続・竹林の愚人 西大寺

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西大寺


古寺巡礼奈良 8 西大寺古寺巡礼奈良 8 西大寺
(1979/01)
梅原 猛、松本 実道 他

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松本実道 「西大寺の歴史と信仰」
天平宝字8年9月11日は、藤原恵美朝臣押勝(藤原仲麻呂)の謀叛が発覚して、官軍に追われ近江の方に逃走した日である。
このような叛乱が再び起ることのないようにとの鎮護国家の祈りを込めて、特に四天王像を祀り、西大寺開創となった。
西大寺は天部の四天王が本尊としてお祀りされた。
西大寺は、称徳天皇(孝謙天皇)の父、聖武天皇が造営された東大寺に対して、これに劣らない西の大寺をという女帝御自身による念願により造立された。
『西大寺資財流記帳』によると、建立された金堂院のうち一番規模の大きいのは弥勒金堂で、長さ20丈6尺、広さ6丈8尺、屋根は二重で、この大きさは東大寺大仏殿に次ぐものであった。
堂塔房舎は金堂院・十一面堂院・西南角院・東南角院・四王院・小塔院・食堂院・政所院・正倉院等があり、その数、百十数字に及んでいる。
更にこの堂字の中に安置された仏像の移しい数と立派さは驚嘆に値しょう。
しかし、この西大寺の造営には幾多の困難があり、9年を要した大仏造顕は相当の国費を要し、そのあとの西大寺建立は天平神護元年(765)から15年間を要したものと思われる。
その造営中の神護景雲4年8月4日、称徳天皇は53歳で崩御された。
次の光仁天皇は、天智天皇の系譜の天皇で、壬申の乱後皇位を継承された天武天皇系と異なる天皇で、官大寺としての西大寺の造営にも消極的であったであろう。

京都に都が移ってからの西大寺は、承和13年(846)には講堂を焼失し、延長6年(928)には雷火によって五重塔1基を失い、応和2年(962)には台風で食堂倒壊、永詐2年(990)寺中を焼亡し、永承3年(1048)鐘楼が顛倒と、広大な伽藍も荒廃した。
西大寺の復興が、その緒についたのは、興正菩薩・叡尊上人が、文暦2年(1235)1月16日、西大寺に任してからである。
嘉禎4年(1238)には、八角五重の石塔を建てて、自ら所持の仏舎利をここに収めた。
寛元3年(1245)には、真言堂を建立、宝治元年(1247)には僧堂を造営し、更に、愛染明王像が造像された。
建長元年(1249)には、僧衆、仏師等をつかわして嵯峨清涼寺の釈迦如来立像を模刻させ、西大寺四王堂に安置して開眼法要を行ない、文永7年(1270)には、金銅舎利塔を造り、建治2年(1276)に大黒天像の造像、そして弘安元年(1278)宝生護国院が造営され、同年に護摩登も建立されている。
叡尊上人再興の西大寺は、奈良朝創建当時に復したものではなく、叡尊上人独自による真言律の道場にふさわしい伽藍形式に寺観を整えたものであった。

室町時代の文亀2年(1502)5月8日には、「兵火により西大寺一山焼亡し、四王堂・中門・石塔院・地蔵院・東大門のみ焼け残った」という悲運に遭った。
寛永年問(1624-44)に至って護摩堂が建てられ、延宝2年(1674)には四玉堂が建立された。
更に宝暦2年(1752)には本堂が建立され、宝暦12年(1762)には、京都御所近衛公政所御殿を移築した愛染堂が建てられる。
そして慶応3年(1867)には多田院の鐘楼が西大寺に移建されて現代を迎えたのであった。
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  1. 2013/09/13(金) 07:00:56|
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