続・竹林の愚人 はりま陰陽師紀行

はりま陰陽師紀行


はりま陰陽師紀行 (のじぎく文庫)はりま陰陽師紀行 (のじぎく文庫)
(2006/04)
播磨学研究所

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中浦和光 「播磨・広峯信仰をめぐって」
牛頭天王を祭っている各地の神社では、6月の夏越の祓の際に「茅の輪くぐり」が行われます。
正月には「蘇民将来之子孫也」と書いた守札を神社からいただいて、戸口に貼って疫病除けとしていたのです。
この民間信仰は、京都の八坂にある祇園社が根源地にみられていますが、広峯神社が本社です。
姫路市の北方、広峰山の中腹に鎮座する広峯神社の主祭神は素戔嗚尊、五十猛命など21柱で、もとは広峯牛頭天王社・武塔天神・自国明神などと呼ばれていました。
社伝によれば、吉備真備が唐より帰国した後、この地に霊異を感じて、牛頭天王を祀る社殿を造営したのが起源とされています。
牛頭天王は渡来神で、天照大神を中心とする国家神道の神統譜には属さない特異な神です。
中世から近世にかけて、広峯社には約30家に及ぶ「御師」がいて、播磨を中心に各地に牛頭天王信仰を広めたのです。

平安前期、京の都では、怨霊が疫病や災害をもたらすという思想が広がり、それをなだめるための御霊会が催されるようになりました。
祇園社の御霊会の始まりは、社伝では貞観11年(869)とされています。
わが国最大の夏越祭りとして「祇園祭」は有名になりましたが、疫病を防ぐ神として勧請されたのが牛頭天王でした。
八坂神社は、明治以前は「祇園感神院」「祇園社」と称して、神仏習合の社でした。
平安末期から鎌倉初期にかけて編まれた『伊呂波字類抄』では、祇園社の主神は「武塔天神」とされ、後に牛頭天王に代わっていくのです。

武塔神は「北海の神」とされますが、肥後和男は朝鮮の巫(シャーマン)が「ムーダン」と呼ばれ、武塔はそれに由来するとします。
朝鮮では、李朝時代に入っても、鬼神の崇りを防ぎ病魔を退散させるために、「蘇民将来之子孫海州后入」の文字を縦3寸横1寸の赤紙に書きて門戸に貼る習俗がありました。
牛頭天王信仰は、大陸から朝鮮へ伝わった民間道教系のシャーマニズムの流れに乗って、この列島に入ってきたのでしょう。
最初にそれを伝えたのが古墳時代の頃にやってきた渡来人の「巫覡」(ふげき)でした。
その一団は渡来系文化の一大拠点であった吉備・播磨地方に住み着いて、播州姫路の新羅国山に牛頭天王を祀りました。

密教系の仏教では、牛頭天王はインド伝来の神とされ、祇園精舎の守護神であると伝えられていました。
祇園会で祭られる牛頭天王は、朝鮮から渡来した巫覡が根幹にあって、それに密教と神道が習合して、新しい疫病神として祀られたのです。
「祇園祭」が有名になってくると、牛頭天王信仰の根源地だった広峯社がしだいに後景に退いていきました。
鎌倉時代末期の応長元年(1311)には、伏見院の院宣により、広峯神社は祇園社に寄進され、以後は祇園社の支配を受けることになりました。
明治維新後は、外来神である牛頭天王は後景に退いて、スサノオノミコトを祭神とするようになりましたが、荒ぶる神であり朝鮮の新羅と深い関わりがあったスサノオもまた、疫病を鎮めるのにふさわしい神格でした。
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  1. 2013/07/16(火) 21:18:21|
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