続・竹林の愚人 教科書が教えない神武天皇

教科書が教えない神武天皇

教科書が教えない神武天皇教科書が教えない神武天皇
(1999/01)
出雲井 晶

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日下坂の戦い

播磨灘をこえ明石海峡をすぎると、潮の流れがはげしく速くなってきました。
ようやく難波崎につきました。
「おお、いよいよ中州に上陸するのだ」五瀬命(いつせのみこと)がいわれました。
「波の流れの速いところです。まさに波速(なみはや)国」と伊波礼琵古命(いわれひこのみこと))がいわれました。
また浪が急なために、波しぶきが華のように飛びちりましたから、浪華(なみはな)ともいいました。
今の大阪難波はこれがなまったのだといわれています。

船たちは難波崎から大和川をさかのぼりました。
河内国の草香村の白肩津(しらかたのつ・今の枚方市)に上陸しようとしました。
ここから陸にあがり、歩いて大和の龍野に入る計画でした。
その時、葦の繁みの中からいっせいに矢を射かけてくる者たちがいました。
大和の登美のあたりに陣どっていた長髄彦(ながすねひこ)が命じたのです。
伊波礼琵古命も五瀬命も、船につんでいた楯で飛んでくる矢をふせぎながら、小高い日下坂まで走りあがりました。
ところが長髄彦の射た鋭い矢が、五瀬命のひじを刺し貫ぬいてしまいました。
「われわれは日の神の子孫であるのに、お日さまのほうにむかって矢を射かけ攻めたのがまちがいであった。
これからは遠回りしても、お日さまを背にうけて戦おう」

南へまわり道をする途中で、五瀬命は傷の血を洗われました。
あたりの海は血て赤く染まりました。
このことから和泉灘のことを血沼海というようになり、血沼(ちぬ)とは和泉国の古い呼び名でありました。
紀の国の男之水門(おのみなと)につくころには、五瀬命は傷口から全身に毒がまわり苦しまれながら、とうとうお亡くなりになりました。
伊波礼琵古命は五瀬命を、紀の国の竃山(かまやま)に葬り申しあげました。
言い知れぬ悲しみの中、「どうか私たちがぶじに大和へ行きつきますように、おみちびき下さい」と、手をあわせたのでありました。
今も五瀬命をおまつりした竈山神社は和歌山市和田にあります。


神武天皇聖跡難波之碕顕彰碑  昭和15年11月 紀元2600年奉祝會 大阪天満宮境内

『大阪府全志』 難波碕  
本地は天王寺・住吉に連亙せる岡陵め中なる難扱高津丘の北端を占め、日本書紀神武天皇の條に見ゆる難波碕なり、蓋し当時にありては西は海に瀕し、北より東に亙りては山城・大和・河内より流れ来れる諸州の水に囲続せられて、海中に斗出の形を為したるより此の称起らしなるべし。
四望開豁広大幽遠にして、仁徳天皇の高津宮のありし所なり。 
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  1. 2013/09/06(金) 07:00:36|
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