続・竹林の愚人 朝鮮人のみた中世日本

朝鮮人のみた中世日本


朝鮮人のみた中世日本 (歴史文化ライブラリー)朝鮮人のみた中世日本 (歴史文化ライブラリー)
(2013/08/20)
関 周一

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8世紀、律令国家は、唐や新羅・渤海と外交関係を結んでいた。
それに呼応して、外国の使節や遣外使節などが滞在する施設が、京(平城京・平安京)・難波(摂津)・太宰府(筑紫)に設置された。
この施設は「館舎」「客館」と呼ばれたが、9世紀になると、嵯峨朝が弘仁年間(810~824)、殿舎諸門の呼称を唐風化して、鴻臚館とよばれるようになる。
また新羅使は、博多湾に来航して太宰府が管理している鴻朧館において応対を受けた。
また渤海使は、主に日本海沿岸に到着し、平城京や平安京に迎えられた。
日本からも遣新羅使、遣渤海使が派遣された。
このように8世紀は、国家と国家の間の交渉が中心で、外交に付随して貿易が行われた。
しかし日本と新羅の関係が悪化し、新羅使は、779年(宝亀10)を最後に来日が途絶えた。
9世紀になると、遣唐使の派遣は激減し、9世紀前半の2回のみである。
渤海使は、8世紀同様に頻繁に来日して活発に交渉をしたが、それも919年(延喜19)が最後になる。

国家間の交渉に代わる担い手が海商であった。
10世紀、唐や渤海、新羅が滅ぶと、中国では北宋が成立し、江南を中心とする経済の発展がめざましかった。
11世紀中ごろ、太宰府管理下の鴻朧館が廃絶し、その東側に位置する博多が貿易の拠点になった。
博多には、中国人海商が住居・倉庫・店舗を構え、日本人女性を妻とした。
海商らの居住地区は、「唐房」とよばれ、有力な海商は綱首とよばれた。
海商たちは、九州の寺社や、京都の貴族や寺社などの権門と結びつき、彼らをパトロンとして資金の提供を受けながら、商船を経営した。
北宋との貿易では、白磁や青磁などの陶磁器、綿織物や薬などの唐物が輸入された。
日中間を活発に往来した商船に僧侶が乗船し、五台山や天台山などの中国の聖地を巡礼している。
13世紀半ばからの約100年間は、中国に渡来し参学する僧侶が数多く、また北条氏の招請で中国僧があいついで渡来し、鎌倉や京都の禅宗寺院に任した。
13世紀、モンゴル(元朝)が台頭し、広大な帝国を作り上げ、日本には2度にわたる攻撃をし、ヴェトナムやジャワなどにも侵攻した。
モンゴル(元朝)との戦争後、日本と大陸との間の商船の往来は、むしろ活発になり、日中の禅僧も頻繁に往来した。
14世紀前半には、建長寺船や天龍寺船のような寺社造営料唐船が日中間を往来し、この貿易を通じて鎌倉や京都の禅宗寺院は、絵画や陶磁器などの唐物を得ることになった。
                                             1350年2月、高麗の慶尚道南岸の固城・竹林・巨済を倭寇が襲った。
これを皮切りに、ほぼ毎年、倭寇は朝鮮半島の南部や西海岸、時には首都開京(開城)に近い島々や沿岸部まで襲撃し、さらには中国大陸を襲撃する者もいた。
倭寇の主な掠奪品は、食糧(米)と沿岸の住民たちである。
1366年(貞治5)、高麗の恭愍王は、使者として金龍と金逸を京都に派遣し、倭寇の禁圧を要請した。
朝廷は使節の受け入れを拒否したが、幕府側は天龍寺を宿所として接待し、朝廷から外交権を接収する第一歩になった。
その後、5度にわたって高麗使が来日し、幕府は倭寇の禁圧を約束した。
しかし、その約束に満足できなかった高麗は、九州探題今川了俊と大内義弘と交渉をもつようになった。
彼らは、被虜人の送還に協力したり、倭寇を鎮圧するための軍勢を高麗に派遣したりした。
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  1. 2013/09/25(水) 08:00:42|
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