続・竹林の愚人 戦争のなかの京都
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戦争のなかの京都

戦争のなかの京都 (岩波ジュニア新書)戦争のなかの京都 (岩波ジュニア新書)
(2009/12/18)
中西 宏次

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1941年8月29日、国家総動員法にもとづく「金属類回収令」が出されました。
京都市内に散在する神社・仏閣では、金属類が根こそぎ供出されたようです。
清水寺では、昭和17(1942)年12月、軍需供出金属類供養がおこなわれ、阿弥陀堂・奥の院裏山の釈迦如来坐像、鬼子母神堂前の観音立像など約12トン。
また伏見稲荷大社でも、銅製の神馬4体など5トンを超える供出記録があります。
京都の古寺で梵鐘の供出を免れたのは少数でした。梵鐘は混ぜものが多いため、使いものにならず放置されたようですが、戦後もとのお寺にもどされたのはごくわずかでした。
多くの機械・設備類はスクラップとされ、供出の対象となったのですが、「第一精練株式会社のコルニッシユ型ボイラー二缶は、中国の南にある海南島の海南原鉄株式会社へ、金一万円也で供出させられている。」とあります。
本来の用途のまま軍需物資として対価が支払われた「強制買い上げ」があったのです。
海南島に何故運ばれたか、調べてみました。
1939年2月14日、日本海軍陸戦隊は無抵抗で海南島に上陸し、同島に眠っている莫大な鉄鉱石資源を開発し、日本へ送る鉄鉱石関連事業を2つの新興財閥に担当させました。
石原廣一郎の現在の石原産業と、野口遵のチッソ(日本窒素肥料)です。
この海南島での鉄鉱資源開発事業は、無理に無理を重ねて多大な犠牲をはらったものの、所期の目的を達成しないまま挫折します。
海南島での鉄鉱資源開発にあたり、最初に目をつけられた労働力は現地人、黎(りー)族でした。1941年9月には上海近辺で集めた苦力が到着しましたが、受け入れ施設も皆無に近い海南島の原野で、労務者たちはマラリアや風土病につぎつぎと倒れ、半年のあいだに約1,500人が死亡しました。
そこで、香港および広東地区で徴募活動がおこなわれ、42年2月から43年7月まで、2万名をこえる苦力が海南島入りし、「多大の成果と実績をおさめた」といいます。
「現地海南島人徴用労務者」2万2000人の内、黎族や地元の漢人らをのぞいた1万5、6000人は島内から海軍陸戦隊により強制徴用し、また、石原産業では朝鮮各地の刑務所から「南方派遣朝鮮報国隊」として送りこまれた囚人が使役されました。
最盛期3,000人以上の日本人男子が従事し「女気」がないためけんかざたが多発したため、会社が慰安所を設置し、慰安婦の人数は200名を越えたといいます。
戦後、新日本窒素肥料は水俣病を発生拡大させました。
石原産業も四日市工場で水俣病とならぶ「四日目市ぜんそく」の原因者として、廃ガスによる大気汚染を引き起こし、大量の廃硫酸を無処理のまま垂れ流しました。
廃棄物の処理に困った会社側は産業廃棄物を乾燥させただけのフェロシルトを商品販売と偽って不法投棄します。
2008年5月には毒ガス「ホスゲン」を農薬の原料として製造したとして「化学兵器禁止法」違反で摘発されました。
チッソや石原産業の戦後史をみるとき、この両社は戦時中の海南島での苦難の経験から何を学んだのでしょうか。
チッソのHPには「水俣病」のミの字も記されていません。
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  1. 2010/05/18(火) 07:00:43|
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