続・竹林の愚人 居留地の街から
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居留地の街から

居留地の街から居留地の街から―近代神戸の歴史探究

 (2011/11)

土居 晴夫

かつて、神戸布引・丸山に岩倉具視旧居が存在した。
この建物は、大正11年(1922)に東京から神戸に移築され、維新6人の英傑(岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、三条実美、伊藤博文)を祀り、「六英堂」と命名された。
場所は、神戸布引の丸山と呼ばれる小高い丘の頂上で、現在の新幹線・新神戸駅のすぐ北である。

明治11年(1878)、川崎正蔵は東京築地に官有地の払い下げを受けて西洋型船舶の建造に着手し、明治20年(1887)7月に官営兵庫造船所の払い下げを受け、先に設立した築地造船所をここに移して川崎造船所と改称した。
明治18年(1885)ごろ、正蔵は布引に豪壮な邸宅の建設に着手し、明治23年、本館と茶室、長春閣(美術展示館)が竣工。
続いて松風庵、美術館(保蔵庫)を増設していった。
  徳光院 本堂
正蔵は自邸の裏山である丸山北麓に川崎家の菩提寺を創開し、明治40年9月大圓山徳光院が落慶大仏供養を行なった。

岩倉邸は、東京市麹町区宝田町三番区馬場先門内にあるもと埼玉忍藩の江戸屋敷で、岩倉の死後、宮内省は岩倉邸を買上げて取り壊すこととした。
そのことを知った宮内省勅任御用掛の多田好間は、伊丹重賢、内大臣秘書官桜井能監と相談して、この建物を保存することとし、東京角筈村に二千余坪の荒地を購入して、木立の中にこの建物を移築し、建物を「隣雲軒」と名づけた。
建物移築後しばらくして新宿駅拡張用地となり、川崎造船所副社長の川崎芳太郎が建物を買い取り、神戸布引丸山に移築することとした。
  川崎正蔵の銅像跡
大正7年(1918)12月1日、布引丸山で川崎正蔵の銅像除幕式が行われ、所有の布引山を一般公開すると発表。
大正9年7月13日に急逝した芳太郎の遺志を継いで、岩倉旧居を神戸に移築したのは息子の川崎武之助である。
移築工事は、大正10年5月に着工し、大正11年2月に完了。 
芳太郎の遺志をついで、市民に「布引山を開放する」ため、芋川から徳光院までの道路を建設することを披露した。
昭和9年(1934)2月1日、文部大臣は、六英堂を史跡名勝天然記念物保存法に基づく「史跡」として指定した。

昭和22年の阪神大水害で布引山麓にあった豪壮な川崎邸も崩壊した。
水害後、川崎邸跡は、新たに市民公園に生まれ変わることとなった。
川崎武之助は昭和21年4月13日に死亡した。
相続税、新税制が川崎財閥と川崎家を直撃し、六英堂がある布引丸山も手放さざるをえなかった。

新たに丸山を購入した大和観光株式会社社長米田茂氏は、布引丸山が「生田神垂連の地」という緑で、移築先を生田神社と相談。
 明治天皇行幸所 旧蹟岩倉邸建物
「境内にはそのスペースがない」として、西宮神社に相談を持ちかけ、昭和51年(1976)六英堂は大和観光から西宮神社へ「寄進」された。
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  1. 2012/11/22(木) 07:00:51|
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