続・竹林の愚人 乙訓寺

乙訓寺

乙訓寺

乙訓寺(おとくにでら) 長岡京市今里3-14-7
真言宗豊山派長谷寺の末寺。洛西観音霊場第6伴札所。本尊、合体大師像。
寺伝によれば、推古天皇の勅願によって聖徳太子が開いたとされる。
長岡に都があった延暦4年(785)に早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉された地として、また嵯峨天皇の弘仁2年(811)に空海(弘法大師)が別当となった寺院として、歴史の表舞台にも登場し乙訓随一の大寺院として栄えていた。
江戸時代の元禄8年(1695)に護持院隆光が5代将軍綱吉の母桂昌院の援助により再興した。
また、重要文化財の毘沙門天像や市指定文化財の十一面観音像等がある。
境内には、ボタンが2000株余りあり「ボタン寺」としても名高く、洛西屈指の古刹である。
 長岡京市観光協会・(社)京都府観光連盟

乙訓寺

本堂
早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉されたことで知られる乙訓寺は、長岡京造営以前から、 かなりの規模の寺院であったことが寺院北側一帯の発掘調査によって判明している。
弘仁2年(811)唐から帰朝した空海(弘法大師)は、同年11月に乙訓寺別当に任じ られ、その修理造営を命じられた。
空海は、弘仁3年10月、高雄寺に移ったが、ここに 真言宗に由緒の寺としての歴史に印された。
中世には足利義満がこの寺を南禅寺の白英徳俊(応永10年寂)に与え、禅宗寺院として 再出発した。
法皇寺の寺号も称した。
5代将軍綱吉およびその生母桂昌院の信任の篤かった護持院隆光は、真言寺院としての乙訓寺再興を計画した。
当時、乙訓寺は南禅寺金地院の兼帯地であったので、東山豊国神社辺にあった文殊院屋敷を拝領し、金地院と交換して乙訓寺の地を入手した。
工事は元禄7 年(1694)12月8日に起工、翌8年5月21日竣工し、6月15日に供養した。
造営後は宝永2年(1705)8月まで隆光の直接支配下にあったが、この年に長谷寺に芳運房元貞が入山して1世となり翌3年11月に護摩堂が建立された。
近世中期の寺観は都名所図会により窺うことができる。   
   平成2年2月  長岡京市教育委員会

乙訓寺

毘沙門天堂 毘沙門天立像

乙訓寺

地蔵堂 日限地蔵尊

乙訓寺

鎮守八幡社

乙訓寺

鐘楼

乙訓寺

早良親王供養塔

乙訓寺

モチノキ

乙訓寺

『都名所図会』
大慈山乙訓寺(おとくんじ) は西岡今里にあり。
当寺は推古天負の御願にして、聖徳太子の開基なり。
その後弘仁二年の冬、弘法大師別当職に補し、八幡宮の示現を蒙り、大師の像を彫刻し給ふに、御首は八幡宮化現し、神像にきざみ給ふ。
これ密法擁護のしるしなりと。故に神仏合体の御影といふ。
当寺の本尊これなり。例祭三月二十一日開帖す。
また寛平法皇脱履のはじめ行宮とし給ふ。これによつて法皇寺とも名づく。
いにしへは方境広大にして伽藍厳重たり。中頃南禅寺の伯英和尚住職し、また武州護持院再興ありて真言宗とあらたむ。
閼伽井は乙訓寺の東にあり。大師密法修行の時、汲み給ひし雲水なりとぞ。
    今里 (和歌に詠ず)
     日暮るれば遠の今里蚊火たてゝ鳥羽田の面に烟たなびく   覚明法親王
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  1. 2013/07/31(水) 07:00:28|
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  3. | コメント:1
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酷暑お見舞い申し上げます

■bittercupさま。
酷暑お見舞い申し上げます。 八月のご挨拶です。
<言うまいと思えど今日の暑さかな>
という句の心境の昨今です。
もっとも日本も広いですから、遅れている梅雨末期の豪雨の
被害に遭っている地方もあり痛ましいことです。
まもなく立秋ですが、御身ご自愛ください。
  1. URL |
  2. 2013/07/31(水) 08:47:00 |
  3. sohya #-
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