続・竹林の愚人 染殿院

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染殿院

染殿院

染殿院(そめどのいん) 京都市中京区新京極通四条上ル西入ル中之町562
時宗開祖 一遍上人 念仏賦算遺跡 (昭和58年11月)
染殿院の沿革
染殿院は大同3年春(808)空海(弘法大師)の開基にして、大師入唐帰朝の後当院に留まり十住心論を清書調巻されたことから十住心院と称した。
古往は釈迦院或は敬禮寺又は清和院釈迦堂其他釈迦堂(鎌倉期の一遍聖絵巻)とも呼ばれた。本尊は地蔵菩薩にして高さ2m余の木彫裸形の立像にて秘仏である。
人皇55代文徳天皇(850ー858在位)の后藤原明子(藤原忠仁公の息女)は染殿皇后と申し、この地蔵尊に祈願して皇子を降誕された。後の清和天皇である。これより染殿地蔵尊と称された。
人皇62代村上天皇(946ー967在位)第三皇子一品式部郷久賀為平親王は、四條中川のあたり(中川は御所より今の寺町通りに流れていた川)境域広く家造りされた。染殿地蔵堂も自然この内に含まれ御願寺となって皇子を染殿親王と申した。
66代一條院永延元年(987)に東大寺沙門然が入宋帰朝し赤栴檀の釈迦像を伝来し嵯峨野の清涼寺に安置されたが然はまた自から御丈3尺余の釈迦像一体を造り当院に奉納(金蓮寺霊宝庫に現存)これより世に四條京極の釈迦堂と呼ばれた。鎌倉期の一遍聖絵巻に「弘安7年閏4月16日関寺より四條京極の釈迦堂にいり給う。貴賤上下群をなして人はかえり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき17日ののち因幡堂にうつり給う」とある、すなわち一遍上人が大津関寺から入洛四條京極の釈迦堂にて念仏賦算(ねんぶつふさん)をしたというのはこの寺のことである。
金蓮寺よりも釈迦堂の方が歴史も古く、一遍とのゆかりも深いのであるが、室町時代はどの寺にも属しておらず時の移りとともにその時代の権力者によって次から次にと護持伝来されて来たが、偶々足利義満が嘉慶2年12月22日金蓮寺に寄進したため本来顛倒して金蓮寺の塔頭になった。
「夢窓國師が苔寺(洛西西芳寺)の作庭に没頭したとき、この地蔵尊が一旅僧となって國師を助けたという伝え」、嵯峨天龍寺開山夢窓國師が松尾に西芳精舎(苔寺)を創し、泉水の美観を好み築山の構を営もうとしたとき、石は重く大きく少しも動かなかったが、たまたま一人の僧が忽然として現れ、ただ一人で自由に大石を動かし國師の意の通り庭園を作ったので、國師は歓喜の余り何かお礼をしようかと思案したが幸にその僧は袈裟を持たないのがわかったのでこれを進じようと自から着けていた袈裟を贈った。その僧はその袈裟を受け、錫杖を地に立てたまま消え失せたのである。後日國師が四條の辺に托鉢し、たまたま四條京極の染殿地蔵堂に詣り、御扉を開けて拝すると、先の袈裟は地蔵菩薩の肩にかかっており手には錫杖はなかったので、疑うところもなく件の僧はこの地蔵の化身であったことを知り、國師は感激の涙を流されたということである。
現存の染殿院の建造物は、元治元年に京都御所以南が大火に見舞われた(通称ドンド焼け)その時に建てられた仮堂である。


染殿院

仮堂

染殿院

本尊:地蔵菩薩は秘仏。
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  1. 2010/12/20(月) 07:10:59|
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