続・竹林の愚人 昭和30年代演習

昭和30年代演習


昭和三十年代 演習昭和三十年代 演習
(2013/05/29)
関川 夏央

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昭和34年に始まった「帰国運動」は、民族主義の一時的な狂熱がもたらした悲劇でした。
それを好意的に眺め、支援した日本人は、「人を死に至らしめる善意」を発揮したことになります。
北朝鮮は「帰国者」を日本に在住するコリアンから莫大な金銭を搾り取る「人質」として扱いました。
朝鮮総連と北系在日コリアンは、日本人にはまったく別のことを口にしていましたから、平成に至っても、北朝鮮の肩を持つ「進歩的」日本人があとを絶たなかったのです。

中国の文化大革命は1966年(昭和41)に発動されると、金日成は紅衛兵に「修正主義」として強烈に批判されます。
東北三省では暴力事件が頻発して、多くの在中朝鮮人が殺害されます。
金日成は、国境を接した中国の文化大革命が自国に波及するのを怖れ、昭和42年には新興宗教国家の体制を整えます。
その根幹は金日成を「父親」として絶対の存在となすという「主体思想」で武装した一宗族国家でした。
文化大革命が輸入されてしまう前に自前の文革を実行したということです。
自縄自縛の末にカルト国家と化した北朝鮮は、金日成が亡くなった翌年、1995年から大飢饉に見舞われ、3年間で最大350万人といわれる犠牲者を出します。

在日コリアンの北朝鮮への「帰国運動」は昭和34年に始まりました。
朝鮮戦争の結果、労働力が大いに不足した北朝鮮側の事情が大きかったと思います。
当時の北朝鮮経済は復興3ヵ年計画、つづく5ヵ年計画といった計画経済の達成で好調といわれました。
しかし実情は社会主義圏からの有償・無償の援助にすがる経済で、計画とは援助を引き出す計画にほかなりませんでした。
「帰国者」の悲劇は帰国のその日から始まったのです。

寺尾五郎『38度線の北』は、「帰国」をためらっていた若い在日コリアンの決断を促した本です。
著者の寺尾五郎は日本共産党員で、朝鮮労働党とは「友党」関係だったから訪朝できたわけです。
そのあとに「友党」関係になったのが日本社会党(のちの社民党)で、日本人拉致について「先方がないといってるんですから、ないんです」と土井たか子がいい放っています。
1994年からの3年間で推定350万人の栄養失調死者を出していますが、これは明白に人災です。
1950年代末以降に訪朝した日本人は、自分が見たいものだけを見たということです。
何が見たかったかといえば、社会主義の勝利です。
社会主義が正しいと信じる、または信じたい、それが昭和30年代の日本社会に底流した空気でした。
朝日新聞は、2000年代初頭まで、端的にいうと北朝鮮が「拉致」を自白するまでは、北朝鮮の肩をそれなりに持ちつづけました。

「帰国者」は昭和35年をピークとして翌年以降激減したのは、「帰国者」からの手紙に暗に「帰国」させないようにしるされていたからです。
「帰国」した先は、貧困と暴力、そうして在日コリアンに対する差別意識が支配するゆがんだ社会だったということです。
総連いうところの「地上の楽園」とのあまりの落差に、当初は信じなかった留守家族も、昭和36年の段階から手紙の真意を悟るようになりました。
一方、日本人は持ち前の不勉強と善意の「購罪意識」のゆえか、また日本の「民族主義」には警戒的かつ抑制的なのに、東アジアのそれに対してはいわれなく好意的であったためか、そののち30年も北朝鮮評価を誤ったのでした。
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  1. 2013/08/16(金) 07:00:38|
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