続・竹林の愚人 出雲大社の暗号

出雲大社の暗号


出雲大社の暗号 (講談社プラスアルファ文庫)出雲大社の暗号 (講談社プラスアルファ文庫)
(2013/07/23)
関 裕二

Amazonを見る

天子や神殿が南面するのは子午線を神聖視する中国思想の影響が大きく、日本の古くからの神聖方位は東だった。
神魂神社(島根県松江市)や和歌山市の日前神宮、茨城県の鹿島神宮は神座が東を向いている。
神社に神が依り来たる方角を意識したのだ。
出雲大社の神座は西を向いている。
出雲国造も神の憑代であり、また出雲大社そのものが、建造当初から「神の住居」として建てられたと、『日本書紀』や『古事記』、『風土記』に記されている。
したがって、神は依り来たるわけではなく、神座は神の住む東側に造られた。
出雲大社の場合、祭神を常住させることによって、西を強く意識したのだ。

「出雲」は世間一般とは、なにもかもが逆さまになっている、
旧暦の10月を神無月というが、出雲だけ神在月という。
さらに、出雲大社の注連縄は、一般の神社と撚り方が逆である。
天皇と出雲国造はどちらも代替わりごとに「ヒツギ」を行うが、天皇は「日継ぎ」(昼の日)を行うのに対し、出雲国造は「火継ぎ」(夜の火)を執り行う。
このように天皇と出雲国造は、鏡に映したかのようにあべこべの存在である。
出雲大社の神座が西を向いているのも、このような「あべこべの関係」と、深く関わっているのではあるまいか。

そして、なぜ出雲大社の祭神は神殿に常住しているのか、ということである。
『出雲国造神賀詞』によれば、
出雲の国譲りに同意した大穴持命(大国主神)は、自分の和魂を八咫の鏡に取りつけて、大物主くしみかたまの命と名を称え、大御和(三輪山)の神奈備に、三柱の御子らをヤマト盆地南部に移させ、天皇家の近き守神に、自らは八百丹杵築の宮に静まっていましょう、と述べている。
ここにある八百丹杵築の宮こそ、出雲大社ということになる。
   
出雲大社は巨大な神殿であったというのが、創建説話に共通した設定である。
なぜ、神殿が大きいと古代人は信じていたかというと、出雲神の崇りが恐ろしかったからだろう。
歴史時代に入っても、ヤマト朝廷は「出雲の呪縛」から逃れることはできなかった。
黎明期のヤマトの王は、出雲神の娘や親族を正妃に迎え入れていたという。
長い間、ヤマトの中心地は盆地南部だったが、『出雲国造神賀詞』には、その南部の要衝を囲むように、出雲神が四柱鎮座したという。
そのもっとも代表的な神が三輪山に祀られる大物主神で、三輪山が天皇家にとって大切な山であり、三輪山麓の纏向遺跡こそ、ヤマト朝廷発祥の地であった。
ヤマト建国の象徴となった箸墓古墳は、まさに三輪山麓にあり、この墓に葬られた女人は、三輪の大物主神の妻であったという。

荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、四隅突出型墳丘墓、出雲大社境内遺跡などなど、考古学が突きつける数々の物証は、「出雲は確かにそこにあった」ことを主張している。
さらに、纏向遺跡の発掘が進むにつれ、ヤマト建国に出雲が関わりを持っていたらしいことが分かってきた。
興味深いのは、弥生時代後期に勃興した出雲が、3世紀後半のヤマト建国とともに、没落していたことも分かってきていることである。
これはまさに、神話の出雲の国譲りと重なってくるのではあるまいか。
出雲や吉備、東海、北陸などの地域がヤマトに集結し、国家の基礎を築いたが、黎明期の主導権争いに敗れ、裏切られた出雲の貴種は南部九州に逃れ、後に「崇る出雲の恐怖」をヤマトにもたらし、結果、崇る出雲の貴種の末裔がヤマトに呼び寄せられ、司祭王となって即位したと筆者は考える。
つまり、天皇家の祖は出雲神だったと考えている。
関連記事

テーマ:読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/08/20(火) 07:00:40|
  2. BOOK
  3. | コメント:0
<<X-E1初めてセミナー | ホーム | 韓流時代劇でたどる朝鮮王朝500年>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

bittercup

Author:bittercup
近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

Translate

検索フォーム

Loading

月別アーカイブ

カテゴリ

Table of Contents (46)
BOOK (1275)
Shrines (1717)
Historic sites (739)
Retro (114)
SIGHT (382)
NEWS (185)
GOODS (86)
PC (40)
Lecture (18)
Greeting (14)
Blog (7)
TRAIL (9)

FC2カウンター

リンク