続・竹林の愚人 伊勢神宮と天皇の謎

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伊勢神宮と天皇の謎


伊勢神宮と天皇の謎 (文春新書)伊勢神宮と天皇の謎 (文春新書)
(2013/03/19)
武澤 秀一

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式年遷宮のはじまった690年当時、既に多くの伽藍建築が建立されていた。
飛鳥寺、法隆寺、そして薬師寺などは瓦屋根をもち、柱は朱に塗られて礎石の上に立っていた。
ところが合理的な礎石工法には目もくれず、伊勢神宮では耐用年限に問題のある掘立て柱と茅葺きをあえて採用した。
皇祖がはるか昔から存在していたことを示すためには、皇祖の社殿には茅葺き、掘立て柱という古くから伝わる工法が一番だ。

3世紀後半以降の歴代遷宮の段階では、次の大王は群臣による協議をへての推挙に委ねられ、大王の座はその都度リセットされていた。
朱鳥元年(686)9月に天武天皇が没し、その翌月には皇位を狙った謀反のかどで大津皇子が死に追いやられる。
皇后は即位式をへぬまま、実質的に天皇として権力を行使する。
大津の死は持続の主導でなされた。
彼女にとって最重要課題は、自分の腹を痛めた草壁を皇位につけることだった。
そのような状況の下、持続2年(688)に、皇祖神をまつる伊勢神宮の「式年遷宮」の制が定められた。
草壁皇子が早世すると、今度は草壁が遺した幼い孫を皇位につけようと画策する。

明治以前、天皇自身が伊勢神宮を訪れることは、持統以外はなかった。
伊勢神宮に天皇みずから足を踏み入れることばタブーとされていたのである。
しかし、持続の伊勢行幸は天武の重臣による諌言を押し切っておこなわれた。
神と謳われた天皇の最初は天武だったが、後継の持続は神璽を手に入れたことにより名実ともに神となり、さらにはみずからアマテラスと化す。
持続の抱く野望は先帝天武の意思を逸脱するものだったから、大三輪高市麻呂は職を賭し、身体を張って行幸を止めんとしたのではないか。

天武没後、持続は32回もの吉野行幸を練りかえしている。
吉野は往時より神仙境とされ、蘇生の場所とみなされていた。
持統は道教の聖地である吉野への行幸を繰りかえすことによって自身がアマテラスになるための呪術力を秘かに身につけ、その行使を願っていたのではないか。
神である(アマテラス=持続)の産んだ子は当然神の子であり、孫もまた同様。
直系子孫を皇位につけるのにこれ以上、盤石な設定はない。
「日本書紀」の天孫降臨のくだりには、アマテラスが息子ではなく孫を地上につかわす話がある。
まさに天「孫」降臨で、(皇祖アマテラス-息子-天孫ニニギ)の関係は、(持続-草壁)孫(=のちの文武))の関係にそのまま移行するのである。
天武・持続は、皇祖アマテラスよりはじまる悠久の皇統を創出し、そこにみずからを位置づけた。
この時、初めて皇祖からはじまる「万世一系」的イメージが打ち出されたのではなかったか。
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