続・竹林の愚人 治承・寿永の内乱と平氏

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

治承・寿永の内乱と平氏


治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史)治承・寿永の内乱と平氏 (敗者の日本史)
(2013/03/18)
元木 泰雄

Amazonを見る

平清盛が治承3年(1179)11月に後白河院を幽閉して独裁政権を構築してから、元暦2年(1185)3月に平氏一門が壇ノ浦合戦で悲劇的な滅亡を遂げるまで、わずかに5年余り。
日本史上、最も注目を集めてきた敗者の1つが、平氏であり、その背景に平氏滅亡を美しく描いた『平家物語』があったことはいうまでもないだろう。

後白河が平氏追討の意志を固めた背景には、鹿ヶ谷事件・治承3年政変といった事件に対する遺恨、平氏に対する不信感があった。
そして何よりも、後白河は神器を擁した安徳の帰京によって、彼が即位させた後鳥羽天皇の立場が、ひいては治天の君たる自身の立場が動揺することを恐れたのである。

『平家物語』、『吾妻鏡』は、義経の「鵯越」から一ノ谷への逆落としこそが、合戦の帰趨を決したとする。
しかし、『玉葉』の二月八日条に「多田行綱、山方より寄せ、最前に山手を落とさる」とあり、鵯越を山手と称した『太平記』の記述もあって、鵯越からの突入は多田行綱の行動と解釈される。
『吾妻鏡』に、範頼・義経は摂津国で二手に分かれたとあり、両者が駐屯したのも多田であったと考えられている。
いずれにしても、義経が平氏の西木戸口である一ノ谷を突破したことが、合戦の帰趨を決したことに相違はない。

平氏の有力武将が相次いで討たれ、平氏が敗走した一因は、行綱の突入や義経の攻撃など、源氏の奇襲に動揺したことにある。
この合戦では、平氏軍敗走の中で、多くの公達や武将が討たれた。
『吾妻鏡』二月十五日条によると、重衡が捕虜となったほか、まず大手範頼軍は通盛・忠度・経便を、また遠江守安田義走の手勢は経正・師盛・教経を、そして搦手義経軍は敦盛・知章・業盛・盛俊を討ったとしている。
ここで討たれた人々の多くは一門の傍流に属し、彼らが危険な最前線に配置されていたことを物語っている。
したがって、一門の多くを失ったとはいえ、重衡を除けば、宗盛・知盛をはじめとする一門の中心は依然として安泰であったことになる。
神器を有した安徳天皇も、平氏の正当性を保証する存在であった。

かくして、以後の平氏に残された道は、切り札である三種の神器と安徳天皇の帰還を交渉の手段として、名誉ある和平の道を探ることしかなかったのである。
捕虜となって都に戻った重衡は3月15日、前左衛門尉垂国を使者として屋島の兄宗盛に遣わして和平の必要を説いたのである。
宗盛の返書(『吾妻鏡』寿永三年二月二十日条)によると、宗盛は源氏に対し意趣のないことを述べて、天皇と神器の無事入京に院が協力することを要請した。
しかし、平氏を敵視する後白河にこれに応ずる意志があったとは思えず、また、頼朝もこの段階で和平に応ずることはあり得なかった。
宗盛はもはや軍事的勝利か、はたまた滅亡かという覚悟を決めていたと考えられる。
このことを裏付けるように、これ以後の平氏は切り札ともいうべき安徳の身柄や三種の神器を和平交渉の材料とすることもなく、屋島・壇ノ浦合戦における軍事的敗北によって、悲劇的な滅亡を遂げるのである。
それは一ノ谷合戦からわずか1年余りのちのことであった。
関連記事

テーマ:読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/07/14(日) 14:37:19|
  2. BOOK
  3. | コメント:0
<<くすりの道修町博物館 | ホーム | 卑弥呼の真実>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

bittercup

Author:bittercup
近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

Translate

検索フォーム

Loading

月別アーカイブ

カテゴリ

Table of Contents (46)
BOOK (1275)
Shrines (1717)
Historic sites (739)
Retro (114)
SIGHT (382)
NEWS (185)
GOODS (86)
PC (40)
Lecture (18)
Greeting (14)
Blog (7)
TRAIL (9)

FC2カウンター

リンク

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。