続・竹林の愚人 デカンショのまちのアリラン

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デカンショのまちのアリラン―篠山市&朝鮮半島交流史 古代から現代までデカンショのまちのアリラン―篠山市&朝鮮半島交流史 古代から現代まで
(2006/12)
篠山市人権同和教育研究協議会

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徐 根植 「篠山の鉱山と在日コリアン」

2005年12月現在、篠山市に住む在日コリアンは118人ですが、歴史をたどれば多くの在日コリアンが住んでいました。
朝鮮人がいつごろから篠山に来たのかは分かりませんが、新聞記事によると、大正11年(1922)の朝鮮飴売り行商6人の登場が初めてです。
神戸では明治43年(1910)以前から、朝鮮飴売りが見かけられました。
篠山での最初の居住者は、大正14年(1925)に「多紀郡日置村宮ノ前に34歳の土工が住んでいる」との記事があります。

昭和5年(1930)の旧多紀郡に在住する朝鮮人は85人でしたが、昭和10年(1935)には約3倍の244人になりました。
昭和9年(1934)には珪石景気で篠山が活況を呈し始め、昭和11年(1936)の旧多紀郡の朝鮮人人口は225人です。
太平洋戦争が始まった昭和16年(1941)に、篠山の在日朝鮮人の多くが珪石鉱山で働きました。
珪石は耐火性が高く、主に炉材用煉瓦に使用されました。
篠山の珪石は、大正2年(1913)ごろ大芋村で発見され、採掘は主に表面露出部分で行なわれました。
掘り出された珪石は、牛馬などで篠山口駅に運び、鉄道で九州八幡まで運ばれました。
大正9年(1920)には火打岩でも発見されました。

畑鉱山は、大正12年(1923)、官営鉱山を八幡製鉄所が買い取り、採掘設備を整えて大正15年(1926)から、本格的な採掘を始めました。
昭和10年(1935)ごろからは露天採掘を終え、坑内採掘に移行しました。
第二次世界大戦が始まると桂石の需要が増大し、生産は飛躍的に伸びました。
戦争中は戦時体制に組み込まれて珪石やマンガンを掘り、鉄道を敷設し、松根油を造り、炭を焼き、軍に納める仕事をして生きてきました。
結果、在日朝鮮人の人口は多くなり、太平洋戦争開戦の年の旧多紀郡の朝鮮人は873人です。
それは、戦争激化で成年男子が戦場に送られて鉱山労働者が不足し、朝鮮人が多く篠山に入ってきたからです。

聞き取り調査では、珪石の仕事で差別的なことはなく、戦後は、仕事も賃金も保険も一緒でした。
戦後の村雲の鉱山などでは、日本人の親方の下で朝鮮人が働いたり、朝鮮人の親方の下で日本人が働いたり、渾然一体となって仕事をしたそうです。
篠山の花形産業であった珪石産業で、朝鮮人の存在はなくてはならないものでした。

戦争が終わったとき、兵庫県全体では朝鮮人の人口の54%が減少しましたが、篠山での人口減少は11.5%にとどまっています。
それは戦時に強制連行された朝鮮人が少なかったことと、田舎で食糧事情などがよかったからだと思われます。
最近は篠山の産業構造が大きく変化し、在日外国人の構成も変わって、ブラジル国籍、フィリピン国籍、中国国籍の人たちがおおむね60%を占め、そのうち、女性の占める割合が65%です。
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  1. 2013/09/27(金) 07:00:28|
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