続・竹林の愚人 近江・大津になぜ都は営まれたのか

近江・大津になぜ都は営まれたのか


近江・大津になぜ都は営まれたのか―大津宮・紫香楽宮・保良宮近江・大津になぜ都は営まれたのか―大津宮・紫香楽宮・保良宮
(2004/04)
大津市歴史博物館

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井上満郎 「古代近江の宮都論~渡来人と渡来文化をめぐって~」

古代近江に設けられた都は、大津宮・紫香楽宮・保良宮それに高穴穂宮の4つあります。
高穴穂宮は実在したのか異論のあるところですが、なぜ近江の国にしばしば都が営まれたのでしょうか?
『日本書紀』の垂仁天皇3年の条は、天日槍(アメノヒホコ)が日本ヘやって来て、近江の国の鏡村(現、蒲生郡竜王町)に大きな足跡を刻んだと書かれています。
これは、近江の国は渡来人が住み、渡来人のもたらした先進的な文化・文明が息づいていた地域であることを示しています。
『日本書紀』の斉明天皇7年(661)11月条には「唐人」が日本列島にやって来て「近江の国の墾田」に居住したとあり、これは唐との戦争で百済が得た捕虜を日本へ送ってきたケースです。
さらに、天智天皇4年(665)2月の条には百済の「百姓」男女400余人が近江の国の神崎郡に居住をさせられた。
また、天智天皇8年(669)是歳の条には、百済の人々男女700余人が近江の国の蒲生郡に住まわされたとあります 。
神崎郡や蒲生郡への定住に見られる660年代の近江国への渡来人は、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との663年の白村江の戦いで百済が滅亡し、その百済からの人々です。
彼らは当時の朝廷に様々なかたちで、「官僚」として出仕しました。
当時の日本は亡命してきた百済人たちの知識や技術を必要としていたのです。
対馬から高安城(大阪・奈良の県境)に至るまで、多くの山城が建設されましたが、この朝鮮式山城の建設に、百済人たちが大きく貢献したことは『日本書紀』天智天皇4年(665)8月条などにあるとおりです。
高穴穂宮は明らかに大津市穴太の地名を反映するもので、ここは渡来人の濃密な居住地であることはよく知られたところです。

大和を離れて近江国に都を営んだのは、敵対関係にあった唐や新羅から逃げるためだという説が強い。
確かに、唐や新羅の軍が瀬戸内海経由で侵攻してくるのを想定して、山城は建設されたわけです。
しかし、近江の国における渡来人と渡来文化の環境を考えると、天智天皇が積極性を持った遷都のように思われます。
『日本書紀』の欽明天皇31年(570)4月2日の条に初めて高句麗の公式使節が来たとあります。
この渡来コースが日本海ルート、現在の北朝鮮地域から日本海を横断して日本海岸につき、そこから近江を経て琵琶湖を南下して大和政権にアクセスするコースを通っています。
したがって、この近江に宮が営まれたのは、瀬戸内海ルートでの、唐・新羅の軍事的攻撃を避けるという意味ではなく、東アジアの国際的環境の中で当時の日本に置かれた危機的な立場を回避しょうとしたものと考えることが可能だと思います。

保良宮は、藤原仲麻呂という人物が主導権を取って、政権を運営していた時代の首都です。
新羅侵攻を仲麻呂が計画し、実際に多くの船舶を造らせていたという記録もあり、その朝鮮半島遠征計画の立案とほぼ同じ時期に、藤原仲麻呂を主導権者とする保良宮建設が始まっています。
ですから、保良宮が大津に設けられた意味も、朝鮮半島侵攻を考えて、保良宮に都を定めたのではないかと考えます。
大津宮にしろ、保良宮にしろ、近江の国という地域が、多くの渡来人が住み、渡来文化の積み重ねられてきた伝統があり、さらには、大津・近江を取り巻く東アジア世界の国際的環境を、古代近江に4つもの宮都が営まれたことの重要な背景として、考慮しておかなければならないと思います。
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  1. 2013/09/18(水) 07:00:08|
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