続・竹林の愚人 長楽寺

長楽寺

長楽寺

長楽寺(ちょうらくじ) 京都市東山区円山町626
寺伝によれば、延暦24年(805)桓武天皇の勅命によって伝教大師(最澄)を開基として創建されたと伝わる。当初は天台宗であったが、室町時代初期に国阿上人が中興してから時宗に改められた。本尊に准胝観音像を祀り、洛陽三十三所第7番札所でもある。
一条天皇の時代(986~1011)に巨勢広高という絵師が地獄変相の壁画を描いたことが今昔物語にみえており、文治元年(1185)安徳天皇の生母、建礼門院が僧印誓について剃髪されたところでもある。また法然上人の弟子隆寛がここに住み念仏を広めた。当時はこれを長楽寺流と呼ぶほどに世間に知れ渡っていた。昔は祇園や清水と並んで花の名所と謳われ、多くの文人や画家が訪れたところである。
寺宝には、一遍上人像を含む7人の上人像(全て重要文化財)、一遍(宗祖)、真教(二祖)、一鎮(遊行6代)、尊明(遊行13代)、太空(遊行14代)、尊恵(遊行15代)、暉幽(遊行17代)の諸像や建礼門院御遺宝、相阿弥作と伝わる庭園がある。
また、境内山上の墓地には、江戸時代後期の歴史家頼山陽やその子頼三樹三郎、水戸列士の墓もある。
    京都市

長楽寺

三門

長楽寺

本堂 京都市指定有形文化財(平成19年3月30日指定) 本尊:観世音菩薩像(秘仏)
長楽寺の現在の本堂は、寛文6年(1666)に造影された愛宕郡西賀茂村(現在の北区西賀茂)の正伝寺仏殿を、明治23年(1890)に購入して移築したものである。
正伝寺における造営は、日記によると、寛文6年正月13日に「佛殿斧ノ初」とあり、この時に木工事を始めたことがわかる。大工は「北山新蔵」であった。
その後、同年3月18日に「柱立」、3月22日に「梁上」と工事が進んでいる。
建物は、桁行3間・梁行3間の身舎(木屋構造)の四周に庇状構造の裳階が付く禅宗様の仏殿である。内部は身舎を格天井、裳階部を化粧屋根裏とし、床は土間とする。柱は全て丸柱で、石造の礎盤の上に立つ。身舎の柱筋の上には組物を蜜にして、入母屋造・本瓦葺の屋根をのせる。須弥壇前の2本の柱は、身舎背面側の柱筋より半間ほど前方に立ち、背面上部は透かし彫りの欄間をはめる。
この本堂は、建築年代が明らかであり、京都市内では数少ない本格的な小規模禅宗様仏殿の遺構として貴重である。
    京都市

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鐘楼

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建礼門院髪塔

長楽寺

相阿弥庭苑

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頼山陽之墓

長楽寺

『都名所図会』 東山長楽寺(とうさんちょうらくじ)
大谷の北に隣る。はじめ開基は伝教大師にして、こゝも天台の別院なり。
当山の至景は唐土の長楽寺に似たるとて、斯く号くるとぞ。後は国阿上人住持して、時宗とあらたむ。
本尊は十一面観音なり。伝教大師唐土より帰朝の折から、海上において竜神形をあらはし、頭に観音の像を戴いて来る。大師礼拝渇仰し給ひければ、忽然としてかの尊像、衣の袖に飛来し給へり。当寺の本尊これなり。
台座の下の蟠竜は大師の作にして、この謂なり。以上縁起に見えたり。
弁才天の社あり。この神形も大師制作ありて鎮守とし給ふ。
傍の庭造は相阿弥の作にして、世に名高き勝地なり。
それ当山は洛東第一の風景にて、鳳城九陌の大路小路、北は加茂・二葉山・大宮森より南は鳩の蜂・淀の川瀬をゆきかふ舟まで、眼中烏精の客とぞなる。
蓮華水は、隆寛律師といふ台宗の僧、後には法然上人の弟子となって専修念仏の行着となり、八十歳にして寂す。その時、池水より青蓮華生ずとなり。
安徳帝の御衣の幢は当寺の什宝なり。御母建礼門院御飾りをおろさせ給ふ時、御戒師には長楽寺の印誓上人なり。御布施として先帝の御直衣を給ふ。
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  1. 2013/04/25(木) 07:00:53|
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