続・竹林の愚人 神さまと神社

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神さまと神社


神さまと神社―日本人なら知っておきたい八百万の世界 (祥伝社新書 (035))神さまと神社―日本人なら知っておきたい八百万の世界 (祥伝社新書 (035))
(2006/02)
井上 宏生

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熊野の神倉神社は速玉大社に近い神倉山の項にあり、社殿の裏手にはゴトビキ岩という巨岩が突き出ている。
専門家によれば、ゴトビキ岩が神の棲む家(磐座)だったという。
花の窟神社は熊野灘に面した七里御浜にあり、50mを超す切り立った崖がそびえている。
この神社は『日本書紀』にも登場し、国生み、神生みの神として知られるイザナミノミコトを祀っている。
ただし、崖の前には玉垣をめぐらした拝所があるだけで、神殿はどこにも見あたらない。
崖そのものがご神体であり、神々が棲むイワクラなのである。
神殿をもたない神社で有名なのが奈良県桜井市の大神神社で、神さまは拝殿の背後に控えている三輪山だ。

人工的な神殿は必要ではなく、人びとが神々を必要としたとき、神々はつくられた臨時の祭の場所を訪れ、祭が終われば、ふたたび旅人となって去っていく。
これは支配者には不都合で、祭のときまでひたすら神々の訪れを待たなければならず、日々、神々の権威を利用できない。
こうしてムラや地域に神殿が誕生し、神々が神殿に棲むようになった。
神殿といっても、当初はその規模も小さかったと想像される。
しかし、ムラから地域へ、地域から国の形ができるにつれ、ますます支配者は神々のより強力な権威を必要とし、それに比例して神殿の規模も大きくなっていったのだろう。

その後、律令制度が整い、国家が強力な力を持つにつれ、こんどは国家の命令によって神殿が造営されていった。
それは7世紀の後半からだとされる。
『日本書紀』によれば、大化の改新から36年後の681年(天武10)、律令国家は近畿地方や諸国の神社に神殿の修造を命じている。
それは日本の神々が神殿に棲みついていた証明でもある。
神々が旅をする時代は終わり、多くの神々はヒトが造営した神殿に棲み、神殿には神々の神霊が宿るという神体が祀られるようになった。

そこには支配者の思惑が見え隠れするが、だからといって日本人が古代の信仰を捨てたわけではなかった。
それを象徴しているのが神社をかこむ緑あふれる杜、鎮守の杜である。
石川県羽咋市の気多神社には国造りの英雄として知られるオオクニヌシノミコトが祀られているが、本殿の背後には鬱蒼とした杜が広がる。
タブやツバキなどのこの杜は「入らずの杜」と呼ばれ、杜には神が棲んでいるとされ、ヒトも入れなかったのである。
そう考えると、鎮守の杜は本来、神さまが棲む空間であり、杜を訪れることは神さまを訪れることを意味している。
そこに神殿がつくられ、杜と神殿とは一体化し、鎮守の杜が地域の人びとの守護神となり、やがて人びとが共有するコミュニケーションの空間となったのだろう。
その空間でくり広げられるのがムラの祭だというわけである。
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