続・竹林の愚人 南禅寺

南禅寺


南禅寺(なんぜんじ) 京都市左京区南禅寺福地町
亀山大皇か文永元年(1264)に造営した離宮を、大明国師に帰依して正応4年(1291)に寺に改めて禅林禅寺とした。
2世の南院国師が伽藍の造営につとめ、瑞竜山太平興国南禅禅寺の勅額を与えられたことから南禅寺と改称。
建武元年(1334)五山第1位となり、さらに足利義満が相国寺を建立すると、五山の上位に列せられ、禅宗の最高位を誇った。
室町中期以後、比叡山憎徒の焼討ちや応仁の乱の兵火で伽藍を焼失し、現在の建物は桃山時代以降の再建。


勅使門 御所の「日の御門」を移築。


三門
寛永5年(1628)、大坂夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために藤堂高虎が再建。
歌舞伎”楼門五三桐”で知られる。


法堂 明治28年(1895)焼失し、明治42年再建

『都名所図会』
瑞竜山太平興国南禅禅寺(ずいりようきんたいへいこうこくなんぜんぜんじ) は東三条の北にあり。もと亀山法皇の皇居なりしを、開山大明国師に賜ふて五山之上の号を蒙る。
当山の記に日く、太上皇亀山院、弘安年中にこの地に離宮をいとなみたまふ。正応のはじめ宮中にあやしきことおこりて、嬪妃おはいになやみあへり。陰陽頭にこれをト巫はしむるに、「故最勝光院僧正道智、むかしこの地に棲む。世に駒の僧正と称す。その霊のこりて当山を秘惜して障碍をなす」といへり。かるがゆゑに顕密の諸師、咒術・巫祝に及ぶまで百計手を拱く。同四年東福の釈普門(当寺の開山なり。無関和尚といふ。諡大明国師)勅命を請けて、二十の禅侶を率ゐて宮中に安居し、ただ何となく柄子をとりて坐禅しけるに、物の怪跡を匿し、上下安寝す。上皇叡感のあまり普門を礼して伽梨鉢多をうけたまふ。また宮をあらためて寺となし(上皇は上の宮に安居したまひ、下の宮を寺となしたまふ。いまの竜淵室これなり。上壇の鳴滝の画は古法眼元信なり。水呑みの虎は探幽にして世に名高し)、つひに命あって仏殿を創建したまふ。
本尊は釈迦仏の坐像、脇士は文殊・普賢なり。また金剛力士の二体を安置す(この力士の霊像は、回禄のとき飛ぴいでて石上にありしとなり)。南の壇上には亀山太上皇の神牌を崇め奉る。傍らには達磨・百丈・臨済の像を安置す(仏殿に「曇草堂」といふ豎額あり)。
山門は五鳳楼と号して、軍水年中、藤堂高虎の再建なり(薩摩杉を多く用ひてこれを造る)。唐木の白檀二株、山門の内にあり。石の大灯籠一基、山門の外にあり。高さ二丈余。石は白川の産にして希代の大灯籠なり。蓋石の宝形に二ッ引き竜の紋あり。また地輪の上に文字あり(「南禅寺山門石灯龍、寛永五年九月十五日、佐久間大膳亮平勝之これを寄進す。現当悉地成満のためなり」)。
綾戸明神は拳竜池の乾にあり。これ当山の鎮守なり(むかし行宮の通衢に綾戸小路といふあり。ここに住せる帝の牛飼ひの舎人死して霊あり。土人これを祭りて小祠を建つる。応永年中に伯英俊和尚大祠を造りて山門の境致となせLとぞ)。
南禅院には亀山法皇の展影を安置す。金地院には御宮ありて白砂に鳳凰竹を植ゆる。楼門左右には随身の像を置く。当院の開祖は大業和尚、五山僧禄司の号を蒙る。
駒が滝は東の峰、独秀峰にあり。大僧正道智つねにこの瀑布を愛す。滅後に霊をまつりて当寺の護法神とし、杜を滝の側らに建ててこれを神仙佳境といふ(道智は光明峰寺入道摂政道家卿の息なり。三井の長吏、禅林寺にしてまた狛の僧正ともいふ)。蔵春峡・壑雷橋といふは滝の辺にあり。羊角嶺は天授院の東の峰をいふなり。

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  1. 2010/11/05(金) 07:00:49|
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