続・竹林の愚人 地獄と極楽

地獄と極楽

図説 生き方を洗いなおす! 地獄と極楽

(2013/3/2)

速水 侑  

浄土という概念は、6世紀、日本に仏教が伝来するとともにもたらされた。
飛鳥・奈良時代には、東西南北に如来や菩薩を配し、そこにそれぞれの浄土があると考えられた。
聖徳太子が亡くなった際、彼の妃である橘大郎女は太子を偲び、太子が往生したとされる天寿国の様子を表わした『天寿国繍帳』を作っている。
この頃は弥勤菩薩の治める兜率天浄土への往生を願うため、弥勤菩薩の造像がしきりに行なわれていた。
奈良時代に入って、聖武天皇の后であった光明皇后により阿弥陀如来信仰が進展する。
天平宝字4年(760)に営まれた光明皇后の七七斎では、国ごとに阿弥陀浄土の図像と『称讃浄土経』の書写が命じられている。
翌年には各地の国分尼寺に対し、阿弥陀三尊像の安置が命ぜられた。
こうして奈良時代の末期頃には阿弥陀浄土信仰が高まっていったと思われる。

源信は『往生要集』で往生先が阿弥陀如来の極楽浄土であることを明確にし、さらに阿弥陀如来を信仰することで誰しもが往生できると説いた。
こうした考えがたちまち人々の心を捉え、阿弥陀浄土信仰が隆盛することになった。
源信は『往生要集』の中で、臨終を迎えた者を看取る方法について、中国浄土教の大成者である唐僧善導の『観念法門』や南山律宗の開祖である唐僧道宣の『四分律行事紗』などの言葉を引用して具体的に述べている。
『往生要集』を愛読した藤原道長は、万寿4年(1027)12月4日法成寺御堂で亡くなる時、ここで9体の阿弥陀如来像と向かい合うようにして北枕西向きに臥し、阿弥陀如来像の手から引かれた糸の端を手に握りしめ、枕元で僧侶が一心に念仏を称えるなか、自身も念仏を称えながらその生涯を閉じたと伝えられる。

来迎の仕方には、阿弥陀如来一尊のみの一尊来迎、観音・勢至の両菩薩を従えた三尊来迎、二十五菩薩を伴う二十五菩薩来迎、多くの仏菩薩を従える聖衆来迎がある。
この来迎の様子を絵画や彫刻で表現した来迎図の中で、最も多く描かれたモチーフが二十五菩薩来迎図である。
12世紀前半に成立した『後拾遺往生伝』には「極楽の情景を見たければ宇治治の御堂(平等院)に参詣するとよい」と記されている。
平等院鳳風堂は、中堂の屋根には浄土の象徴である鳳凪が一対飾られ、左右には楼閣をそなえ、それぞれが中堂と廻廊で結ばれている。
前面には園地が広がり、まさに阿弥陀浄土図に描かれた極楽浄土を現出したものとなっている。
長寛2年(1164)に平清盛が平家一門の繁栄を祈願して作った『平家納経』の見返しには若い女性が阿弥陀如来の放つ光に包まれ、蓮の花や金銀に囲まれたきらびやかな情景が措かれ、まさに極楽を体現しているかのようだ。
このように、平安貴族は自分たちの財の限りを尽くして造仏作善に励むことで、何とか極楽浄土に往生することができるよう願ったのである。
関連記事

テーマ:読んだ本 - ジャンル:本・雑誌

  1. 2013/09/05(木) 07:00:16|
  2. BOOK
  3. | コメント:0
<<教科書が教えない神武天皇 | ホーム | 「ワンピース世代」の反乱、「ガンダム世代」の憂鬱>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

bittercup

Author:bittercup
近畿の社寺仏閣と旧跡を巡っています。

Translate

検索フォーム

Loading

月別アーカイブ

カテゴリ

Table of Contents (46)
BOOK (1275)
Shrines (1717)
Historic sites (739)
Retro (114)
SIGHT (382)
NEWS (185)
GOODS (86)
PC (40)
Lecture (18)
Greeting (14)
Blog (7)
TRAIL (9)

FC2カウンター

リンク