続・竹林の愚人 吉田神道の四百年

吉田神道の四百年


吉田神道の四百年 神と葵の近世史 (講談社選書メチエ)吉田神道の四百年 神と葵の近世史 (講談社選書メチエ)
(2013/01/11)
井上 智勝

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森羅万象は「源」に生じて「宗」に帰るという「宗源」は兼倶はじめ、後歴代の吉田家当主が最も重要視した概念だ。
「元本宗源神道」は、天地開闢の時に現れた国常立尊という神様以来、天皇家の祖先神である天照大神に受け継がれ、さらに天照大神から天児屋命に伝えられて、今なお脈々と受け継がれている神道だという。
そして、この神様から代々神道を受け継いだのが吉田家だ、というのだ。
「本迹縁起神道」は一つの神社でしか通用しないローカルな神道、「両部習合神道」は仏教を神道に混淆したミックス神道だ、とされる。
この兼倶の唯一神道の提唱は、日本の宗教思想史上、きわめて画期的な出来事だった。
兼倶は、仏教の混濁がない神代直伝の神道、という神道の存在を声高に唱え始めた。
それは、これまで仏教や僧侶に従属を余儀なくされてきた神道家を、そこから解放する意味を待った。
伊勢神宮すら接収してしまった吉田山斎場所、天児屋命の正統を引くというサラブレッド性とそれに基づく神祇管領長上の立場、それらを認める天皇・上皇のお墨付き、さらには長く仏教の風下に置かれてきた全国の神道家に勇気を与える神道説、兼倶の時代に、〝神使い″吉田家の基盤は築かれた。
吉田家は、兼倶の時代に地方の神社との関係も積極的に構築してゆき、その実孫兼右、さらにその子兼見(初名、兼和)により発展させられることになる。
その強力なツールとなったのが、宗源宣旨や鎮札という、神祇管領長上が発行する証書やおフダであった。

天皇が授与する正規の神位は、『延書式』に則った文書様式によって授与された、公家が連署し、「天皇御璽」印の捺された巻き物仕立ての立派なものだ。
このような神位の授与は、朝廷が衰微した戦国時代には行われなくなり、神社に神位を記した「勅額」を下賜することでその代用とした。
宗源宣旨による神位授与は、そのような中で、手軽に神位を受けられる手段として大きく需要を伸ばしていったのだ。
諸社禰宜神主法度の発布と、神職の吉田家への参集は、各地の神社に勝ち組と負け組を作り出した。
吉田家は、諸社禰宜神主法度によって力を得、神道界の〝天下人″たろうとしたことが、負け組のルサンチマンや公家の反発を生み、凋落へのシナリオを描かせてしまったのだ。

伊勢神宮の神職たちは、吉田家に積年の怨恨を抱いていた。
殊に、応仁・文明の混乱期、吉田山に伊勢の御神体が降臨したとする兼倶の行動には、何世代の時を経ても怒りが収まらず、吉田家の者には宮川を渡らせないとの気概が張っていた。
伊勢外宮の権禰宜、出口延佳は兼倶を「神敵」と呼び、彼の行為を糾弾する『神敵吉田兼倶謀計記』を、その子延経も綿密な考証で吉田家を批判した『弁卜抄』を著した。
吉見幸和は『弁卜抄』によって、吉田家が依拠する正統性が虚構の上に成り立っていることを確信し、漢文体の文章を仮名交じり文に置き換えて『増益弁卜抄俗解』を著した。

元文3年(1738)、関白一条兼香は天皇の意を奉じ、吉田家・白川家に従来神位を与えられた神社をすべて書き出すよう命じた。
兼香が目指したのは、吉田家による神位授与・承認文書「完源宣旨」の発行停止だ。
実を明かせば、宗源宣旨はろくに調査もせず、依頼者の希望のままに吉田家が発給していたものだ。
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  1. 2013/09/14(土) 07:00:48|
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