵(開運、出世、病気平癒など)】として、又、愛宕信仰(勝軍地蔵が本地彿)と相侯って都人で賑わっていた。
しかし、正徳元年(1711)に法然上人の500年遠忌を迎えるにあたり、祇陀林寺から権現寺へと改称し、祈願所から供養寺へと変わることとなる。
明治44年(1911)には京都駅操作場の拡張により現在地(朱雀裏畑町)へ移転し、現在に至る。

本堂  本尊:阿弥陀如来
地蔵堂

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  1. 2015/03/08(日) 09:38:04|
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水薬師寺


水薬師寺(みずやくしじ) 京都市下京区西七条石井町54
真言宗 単立 塩通山医王院 延喜2年(902)の建立。

本堂 本尊:薬師如来
境内には平清盛が熱病を癒した「岩井の清泉」があったという。

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  1. 2015/03/08(日) 09:09:53|
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近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

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